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#104 美に姿を与えるとは? / 小林秀雄「美を求める心」朗読解説その2
2026-04-25 16:51

#104 美に姿を与えるとは? / 小林秀雄「美を求める心」朗読解説その2

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今回は、小林秀雄さんの「美を求める心」という講演録になります。

よい美、芸術入門の本になります。
入門でもあり、本質でもあるため、
芸術を観る時も、芸術をつくる時も、この本に立ち返りたい思いがします。

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サマリー

本エピソードでは、小林秀雄の「美を求める心」を朗読・解説する。言葉には意味だけでなく「姿」があり、感動を言葉で固定化し「姿」を与えることが芸術の本質であると論じる。特に、詩人は自身の悲しみを客観的に見定め、言葉で表現することで、聴く者に共感と静かな感動を与える。美の本質は抽象的な議論ではなく、個々人の具体的な美の経験にあり、その感受性を養うことの重要性を説いている。

言葉の「姿」と感動の固定化
ちょっと続き読みましょうかね。 言葉には意味もあるが姿形というものもあるということをよく心に留めてください。
言葉の姿といっても目に見える活字の格好ではない。 諸君の心に直に映ずる姿です。
この歌の姿ということは、古くから日本の歌人が歌には一番大切なものと考えてきたものです。
西洋では詩の法務といい、この法務という言葉は今日形式と訳されて使われておりますが、法務という西洋でも古い言葉は日本にも古くからある姿という形で表す方がよほど良い訳なのです。
それはともかく姿の良い人があるように姿の良い歌がある。 歌人の歌の言葉は真っ白な雪の降った富士の山のような美しい姿をしているのです。
だから赤人は富士を見た時の感動を言葉に移した、あるいは言葉にしたというよりも、そういう感動に言葉によって姿を与えたといった方が良いのです。
感動というものは、読んで字のごとく感情が動いている状態です。動いているが、やはり静まり消えてしまうものです。
そういう強いが不安定な感動を言葉を使って整えて固定した動かぬ姿にしたといった方が良いのです。
固定化したものが結局、言葉とは言葉のことを言ったんですか?
そうなんです。
山辺の赤人って言って、タゴの裏に打ち入れてみれば白絶えに、富士の高峰に雪は降り切るって100人称に載ってるやつあるじゃないですか。最初の方に。
あれの赤人のことを言っててね。だから赤人は富士を見た時の感動を言葉に表した、あるいは言葉にしたというよりも、そういう感動に言葉によって姿を与えたといった方が良いのです。
なるほど。
感動というのは消えていってしまうけれども、その感情が動いたものを強いものを感動と言うんだけれども、それを何とかして固定化して動かぬ姿を与えたと言っていると。
なるほど。富士そのものじゃなくてね。そこによって動いたその感動をキャラクターにしたような絵が浮かんだんですけど、そういう姿。
姿与えるってそういうことですよね。
そうなんですよ。
歌詞とか文学はちょっとここではわかりにくくて、だって言葉にならないものを言葉で姿を与えてるから、本当はその言葉にならないものを絵とか音楽とかに姿を表すの方がまだわかりやすいように。
ちょっと歌はわかりにくいように言葉に超えているものを言葉で姿を与えてるから。
二重の感じがするけれども、でもそれによって浮き彫りになってくる。言葉だからこそ浮き彫りになってくるみたいなものもあるのかもしれないなと思いつつ。
ちょっと僕の理解ですけれども、やっぱりそのイメージなんですよ。その歌を読んだ時にイメージが浮かんでくるじゃないですか。
っていうこのイメージのことだと思うんです。姿って言ってるのは。
もちろん姿って姿にも多分いろんな次元があって、僕がさっき話したようにパッと見て文字の形からして文体からして、この人なんかあるって感じるとかっていうのもあるんだけれども、なんか読んでた時に浮かんでくる。
そう、だからさっき言ってた諸君の心に直に映ずる姿ですって言ってるかな。イメージのことだと思うんですよね。
もうちょっと続きを読むとね。
私たちの感動というものは、自ら外に現れたり叫びとなって現れたりします。そして感動は消えてしまうものです。
詩人の悲しみと芸術的表現
だがどんなに美しいものを見た時の感動も、そういうふうに自然に外に現れるのでは美しくはないでしょう。
そういう時の人の表情は醜く見えるかもしれないしまた滑稽に見えるかもしれない。
そういう時の叫び声にしても決して美しいものではありません。
例えば諸君は悲しければ泣くでしょう。
でもあんまりおかしい時でも涙が出るでしょう。
涙は歌ではないし、泣いていては歌はできない。
悲しみの歌を作る詩人は自分の悲しみをよく見定める人です。
悲しいと言ってただ泣く人ではない。
自分の悲しみに溺れず負けずこれを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えて見せる人です。
詩人は自分の悲しみを言葉で誇張して見せるのでもなければ飾り立てて見せるのでもない。
一輪の花に美しい姿があるように放っておけば消えてしまう。
取るに足らぬ小さな自分の悲しみにもこれを粗末に扱わずはっきり見定めれば美しい姿のあることを知っている人です。
悲しみの歌は詩人が心の目で見た悲しみの姿なのです。
これを読んで感動する人はまるで自分の悲しみを歌ってもらったような気持ちになるでしょう。
悲しい気持ちに誘われるでしょうが、もうその悲しみは普段の生活の中で悲しみ、心が乱れ、涙流し、苦しい思いをする、その悲しみとは違うでしょう。
悲しみの安らかな静かな姿を感じるでしょう。
そして詩人はどういうふうに悲しみに打ち勝つかを学転するでしょう。
いいですね。
いいですね。
ただ泣くだけだったら歌にはならないでしょう。
詩人たちっていうのは悲しみを歌を作るときに自分の悲しみをよく見定める人です。
悲しいと言ってただ泣く人ではない。自分の悲しみに溺れず負けず、これを見定め、これをはっきりと感じ、これを言葉の姿に整えてみせる人です。
うん。
なんかその、悲しみ本体が持っている震えみたいなものを、その震えが震えのままに取り出してみんなの中に置いて、
その震えが、生物の震えがそのままに取り出せるからこそ、それを見た他の人が共振して共鳴して、
なんていうのかな、その人の悲しみを言えるみたいな。
なんかその、その震えを変えたりとかいじくったりとかしないで、この震えをそのままにみんなの真ん中に置ける人が芸術の仕事なのかなとか、
なんかそんな風に浮かび、そんな映像が浮かびました。
うん。
なんかそれを見た人の悲しみが、もう本人の元の悲しみ、なんていうのかな、その人のうちにある時の悲しみとは違うものとして言えるみたいな、
なんかそんな言い回しなかったですか、さっき。
うん。ありましたよね。
ね、なんか、ああそうだよなーってすごい思いながら。
そうだよなー。
なんか、俺見た時やっぱ前回近代絵画で扱ったボードレールの言葉をちょっと思い出すんですよ。
詩人が自分のうちに批評家を造していないということは不可能だってこと言っていて、言ってるじゃないですか。
詩人の中には批評家がいるんだと。
その批評家ってことはやっぱ物の本質を見定めることなんだと思うんですよ。
だから悲しみを見定めないといけないから、ということが批評家の役割なんだと思うんですよね。
だから詩人たちはその悲しい経験をして、悲しいって言葉を歌には書かないんですよ。
悲しいから悲しいって歌にはならないんですよ、やっぱり。
悲しいと言わずして、その悲しみの奥のことを書いていく、立っていくってことをやってる人たちだから。
やっぱ見定めてるんですね。
なるほどね。
批評家っていうと断定してジャッジというか見定めるんだけれども、
それを悲しいと見定めて悲しいと言ってしまったら終わっちゃうっていうか、そこでは役割を果たさなくて、
生物の状態で悲しいって言葉を使わずに、
生物の状態を表現するっていうか、そこにあるのかなって。
見定めるっていうとこう、
確かに確かに。
断定するとか定義するとか、
それイコール、このフレーズは悲しいだねって、
そこに断定しちゃいがちというか、そういうイメージが湧くんだけれども、
そのさらに一歩先なのか手前なのかわかんないですけど、一歩奥のことをするんだなとか。
そうですよね。
これだから、自分が作品作っていくときに、
まだこれちょっと作品ならないなっていう感覚あると思うんですよね。
芸術家ってね。
僕ですらちょっとわかりますもん、やっぱり。
美の経験と感受性の重要性
もうちょっと熟す期間がいるっていうか。
もちろんすぐできることもあるんでしょうけどもね。
ちょっと続き読んでいきましょうか。
美を求める心という大きな課題に対して私は小さいことばかりお話ししているようですが、
私は美の問題は美とは何かというような面倒な議論の問題ではなく、
私たちのめいめいの小さなはっきりした美しさの経験が根本だと考えているからです。
美しいと思うことは、物の美しい姿を感じることです。
美を求める心とは物の美しい姿を求める心です。
って言うんですね。
ここいいなと思って。
私は小さいことばかりお話ししているのですが、
私は美の問題は美とは何かというような面倒な議論の問題ではなく、
私たちめいめいの小さなはっきりした美しさの経験が根本だと考えているからです。
いいですよね。
いいですね。
美とは何かと語りだしちゃうとそれは二次的な話になっちゃって、
この美しさの経験というのは一理というかね。
そうなんですよね。
本当そうだよなって。
ちょっと続けてみましょうかね。
そういう姿を感じる能力は誰にでも備わるものではありません。
やはりそういう姿を求める心は誰にでもあるのです。
ただこの能力が私たちにとってどんなに貴重な能力であるか、
またこの能力は養い、育てようとしなければ衰弱してしまうことを知っている人は少ないのです。
今日のように知識や学問が普及し尊重されるようになると、
人々は物を感じる能力の方法を知らず知らずのうちにおろそかにするようになるのです。
物の性質を知ろうとするようになるのです。
物の性質を知ろうとする知識や学問の道は、物の姿を言わば壊す生き方をするからです。
例えばある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、
目しべはどんな構造をしているか、色素は何々かというように物を部分に分けて要素に分けていくやり方ですが、
花の姿の美しさを感じるときには、私たちはいつも花全体を一目で感じるのです。
だから感じることは優しいことだと思い込んでしまうのです。
って言うんですね。
本当そうかもしれないですね。
本当その通りですよね。
わかりやすいですね。
英語話良さ。
こういう能力って使わないと衰弱してしまうんですね。
もうなんでだろう。わかった気になっちゃうからかな。
なんか知ってる、もうそれ知ってる、もうわかったみたいな感じで。
やっぱどんな力も確かに、使わなかったら多少は衰えていきますよね。
まあでも経験してるから、全く経験してない人と比べると全然違うけれども。
また何かやっていくとすぐ看護取り戻したりとかあるんでしょうけどもね。
でもなんかこう社会全体というか、近代っていうのがやっぱりその、
この知識や学問とかそっちに比重を置きすぎてしまったというか、
なんかそれの方がすごいみたいな。
なんかそういうところもある気がしますよね。
そうですよね。
感じることがお座りになってるというか。
ビジネスの現場もね、やっぱり感じるより考えるってことになってくるから、
こういうでも感じるっていうことを取り戻すために、
芸術に触れていくってことが本当はもっと必要になってきているとも言えるんですけどね。
うん。
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