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2025-11-13 16:56

第5105回 哲学雑談回自分探しってどうなの❓形とはなにか&思考実験完全なクローンは自分か

特別支援学校に転校して大学に行った彼女、普通学校から引きこもりになった俺。

発達障害当事者です。そして宗教2世でもあります。ハイブリットなこの生きずらさによって起きた過去にあった学校や家庭での事件や悲喜こもごもな話を赤裸々に語ることによって、特性や特異な考え方をすることを知ってもらいたいです。

発達障害の特異な感性ゆえに世の中の理解できないことや、宗教をやめてから哲学的に考えてきたこと、そして音声配信者としての苦悩などの話もPodcastでしています。

発達障害専門家、当事者、興味がある人が発達障害を考える材料になればと思い、日常の考え行動を細かいところまで話しています。番組登録よろしくお願いします。コメント待っています。

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サマリー

このエピソードでは、自己探求の旅をテーマに、自己理解の難しさや他者との関係が自我に与える影響について考察しています。また、完全なクローンの存在についての思考実験を通じて、自分とは何かという問いかけを深めています。さらに、形の本質についての考察が行われ、物の認識が人間の都合によって歪められていることが論じられています。仏陀の哲学が人間の存在や自我の理解にどのように影響を与えるのかについても探求されています。

自分探しの旅
今回は哲学雑談会になっております。
ということで、まず一つ目ですが、まず自分探しの旅についてですね。
クラキはですね、何度か旅ではないんだけど、旅をしているようなもので、進路を探すことによってその期間、自分というものをすごい考えさせられてきたんですね。
これはもう10年間に及ぶ長い道のりだったんですけど、自分が得意なことは何なのか、自分がやりたいことは何なのか、そんなことからもっと深く考えてきましたが、その経験からすると、
自意識の移動は、掘っても掘っても特に何か変化あることはなかったですね。
で、ある程度それをやっていると期待してしまうんですよ、何か見つかるのではないかと。
なおさら見つからないですよね、そんなことをしても。
あると信じちゃってるけれども、期待度も高まってしまい、そうすると落胆してまた見つからないと、でまた期待してっていう、その繰り返しでしたね。
で、普通であれば思い込むことができると思うんですよ。
ああ、これが自分なんだとか、それで妥協したりできるんだろうけど、これだけは本当の自分に出会わないといけないと思ってるから。
まあ10年間、まあ人から言わせたら無駄な10年間ですよね。
ああ、ただですね、今までわかってなかった自分を発見することはできたかもしれないですね。
何か発見したっていう感覚ではないんだけど、案外自分でこうなんだとか。
ただいわゆるその、何か自分探しのために出かけて何かを発見するみたいな、そんな感覚はなかったですね。
まあでも自分ってものを探すと探すと見つからないなって感覚は常にありましたね。
逆にどんどん自分がわからなくなっていく感覚でしたね。
自分探しのために出る人で、集団の中でいては、
集団に要請されてる自分でいなきゃいけないっていうことで演じてるから、それで一人タペに出た方がいいっていう人もいるかもしれないけど。
でもまた帰ってきたらどうなるとなるだろうし、演じてることによって自分ってものがわかんなくなるっていうことは絶対ないと思うんですよね。
ただその自分探しの定義自体がちょっと人それぞれ違うっていうこともあんのかな。
もし何かにいない人がいるときに、自分探しの定義自体がちょっと人それぞれ違うってこともあるんですよね。
人それぞれ違うっていうこともあんのかな。
もし何かに悩んで立ち止まる、そういう意味であればそういう期間も大事だと思うんですよ。
不毛なことではないと思いますね、それは。
クラケマイ宗教に入ったときに、こもるってことも大事だっていうことを月刊誌で書いてたのを記憶してますね。
一回周りとの境界を作ってみる、遮断してみるっていう行為も、時には必要で頭を整理させることにも繋がりますしね。
でもそんな自分探しが無意味だと分かっていながら、ポッドキャストを配信してても、未だに自分っていうものを考えさせられてますし、考えてしまうのが人間の性なんですかね。
でもブッダの諸法無我、自分なんてものはそもそも存在しないと言われていることも最近学び、それでも結果的に自分探しになっていることって結構あると思いますね。
でもインドに一人旅行って、それなりにいるんですよね。思い込みではあると思うんだけど、本当の自分であったとか世界観が変わったとか、世界観が変わったっていう人が多いから。
その諸法無我の考え方をすると、自我っていうのは関係性で成り立っているっていう意味では、旅行に一人旅行行ったら、環境も変わるわけであって、自分っていうものは多分変わる可能性はあるけど、
さっきも言ったように、日本に帰ってきたらまた戻りますし、単に変化しているだけですしね。何か自分の奥底の何かに触れるっていう体験には別にならないと思うし。
あと自分探しのために出る人って、自分というものを持つことができなくて、それで悔しくてっていう場合もあんのかもしれないけど、それはもうそういうふうにできてるんだから、旅行して治るわけがないですね、そんなの。
まあでも人間って社会生活を送ってたら、周りに合わせて流されて、でもこれもう宿命でしかないし、だからそれを自分だと思い込んでしまうっていうのは別に当たり前だし、どうにもならないと思うし、生きてる限り絶対どこ行こうとどうもがこうともそれは変わらないことだと思いますね。
ただ自分というものを持っている人に時折憧れたりするのは気持ちはわかるんですけど。
クローンと自我
でもそれでね、右肌の部分をなくそうとしたって無駄ですよね、流行りに流されないことができたとしても。
でも結局流行りに流されない人の影響を受けてしまってるんですよ。
倉木なんかは人前だと相当演技しなきゃとてもやっていけないんで、自分なんてものを出せていなかったけれども、それを問題と思わなかったし、いまだにあれは取り繕っていたし、ダメな自分だったなとは一切思わないですね。
そうするとは思えないんだし。
家にいるときは別にいつも通りになるし、自分の方が正しいとも別に思わないし。
次ですか、これ試行実験でセリウスの船だっけな、試行実験なんですけど。
完全なクローンを作って、前の遺伝子とか、遺伝子から新たなクローンを作るわけですけど、見た目、形、そしてそういったすべてを、これが将来可能になるかどうかを置いておいて。
これが将来可能になるかどうかを置いておいて。
クラキオは以前それは無理だろうって話したんですけど。
意識も完全に移ってしまう。
だからクローンの別人の自分ができて、連続して生きれるって場合、でもクローンである。
意識も記憶もすべて今は原子レベルでコピーできてる。
原子レベルでだから体も、そしてDNAもすべて同じ。
まず言えるのが、この世界に統一な存在ってのはありえないから、そういう意味では別物ですよね。
ただやはり、遺伝子レベルで同じで、体も全く同じで、意識は今までと同じように働いてるのであれば。
他人からしてみたらもうその人でしかないし。
あとはいくら何を言っても、ヘリクスというか理屈だけの話になってしまって。
あまり本質をつくような議論はできないかもしれないけど。
ただこの今言ったセリウスの船だか忘れたけど、このことについて考えるのは非常に重要なことで。
例えば移植した人間、震度移植した人の場合、それはその人部分的にしかもすごい大事な部分ですから。
もうそれはある意味別人になっていると言えるのか。
あと研究によっては、人間の腸が脂肪部分であって脳は付随しているものでしかないんだという研究もあるので、
だから腸を移植してしまったらもうそれはその人じゃないんではないかという議論にも発展するからですから。
これ結構重要なことで。
これをまず考えなきゃいけないのは自分なんてものは存在しね。
これが自分だと思っているだけで。
じゃあその自我というものを自分だともし定義するのであれば、
自意識ですよね。脳の部分で言うと中枢ですよ。
これだって映っているわけだから。
意識が映っているということですね。
であればやっぱりそれは自分なんじゃないかなと思うんですよ。苦論であっても。
次は形についての話なんですけど。
形の本質
形とは何かなんてどうでもいいようなことに暗く感じていたんですよ今までは。
ただですね、仏陀の処方無害について勉強していると、
どうやら形というものは存在するわけじゃなくて、
これもただの概念でしかなくて、
これはこういう形をしていると認識しているだけ。
しかも人間の都合のいいように認識しているだけにしかできない。
例えばストーブをストーブ、こういう形と認識する。
車、この車はこういう形。
ここに出っ張りがあって、他の車とこういうところが違うっていう形を認識しているけれども、
猿からしてみたらストーブ。
言ってみれば家の中にある何か。
というか家そのもの。
私そもそも家ってもの自体も認識できない。
車だって人間にとっては重要なものだからこういう形をしていると。
他の車との違いもわかるけど猿からしてみたら、
別に他のものとの連続体であるからそもそも境なんてものがない。
だから人間がこうやって名前を付けて、
物に名前を付けてきたわけですけど、
それが単体であると、つまり他のものとの境があると認識するから、
形ってあるって認識してるだけでそもそも形なんかないわけですね。
っていうことがわかって形って、
これ難しい話だなってことがわかったんで今回お話したいんですが。
仏陀の哲学
多分これ物理学で説明できるようなことではなくて、
何て言ったっけ、今言ったように、
名前を付けるとかこういう性質だと理解するように、
形も人間で作っているだけというのか、
もともとあるものではないって言うとでもね、
物にはこれ触ったらだって形があるわけですからね。
だから人間にとっては物理学で説明できるようなことではなくて、
何て言ったっけ、今言ったように、
あくまでも脳の中で意味付けしてるだけ、
あるだろうっていうふうに反論されそうですけど。
でもですね、外に出て泥、砂触って、
どういう形かなんて認識できないですよね。
感触は認識できても、ちょっとデコボコしてるなぐらいで。
猿からしてみたら、ストーブを触ったって、
今言った人間が、他の虫とかには意味を感じてるかもしれない。
砂を触ったって、デコボコしてるようにしか感じないわけですよ。
ここで仏陀の諸法無害について考えると、
照らし合わせて考えてみると、
森っていうのは木の集まりでしかなくて、
森に実態はないっていうのが諸法無害。
分かりやすく言ったらそういうことなんですけど、
森だとちょっと分かりにくいかな。
一人の人間でいいんですけど、一人の人間は原始の集まり。
これは他のストーブとか他の机とかと同じことだけども、
人間がそれを意味付けして人間と呼んでるだけ。
人間がそれを意味付けして人間と呼んでるだけ。
っていうのが諸法無害っていうことと捉えるとそういうことなんですけど。
結局、人間だと思ってるものも、
人間という名前をつけてるだけ。
っていうのと同じで、
人間これ形あるとありますよね。
手と足と頭と。
それが何か、
分かりやすく言われるんですけど、
どんな形であるのか分からないですよ。
それで手で合っても手で合っても手で合っても、
分からない。
実際にこういう経験があるんですけれども、
手で合っても手で合っても分からない。
というのが、
本当にいいんですよね。
そういったものの集まりである
というのであれば人間に形はあると言えるのか
いやもちろん
どう理屈をこねたって
こうやって腕が足とかあるんだけど
今言った仏陀の話で言うとですよ
これは人間と投げつけてるだけであって
同じように原始の集まりでしかないわけですから
他のものと同じように
だからさっき言った
境なんてないということですね
自分が立っているこの床
だって原始だし
その境なんてないわけですから
それではしたっけ
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