友達の意味と孤独感
第58回目発達障害あるある話しくださいまーす まずは友達を作る意味が理解できない
これだけ全く 作る
作りたい作りたくない 以前に作る意味がわからない
まあそんな子供時代でしたね 今でも疑問ですもん
地元の立ちと バーベキューしたりする意味がわかんないんですよこの人たち何を考えてるのか
会社の人と会ってた方がいいだろうと思うんですよ 親友も含め友達に遊びに誘われたことは
あります そこらへん受けばよかったんですかね
うまく利用されただけかもしれないですけど ただ自分から遊びに誘ったことは全生一度きりもないですね
一度もないですね ただ親友と図書館に行って
体育館で遊んで 自転車で出かけて
この時間が別に幸せじゃなかったかというとそういうわけでもない かといってとにかく楽しいという感じでもない
まあ身のある時間を潰し方はしているとは思う 何とも自分としては捉えがたい
経験でしたね ただ
当時別に一人でいたとしてもそれはそれで 成立してただろうしその時間
何とも思わないですね
今振り返ってみて別にそれはそれで良かったんじゃないかとも思いますね
でも私生涯とにかくあった
友達という概念がねよく理解できないんだと思います 言ってみれば友達という関係性ですよね
普通の期待と自己理解
何を持つ友達というのか 全く理解できないんだと思います
ラクラキも例外でなく
友達っていうのはどうでもいい概念でしかないですね 言葉についてもうちょっと
あの哲学的に考えてみると 人間ってこの世界を理解するために
この世界を理解しようとしているのか
人間に都合のいいように 頭の中で一つ一つのものを形作っているといった方が
いいのかもしれないけども 概念というものを含め
他の動物は 例えば猿がこれはバナナだとか
それは認識できるでしょうね ただペンを見たところでこれはペンだと思わないだろうし
バナナにしたって やっぱり人間とは違う認識だと思うんですよね
人間はこれは黄色で食べ物で 剥くことができて
こういう品種でとか そういうのとはまた違う理解の仕方だと思うんですけど
だからバナナはバナナという名前をつけたり 名前をつけて理解してるわけですね
もちろんもうちょっともっと抽象的な概念もありますけど 例えば人間と犬、猫
それを動物という括りにしますけど
こうやって言葉というのは 存在というものを理解する手段なわけですよね
元々はそれだけのものだったんですよ でも
音声によって人に何かを伝える
ということが大事になり
人に 何かを伝えるという手段になっているわけですね
自閉症スペクトラムと呼ばれる人たちにとってはどうなのかというと
積極的な聞き方の人は多いと別として クラキ自身はですよ
もしかしたらクラキのポッドキャスト聞いてくれてた人は 聞いてくれてる人はわかるかもしれないですけど
自分の世界を広げてくれるもの 小さい頃から一人でいることや
時間が圧倒的に他の人に多いということと相まって
自分の世界を作っていくのなんですね
だからポッドキャストを愛する前、今でもそうだけど
何て言うんだろう 人に説明する前提
なんだけど
自分の中で完結しているというか 自分の中に世界を作っているというか
自分なりの言葉を紡ぎ出して
誰かにというわけじゃないけど何かを説明している
で満足している ところがあるんですよね
単なる言葉遊びと言っていいのかな
そういう意味ではポッドキャストって絶妙なバランスとれてるのかもしれないですね
ライブ配信でもなければ 直接人に会ってるわけでもなくて
次のあららなんですけど 二十歳以上は普通
ってことで憧れる人が多いんだけど クラケ自身どうかというと
普通に憧れることなんてないとは思ってるんですよ
人生で一度されてもそんなこと思っていることないと今でも思ってます ただですね
これはもう人類全てそうだけどやっぱり孤独は辛いですよ 人と何か違う
クラケはねそういう思いをね もう嫌なほど
もう嫌だと叫びたくなるほどしてきました この辺は嫌だと言いたくなるぐらい
どん底に落ちることありますから
他の人もこういう考え方の人は一人はいるんじゃないかと思っても いやもしかしたら
一人もいないんじゃないかっていう気に立たされるような心境になることがあるんですよね
それはそうですよね
もし自分が北極にいて
このままずっとここで一人 できることになるかもしれないとなったら
それはそれは とても耐えられるもんじゃないでしょう
発狂してしまうと思うんですよ たまにだったら一人でいいかもしれないけど
これが一生続くとなればそれは ちょっとたまったもんじゃないですよね
それは同時に 普通を求めるということでもあるわけですね
だからね 後に気づくこともあるんですよ
なんだかんだ普通でいたい自分もあったな
ただね あの
集団に迎合したいとか あるいは
無難な 自分でいたいとか
みんなと同じものを好きになりたいとか それとはまたちょっと違うニュアンスなんですけど
その子の子からは遠ざかりたいっていう 思いですね
っていうのはあるんですよ まあ普通というかなんだろう
群れの中に混ぜりたいわけじゃないけど やっぱり仲間は見つけたい
要は普通に近づきたいということですよね その大極にある状態から そういうことは何度もありました
でまぁ普通ってものを理解しようとして 特に発達障害という概念に出会ってから
理解しようとしてきましたね ただそれは頭で理解してるだけに近づけない
っていうことを知るやっぱり孤独な気分になるんですよ ああどうやっても
普通には近づけないんだなって気づくんですね
感覚過敏と社会での適応
次の話なんですけど 人間って自分ってものを理解するときに
あの
絶対に
人と比較する必要があるわけですよ なぜかというと
絶対的な存在 なんかこの世に存在しないし
もちろん自分もそうだから 一人の一人の人間
単体で存在している絶対的な存在じゃないから どうしても相対的に捉えなきゃいけない
言い換えると比較しなきゃいけない これがねー
発達障害って どうにもならないなと思うのが
人と比較するって感覚あまりないんですね もちろん負けず嫌いで
まあでもそれでも 比較するっていう感覚はないかなあまり
これというだから人として致命的なわけですよ 人と比較
しないってことは自分は単体で生きてると思っちゃってるってことは 絶対だと思ってるってことだから
自分の考えは絶対だと思ってる大人の発達障害もまだ大人になってもね そういう人もいますからね
逆に言うと大人になってから自分がじゃあ それ理解できるようになったかというと
そんなこともないわけで いやーそういう意味では不安ですよ
ちょっとここで話からかもしれないけど これも発達があるあるだと思うんですけど
もちろん今言ってるように普通になりたいとか 何とかしたいという思いはあるけど
でもそこまで自分の特性 生まれてずっと
付き合ってきたこの発達障害ですから そこまで自分の特性が悪いとか
直そうとか いい思いはないしそれで正解だと思いますし
発達障害という概念に出会ったからこそ 直す必要なんかないと理解するべきだと思うんですよ
そこでまあなるべく直した方がいいのかどうか
そんなのはもう発達障害という概念にもう 委ねればいいんですよ
今のところそんな直らないっていうふうに言われていることですから そこはもう
自分は責任を取る必要ないんですよ 次のあらわれですけど
私は感覚過敏 特に嗅覚過敏がある人が多いと言われてますけど
あまりにも
ストレスにかかる状況だと 感触
起こす子供もいればパニックになる子供もいたり 耳を塞ぐ子供もいたり
クラキの場合どうだったかというと これもあるあるなんじゃないかと思うけど
逆に聴覚過敏じゃなくなるんですね 感覚どんまとも違う
まあまあ結果的にはそういうことなのかもしれないけど 何が違うかというと
感覚過敏
ストレスだからどんまになるっていうわけではないから そこは違うことですね
あと子供自体 クラキの保育園の先生との
幼稚園の先生とのやりとりを見てるとそこまで問題視されてる感じはないんだけど
なんとかそつなくこなす 決して知能は高くて
なんとかカバーできてるっていうことではないんだけど
そこまで親は心配されないとか ある程度普通でいなきゃいけないっていう
やけに大人なところがあって とりあえず友達とも話するし
遊ぼうって言われたらかなり断ったけど あと変色があったとしても
ある程度食べるっていうそういう柔軟性も 柔軟性というか
やけに大人なところがあって まあそういった性格ではないんだけど
正義感が強かったのか そこらへん
しっかりしてて それで表面化されなくて
周りも変わっていることに気づけない っていうことはあると思うんだけどもクラキの場合でも
保育園、幼稚園でだいぶ変わり者 相当変わり者ではありましたね
行事とかも全然出れないから そこはねやっぱりね
どうにもならなかったんでしょうね もうちょっと大人になるかと思った
できたけどさすがに苦手意識が邪魔をしたのかな それではしたっけ