今回は、小林秀雄さんの「美を求める心」という講演録になります。
よい美、芸術入門の本になります。
入門でもあり、本質でもあるため、
芸術を観る時も、芸術をつくる時も、この本に立ち返りたい思いがします。
感想
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じゃあ、続いて読んでみますね。 これでもう最後の部分なんですよ。
石林の花の美しさをよくよく感じるということは難しいことだ。
仮にそれは優しいことだとしても、人間の美しさ、立派さを感じることは優しいことではありますまい。
また、知識がどんなにあっても、優しい感情を持っていない人は立派な人間だとは言われまい。
そして優しい感情を持つとは、物事をよく感じる心を持っている人ではありませんか。
神経質で物事にすぐ感じてもイライラしている人がある。 そんな人は優しい心を持っていない場合が多いのです。
そんな人は美しいものの姿を正しく感じる心を持った人ではない。 ただビクビクしているだけなのです。
ですから、感じるということも学ばなければならないものです。
そして立派な芸術というものは、正しく豊かに感じることを人々にいつも教えているものなのです。
いいですね。感じるってことも、やっぱり鍛えていかないといけない。
うん。
なんかちょうど、今タイミング的に1年が終わって、通知表とかが配られる子どもたちは、そんな時期じゃないですか。
やっぱり美術とか図工とか、なんかそういうものを評価していくのは、終わってほしいなと思っちゃうの。
なるほどね。
感じることを、子どもの時からやめたり諦めたり衰弱させてしまうところに、その評価に収めるとかっていうことが、やっぱり影響しちゃうんじゃないかなと思わざるをえなくて。
なるほど。
あとは、受験とか、子どもが自分の人生を設計していくっていう、今うちの子たち2人とも10代なんだけど、そういう時期になってくると、
本当に美術とか、感じる授業は、すごく後回しじゃないけど、
やっぱり、知識をつけて受験に向かってみたいな、なんかそういう大きな流れの中にも生まれて、感じることっていうのもすごく後回しになっちゃうなっていうのを感じてて。
だから、すごく最後の文章を感じる力が衰弱してしまうこととかね、そのあたりって、ものすごく身に迫ってくるというか、他人事じゃないってすごい思うし、
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社会全体で取り戻していかなきゃいけない大切なことだよなって改めて思います。
なるほどな。今のいい話だな。うちの息子も通知書を聞いたんですけど、あれ、評価ってフィードバックって言ったほうがいい気がしてて。
私から見るとこういうふうに見えたよっていうフィードバックをして、本当はでも開始だとそのフィードバックでもって対話していくってことが起きたほうがいいわけだと思っていて。
そういうふうに使っていかないと、なんか微妙ですよね。
もうなんかそうやって切り替わってっていいと思うんだよな。もう昔ながらのやり方、評価っていう形で突きつけて、その人を定義してみたいな感じを終わらせて、
その受け取った人の人生を背中を押すようなものでやりたいよなとか。
本当ですね。
子供であればあるほど。
あのあゆみ通知書にさ、背中を押してもらう感覚とかあんまないもんな。
そうそうそう。
本当にもうジャッジよね。
ジャッジ。
この生活面とかでもさ、こういうことができるに丸がついてるかついてないかなんだけど、バツみたいなことはもちろんないんだけど、でもやっぱりそこに丸がつかなかったってことは自分はとかっていうふうに、どうしても受け取れちゃうし。
もちろんね、先生も泣く泣くつけてるっていう背景を知ると、もうアップデートしようって気持ちにはなりますね。
この感じる力とかが正しく、その人の人生を進めていけるように、そういうやりとりができたらいいなって思います。
いいですね。
通知書とかってもうそういうもんかなと思って受け止めちゃってて。
だから今の話すごくよかったな。
いや、本来の本質からするとこういう感じじゃないよねってことになるっていうね。
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それこそ教育というものの、さっき言ってたモチーフとが題の話じゃないけど、教育ってもののモチベーションとか動機とか、そういうところに掘り下げていくと、きっとその子の一人一人の人生の背中を押していくものだと思うから、
評価で振り分けていく発想ではないはずなんだよね、たぶん。
それを志して先生になった人たちも、最初はそっちのモチベーションでいたはずだから、やり方っていうところで、もっと表面的なやり方みたいなところで書き変わっちゃってるっていうか、くるっとなっちゃってるけど、
でもそこを整え直せば、きっともっとこの根本にあった動機みたいな、モチベーションみたいなところからもっと素直な流れが立ち現せるんじゃないかなって。
これなんか教育の話だけでちょっといけますね、結構ね。
話したくなっちゃうんですよね。
いや、ほんと。
ねー。
いやー、でも感じるってことがものすごい大事なのに、教育の中で受験から削ぎ落とされちゃって、だんだん感じれなくなっちゃってるんだなーってことを改めて感じさせてもらったなー。
ねー、大人だけっていうか、出来上がったこの社会だけの話じゃなくてね、ほんとに衰弱してしまうっていうところに改めて大事だなって思いますよね、なんかこう。
ねー、今だから取り戻していってる感覚だもんな、こういう感覚を。子供の頃にあったこれをね。
そうそうそうそう、そうね。
なんか僕、最近頻繁に美術館行くようになり始めたんですけれども、またちょっとそういう時期が来て、自分の中で。
で、改めて感じたんですけど、例えばそのゴッホの手紙とか読んでた時とか、さっきの近代絵画前回のやつ読んでた時とかも、毎回絵を検索するんですよ。
で、PCで見て便利じゃないですか。でも実際美術館に行くって足を運ぶじゃないですか。もうその時点でなんかなんですよねとかって思ったりしてて。
その感じることの、なんかもう準備が始まってるというか。
なんか当たり前だけどそんなこと感じたんですよ。
僕ある画家さんの絵見るのに4,5年かかったんですよ。
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展示会とかしてなくて個人像のもんなんで。4,5年かかって、もう初めて見れるってなった時とかって、もうその道中からしてもう心踊ってますからね。
それはそうでしょうね。
それは違いますよね。
モードがもうそこにスイッチが入ってね。
なんか準備もある。コンディションももちろんあるんだけども、その鍛えるっていうこともあるんだけどなんか準備もあるなぁと思って。
反響とか。なんかいろいろあるなぁと思ってね。
ちょっともう一個だけ別の話していいです?別じゃないんだけど。
昨日の夜中、毎日夜寝る前に歌手を読んでるんですけど、夜中この歌いいなぁと思った方があって。
それちょっと紹介していいですか?
はい、ぜひ。
あいずやいちさんっていう歌人がいるんですね。1881年に生まれているんで、ちょっと明治の歌人ですね。
その人のお弟子さん、吉野秀夫さんって方がいらっしゃって、この方の方も好きなんですけど、歌の解説を書いてくれててね。読んでるんですけれどもね。
ちょうど今週私法隆寺に行くんで、法隆寺の歌なんですよ。
法隆寺にある夢殿っていうところがあって、そこにクゼ観音っていうのがあるんですね。
そのクゼ観音を見たときの歌なんです。ちょっと読んでみますね。
天地に、我一人いて立つごとき、この淋しさを君は微笑む。
っていう歌なんですよ。
これはいい歌だなぁと思って。
じゅうさんはどんな風に受け取ったんですか?
これね、これまずちょっと天地に、歌の意味としてはね、その天地の間にってことなんですね。
天地の間に、我一人いて立つごとき、天地の間に自分一人しか立っていないかのようなこの淋しさをあなたは微笑んでおられる。
っていうことなんですね。
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でね、まずこれ、姿形がいいじゃないですか。
まず天地にって言わず、雨土にって、まずもういい、音もいい、みたいなことになってきて。
でね、これなんかその吉野秀夫さんが書いている解説中かね。
それを読むとね。
雨土に我一人いて立つごときは、むしろクゼ観音を這いすることによって誘発された寂しさである。
この厳しい寂しさは象そのものの持つものなるがゆえに、これを仰ぐ作者の寂しさとなったのである。
つまり我は一応作者自身には違いないが、ここの歌で言われている我一人立つごときの我っていうのは、一応作者自身には違いないが、また象そのものでもあるのだ。
っていうわけですね。
で、この夢殿のクゼ観音というのはどういう意味があるんですかね。
このクゼ観音っていうところにはどういう光景なんですか。
夢殿っていうのはなんかね、この六角形か八角形になっている建物で、聖徳太子がそこで瞑想してた場所なんですよ。
で、このクゼ観音っていうのは名の通り世を救う観音様なんですけれども、
これね、聖徳太子を寄せて作られている。この象自体は聖徳太子なんだっていう話があるんですよ。
で、この観音象って実はずっと秘物なんですよ。
お寺って秘物置いてますよね、いろんなものがね。
で、御開帳するタイミングが決められてたりとかすると思うんですけれども、このクゼ観音もずっと長年秘物だったんだけれども、
神楽天神とフェノロサっていう方が実はこれをオープンにしたんですよ。
すごい有名な人なんですけど、この話は。
もうすごかったみたいで、ずっと長年、いやこれを開けてはならないんですっていう扉だったわけ。
で、そこをいやこれはもう重要文化財なんだって言って、開けたっていうことになった。
これよく悪魔なんですよ。
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だからもうこれ開けてしまったら、もう聖徳太子さんが怒って雷は落ちるわ、いろんな災害が起きるからって言って、
そこにいたお坊さんたちはみんな逃げたって言うんですよ。
で、中には包帯が500メートルを超える包帯でぐるぐる巻きになっていた観音像があって、それをバーってめくっていって現れてきたんですよ。
だから金箔がまだ残ってるんですよ、ちょっと。
多くの仏像って、木造の仏像とかも本当は金が貼ったりするんですよ。
でももう剥がれちゃってて、今は単に木目しか見えないんですけど、このクゼ観音は金が貼られてたりすると。
そういうもんなんですね。
だからね、この寂しい微笑みっていうところをね、どういうふうに書いてるかっていうとね、作者、これは作者、愛知が自分で言ってるんですけどね。
この寂しい微笑みを作者の主観のせいにしていることが多い。
結局はそこへ行くであろうが、あの時の作者の頭の中には、やはり目の前に立ち現れた優厳な美術的表現、観音の慈悲心、聖徳太子の御一生、太子オーカーの悲しい運命、あるいはこの像の秘仏としての久しい伝来などが作装して、この一種の成立を手伝ったということを特にここで断っておきたいって書いてるんですよ。
この寂しいにはまあいろんなものが込められていると言っていると。
これちょっと今日読んでてもう一回思い出したのはね、やっぱりこの寂しいっていう思いも、この我っていう思いも、これはこのクゼ観音であり、
これクゼ観音の言葉を変えると聖徳太子でもあり、この歌を歌った藍津奈一でもあるということでもあるんですよね。
もう一つのものとしてなって歌が生まれてきている。
いいですね。
だから今日やったやつとかで言うと、見るっていうのは一つになっていくっていうことだけど、作るって時にも実は一つになってるっていうか、まあね、当たり前なんだけど。
ほんとだ。なんかさっきのね、悲しみを、その震えを取り出してそのまま扱うみたいなことと続ける感じがしますね、この寂しさ。
いい歌ですね。
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でもなんか、じゅんさんの語りがあってようやくたどり着いたって感じ。最初やっぱなんか、
そうですか。
なんかやっぱりシンプルじゃないですか。
確かに確かに。
シンプルなものだから、そこに畳み込まれたいくいものをこう、なんていうのかな、そこをやっぱ解きほぐしてくれる存在がいて、
そのシンプルさの中に畳み込まれているものをパラパラパラってこう開いてくれて、ああ、みたいな、ようやくその全体を受け取れたみたいな感覚があったので、なんか嬉しいです。
よかったです。
じゅんさんが紹介してくれて。
いやちょっと、美術館行きたくなりますね、ほんとね、こういうのね。
ぜひじっくり読みましょう。最低1分は読みましょう。
そうですね、なんかその。
行けるならどこまででも長く。
やってみたいな。
そんなところです。ありがとうございました。
ありがとうございました。
はい、ではまた。
またまた。
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