はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。 よろしくお願いします。
よろしくお願いします。 はい、前回の雑談を挟みつつなんですけれども、
他者、他人というところのテーマで、 仏教は東洋はというところを見ていくという話でした。
そうですね、はい。 カラーと言われると、今回一回分になっちゃうんだけれども。
あ、そうなんだ。 うん。なんかね、これまでずっと西洋の他者っていうのを扱ってきたんで、
もちろん他者は、別に他者に東洋も西洋もないんだけれども、別にね、他者は他者だから。
でもやっぱり同じ言葉でも、結構その文脈とかさ、
それこそ、西洋哲学的に捉えると、とか、 仏教的に捉えると、というところで結構ね、
テーマが違うんですよね、当然ながら。 そういうテーマの違いっていうのもお伝えする中で、
他者っていう言葉とか、概念の広がりみたいなところをお伝えしたいとか、一緒に見ていけたらいいんじゃないかな、
楽しいんじゃないかなと思って、 ちょっと一個用意してきました、みたいな感じですね。
はいはい、一回目かなんかでね、やっぱり遊園式とかになっちゃうと、
もう他人ものもいなくなるっていうところを、どう解決していったかみたいなね。
あとあれか、大乗仏教か、他者を救うの、他者ってなんやねんみたいな話があったみたいなね。
そもそもいないのではないかみたいな、他者もみたいな、そこをどう乗り越えたかっていうね、
そこは何だそれって思って、もちろんそうだなって思ってたんだけど。
でもね、ちゃんと読んだら、全然違ったっていうか、やっぱりただ式があるっていうことと、
じゃあ他者はっていうことはちょっと違う問題だなってことも判明したので、
そこも含めてお伝えをしていきたいと思っておりますという感じですね。
ちょっとね、西洋哲学みたいに仏教の振り返りしてもいいかと思ったんだけれども、
またそれだけで1本分ぐらいないそうだったので、そこはさらっと行きますと。
もしね、また、最近聞いたよとかね、仏教をちょっと振り返りたいっていう方は、
本当にゴータマシタルタからですね、ナイアガルジョンとかっていろいろ、
また過去も再生するんでよかったら聞いていただければという感じなんですけど、
やっぱりですね、とりわけ仏教の中でもその有意識派っていうような、
ある種、派閥じゃないか、宗派みたいな感じなんですけど、
これはですね、紀元後の5世紀、だから今から1500年ぐらい前に、
無邪気とセシンという兄弟がね、始めたものなんですよと。
で、これ本来はユガ行派とかって言ったりしてて、
ユガってヨガとかヨーガの元になる言葉なんだよね。
ユガ行有意識派とかって言うんだけど、これはヨーガ、ヨガの元になるものですと。
いわゆる瞑想をしたりとか、結構体を動かして修行をするみたいなものも、
結構この有意識派には含まれているんだけれども、
さっき兄貴が言ってくれた通り、その有意識って、有意って有意図とかの有意で、ただってことだし、
識っていうのは意識の識なんだよね。
ただ識だけがあるっていうのが結構この流派の根本的な考え方です。
識ってなんやねんみたいな話はさらっといくんだけれども、
一回ちょっとすごくざっくり言うと、復習的に言うと、
有意識派には、いわゆる8つの識があるっていう風に言うんだよね。
8つっていうのは、5つは五感、いわゆる五感で、見るとか聞くとか触るとかっていうやつと、
あとは意識っていうものを考えるとか理解するっていう話。
それが6個目ね。
これが6個目。
これで6識で、あとはあらや識とまな識っていう、
ある人、人間の意識できない奥底のっていうとちょっと違うっていうのはまた後で話すんですけど、
それちょっとある人、人の意識とかを超えたような識っていうのが、あらや識とまな識っていうのがあるんだと。
この8つの働きっていうのをもとに、世の中を捉えていこうぜみたいな考え方なんですよね。
はいはいはい。
歴史的にはね、武器をもっと遡ると、2世紀ぐらいに、さっきも言ったリュージュというかナイアガールジナっていう人がね、
これ、大移の仏陀って言われるぐらいすごい人なんですけど、
この人がフーっていうのをね、いわゆる色速絶空とかのフーね、
っていうのを解いて、あらゆるものはフーだとか、フーが識であり、識は空だとかって言ってたんですけど、
フーって何だろうな、いわゆる日本語的に空っぽだとか何もないとか空虚だみたいなね、
そんなイメージで、あんまり間違ってないんだけど、
そういうふうにあらゆるものはないとかって、
いわゆる虚無主義じゃないけど、自分もいないし他人もいないしこの世界とかもないんだみたいなね、
っていうふうに解釈すると出ちゃってきてたんですって、当時でも。
はいはい、本当はそういうわけじゃないのにね。
そういうわけじゃない、別に物はあるんだけど、ただその本性とか本体がないみたいな話だったんだけど、
あらゆるものはないっていうふうに解釈してた。
そういう人が出てきちゃってて、
で、そういうふうな儀式背景とか状況もある中で、
識っていうのはあるんだよと。
そういうふうに主張することで、ある種、取っ掛かりやすくしたというか、
その識っていうのは手掛かりに、ではその仏は世界に入っていくみたいな、
そういうことをやっていこうぜっていうことを主張したみたいな、そういうふうな流れがあるらしいんですよね。
で、もう一つがその中に生きるいわゆる人間とかを含む生命っていうのが話があって、
それを情がある、情って情けとかの情ね、
があるって書いて無情世間っていうふうに言うんだって。
つまり僕らの参考で言うと、
その環境とある種その中に生きる生命っていうものを分けてるみたいな感じなんだけど、
四季からこういう二つの世界、世間っていうものが生まれてきます。
それぞれの特徴があるよねっていうふうに言うんだけど、
木世間、環境の方は、いわゆる三角がないっていう特徴と、
あとは共有できるっていう特徴の二つを持ってますよねっていうふうに言うんだよねと。
ほうほうほうほう。
で、いわゆる環境ってそれこそ石ころでも木でもいいんだけど、
僕らが見る限りでは感覚では多分ないじゃないですか。
なるほど。植物も生命かっていう意味で言うと、ここで言うと、
木世間の方だった話ね。木とか植物とか。
おそらく。ちょっとごめん。そこを優識の中でどこまで厳密に制御してるか確かにちょっとわからないんだけれども、
もうちょっとあれにしようかな。海とかにしようかな。
石ころ、石ころ。
そういうもの自体には多分感覚はなかろうと。
そういうものがある種、命あるものは共有できる。
石っていうのは僕が持つこともできるし兄貴が持つこともできるよねと。
海っていうのもみんなで泳ぐことができるから、共有できるっていう特徴を持つよねっていうふうに言うんですよね。
はいはいはい。
逆に無常世間、いわゆる生命みたいなものはどうかっていうと、
これには感覚があって共有できないっていう特徴を持ってるんだっていうふうに言うんだよね。
うんうんうん。
だから、例えば僕であれ犬であれっていうのは多分感覚を持っているであろうと。
植物も確かに感覚あるっていう方もいるかもしれないから、それは無常世間だっていうふうに言えるかもしれないね。
うんうんうん。
共有できないっていうのは、いわゆるサンのハヤトっていう人間の中にサンのキョウスケは同居するってことはないじゃないですか。
だから僕っていう存在がこっちに行ったりこっちに行ったりっていう意味で場所的に共有することはあるかもしれないけれども、
サンのハヤトという人の存在自体とかその人が持ってる心みたいなものを誰か他の人が決定に扱ったりすることはできない。
うんうんうんうん。
っていう意味で石とか海みたいな環境的なものとは違うよねっていうふうに言うんだよね。
うーん、なるほど。
共有できないみたいな感覚って分かるかな。
いや、今の例でだっけ、ハヤトが兄貴とは違うみたいな。
そういう世界観の中で、さっきねちょっと考えてみた、
ある種ただ識しかない、有意識っていう世界において、
自分がね、その執着を断ち切って、その上で他者を救済するって、
どういうことなの?みたいな話をね、もう少し考えていきたいんですけれども、
やっぱ自分が悟るというか執着を断ち切るっていうのは、
もちろんいろんな瞑想とか修行というのは行うんですけれども、
その結果やっぱり指揮として現れる、自分の心みたいなものだよね。
そういう働きを制御して、いわゆるこの世はただ指揮だけであるっていうふうに
本当の意味で理解するってことですよ。
要は心がいろいろ暴れ回るから、例えばあれを止めたいとか、
こういう楽なことをしたいとか、この人が亡くなったら悲しいとかっていうふうに
いろんなものでやっぱり執着をしてしまうのと。
本来は指揮しかなくって、現れてる食べ物とか他の人っていうのも全部は
指揮の現れでしかないんだから、本当の意味でそんなものに
触る必要ないんだよっていうのが、すごく冷たい言い方なんだけど、
仏教的な苦しみを離れるような考え方なんだよね。
そうすると指揮だけがあるってことをちゃんと認識しましょうという風になるんだけれども、
やっぱりさっき言った木世間、環境の方っていうのは、
いろんなものがごちゃごちゃと存在している、石もあれば山もあれば海もあれば
みたいな感じなんだけど、悟った人とか指揮しかないっていうふうなことを
本当に理解した人からすると、その別々っていうのもなくなるんですよと。
なるほど。
だって全部は指揮なんだから、いわゆる海とか山とか僕らがやってるのも
全部それは受けられた世界で、僕らが作り出した世界ではねっていう風になっていくんだよね。
なるほど、なるほど、はいはいはい。
そうね、便利的に。世俗の方で石と名付けた、海と名付けた、認識してるってだけの話。
全部指揮なんだよって言えばまあ、いい加減。
そうそうそう。
なので、それがいわゆるこの世は一つであるとか、それがまさに仏道というか仏の国っていうのが
いわゆるその清らかな世界っていうものが、実はまさにこの世間っていうものと同じなんだよ
みたいなふうなことが出てくるんですよね。
同じ、はいはい。
同じ、うん。
要は、見ている僕らが正しく世の中を見てないから奇跡、奇跡の環境でごちゃごちゃしてると。
全然違うものがバラバラとあって、すごく煩雑な世界っていう風に見てるっていうのは
そうです、そうです。さっきのハヤトの例で言うと。
ただそういう要素がある一方で、やっぱりそこからはね、いわゆるこう、
ホードなっていうとちょっと言い方があれなんだけれども、やっぱりこう複雑な社会を作り上げていくとか、
やっぱり民族とかを超えて繋いでいくような仕組みっても生まれにくいだろうとも思うんだよね。
結構個人的な意図を見になっちゃうもんね。
そうそうそう。だからそれまで生まれたのがいいかどうかっていうのは、いわゆる現代批判っぽくなっちゃうからなんだけど、
でもやっぱりね、全人類が濃厚民族であったほうが幸せだとか言ったら話はまた違うと思うから。
そんな風にね、いわゆるこの思考と、やっぱり今世の中に広がっている価値観とかやっぱり社会の仕組みみたいなものって結構繋がっていられる。
やっぱり今はどうしても西洋的な価値観っていうものが強いから、
でもそれっていうのも一つの価値観、世界観でしかないし、そういう東洋的な感覚化すると、もっと楽にいきましょうよと。
ある種現状をいい意味で肯定をして考えていくのもいいじゃないかっていう風なこともあるよねっていう感じなんだよね。
はいはいはい、なるほど。
そんな感じでね、このサシャっていうものをテーマに、少しこの東洋と西洋というか優位識というものと、
レビナスとかブーバーとかっていうものもちょっと比較しながら見ていきましょうというのが今回のですね。
うんうんうん、なるほど。
いやー、そうだね、これはもうちょっと東洋のもとに、うちら日本人からするとそういう感覚を持った人が西洋に触れるとどうなるかみたいなところをね、
またなんかね、そこを日本人からする自分からするとすごい面白そうだね。
うんうんうん、そう思うし、やっぱりね、それこそね、西洋圏に留学とかね、やっぱり住んでる方の話を聞くとやっぱりその違和感だったりとか、やっぱり馴染みに行くさっていうところがあるみたいな話も聞くから、
まあそういうこともね、もし実際に感傷という方がいたらね、それこそお便りとかでも教えていただきたいなと思うんですけど。
うんうんうん。
これもね、やっぱりずっと言っておけばどっちがいいってわけではないから、やっぱりどっちが馴染みやすいかとか、どっちが本当に自分のフィットする環境か。
うん。
だからやっぱり無理にロジックロジックで考えていくっていうのが、もちろん会う人もいれば会わない人もいるし、
変にありのままだかっていうよりも、そういうやっぱり思考とかを詰め上げていって、物事を見る方がやっぱり楽だという人もいるだろうから。
うんうんうん。
だからそこをね、こう考えるとか、ちょっと自分の振り返る機会があったらいいなとかっていうことを思ってちょっと絵加わさせていただいたっていう感じですね。
はいはいはい。いやー面白いね。確かにこのありのままの部分もね、結構また難しいからね。
ああそうだよね。
ありのままセンサーある、なしもあるからね。そこが同じだから。
そうそうそうそう。あるしね。
それはやっぱり強要されるのもきついじゃん。いや自分は別にそんなじゃないんですけどみたいな。
そうそう。そんなね、センサーが散らかったりとかさ、そもそもそこセンサーないんですけどみたいな。
そうそうそうそう。
どうすれば周りとうまく生きていきますかねみたいなところがやっぱり問題になる場合もあるしね、センサーによっては。
そうそうそう。結局ね。
ここは同じだよね。するとスインってもうなくても結局おかしなことになっちゃうという現実があるからね。
そうですそうです。
だからやっぱりどっちがいいじゃなくて、やっぱりその間で大事にするとグラデーションというものを常に大事にしながら。
やっぱり西洋の中でもグラデーションがあるし、西洋と東洋っていうのはちょっとこれはもうざっくり言ってたらわかったんだけど、
グラデーションもあるしっていう、いろんなこうね、レイヤーというかそのグラデーションがある中で果たして自分ってどこにいるんだっけとか、
今どういう時点から物事を話してるんだっけみたいなことがちょっとメタ認知できるだけでもすごい行きやすくなるというかね、
いろんな人と話し合いになるんじゃなかろうかというような感じですね。
いやーそうはね。さっきハエトが言った、ある程度やっぱり自己理解的というか、自己認識的な話なのかもしれないよね。
自分のセンスが弱いとか強いじゃなくて、自分のセンスはこうなんだっていうところまでちゃんと理解して、
だからさっきね、難しいからじゃあこうするとか、難しいから諦めるとか、それを辞めるまで認識することが清々しさっていうのもあるかもしれないね。
それで辛いとかというよりは、そこからじゃあどうするっていうところが生まれるから。
ありのまま受けようじゃなくて、ありのまま自分はこうなんだっていうところまで含めては理解する。
そうするとね、フラットな見方というか、今回でいうと応援を取った視点に近いものになってくるのかなみたいなね。
自分はこうで、あの人はこうで、フラットフラット。その場合いろんなケースがあるっていう。
そういうようなことを思いながら作ったので、そういう感じのところが割れば良しだと思うんですけれども、今回で他者に関しては一刻いいかなとは思っています。
前回もさせた通り、今後もいろんなテーマを取り上げていきたいんですけれども、やはり正義とか正しさですね。
便利な話ができたので、他者と関わる上での基準みたいな話を次のテーマとして取り上げていきたいなと思っています。
これをやることでまた他人みたいなものをどんどん感覚の解像度が上がっていくんだろうなという面白さを今回感じたんで。
そうだね。あとやっぱりね、正義っていうものの脆さというか、なんかすげえような前提がついてるねみたいな話も出てくると思う。