今回は哲学雑談会になっております。
ということで、まず一つ目ですが、まず自分探しの旅についてですね。
クラキはですね、何度か旅ではないんだけど、旅をしているようなもので、進路を探すことによってその期間、自分というものをすごい考えさせられてきたんですね。
これはもう10年間に及ぶ長い道のりだったんですけど、自分が得意なことは何なのか、自分がやりたいことは何なのか、そんなことからもっと深く考えてきましたが、その経験からすると、
自意識の移動は、掘っても掘っても特に何か変化あることはなかったですね。
で、ある程度それをやっていると期待してしまうんですよ、何か見つかるのではないかと。
なおさら見つからないですよね、そんなことをしても。
あると信じちゃってるけれども、期待度も高まってしまい、そうすると落胆してまた見つからないと、でまた期待してっていう、その繰り返しでしたね。
で、普通であれば思い込むことができると思うんですよ。
ああ、これが自分なんだとか、それで妥協したりできるんだろうけど、これだけは本当の自分に出会わないといけないと思ってるから。
まあ10年間、まあ人から言わせたら無駄な10年間ですよね。
ああ、ただですね、今までわかってなかった自分を発見することはできたかもしれないですね。
何か発見したっていう感覚ではないんだけど、案外自分でこうなんだとか。
ただいわゆるその、何か自分探しのために出かけて何かを発見するみたいな、そんな感覚はなかったですね。
まあでも自分ってものを探すと探すと見つからないなって感覚は常にありましたね。
逆にどんどん自分がわからなくなっていく感覚でしたね。
自分探しのために出る人で、集団の中でいては、
集団に要請されてる自分でいなきゃいけないっていうことで演じてるから、それで一人タペに出た方がいいっていう人もいるかもしれないけど。
でもまた帰ってきたらどうなるとなるだろうし、演じてることによって自分ってものがわかんなくなるっていうことは絶対ないと思うんですよね。
ただその自分探しの定義自体がちょっと人それぞれ違うっていうこともあんのかな。
もし何かにいない人がいるときに、自分探しの定義自体がちょっと人それぞれ違うってこともあるんですよね。
人それぞれ違うっていうこともあんのかな。
もし何かに悩んで立ち止まる、そういう意味であればそういう期間も大事だと思うんですよ。
不毛なことではないと思いますね、それは。
クラケマイ宗教に入ったときに、こもるってことも大事だっていうことを月刊誌で書いてたのを記憶してますね。
一回周りとの境界を作ってみる、遮断してみるっていう行為も、時には必要で頭を整理させることにも繋がりますしね。
でもそんな自分探しが無意味だと分かっていながら、ポッドキャストを配信してても、未だに自分っていうものを考えさせられてますし、考えてしまうのが人間の性なんですかね。
でもブッダの諸法無我、自分なんてものはそもそも存在しないと言われていることも最近学び、それでも結果的に自分探しになっていることって結構あると思いますね。
でもインドに一人旅行って、それなりにいるんですよね。思い込みではあると思うんだけど、本当の自分であったとか世界観が変わったとか、世界観が変わったっていう人が多いから。
その諸法無我の考え方をすると、自我っていうのは関係性で成り立っているっていう意味では、旅行に一人旅行行ったら、環境も変わるわけであって、自分っていうものは多分変わる可能性はあるけど、
さっきも言ったように、日本に帰ってきたらまた戻りますし、単に変化しているだけですしね。何か自分の奥底の何かに触れるっていう体験には別にならないと思うし。
あと自分探しのために出る人って、自分というものを持つことができなくて、それで悔しくてっていう場合もあんのかもしれないけど、それはもうそういうふうにできてるんだから、旅行して治るわけがないですね、そんなの。
まあでも人間って社会生活を送ってたら、周りに合わせて流されて、でもこれもう宿命でしかないし、だからそれを自分だと思い込んでしまうっていうのは別に当たり前だし、どうにもならないと思うし、生きてる限り絶対どこ行こうとどうもがこうともそれは変わらないことだと思いますね。
ただ自分というものを持っている人に時折憧れたりするのは気持ちはわかるんですけど。
でもそれでね、右肌の部分をなくそうとしたって無駄ですよね、流行りに流されないことができたとしても。
でも結局流行りに流されない人の影響を受けてしまってるんですよ。
倉木なんかは人前だと相当演技しなきゃとてもやっていけないんで、自分なんてものを出せていなかったけれども、それを問題と思わなかったし、いまだにあれは取り繕っていたし、ダメな自分だったなとは一切思わないですね。
そうするとは思えないんだし。
家にいるときは別にいつも通りになるし、自分の方が正しいとも別に思わないし。
次ですか、これ試行実験でセリウスの船だっけな、試行実験なんですけど。
完全なクローンを作って、前の遺伝子とか、遺伝子から新たなクローンを作るわけですけど、見た目、形、そしてそういったすべてを、これが将来可能になるかどうかを置いておいて。
これが将来可能になるかどうかを置いておいて。
クラキオは以前それは無理だろうって話したんですけど。
意識も完全に移ってしまう。
だからクローンの別人の自分ができて、連続して生きれるって場合、でもクローンである。
意識も記憶もすべて今は原子レベルでコピーできてる。
原子レベルでだから体も、そしてDNAもすべて同じ。
まず言えるのが、この世界に統一な存在ってのはありえないから、そういう意味では別物ですよね。
ただやはり、遺伝子レベルで同じで、体も全く同じで、意識は今までと同じように働いてるのであれば。
他人からしてみたらもうその人でしかないし。
あとはいくら何を言っても、ヘリクスというか理屈だけの話になってしまって。
あまり本質をつくような議論はできないかもしれないけど。
ただこの今言ったセリウスの船だか忘れたけど、このことについて考えるのは非常に重要なことで。
例えば移植した人間、震度移植した人の場合、それはその人部分的にしかもすごい大事な部分ですから。
もうそれはある意味別人になっていると言えるのか。
あと研究によっては、人間の腸が脂肪部分であって脳は付随しているものでしかないんだという研究もあるので、
だから腸を移植してしまったらもうそれはその人じゃないんではないかという議論にも発展するからですから。
これ結構重要なことで。
これをまず考えなきゃいけないのは自分なんてものは存在しね。
これが自分だと思っているだけで。
じゃあその自我というものを自分だともし定義するのであれば、
自意識ですよね。脳の部分で言うと中枢ですよ。
これだって映っているわけだから。
意識が映っているということですね。
であればやっぱりそれは自分なんじゃないかなと思うんですよ。苦論であっても。
次は形についての話なんですけど。