諸行無常と諸法無我の解釈
今回も諸行無常諸法無我について、超簡単な仏教雑談回ということで話していこうと思うんですが
第2回ですね
早速ですが、前回話した通り、昨日諸行無常諸法無我について
坊さんたちは何とか、その他の人はどんなふうに解釈しているのか
どのようにブッダが言ったのかを説明しているのか
ざっと聞いてみたんですけど
いろいろ思うことがあったので、また話していきたいんですが
まずですね、これは倉木の持論だけど
大乗仏教だったり、その話、いろんな宗派の仏教については分かりませんが
あくまでもブッダが言っていること、原始仏教については
倉木は無人もあるけど、どうしてもね
ここまでの歴史の中にできてきたものですね
あとは、そもそもがブッダから直接伝わっているとしても
人が人に伝えているわけですから、どうしても無人があるように聞こえてしまうわけですね
お弟子さんもそこで非常に解釈が悩んだんだろうけど
倉木もそうですよ、ブッダが言っていることを聞いていればね
人によっても言っていることも違うし、無人もあるし
だから気軽にね、ある程度気軽に
そして無人があってもそれをあまり執着しないということですね
それが大事なのかなと思いました
ブッダの教えとメンタルヘルス
何か違和感があってもあまり気にしない
実際に生きているときも、これは別に宗教じゃないから
何かを追い求めて妄心していくようなことはどこでもないし
だから何かおかしいなと思ったら
そのためにまた都合のいい教えだけを取り入れるというのね
若い子が占いを見てね、都合のいいものだけ取り入れるというのと同じですよ
やっぱりブッダの弟子に言っているように
これはそういう心理は生きろとか言っているようなものでもないし
だってもう倉木もね、前から
なんとなく思っているだけで、やっぱり食事したり
こうやって普通に俗世間で生きたりしている時点でね
もう煩悩はまめになるし自我が出てくるし
あとは倉木の中でちょっと昨日から疑問なのが
やっぱりブッダが言っていることっていうのは
自分を別に成長させるものでもなければ
魂を成長させるとかでもないし
かといって、昨日も言いましたけど
心理というものでもないし
かといって苦しい状況を打破するためのもの
ということでもないと思うんですよね
やっぱりブッダも喜びは苦しみの1ページ目だということを言っているわけだし
苦しみを遠ざけようとするためのものでもない気がするし
でですね、じゃあ心理じゃなかったら何なのかということですよね
心理というのは不関連性という意味でないと証明されていますから
じゃあ何なのかというと
まず言えるのは紛れもない事実であるということ、これが
これについて考えるときにね
昨日思ったのが不関連性定理って
これも同じ
心理家と言われるとそうではなくて
この世界に心理なんて存在はしないっていう教えなんで
そういう定理なんですね
数学の定理なんですけど
これの教えのことを考えるときに大事なのが不関連性定理
自体も不完全なものなのではないか
どこか矛盾が生じてきてしまうのではないか
っていう風な捉え方は絶対できないんですね
これはこうなんですよ
必ずどんな考えも矛盾が生じてしまうっていう定理なんだけど
それと同じところがあると思いますね
諸行無常と諸法無我っていうのは
もちろん仏陀の教え
無前があるかもしれないけど諸法無我には
立ち返るところというか
いろんな解釈の仕方があるかもしれないけど
お釈迦様が悟った諸行無常
諸法無我っていうのは
足止めにすればね
無人から無人からって言ってるけど
仏陀はもう人間ですからね
この物理空間全てが
無人でできてると言ってしまってもいいわけで
不完全性定理が消耗していることですね
それを受け取る側
教えを受け取る側
我々の問題と考えた方がいいかもしれないですね
教え自体に矛盾があるというよりは
ただ
じゃあ大乗仏教とか
の矛盾とはまた違うんですね
これは宗教じゃないですから仏陀の
真理というわけでもないんだけど
これは本当に抽象的な教えだと
考えるべきですね
あとはですね
どうも違和感があってね
諸行無常とか諸法無我っていうのは
別に人の成長を促すものでもなければ
魂の成長を促すものでもない
そんな悟るためのものなんていうのも
考えるのもこがましい話で
でもちょっとした気休めというのになったり
悩み大きい人が救われたり
ダメなものかというとそれも何か違和感があってね
とはいえ
この考えに出会ってなくて
人生に苦しんでいる人
あるいは命を絶とうとしている人とか
現状打破できない人とか
本当にまだそういう
自己と他者の関係
世の中の変わらずになっていたり
よく人間についても
ろくに考えたこともないような人が
この教えに出会うということは本当に意味があると思っていて
全く人生観が変わりますからね
諸法無我というのは自分なんてそんなにしないよという教えですから
もちろん立とうと思っていた人も絶対考え変わると思うんですよ
一回これの教えに出会っていく意味っていうのはやっぱりあるような気がするんですよね
あとぶっとなその言うことを聞いても
そんなの証明できるもんじゃないかと
言う人もいるかもしれないけど科学的にも
いろいろ分かってきている人間もね
諸行無常って言ってる通り
細胞が37億個
もう3ヶ月で入れ替わるとか半年で入れ替わるとか
言われてるし原子分子も常に変化してるということですが
いいことなんですよね
ただ残念ながら
こういう説明のやり方をする人もいますけどね今みたいに
ただブッダが言う
諸行無常とは全く関係ないんです
いくら細胞が変わらないとしても
諸行無常の教えが変わることはないわけですよ
ここを結びつけて考えてる人は非常にクラキは愚かだなと思いますし
ただ今言ったように
そうやって証明されてるわけでもない人に対しては
こうやって言うのも一理あるしとも思うんだけど
ただクラキは思うのはね
それで言うとですね
DNAっていうのがあるからほとんど性格なんかも一生変わんないし
老いて丸くなるとかあるかもしれないけど
そういう意味ではね
自分っていうのは存在してるとも言えるんだけど
でもやっぱり厳密には
自分っていうのは存在してない
って要するに分かりにくいですよね
諸行無常ってのは
で自分って何だと思いますかね
自分って何なのかっていうのは
自分って何なのかっていうのは
で自分って何だと思いますかね
でいきなり諸無我の話になってしまうんですけど
クラキはもう世間の人が自分って思っとられるとき
昨日も今日も一昨日も変わらない
この自分だと思うんですよ
名前については
クラキは有名論を信じてるんで
単なる名前だと思ってるし
個跡が与えられたり
住所が与えられたりそんなのは別に
そういえば昨日あるお坊さんが
こういう住所とか
こういうのがその人の
だと思ってるけど
っていう説明の仕方するんだけど
でそれでねその後続けて
でもそういうものは自分じゃないって言ってるんだけど
諸無我とは関係ないですね
諸無我の話を出さずとも
住所はとか
どことかそんなの変化するんだから
それは自分じゃないですよ
全くもっと諸無我とは関係ないですよそれ
そんなことはどうでもよくて話戻りますけど
ちょっと話忘れたんで
次の話いきますけど
自分の実体なんてないから
人間というのは影響を与えられてる
これについてはね
非常に理解は
与えやすいものではないと思いますね
物理学的にももちろん言われてます
全てのものは影響を与えてるっていうのは
これをだいぶ履き違えて
捉えてる人が多いと思いますね
前回話したようにね
これで人に支えられてるんだみたいな
忘れちゃわないうちにまた話しておきたいと思うんですけど
それで言うとですね
昨日youtubeで聞いたあるお坊さんと考えは同じで
諸行無常っていうのは
何かが衰えるとか
衰退するとかそういうことではないと
そこまで考えは同じなんだけど
今言ったように難しいんですよ確かに
辞書で見ても因縁によって成り立ってるとかね
実体がないってことをそう説明したりするんだけど
その人はね
他のお坊さんも言ってたけど
その時によってその人の立場で変わると
お兄さんであったり
ある人から見たらその人はお父さんであったり
ある人から見たら友人であったり
確かにこれ
分かりやすく説明してるとしてでもですよ
100歩譲ってそう考えてもね
無理があるし
逆に伝わりに誤解される
言い方だし
もっと抽象的なことですからね
諸行無我っていうのは
人間が我がないって言ってるんじゃないんだから
この物理空間にある
ミクロマクロも全てのものが
我はないっていう
そういうことですからね
だからお兄さんから見てみたら
この人は弟であり
友達から見てみたらこの人は友達っていう存在であり
っていう風に言ってしまうと
諸行無我っていうのは
社会を生きてて
その時その時立場が変わるんだなっていう
俗世間的な理解の仕方に留まってしまうわけですよ
では次の話ですが
それではしたっけ