人の比較とヒエラルキー
今回はですね、最近も話したんだけど、なぜ人は比較してあがるか。最近話したのはですね、
そこから振り返ると
自分のことを知るのって難しい。これは心理学でも言われてるし
だし、あとはね、そうやって思う人ほど、人を比較する人ほど個人差あるからね。そういう人ほど自分というものを客観している能力がない部下
だったり、単純に鈍感、鈍くて、自分というものを捉えられないと、まあそんな話しました。
今回はですね、
想像してみてほしいんですよ。まずですね、例えば自分が秋田県にいるとして、
それは周りに、これは当たり前なんだけど、山形とか
他の東北の県が自分の中で意識されますよね。
だから、まあ日本地図って書いてもいいかもしれないけど、東北のあたり
イメージして、だから自分は
日本海側にいるんだなとか、自分の
位置関係というか、周りとの関係性はわかりますよね。
それでないと、どこにいるのか自分はわからないですよね。
まあ彷徨っているような状況というのか、
私は誰、ここはどこみたいな状況になりますよ。 だから人間がヒエラルキーをね
どの集団でも作るのもそうだし、あとは
ちょっと今回話す予定じゃなかったけど、 あの
ブッダは人間は関係性でできていると言いました。 これはっきりしてます。人間は関係性できていると言ったわけですね。
詳しくは説明してないんだけど、すべてのものは
それ単体で成り立っているんじゃなくて、関係性によって
例えば、人間
誰もでもそうだけど
誰かにとっての父親、誰かにとっての
弟、誰かにとっての生徒、こうやっていろんな関係性で
その人の見方が変わってくるということなんだけれども
だからこそ
周りに気が行ってしまうんですね。周りを気にしてしまうんですね。 そういうことだと思います。
さっきの冒頭のもう1回詳しくなりますけど、 例えばヒエラルキーで言うと
まあもちろんね、ヒエラルキーなんかない方がいいって思ってる人も多いと思うんだけど
どうしてもできてしまうのは、自分は
これぐらいの立ち位置だから
まあっていう風に理解する。まあコンプレックスもできるんだけど
でも全く手がかりがなくて、自分は
この集団の中で、人間って何者なんだ
みたいに思って。だから存在意義みたいなのを見出すことができるのかな、だから
人と比較しても落ち込む。 人なんか絶対落ち込むんだけど
それでも人と比較してしまうんですよね
まあ少しでも頑張ればね 少しでも立ち位置が上に上がってるかもしれないし
どうせ自信なくして分かってない人ってね、比較してしまうわけですよね
あとどんなアカデミックな分野だってね 例えば日本とアメリカを比較しないと
分からないことだったり、あとはよく言うのが田舎に行けば都会のありがたみが分かるとか
その逆もしかりで
比較することによって人間っていろいろ理解している部分があるわけですね。それではしたっけ