こんにちは。 こんにちは。
はい。今日はですね、亀井勝一郎さんの
大和古寺風物詩って本があるんですね。
それをやりたいと思ってます。
大和古寺風物詩。
奈良の古いお寺を巡った本ですね。
こういう奈良の古寺を巡った本ってたくさん出てるんだよね。
多分一番有名なのは、和筒寺哲郎っていう哲学者の方が書いた
古寺巡礼って本が岩波からも出てて、
この本が最も読まれてる気がする。
で、この本を発端に、こういう古寺巡礼っていうのが当時ブームになっていて、
いろんな方が文章を書くようになったの。
で、それに触発されて。
白須雅子さんとかも書いてるし。
で、あともっと近い時代になっても、千葉龍太郎さんが
街道を行くの中で奈良取り上げたりとか、
五木博之さんの百字巡礼とかね。
あと三浦潤と伊藤誠子がね、見物記書いたりとかね。
まあいろいろたくさん出てるんだよね。
やっぱりね、古寺とか仏像ファンってたくさんいらっしゃって。
で、僕も好きで読んでるんですけども、
やっぱりね、安倍勝一郎さんの本がいいですね。
めちゃくちゃいいです、この本。
僕は本当に自分のバイブルにしてるって言っても過言ではないぐらい影響を受けてます、なんかこれに。
もうちょっとそれよりもね、言い出したらたくさん本あるけれども、
でも10冊のうちに1冊入ってくるような感覚さえあるぐらい、この本第一の本でして。
もうなんか読んでると、なんかもうね、胸いっぱいになっちゃって、その一旦閉じるの、本を。
もうすごすぎて。
そう、っていう本ですね。
なんか自分としては、これが文章を書く人間としても、なんかちょっとやっぱり寄りどころにしているというか、原点のようにしたい本でもあって。
なんかいいんですよね、この亀井克一さんの文章が。
すごく非評価としての態度みたいなものが文体からにじみ出てて。
気になりますね。
結構こういうのって、やっぱり奈良のネオ寺見に行くときに、見に行く前とか後だったりとかに、やっぱこういう本って読まれるんだよね。
ある意味、美術品って言ってはいけないんだろうけど、美術品って言えると思ってはいて、
絵画を見て感動した。ないしは何も感じなかったとしても、でもあれは何だったんだろうかって思うときに、やっぱこういう本を読むと、
自分が思ってたことをすごく深いところまで言語化してくれてるとか、自分が気づいてないところでこんな意味が隠されてたのかってことに、やっぱり触れられる喜びがこういう本には詰まってるんですよね。
いいですよ、ほんと。
僕の好きな写真家の一人に、イリエ・タイケチさんって方がいらっしゃるんですよ。
さっき言った和辻哲郎の古事巡礼の本なんかには、今もうイリエ・タイケチさんの写真が差し込まれてるんですよ。
このイリエ・タイケチさんの写真すごいよくて、イリエ・タイケチさんは写真家になってずっと奈良の古物だったり古い寺だったりってことを撮ってるんだけれども、
なんでそういうふうになったかっていうと、亀井克烈一夫さんの今回のこの山徳寺風物詩っていう本を読んで、これに感動して、あの人、奈良の写真を撮るようになった人なんですよ。
一人の人生を決めちゃうぐらいものすごい影響力がある本なんですよ。
わかる。ほんとわかる。それぐらい力を感じます、この本は。
いいですよ。
楽しみ。なんか気になりますよ。
そうですよね。ちょっとじゃあ行きますか。
ちょっとその前に、この本が書かれた時代を確認しておきたいんですけどね。
この本はね、1943年に出てるかな。
だからまだ戦争中の時代ですね。
5年か10年かぐらいかけて亀井克烈一夫さんがこの奈良のお寺を回って、そこの随筆ってことを感じたことをまとめたっていう本なんですね。
亀井克烈一夫さんってね、1907年に生まれてるんですよ。
だから小林秀夫さんが1902年なんで、小林秀夫さんのちょっと後の方ですね。
で、同じく批評家の方なんですよ。
で、亀井克烈一夫さんの中で一番売れた本がこれだと思う。今回の代表作だと思う。
でもこの本以外に結構仏教的な本をたくさん書いてて。
今日もここで出てくるけれども、聖徳太子の話がまずやっぱり出てくるんですよ、分厚く。
聖徳太子は別途それだけで本になってるし、あと新蘭聖人を扱ったり。
新蘭聖人っていうのは聖徳太子をものすごく尊敬されてたんですよ。
その繋がりもあって新蘭聖人を書いたりとか。
そういう形でいろんな形でね、結構仏教の世界を描いてくれてる人なんですよ。
そういう意味でも僕やっぱり仏教に惹かれるところがあって、
亀井克烈一夫さんはすごい自分にとってはめちゃくちゃ大事な人なんですよね。
ということですね。
書かれた文章は1940、30年代から40年代前半に書かれた本なんで、
情景とか今と違うところあるんだけど、そんなの全く関係ないですね。
私もちょうどひっくつき前ですか、法隆寺行ってきましたし。
ちょっとその辺のことも踏まえながら、今日やっていけたらなと思っております。
そしたらね、まず最初ちょっと法隆寺から扱いたいなと思ってるんです。
この本は法隆寺と、それから法隆寺って近くに四つ他にも寺があって、
法隆寺の隣に忠偶寺っていうところがあるんですよ。
ちょっと離れたところに法隆寺っていうのもあって、
まずその三つがあるし、あとちょっと離れるけど、
奈良に薬師寺、東商大寺、東大寺、新薬師寺ってこれぐらい書かれているんですね。
結構なボリュームがまず法隆寺であると。
なのでまずちょっと法隆寺から読んでいきたいと思います。
これ最初法隆寺に宝蔵殿っていう、中に博物館的なところが建って、
そこで展示されてるんですよね。
その宝蔵殿での話、ちょっと読んでいきますね。
初めて古寺を巡ろうとしていた頃の自分には、かなり明らかな目的があった。
すなわち日本的教養を身につけたいという願いがあった。
長い間、芸術上の日本をないがしろにしていたことへの懺悔に似た気持ちもあって、
改めて美術史を読み、ギリシャ、ローマからレネサンスへかけての西洋美術とどう違うかということや、
仏像の様式の変化とか、そういうことに心を弄していたのである。
仏像は何よりもまず美術品であった。
そして必ず、ギリシャ彫刻と対比することによって、己の教養の量的増加をもくらんでいたのである。
私においては、日本への回帰、天神のプログラムの一つの教養の蓄積ということが加えられていた。
己の再生は、未知の、そして未だ帰り見ることのなかった古典の地で行われねばならなかった。
古美術に関する教養は、自分を救ってくれるであろうと。
だが、初めて見た諸々の古物は、教養を欲する古事記に見向きもしなかったということ。
これは、私の常に感謝して想起するところである。
美術品を鑑賞すべく出かけた私にとって、仏像は一挙にして、ただ仏であった。
半顔に開いた眼差しと深い微笑と慈悲の虚相は、一切を放下せよと言うただ一時のみを語っていたに過ぎなかったのである。
教養の蓄積という寂しい証言を一挙にして打ち砕くような強さを持って著律していた。
本来人間はことごとく仏像を持つはずだ。
名簿や材料にまみれようとも、むしろそれを縁として、本来具有する仏像を自覚することに一大事因がある。
何事も意形するなかれ、この深い秘儀に身を潜めた仏像は、私にとってもはや美術品でなく、礼拝の対象となった。
拝むということが、見るということなのだ。
っていう文章なんです。
伝わってきました?書いてあったこと。
7割ぐらいですか?
7割ぐらいですよね。
ちょっと言葉が難しかったりとか。
そうですよね、確かに確かに。
ちょっと字を読むとわかりやすいけど、朗読だけだとちょっと難しいかもしれない。
でも書かれてあることはね、多分感じ取ってくださってると思うんだけど、
この奈良の小寺を回ろうとした自分の目的は、教養を身につけたいというふうに思ったと。
長い間、西洋のギリシャとかローマとかルネサンスとかの西洋美術を学んできたから、
あれ、海外のことばっか学んでどうするんだと。
日本のことを学ばずしてどうするんだと思って、
あそこに立ち帰ろうじゃないかって思って見に行ったんだと。
だけども、そんな思いは見事に打ち砕くようになくなっていったんだっていうことが書いてある。
それは仏像はやっぱ美術品じゃないんだ。
美術品なんじゃなくて、礼拝の対象なんだって。
ここにおいては拝むということが見るということなんだっていうことになったと。
これが私が常に感謝して想起するところであると。
これが一番最初の衝撃的な体験だったわけです。
亀井さんにとって。
いいですよね。
これもうちょっと読んでいきましょうかね。
これちょっと違う章のところから持ってくるんですけどね。
初めて法隆寺に行った時の体験が一番強烈だったから別のところでも書いてくれていて。
この文章もいいんですよ。
法隆寺にあるくだら観音っていう像があるんですね。
法隆寺には2つ有名な像があって、
1つがくだら観音、もう1つがくぜ観音っていう2つの観音がある。
くぜ観音は後ほど触れるんだけれども、これは秘物なんですよね。
普段見ることができないんですよ。
今も年に2回ぐらい見れるんですけれども。
前、何かのラジオの時にぐるぐる巻きに包帯になってて。
開けてはいけなかったやつをフェノロサが何百年の時を経て開けてしまって、今見れるようになったっていう。
あの話ですね。あれは聖徳太子に見せられてあるっていう。
これちょっとまた後ほど扱うんですけど、それともう1個有名なのがくだら観音っていう。
くだらから送られてきた観音像なんですよ。
このくだら観音はいつでも見れるんですね。
その話が書いてある。
このくだら観音は法隆寺近道に置かれているんですけれども、
今は宝物殿に置かれてるんですよ。
亀井さんが言った1930年代後半はまだ宝物殿が建ってなくて近道にあったんですよ。
その近道でくだら観音を見た時の文章が書いてある。
ちょっと読んでみます。短いんですけどね。
くだら観音の前に立った刹那。
深淵をさまようような不思議な旋律が蘇ってくる。
このぐらいお堂の中に白煙が揺らめき立ち上って、
それがそのまま永遠に凝結したような姿に接する時、
我々は沈黙する以外にないのだ。
その白煙の揺らめきは、おそらく飛鳥人の苦悩の旋律であったろう。
美術研究のために大和を訪れるなどは末のことで、
仏像は拝みに行くものだと、その時初めてこの単純な理を悟った。
私は信仰厚い仏教徒ではない。
しかし呆然とたって、心の中ではつい拝んでしまうのである。
っていう文章なんですよ。
いい文章ですね。
法隆寺近道って暗いんですね。
今も見れます。
暗い。
その炎暗い中で、ずっと閃光を抱いていて、
白煙が揺らめき立ち上っていく姿が、
そこに見えてくるくだらかんの姿っていうものに息を呑んだと。
そこにね、神勝さんが苦悩の旋律を感じているんだということなんですよ。
すごい話なんだな。
これ、やっぱり、神勝さんって、
日本書紀とか、職日本書紀とか、
あとは白徳太子が書いた本とか、そういうのを読んでるんですよ。
そういうのを読まないと、当時の苦悩ってことがわからないし、
なんでそもそもこの法隆寺っていうのが、
こんな立派なものがあの時代に立ったのか、
そういうことを理解するためには、そのことを知らないと、
そのことに触れないといけないと。
結局、ちょうどそこ触れていくんですけれどもね。
そういうのもあって、
神勝さんは、くだらかんのを見て、苦悩の旋律を感じていると。
どうなんだろう、これ。
読んでなくても、感じるのかもしれない。
くだらかんのにあっては。
仏像って、あまりにも歳月を重ねすぎて、
剥がれ落ちたり、ひびが入ってたりするじゃないですか。
とも美しいし、尊く感じますよね。
苦悩を引き受けたような姿に見えてくるじゃないですか。
そんな当時の思いを知らなくてもね。
僕も仏像に魅了されているのって、そこなんですよね。
私は信仰厚い仏教徒ではない。
しかし呆然とたって、心の中ではつい拝んでしまうのである。
こうやって信仰心がない人も、何かを感じ取ってしまう。
考えさせられてしまう。
もっと言うと、信仰がないって安易に言えないんですけどね。
何かを感じてしまうってこと自体が、
信仰の現れだから、本当は。
僕らここまでね、感動して仏像を見ている人少ないんだと思うんだけども、
亀井さんは、これくらい仏像に感動している。
沈黙させられるっていう経験をしているってことが、文章から伝わってくるんですよね。
こういうのを読むと、僕らも仏像を見るときに、
何かちょっとこういう深さを持って、触れることができる気がしてくる。
私も感じました。
こういうふうに見たことがあっただろうかっていう。
それでね、さっきの法仏殿の文章に戻るんですけどね。
続きを読んでみますね。
この秋、大流寺へ行って、新たに完成した大法仏殿を拝観した。
混同の壁画は模写中であり、修理も始まると見えて、
堂内の書物は多く法仏殿に移され、その他の仏像とともにようやく整備・陳列された頃だった。
しかしこの法仏殿ほど、現代人の古仏に対する心理状態をあらわに示しているものはないように思われる。
そこにまず看守されたことは、そこにまず見て取れることは、仏と美術品との妥協であった。
美術品として鑑賞できるように、つまり博物館式に陳列してあるが、
同時に仏としての尊厳も無視し得ないと見えて、まさに仏として拝することのできるようにも並べられてある。
この妥協から実にぎこちない構想が生まれる。
例えば、くだら観音は、仕切った一室に、ただ一人安置されてある。
これ法仏館ね、法仏館今もそうなんですよ。
くだら観音って一室に安置されてるんですよ。
新しい天蓋と蓮台も作られた。
全ては厳しく装われ、花も捧げられてある。
この美仏の崇高を思う者は、これほど手を尽くして大切に保存されているのを当然だと思うだろう。
しかし、ほの暗い昆堂の内に著立して、白煙の燃え立ったまま結晶したようなあの時の面影は見られない。
昆堂の内部では何も手を加えられず、実に素っ気なく、諸仏の間に安置されてあった。
ただ一体、安置されるにしても、おそらく一切の装飾を去って、薄闇の中にすらりとたたしめるのが最もふさわしいであろうと私は考えていた。
かような構想はむろん難しい、特に法仏前のような場所ではなおさらである。
それにしても、今のこの祭り方は、あまりに人工的に過ぎはしないだろうか、とうとぶ気持ちはわかる。
しかしそれが露骨に無雑で、つまりは見てくれという、恣意的な要素が多分に含まれているようだ。
現在の法隆寺は、自己の伝統にうぬぼれて、何事にももったいをつけようとする浅ましい寺になっている。
その反面には、見物人におもねる偏屈な根性もみられる。
これは法隆寺を訪れるたびに、私のいつも感じる雰囲気だ、という意味です。
うーん。
伝わりました?
ううん。そして極端しました。
これでもね、難しい問題なんですよ。
じゃあ、そのまま法隆寺、下ら観音も、混同の中に置き続けると、どんどん朽ちてしまって、消えてしまうじゃないですか。
でもこれは何としても残さないといけない、というふうに思う気持ちがあって、こうやって法仏前に安置してるわけじゃないですか。
だから難しい問題なんですよ。難しいんだけれども、ただ残せばいいと思って、法仏前に置くのは違うだろうってことなんですよ。
やっぱりその葛藤を、実際にその葛藤を深く感じて、こういうことを考え尽くさないといけないんですよ、こういう仕事をされる方はね、本当は。
うーん。
何か考えさせられますね。
本当に。
僕ね、ちょっと違う話なんですけどね、僕好きな画家がいて、ある無名の画家なんですけど、そんな人、武術館とかでも展示されない人なんですけどね、
4,5年かけてようやく見させてもらえたんですけどね、個人で遺族の方が持っておられて、見せてもらうことができた。
お家にお邪魔させてもらって。でね、絵画ってね、やっぱり美術館で見るのが好きなんですよ。
あの空間で見れるっていうのがいいじゃないですか。
でね、なんですけどね、その家にお邪魔してね、そこで見たのはね、やっぱ格別でしたね。
もうね、本当に大事に保管されてる。
それがもう、誰もが見ても一目でわかる。
うん。
でやっぱり、絵画とか美術作品ってね、見るものじゃなくてね、本当はね、愛するものであるし、それと共に生きるものなんだと思うんですよ。
だからこの絵と、この遺族の方がね、どれだけ大事にして一緒に生きてきたかってことが伝わってきたんですよ。
もうこれに勝るものないなって思ってね。
だから美術館で見るのも実は博物館のようなものと同じ感じなのかもしれないってちょっと思ったんですよ。
これ近しい経験ね、日本画を見るときにも感じましたね。
村上玉藤っていう日本画を見たときにね、博物館で見るよりね、川端康成が愛したんですけどね、川端康成さんのね、和室に飾られてあるっていうときのね、そのね、和室に日本画が置かれてるっていうときの方がね、実にもう、たたずまいがいいっていうね。
ちょっと何でもかんでも博物館美術館じゃないんだなって感じな経験が僕にはあって。
それと同じ話なんだと思うんですよ。
人工的に露骨に、地理的にみたいな、そういうふうにおっしゃって、言ってましたもんね。
ちょっとこのときのね、博物館知らないから、あれですけど、博物館に置くとしたとしても、どうやって、あの当時、混同に置かれていたときのようなものを再現できるんだろうかって、そこに苦心してほしいですよね。
で、多少そういう苦心があるのかもしれない。
分からないが。
今、僕らは法隆寺で、このくだらかんのんを、その混同に置かれているっていうときのことをもう見れないんだけれども、法隆寺以外はね、たくさん、いまだに、博物館なんかあるところ少ないから、たくさん混同にありますからね。
ちょっとそういう思いでね、見れるといいですよね。
なんかいいですよね。仏像を見る深み、連れて行ってくれるような文章ですよね、これらね、ほんと。
全身体験って感じが。
いい言葉ですね。
なんかね、最初は掴みに行くっていうか、作能的に何か見に行く、絵に行く、絵を見るために行くんだけど、一見してただ仏であったみたいなところから、もうそれが全体性を帯びた全身の体験になってくる。
それが信仰ってことなのかな。
なんかそんなふうに見てみたいなって思いました。
ね、ほんとですね。
そしたらね、この話に関連してね、また別の文章なんですけどね、すごい文章があったんですよ。ちょっとそれ読んでみますね。
これね、空襲が激化しって始まるんだけど、この空襲って、上勝さん東京に住んでて、東京に空襲があるときだったと思うんですよ。
まだ戦時中のね。
うん。
読んでみます。
空襲が激化し、朝に夕に若都市が崩壊していった頃、ならも所詮はこの運命を免れまいと僕は堪忍していた。
夢殿や法隆寺や多くの故事が、爆撃の下にたちまち怪人とキス日は間近いと思われた。
戦いの終わった後、その廃墟に立ち、僅かに残った礎の上に、いかなる涙を注ぐであろうか。
そういう日に、何によって悲しみに耐えようか。
自分は悲歌の調べを装し、心の中であれこれと思い巡らしてさえ、なのであった。
国宝級の仏像の所詮は、久しい前から識者の間に要望されていた。
東大寺や薬師寺の本尊のごとき大仏は動かし縁にしても、クゼ観音やクダラ観音等は所詮可能であろう。
しかし僕は、仏像の所詮には反対を表明した。
災難が降りかかってくるからといって、所詮するような仏様が古来あったろうか。
災難に準ずるのが仏ではないか。歴史はそれを証明している。
仏像を単なる美術品と思い込むから、所詮などという迷い事が出るのであろう。
そう思ったので僕は反対したのである。
天平の東大寺は平野重平の陛下にかかってけなげにも焼けていった。
大仏も観音も魅力も豪華に身を投じた。
これが仏の運命というものではなかろうか。
何を惜しむ必要があろう。惜しむのは人の情であるが、仏は失うべき何者をも許せざるがゆえに仏なのだ。
って書いてあるんです。
これはすごいですね。すごい。
人間の執着そのものだっていうことですよね。
疎開とかこれを守らなければみたいな気持ちが運命に身を委ねる。
明け渡すみたいな。信仰そのものですよね。
災難に順次ろって。
本当にこの文章と出会うまで仏像を疎開した方がいいに決まってるって思ってたけど、こんな捉え方があるのかって本当にびっくりしたな。
いやー、すごいですね。
なんか、資生館みたいなところにも通じてくる気がしていて。
なんか、前に、すごい話しとれちゃうんですけど、話してもいいですか?
もちろん。
あれは何島だったかな。ジャワ島じゃなくて。
太平洋の真ん中にある島の出身の方とお会いしたときがあって、ちょうどお会いしたタイミングがその島の付近で大きな地震があって、
津波でその島のオークが流されたタイミングだったんですよ。
で、彼女に地震の話を聞いたときに、家族の安否みたいな話をしたときに、彼女は割と穏やかにほがらかに、何人かとまだ連絡がついてないのみたいな話をしてくれて、
私はさぞ青ざめた感じで、それはとても悲しいというか、I'm so sorryみたいな感じで話を聞いていたんですけど、
彼女の反応がすごく悲観的な感じではなくて、どこかで生きてるかもしれないし、そうじゃないかもしれないみたいな、
でも私たちは普段から自然と共に暮らしているから、自然の一部であるから、周りの木と一緒に流されればそれはそれだし、みたいな話をしてくれたんですよ。
そのときに、私は震災があったりとか、自然災害があったらいかに備えて、いかに生き延びるか、みたいなところにものすごく意識を向けているなっていうことに気づかされて、
彼女の態度は自然と共にあって、神のなさるままにというかして、自然と神はイコールのように感じたんですけど、流されれば流されるときだし、
それがものすごく伝わってきたんですよね、あり方というか。その感じを今の文章を聞きながら、ふっと思い出して、重なったんですよね。
いやー、たくましいですね。無情感というか。
でも別に悲観になってない。
いやー、なかなかできるもんじゃないですね。
つい、なんとかしようと手を尽くしたくなって。
なんか手を離していくだけなんですけどね。そこが難しいなって。
ついしがみついてしまう。
手を離して、手放してってなると、なんかすごい柔らかい感じがしてくるんだけど、なんかたくましいんだよね。力強いんだよね、なんかね。
ねー、ほんとに。
本当の強さを感じますね、なんかそういうの。
はい。