セメウスの船の紹介
今回はセメウスの船という思考実験の話と、諸法無我の話なんですけど、奇跡が起きましたね。
たまたま今日、何かのネタ探しってことで、
Podcaster のためのネタ探しってことで、思考実験ってものがあるのが分かってて、そのうちの一つ、セメウスの船
を、あるYouTuberが、YouTuberなのか分かんないけど、2人で話してて、
たまたまその付けたところがセメウスの船。ちょうど今日も PDF でスマホに入れてた諸法無我が、ちょうど考えてて、最近もずっと考えてる
こととすごい繋がるわけですね。 このセメウスの船っていうのは
船の、ある船の部品を壊していって、 最終的に全く別の船に、
全くそういう理解で、 部品変えた場合、これは
セメウスの船と言っていいのか、 という、これドラマ化もされてて結構人気あるみたいな、人気あったみたいなんだけど、
これが哲学的な思考実験として、 よく取り上げられるわけです。
大学生なんかもね、これについて話したり、 哲学者もこれについて議論したり、
するわけですけど、 何が諸法無我と共通しているかというと、
有名論と自己の存在
諸法無我っていうのは、
例えばこの船ですよね。 船ってものが
あるようには思うけど、実際はその実態はないんだという、
ブッダの教えなんですけど、 クラゲもこの発想はなかったですね。
まあ、この諸法無我と考えるときに、 これは、船っていうのは部品だけではいけないと。
その船の全ての部品があったところで、 船とは及ばない。
何を船というかというと、 その船の形に
うまく組み立てて、その組み立てられた、 言い換えると現象ですよね。その状態。
状態を、 船というのであって、
そこに本質とか実態なんてものはない。 っていうのは諸法無我なんだけど。
これを考える上でも、 逆にSMSの船を考える上でも、
両者とても大事だと思うんですよ。 これを考える上で。
でもクラゲはもうね、 その現象自体を船、その船だと
いうのであればね、 これの場合、SMSの船っていうのは名前もあるわけですけど、
名前があろうとなかろうと、 それを船というのであれば、
部品自体が相入れ替えだと。
船ではありますよね、船では。
はっきり言えることは、やはり、 相入れ替えしようが、
実態はないってこと。 部品なんか入れ替えるまでもなく、
船の形をしてたら、 単に船と言ってるだけ。
本質的には部品を入れ替えようがあまり変わらないと思うから、 プットの初本部側から言ってみたら、
名前の問題であって、これは。 名前に関しては有名論っていうね。
これもややこしい哲学があるんだけど。 これはどういうことかというと有名論。
人間とか犬とか一般的な概念は、 名前として存在するだけであり、
実在するのはここの事物だけであるって、 なんか難しい話ですけど。
簡単に言うと、例えばアインシュタインなんかも、 名前を聞いたことあるけど、でも実際見たことないわけだから、
実際に存在したかどうかは、それはわかんないっていう、 そういう哲学用語ですね。
有名論の考えを基にすると、セメスの船はもう完全に別物ですね、これはね。
有名論ってあくまでもただの概念でしかない。 っていうあれですから。
実在するのはここの事物だけであるという考えですから。
でね、有名論って現代人からしてみたらありえないじゃないですか。 だってアインシュタインなんかいるし、
絶対いたに決まってるしだけど。 本質的にはね、でも
ものすごくこれはやっぱり哲学的なんだけど、 ある意味正しいですよね。
100%アインシュタインがいたとは言えないわけで。
まあ、便宜上いると考えるべきなんだけど、
まあ厳密に言うと、いたかどうかわかんないっていうのが正しい。 っていう意味では
まあこれはセメスの船は別物と言っていいんじゃないかなと思いますけど。
クローンと存在の意味
まあ有名論の話は置いといて。 いや実はね、
さっき言ったようにたまたま
奇遇にもそうやってセメスの船と ショホムが結びついて、
たまたまこれショホム側について考えてて、 セメスの船っていう
考え方に出会って。
でしかもセメスの船とショホム側の 関係について
論じてる人とか
一切いないんですね。ネットで調べてもね 一切出なかったです。
非常に手がかりになると思うんですけどね、ショホム側の 考え方はね。
いやこれ別の考え方できます。例えば あの
ある装置である人の原子レベルでその人の記憶だったり
どういう体の構造をしているかを スキャンして、で別の機械で
前のその人の体を解体してしまって、 新たな装置で
全く同じものを作る場合、それは
その人と言えるのか。記憶とかも全部同じなわけです。
そんなことが未来起こり得るとして
でクラキもこれについては必死に考えてきました。
生まれてこなきゃよかったって言うけれども
生まれてこなかったらまあこの意識はない。 こんな苦労することもなかった。
でもなんかそれって不思議な感覚ですよね。 親が別の人と結婚してたらそれは
自分の意識だったのか。こういうことをクラキは考えてきたわけですけど。 非常にこれは手がかりになる話ですね。
そういった装置がもし将来できるんだとして。 記憶も全く同じらしいですね。
ただクラキにとってはね意味ないんですよ。 多分そんな性質にできないです。
できたとしてもですね。 この意識はね、この自我はね多分
別ですよ。 だからやっぱりそれはね自分ではないから
別人と言っていいんじゃないかと思います。 そういう意味じゃ。
クラキがいつも処方無我で唯一納得いかないというか、これはこの痛みを感じたり
これはやっぱりつきまとう。どうしても。 この感性ってものがある限り。
自分なんてものはないのはわかるんだけど。 それでもやっぱり生きている限りこうやって痛み苦しみがある。
これが、この感覚が乗り移るなら別の装置に。 話は変わるけど絶対その後はありえないんで。
他人から見たらどうなのかは。 また話が変わっているけど。
処方無我の観点から言うと
自分なんか存在しないわけですね。
だから別の装置に移ろうともこの人の実体なんてのは存在しない。
そこにあるのは体があるだけなんですね。
永遠に続く意識だとか魂とかがあるわけではない。
それが仏陀の教えですから。
何か奥にはその実体ってものがあって普遍的な何か。 その人たる何かありそうだけどそんなものはない。
のであれば
まあでも記憶とか見た目とかは全部同じ。 だから単なるクローンであって
悟った仏陀から言わせてみれば だから何ですかって感じだろうね。
でも考えてみてください。自分と全く同じ。
クローンっていうのができる可能性は十分今の科学的、 培養的な装置から言ってあり得るわけです。
それは仏陀の答えを出しているわけです。
原始レベルで全く同じだとしても。
うちらが人間ってもののうちには何か特別なもの、何か本質的なものがあるわけです。
そういうものがあるわけです。
原始レベルで全く同じだとしても。
うちらが人間ってもののうちには何か特別なもの、何か本質があると思っているだけで、
単に同じものが二つ存在することに他ならないわけですね。
それではしたっけ。