今回は、アンリ・ベルクソンの主著「道徳と宗教の二源泉」。
いまだ止むことない戦争の時代に、真の道徳はどのように生まれてくるのか。
今の時代だからこそ、平和への道筋を見出すために、本書は読み継がれなければならないように思います。
平和な社会をつくるために、道徳論を一緒に深めていきたいと思います。
サマリー
このエピソードでは、ベルクソンの著書『道徳と宗教の二源泉』に基づき、道徳と宗教の根源に関する考察が行われています。前田秀樹先生によって広められた彼の哲学と授業スタイルについても詳しく紹介されています。また、道徳の本質とその源泉についてが考察され、特にカントの理性主義に対する批判を通じて、倫理的義務の履行における理性の限界と道徳の根源に迫ります。さらに、自然進化に基づく道徳と個人から生まれる高度な道徳の違いについて議論され、他者との協力や共同体を守る本能から形成される道徳が平和な社会の構築には限界があることが触れられています。模範となる個人の重要性も強調されています。道徳の根源として開かれた魂と閉じた魂の概念が探求され、感動が道徳を生むわけではないとし、真の道徳は人類愛に基づくものであることが強調されています。道徳の源泉に関する深い考察が展開され、愛や人間の開かれた魂の重要性についても語られています。
ベルクソンの紹介
- こんにちは。- こんにちはー。
- じゃあ今日は、詩人、どんな本を持ってきてくれますか。- 今日はですね。
- ベルクソン。道徳と宗教の二源泉。
- ついに。純さんがこの本を深く読んでいると噂は伺ってましたが。
- 何回もね、話してましたもんね。そうなんですよ。
- ついにこのタイミングで、どういう心向きだったんですか。
- この本自体は、中田さんにはプライベートで話してるけれども、
僕自体は前田秀樹先生っていう、本当に日本にベルクソンの哲学を広めた第一人者って言ってもいいと思うんですけど、
の授業を受けて、今1年半ぐらい経ったんですね。
で、ようやく第一章の終わりかけぐらいまで来ていて、
一旦第一章の部分で言語化してみたいなと思いまして。
- いいね。今、第一章しかつらえないですけどね。
- その今聞いてる人はたぶんポカーンってなったと思いますけどね、1年半ぐらいかけて、第一章がやっと終わるみたいな。
- それはちょっと補足していただくと変わった。
- そうなんですよ。僕も究極的な授業の形だと思ってまして、あの授業の形が。
中田さんにも話したけど、90分の授業の中で、1音1句読んでくださるんですよね、前田秀樹先生が。
読んでくれるんだけれども、そこで解説を入れてくれるわけなんです。
で、その行間とかに込められている解説が充実しすぎて、毎回90分で2ページぐらいしか進まないんですよ。
っていう授業なんですね。
- すごいよね。
- こんな贅沢な授業ないし、これぐらいベルクソン哲学を生きた人なんですよ、前田秀樹先生って。
僕が出会った中で本当に、あとは主体な哲学をなしてくれてた高橋和夫先生もそういう授業スタイルだったんですよ。
高橋和夫先生はもう亡くなりになっちゃったから受けられない、受けてたんですけどね、もう受けられなくなっちゃってあれなんですけど、前田秀樹先生は今おん年いくらなんだろうね、70代ぐらいだと思うんですよ。
だからまだもうちょっと多分やってくださると思ってて、もう生きてる間にこの伝説的な行為を着てるっていうことに本当にもうね、大きな喜びをかみしめて僕は毎回この授業を受けてます。
授業の体験
- すごいね。
それ開かれた授業なの?
開かれた授業。
誰でも受けられるから、本当に受けたらいいと思う。
- これ聞いてもし興味持った人は受けられるんですね?
受けられる。
- あーいいですね。
僕なんでベルクソン読んでるのって言われたら、もう前田秀樹先生に出会ったからなんですよ、もう。
- 先そっちなんですか?
一応2021年か2年ぐらいの時に、朝日カルチャーセンターってあるんですよ、歴史が結構長い。
で、あそこの哲学とかの講座を一通り受けようと思って、他にもちょっと余裕があったんで、バーっていろんなの受けてたんですよ、講義を。
で、だんだんね、つまんなくなってくるんですよ。
で、やっぱりようやく、基本ようやく的な入門の授業ってそういう感じなんですよ、パワポでうまくまとめられてみたいな。
それだともう面白くなくなってきて、やっぱり自分の何かと深く共鳴する本であり、ようやくではなく、その世界に深く入っていくような授業じゃないと、これはもう合わないなってことに、
改めて気づいていき、で、残ったのが、今はもうこれだけなんですよ。高橋さんの授業と前田彦先生の授業だったんですけど、今はもうこれだけになってしまって、
で、そのやっぱり授業の衝撃みたいなものがすごくて、
自分の何と共鳴してるのかは、いまだにちょっと言葉にしにくいんだけど、でも確実にあって、
でもなんか、前田彦先生のやっぱ、授業とかあの先生のなんかこの姿勢みたいなものにやっぱり惹かれて、
自然と飲まれていったね。
そうか。
それを経由でビルクソンという人への興味も、
より深まっていった感じなんですか?それ以前からですか?
いや、どうなんすか。そんなのでも浅い好奇心でしたけどね。
前田彦先生はやっぱり日本人の中で、良きビルクソン読者は、もうこの人に限るって言ってて、誰かっていうと小林秀夫だって言ってたんですよ。
えー。
小林秀夫さんの講義の中でも、ビルクソンについて語ってくれてる講義とかもあったりして、
その意味ではビルクソンに興味はもちろんあったんですけれども、
まあまあその程度の話で、
このビルクソン哲学のやっぱり神髄とか魅力に、やっぱり触れられたのはもう前田彦先生のおかげですね。
そうなんだ。
本当に。
大切な一冊じゃないですか。毎回そうですけど。
そうなんですよ。
ねえ。
ずっと気になってたわ。なんかじゅんさんのカレンダーが見れるじゃないですか。今一緒に働いてるから。
だからビルクソン入ってますね。
2週間1回で。
2週間1回夜にね。
今日授業なんだなと思って。
そうだね。
出たかな。
うん。
すごい気になる。
中田さんが好きなクキ修造さんとビルクソンってとても親しかったんですよね。
出てきますよね、クキさんの本とか、そういうの読んでると。
日記とか出てくる。
しかもビルクソンって裁判員龍町とかになって、
もう本当に人と会わないし、会う人限定してたんですけれども、
その中でも唯一日本人で招かれてたのがクキ修造さんだったんですよ。
あ、そうなんだ。
すごい。だからビルクソンからもすごく尊敬されてたんだと思う、クキ修造って。
もともとクキ修造さんはパリに留学して、パリ大学かどっかの大学でビルクソンが講師をしてて、そこで出会ってるんですよ。
なんだけども、ビルクソンも先生の立場だったけれども、クキ修造のすごく哲学的素質とか東洋的な考えみたいなところに、
何かやっぱりこう、いい哲学対話の相手として何かそういう関係性が生まれてきたんだと思うなぁ。
なんかたまらないですね、その辺のね、国を超えた繋がりも含めた。
しかもビルクソンってノーベル文学賞を取ってるんですけど、
そうなんですか。
文学作品を作ってないんですよ。哲学論文を書いていって、それがノーベル文学賞として。
そんなことがあるんですか。
そんなことがあるんですよ。
珍しいですよね、たぶん。
珍しい。
あんま聞かない?
っていうくらい、ビルクソンの哲学の論文ってすごいんですよ。
ちょっと違うんだ、その文学的何かがあるってことを。
今めちゃくちゃ主張的なことを自分でも言ってるんだけど。
そう。
でもちょっとこの内容に触れていくと、
それに触れられる?
わかってくる気がする。
なるほどと。
楽しみだなぁ。
ね。
でね、ビルクソン自体は1859年に生まれてるから19世紀半ば。
1941年に亡くなってるんで。
何年前ですか?80年前ぐらいですか?
道徳と宗教の関係
ぐらいに亡くなった方で。
で、主著、メインの本が、代表作が4つあるって言われてるんですよ。
30歳の時に書いた、意識の直接予見に関する資論っていうものと、
7年後に、37歳の時に物質と記憶っていう本を書き、
それを何か聞いたことある。
さらに11年後、48歳の時に、想像的進化っていう本を書きて、
で、25年後の、何年か前に、
で、25年後の73歳の時に、教を扱う道徳と宗教の二元戦っていう本を書いたと。
晩年なんですね、それは。
晩年なんですよ。
だから、最後の主著なんですよね。
あ、そうなんですね。
でね、この4つの主著に関して、前田秀樹先生がこういうこと言ってるんですよ。
これちょっと前田秀樹先生の、ベルクソンの本なんですけど、
ベルクソン哲学の優位言っていう本が出てるんですよ。
横断した学芸文法から。
で、その第一章のところにこんなこと書いてるんですね。
ベルクソンを読むといつも感じるが、この四冊は彼の生涯を貫いて流れた四つの学章でなるシンフォニーそのものである。
彼ほど、その試作の曲説と書かれたものの展開等を見事に一致させて生き抜いた人はいない。
それは、試作することへの彼自身の激しく強固な意志、頼むことない努力がはっきりと操作させたのであって、四冊の展開にはどんな偶然も気まぐれも入り込む余地がない。
というふうに言ってるんです。
で、この四つはバラバラの本のように思えるんだが、関して流れているシンフォニーがあると。
かつ偶然が入り込む余地がないぐらい、何か強固な流れというか。
そうなんですよ。
気まぐらに書き連ねできたみたいなものじゃないってことなんですかね。
そうなんですよ。そうなんですよ。
やっぱり彼の人生のモチーフみたいなものが、人生のテーマみたいなものがあり、コンテアではそれが連ながって、このバラバラのように見える四つの書があるんだと。
なんか今の一節だけでももうその本読みたくなっちゃいましたね。
素晴らしい文章でしたよね。
ワクワクしちゃいましたね。
何回も言うけど本当に前田秀樹先生本当にすごいよ。本当にすごいっすよ。
これもうベルクソンが乗り移ってるんじゃないかなって思えちゃうくらい。
本当ですか。ジューンさんとして伝わってきますわ。お会いしたことないけど。すごいな。
いやそれでね、このベルクソン哲学の優言という前田秀樹先生の本の中にはね、ベルクソンってその4冊以外にあと3冊。
そうだよ、笑いとか。
4冊の詩書と2冊の論文集、それに笑い、持続と同時性の2冊を刊行した。
でまぁこれら7冊、ベルクソンがね優位本を残してて、自分が世の人に読んでもらいたいと思ってる本は結局この7冊に尽きるんだと言ってるんですよ。
で、自分がこれまで書いてきたようなこととか話してきたようなことは一切禁ずると。自分の志望。
おー、たとえば講演、わかんない、講演集とかそういうことを?
そうそうそうそう。
主張じゃないものの作品を残すのは禁ずると。
そう。
それぐらい、この7冊に自分のすべてを込めたから。
はぁ。
実際そのあと出版されてるんですけどね。
されちゃってんだ。
されちゃってるんですけどね。
あーそうなんだ。
でもよくも悪くもなんですけどそこは。
まあそうだよね。
両面あってもちろん。
でもそれを言い切れるところにまずなんかすごく大事な面白さがあるね。
そうなんですよ。で、その最後の主張が道徳と宗教の二元戦だから。
そうだよね。重要度が。
重要度が。そこにすべて流れ込んでると言ってもいいんじゃないかと思えちゃうぐらい本が詰まってるわけですよ。
そういうことなんですね。そういう立ち位置の一冊なんですね。
そういう立ち位置なんですよ。
ますます楽しみですね。
じゃあ内容入っていきますね。
いきましょう。
まずこの本、どう読してもね、ちょっと難しすぎるんですよ。
そうっすよね。
難しすぎる。だからちょっと僕が、ちょっとずつ読んでいきたいんですけど、僕のほうで今日は解説するほうが多いと思います。
ありがたいありがたい。
でも僕の解説というか、僕は前田秀樹先生の受け売りだから、これに関しては。っていう感じなんですけど、ちょっと話していきますね。
お願いします。
まずこれタイトル、道徳と宗教の二元戦なんですよね。
タイトルの通りで、道徳と宗教っていうのは、それぞれね、二つの元戦を持ってるんだってことなんですよ。
それぞれ異なる二つの元戦を持ってるってこと?同じ二つの元戦を持ってるってこと?
ちょっとね、これ第一章がね、まだね、道徳しか扱ってないんですよ。
そうか。
だから僕は宗教の元戦わかってないんだけど、でももう察することができて、察するに同じ元戦から来てるんですよ。
へー。
っていうのも、道徳と宗教をそもそもね、演技上分けてるだけであって、同じなんですよ。
うーん。
あ、そういう本なんだ。そういう。
そう。
例えばさ、
キリスト教の聖書の中で、三条の説教があって、貧しい者は幸いであるとか、
ああいう話っていうのは、道徳でもあり宗教でもあるんですよ。
うん。
あー。
そういう宗教の中で語られる、僧話とかあるじゃないですか。
そこにその道徳的なものがあるってこと?
うんうん。
まあまあ。
で。
うん。
それでね。
その、
道徳の定義とカント批判
その2つの厳選があるっていうことに関して、これまでそういう話を誰も言ってきてない。
うんうん。
道徳っていうのは主に哲学者が扱って、宗教っていうのは信学者だったり、宗教者だったりの人が本当は扱ってるんだけれども、
誰もこのことに触れてきてないと。
うん。
だから自分は語らねばならないというわけなんですね。
うん。
で、ベルクソンの前の道徳っていうのはどういうものだったかっていうと、主にやっぱりカントの影響とかが大きいと。
うーん。
うん。
で、カントの実践理性批判とか、そういうものとかに書かれてると思うんですけど、
カントの独特論の考え方って、ちょっとどう捉えるかあるんですけれども、
いわゆる主知主義って言っていて、その知性、まあもうちょっと言うと理性かな。
理性というものが人間の本質なのであり、
考えるということ、この理性そのものが人間にとって最高のものであるっていう。
うん。
っていう考えなんですね。
うん。
人間っていうのは理性的な存在で、だからこそ自分でこういう道徳法則みたいなものを立てて、
それに従う能力を人間自体は自律的な存在として持ってるんだと。
うん。
うん。
っていう人間観なんですね。
うん。
でも、なんかそれはわかりますよね。そうそうそうだなって。
うんうんうんうん。
でね、えっと、
例えば、なぜ人のものを盗んではいけないのかとか、
なぜ人を殺してはいけないのかっていうことに、たとえば子供に言われると、
なんて答えるかって言うとね、
うんうん。
いや、ダメだからダメなんですよみたいな感じになって、
なかなか難問なんですよ、こういうクエスチョンに対して答えるのって。
うん。
うん。
で、ほとんど説明されてないわけ。
確かに。
うん。
確かに確かに。
で、法律とかもさ、なんでダメかまで書いてないっすよね。
殺人したらこういう経緯になりますみたいなことが書いてあるだけで刑法にも。
確かにね。
うん。
なぜそれがそこに載ってるのかは書いてないか。
そう。
法になっているのかってこと。
うん。
うんうんうん。
で、こういう素朴な問いに対して、やっぱりカントみたいな人だと、
人間の、そういう自律的な理性こそが人間の本質なのに、
それを殺してしまうと、それ自体を否定する行為になってしまうと。
うん。
理性という、理性が人間の最高のものなんだから、
理性あるものを守ることが最高の証なんですよということで、
多分そういう説明とかされるんだと思うんですよ。
うん。
いろんな説明があっていいと思うんですけれども、
例えばイギリスの公理主義みたいな考え方とかだと、
ベンサムって最大多数の最大幸福ってことを言っていて、
殺人がすると幸福の総量減るからダメだよね、みたいなこととかね。
いろんなことを、いろんな形で説明が大人をするんだけれども、
ベルクソンはね、それらは全部理屈とか理論をね、
後から持って正当化してるだけで、そうじゃねえんだって否定するんですよ。
おお。
面白いね。
そう。
徹底的にカント批判が入ってくるんですよ。
そうなんですね。
そうなんです。
これは前田英樹先生言ってるけど、カント個人を批判したいんじゃなくて、
カントの哲学があまりにも影響を社会に及ぼしているから、
ちょっとそれは大事なんだが抜け落ちてることがあるっていうことを、
ベルクソンは補足したいんですよ、やっぱり社会に対して。
だからカントの哲学をあえて批判的な立場になって、
より事の本質みたいなものに迫ろうとしてるわけなんです。
義務と道徳的衝動
うーん。
でね、ベルクソンはそれを否定するわけなんですけれども、
実際、道徳って理屈じゃないんですよ、確かに。
ほうほうほう。
例えばですよ、バレなきゃいいじゃないですか、みたいなこととか。
盗んだりしてもとか。
そう、殺したりしてもとか。
誰かにバレなきゃばせられないでしょ、みたいなこととか。
っていう話に入ってくるとややこしくなってくると思うんですよ。
カラマザフの兄弟で扱ったイワンとかスメルジャコフみたいなものっていうのは、
神がいなければ全て許されるみたいな話でしたけれども、
あれは神がいないからもうバレない。
そして人間にも誰にもバレないとばせられない。
許されるじゃん、みたいなことになってくると、これややこしくなってくるんですよ。
そういう人たちにね、そういうイワンとかスメルジャコフみたいな人たちに、
どう答えていくかって大事な話だと思うんですよ。
どうやって対話していくか。
カントだったらね、何言ってんだお前と。
それは人間を冒涜し侮辱する行為だぞと。
結局人間が人間たる意味や価値っていうものを、
お前は自ら否定してんだみたいなね、みたいなことを言っても、
いくら言っても普段に言ってんだみたいな感じで返すんだと思うんですよ。
そういうイワンとかスメルジャコフみたいな人たちに対してね。
だから、ベルクソンは主義主義みたいな考え方とか、
理屈とか理性では、もうそういう人たちの暴走を止められないだろうって、
いうことを言ってるんですね。
理性の判断で道徳的な振る舞いをするっていうのはないんだって。
そうじゃないんだって。
世の人は道徳の厳選っていうものは人間の理性から来てると思ってる。
そこじゃねえんだって。
原理はそこじゃねえってこと言うんですよ。
文字面だけ聞くと納得しちゃいそうな感じですよね。
道徳の厳選が理性から来てると。
うんうん、みたいなね。
そう。
うんうん、うんうん。
そうじゃねえと。
そうなんですよ。
もちろんです。
もう俺ここすごい興奮したところなんですけど。
1章それ。
1章。
1章が120ページまであって。
その104ページ目。
はいはいはい。
お願いします。
道徳の厳選は、あるいはその基礎さえも厳選だ。
うん。
道徳の厳選は、あるいはその基礎さえもが純粋理性の中にある。
という結論は出てこないだろう。
これはいいね。さっき言ったことだね。
うん。
重要問題は、自分の義務を果たすためには、
自分の成り行きに任せておくだけでは決して十分ではないというような場合には、
なぜ我々は義務づけられるか、その理由を知ることである。
って言うんですね。
これちょっと日本語が難しいですね。
ねえ。
聞いてるだけだと今オンってなったよ。
読んでもよくわかんないってことになっちゃうんだけど。
重要問題は、自分の義務を果たすためには、
自分の成り行きに任せて、これ自分の成り行きに任せてって言ってんのは、
理性のままにってことなんだと言ってたんですよ。
理性のままにしておくだけでは、十分ではない場合があるんです。
ほうほうほう。
理性のままにしておくだけでは自分の義務を果たすのに十分じゃないケースがあるんじゃないかってこと?
ほうほうほう。
でも、そういう場合でも、それでもなおなぜ我々は義務づけられるのか。
これ何が言いたいかって言うとね。
うん。
例えば身内が殺されるとするじゃないですか。
はい。
そうするとね、もう理屈もヘチマムもないわけですよ。
うん。
その時に湧き起こる復讐心みたいなものって、もう抑えようがないんですよ。
うん。
それでもなお、自分をね、義務づける、復讐するということを思いとどまらせるものがあるんだとしたら、それは何なんだ?って。
ほうほうほう。
ここを掴みたいんですよ。
いや、それはもう復讐して当然だってもちろんなるんだけど、でもそうすると、憎しみが憎しみを生む連鎖が止まらないだけで、どっかでそれを思いとどまるみたいなことがないといけない場面もあり、
そういう復讐して当然な場面でも、それを思いとどまるだけの道徳みたいなものがあるとしたら、それは果たしてどこから来るものなんだ?
うんうんうん。
それを見つけることが人間にとって重要なんではないんだろうか、みたいなことが言いたいんですよ。
はいはいはいはい。
理性みたいなものがあるし、失われるケースとして仮定してるから、それを取っ払ってんのに、そういうふうに自分をある種、義務づける何かがあるんじゃない?それなんだ?と。
そうそうそうそう。
面白いね。それを、さらにそれを理性って呼んでる人もいそうだよね。
そうだねそうだね。
それすら人間の理性であるみたいな、復讐の連鎖のことに思いを馳せたりとか、ではないって言ってるってことなんですね、ベルクソンが。
そうなんですよ。
ここまで話を整理すると、道徳の厳選っていうのはどこなのか、それは理性ではないということです。理性ではないんだとしたらどこなのかって、こういうベルクソンの見解を見ていきたいんですけど、
もう一つは、極限状態に置かれたときに、真に人間を道徳的にとどまらせるものって何なのか。
同じこと言ってるんですけど、結局それが厳選、ある厳選から来てるから、同じことなんだけど、っていうところから、ちょっとこの二つの厳選見ていきますね。
はいはいはい。それが二つの厳選ってことなんだ。似たようなこと言ってるけど。
そうそう、だからその問いは、今の問いは同じですよ。
同じ問いで。
同じ問いです。結局、厳選から来ると、人間を真に道徳的に測りかけてくれる厳選があるんだってこと言ってるんですよね、これ。
二つあるんだってこと言ってる。
そうですね。
閉じた道徳と開かれた道徳
そうなんですよ。で、これ二つあるんだけど、一つ目が閉じた道徳。閉じた道徳って言われてるんですよ。で、二つ目が開かれた道徳っていうふうに呼ばれていて、結局この真に人間を道徳的にさせるものっていうのは、この開かれた道徳なんです。
で、まず、この閉じた道徳っていうところ、まずちょっとそこから入っていきたいんですね。
はいはい。
で、実はこれ二つ言ってるんだけども、この二つって、現実の世にはあまり境がなく、混合してるようになってるんですって。
へー、くっきり、分かりやすく分かれてないぞって。
分かれてない。
この世界では。
この二つはごちゃ混ぜになっていて、で、でもレイクソンはそこに質的な差異を見出していくっていうことをしようとしてるんです。
なるほど。分けていこうとするんですね、それは。
分けていこうと。
で、じゃあ一つ目の厳選は何かっていうと、それは生物が地上に出現した時から来てるんだっていうことを言ってるんですね。
ちょっと待ってね。
閉じた道徳と開かれた道徳は、これ二厳選とまた違う厳選の話じゃないことだったんですね、だから。
うんうんうん。
まあそうね。
道徳の種類を分けてるってことね。
そうそうそうそう。その厳選、それぞれの厳選、一つの厳選からは閉じた道徳として出てきて、もう一つの厳選からは開かれた道徳がそこから出てきていると。
はいはいはい。すいませんね、ここね。
いいえ、いいえ。
で、今一つ目のところでユウさんが言ってくれてたのが、ちょっとごめんなさい、もう一回聞きたい。
一つ目の厳選。
そう、生物っていうものが地上に出現した時から来てると。
なんかね、ベルクソンって世の中には生命と物質というものが二つあって、生命というものが物質の中に入り込んでいって生物となるんだっていう。
面白いね。
細胞分裂するかのごとく物質が分かれていき、生物が誕生するんだってことを言ってるんですよ。
ここからダーウィンの進化論みたいな話もあり、生物学がちゃんと進歩していった時代を経由してるんですね、ベルクソンの話って。
道徳の進化的起源
カントン時代って、そういう自然科学がまだそこまで発達してなかったから、そういう観点が抜けてたんですけど、ベルクソンは自然科学の発展を受け止めて、この今、語ろうとしてくれてるんですね。
動物っていろいろ分散していって、脊椎動物というものが生まれてくるじゃないですか。脊椎動物っていうのは、この知性が過剰に発達した生き物なんですよ。
脊椎からバーって伸びていって、人間の脳がついているという脊椎動物。この脊椎動物って、集団とか共同体を持たないと生きてはいけないんです。
人間もそうだしね。
だから、そうなると、ああしてはいけない、こうしてはいけないみたいなものが生まれてきて、道徳的なものが生まれてくるんです。
これはもう人間の本能なんですよ。人間は一人でいると危ないから、集団で助け合って生きていこう、というのが、人間の本能なんですよ。
で、そうなると集団を守るということが、共同体を守るということが大事になってくるから、この共同体にあるルールを置かないと、この共同体自体を守れなくなってくるから、そういうふうに自然と生きるんですよ。
そうなると集団を守るということが共同体を守るということが大事になってくるからこの共同体にあるルールを置かないとこの共同体自体を守れなくなってくるからそういうふうに自然と本能にも似た形の道徳というものが生まれてくると
これはもはや習慣と化した道徳なんです
へー面白いねここまでだけでもね
道徳ってさなんか社会ができてその後にその社会みたいなものの養成の中で生まれてきたり
押し付けられてきたようなものってイメージも僕の中に最初あったけどさ道徳って
こうしなさいとかさ
社会的な養成なんかでももっともっと生物的な本能に根差したものじゃないかってこと言ってるからね
そういうことなんですよ
67ページのところを読むとね
要するに以上のことをすべて要約して
自然は進化の流れに沿って人類を設置するにあたって
アリや蜂の社会を欲したのと同じように
人類が社交的であることを欲したと
うんうんうんですね
この
生物の進化にあたってアリや蜂っていうのも社会を欲した
って言うんですけどアリや蜂っていうのも
あれすごいじゃないですかあの巣を作る
すごいすごい
本能みたいなものってすごいじゃないですか
あれは自然というものが
与えた何かなんですよ
それと同じような形で
人類には
こういう社交的である
みんなで一緒に社会を共同体を作って
生きていこうとする本能が与えられてるんだっていうことを言ってるんですね
なるほどね
それ分かりやすいねアリや蜂と同じだって言われちゃえば
なぜかこうしてしまう人間がっていうこと
そうなんですよ
蜂もそうじゃんって
うん
っていう自然が人間に与えた人間社会に与えた
自己防衛集団防衛社会防衛としての規律があるだろうと
これがまず道徳の第一の厳選なんだ
話をしたんです
生物進化の過程で
自然に生まれてきたもの
慣習的に存在している
防衛的なものとして道徳があると
なるほどね
始まりも始まりじゃないですか
完全な道徳の探求
始まりも始まりじゃない
本当に遡ったところなんだね
そうそう
哲学史の中で道徳を重要視したのってやっぱり18世紀関東でね
関東の説明だと神から与えられた理性の光みたいなものがあり
啓蒙主義の時代やっぱり人間の理性という光があるわけですよ
その光に照らされると何が正しいかが分かるんだと
なるほど
でもそうやって19世紀の生物進化論を経験してきてないから
そういう発想になってるんだけども
それを通過してきたペルクソンっていうのは
いやいやそういう理性っていうものではないんだと
生物進化の途上で生まれてきた行動能力なんですよと
すごいねそこ対比すると本当その時代の空気を
めちゃくちゃ色濃く反映してるの感じますね
そう
だから別の学問の流れもすごく色濃く合流しながら
ペルクソンさんの思考の中に流れ込んでる感じがすごい感じ取れて面白い
そうなんですよ
どうも前田英樹先生の話を聞いてると
やっぱり哲学っていうものが
ペルクソンは哲学が嫌いなんだってもともと言ってくれてて
理屈ばっかりで考えて
実際の自分たちの生きることに何も即してないと
っていうような批判を向けてるみたいなんですよ
ペルクソン哲学っていうのは本当に実務として
生きることに直結するものとしてもっと考えないといけないだろうみたいな
そういうものを前田英樹先生からビシバシ伝わってきます
非常の議論をしてるだけじゃなくて
もっと実生活と
ちょっと面白いねそれもね
ここからもう一つの厳選に入っていきたいんですけどね
さっきの一つ目の厳選
生物進化論から来ているっていう
惰性の習慣の道徳っていうものは
惰性に惰性を重ねてしまっているもんなんですよ
生まれた時からそういう国のルールとか
っていうことになってるから
そうだよね当たり前すぎて
そこにさ疑ってないじゃん理性を疑ってない
問いが立たないよね
だから確かに理性から来てないんですよこれ
所有のルールとして与えられて
我々はもう今生きてるから
確かに理性から来てない
習慣から来ているこの道徳論は
これってある共同体を守るためのルールだから
他の共同体他の国他の社会と敵対しちゃうんですね
うんうんうん
国際連合を作っても戦争はなくならないじゃないですか
科学の発展で
一瞬で殺しちゃうみたいなところまで来ちゃってるわけじゃないですか
だから結局この一つ目の
この閉じた道徳では
平和な社会は作れないんだってことを言ってるんですよ
うん
じゃあどうするかって言ったらもう一つの厳選があるんだ
っていうことをここから入っていくんですね
ほうほうほう
でね
ここからの話は誤解が生まれないように
なんとか話していきたいんだけれども
もう一つの厳選はどっから来てるかっていうと
明確な個人から来てるって言うんですよ
お?
明確な個人
ある特権的な個人から来てるってことを言うんですよ
ほうほうほう
うん
それちょっとそこの部分読んでみますね
はい
41ページぐらいなんですけど
いつの時代にもこの完全な道徳の言下
完全な道徳っていうのはこれだから
今から説明するもう一つの真の道徳のことなんですよ
人類は
キリスト教の聖者たち以前に
ギリシャの賢者たちや
イスラエルの預言者たちや
仏教のアラカンたちや
さらにその他の人々を知った
人々がこの完全な
むしろ絶対的と言った方が一層適切だろうか
人々がこの完全な
道徳性を得るために決まって改装したのは
彼らのことである
って言うんですね
はいはい
だから
ある個人ある特権的な個人って言ったのは今上がってたように
釈迦だったりイエスだったりソクラテスだったり
孔子だったり前田秀樹先生はね
聖徳太子もそうだったんじゃないかとか言ってましたけどね
そういう人たちから来てるんだ
って言うんですね
面白いね
もうちょっとだけ読みますとね
なぜ聖者たちはこのように
模倣者を持ち
模倣者っていうのは真似ようとする
誰からも憧れてみたいな
なぜ聖者たちはこのように模倣者を持ち
なぜ偉大な前人たちはその背後に
群衆を従えたのであろうか
彼らは何一つ要求しない
しかも獲得する
彼らはいすすめる必要はない
彼らは存在しているだけで良い
彼らの存在が一つの呼びかけである
なぜならばこの別種の道徳の性格は
全くこのようなものだからである
自然的責務が圧力
もしくは推力であるのに反して
完全無欠な道徳はある呼びかけである
って言うんですね
推力っていう
要求するような力じゃなくて
呼びかけなんだって
そうそうそうそう
さっきの一つ目の閉じた道徳っていうのは
そういう
圧力もしくは推力
こうしなさい
っていうものがあるんだけれども
もう一つの開かれた道徳っていうのは呼びかけなんだって
呼び寄せられていくんだ逆に
エネルギーの向きが違う感じ
どういうかどうなんだろう
呼びかけすごいね
そういう人たちがね
行動で示したものっていうのはね
人々を感動させるんだって言うんですよ
それは
なんかそうだよね
ずっとしてるよね
ずっと語り継がれてるってそういうことだもんね
そういうことなんだと思うんですよ
もう必ずあるを得ない
こんな人こんなもう人間じゃないみたいな
なんか語られざるを得ないじゃないですか
感動してそうせざるを得ないような
エモシオンってこれフランス語で
エモシオンって言うんですけど
エモシオンっていうのは情動のこと
エモーションの近いのかな
この情動魂の振動みたいなものが
ブワーって
その炎が広がっていくかのごとく
魂から魂に情動が感動が
伝播していくんだっていう
いうことを言ってるんですよ
うん
でも実際起きてることとはあるかも確かに
否定できないというか
キリスト教では愛とかね
仏教でいうと慈悲みたいなものとかね
そういう熱情が
ブワーって激しい振動となって
魂から魂にバーって広がっていったと
それがだんだんだんだん
道徳の相互影響
さっきの第一の道徳閉じた道徳に
染み込んでいく
ですね
本能のね
もともとの習慣的なとこから来る道徳
どういうことなんだろうね
そうそう
混ざっていくって言ったのは
例えば
隣人愛的なね
困ってる人がいたら助けましょう
みたいなことは
本当はそれ
第一のように感じてるかもしれないんだけど
第二のところから来てるんですよ
確かに分かちがたく混ざり合ってる
確かに本能がなくてキリストだけ存在してても
もしかしたらわからなかったし
逆も然りだし
両方本然一体となっていて当たり前のように
困った人がいたら助けましょう
人を殺さない
人を殺したら自分も復讐で
自分も損するからだもんね
とかじゃない
もっと違うところから来てるものがあるだろう
人を殺すのを拒む何かあるでしょって
あなたの中に
それは第二の原先開かれた道徳として
実は流れ込んできてるんですよ
自分では気付いてないけれども
流れ流れて今日まで生き残って
それが私たちの中に流れ込んでるんですよ
っていう風に言うわけ
この原先が
一個人ってのが面白いね
一個人とかって言っちゃうとね
僕らはさ
聖人たちじゃないからさ
僕らには第一の原先ないんですね
みたいなことじゃないんですよ
僕が誤解してほしくないって言ってるのはそこの部分で
生まれ持った才能として
じゃあもう違うんだとかっていうことではなくて
おそらくベルクソンが言いたいのは
人間として持ってる
本当の意味での愛とか
本当の意味での道徳みたいなものは
本当はあるんですよ
それを見事に開花させた人間たちがいると
見事に体現してくれた人たちがいると
っていうのがイエスだったり
釈迦だったりっていうことを言ってくれてるんですよ
その感動から
流れて流れて
今の私たちにも来てるんだっていう
例えば僕とか中田さんが
この文学ラジオで
運命のことみそみ扱って
松永先生の態度に
感動と道徳の関係
何か少し感動しているものとかがあったりするじゃん
っていうのがあって
感動しているものとかがあったりするじゃないですか
みたいなこととかも
第1のじゃなくて第2の厳選的な
感じに近い気がするんですよ
きっと
さっきのエモシヨンみたいなやつ
そうだよね
だからそうなると
エモシヨンそれを感じる共鳴する
そこに感動をする
自分っていうのもいるってことだもんね
だから
エモシヨンは
どこから生まれるんだろうみたいなことも気になってくるね
それが第2のことなのかな
要は個々人が呼びかけられるってことは
呼びかける側も
もちろん突出してるけど
そういう側にも何かがないと
共鳴しないわけですよね
それはみんな持ってるんじゃないかって話
面白いね
その共鳴する何かは何なんだろうね
それが第1の厳選なのかな
そこに感動を覚える自分ってどこから来るんだろうな
みたいなこととか
でもベルクソンでそういう
本当に人間が備わっている理性ではない
感情とか
冷静みたいなものとか
そういう感情とか冷静みたいなものとかに
そこにちゃんとフォーカスを当ててあげてるんだと思うんですよね
それが魂でしょみたいな感じ
これ
僕も前田伊貴先生に質問したんですけど
この
例えば日本だとさ
オウム心理教とかがあって
そういうものにも
人々は感動してしまって
突きしたがってしまうみたいなケースもあるじゃないですか
うん
ってなったら
あくまで
感動の側面から見ると
誤った道徳になっていく
可能性があるわけなんですよね
だから感動こそが
この大の開かれた道徳を生んでるわけではないんです
うん
うん
道徳の厳選をたどっていった時に
そういう聖人たちにたどり着きますね
ってことを言ってくれていて
感動が厳選ではないんですよ
みたいなことを言ってくれたんですよ
伝わってます?今
魂の開かれた状態
なんとなく
うん
そう思うとそうなんですよね
自分が何に感動するかみたいなこととか
は
なんだろうな
難しいね
実際オウムの人に感動したのかどうかって
そこ自体もう一回通ってもいい気もしますけどね
ドキュメンタリー見てると
感動したって感じではない感じもしたから
うん
厳選をたどっていくとそういう聖人のような人に
たどり着いてそこには確かに感動的なものが起きてるんだけど
別に起きてる感動すべてが
それが道徳的かっていうとそっちはわかんないよね
そうそうそうそういうことなんですよ
うん
ですそれでね
この
閉じた道徳と開かれた道徳っていうのは
それぞれ
閉じた魂と開かれた魂から来ている
説明もするんですね
で俺らって
全然違うものなんですって話を
してくれるんですけれども
僕がすごく興味深いなと思ったのは
家族愛とか祖国愛とか
そういう話を上げてくれてるんですね
うん
で
えっと
世の人は
愛というものを
例えば家族愛という狭い範囲から始まっていき
祖国愛まで広がっていき
さらに人類愛みたいなものまで広がっていくと
こういう風に
何かこの愛が成熟していくように
思ってるでしょうと
でもそれは違うんだってこと言うんですね
ちょっと読んでみますよ
繰り返して言うが
第一の状態から第二の状態に
移るのは
第一の状態って言ってるのは
閉じた魂
第二の状態っていうのは開かれた魂のことなんですけど
開かれた魂は
人類愛のことなんですけど
第一から第二の状態に移るのは
自己の拡張によってではない
って言うんですね
こうしたちょっと飛ばしますけれども
こうした心理学は
家族愛祖国愛人類愛という3つの傾向を
次第に拡張して次第により
多数の人を包含するようになる
同一感情とみなすだろうと
そうじゃないんだってこと言うんですね
ちょっと飛ばして意識は一見して
最初の2感情と第3の感情との間に
質的差異を認める
最初の2感情って言ってるのは家族愛祖国愛のこと
家族愛祖国愛と人類愛との間に
質的差異を見出さねばならないと
前者は
選択を従って配層を
含んでいる
逃走をすそのかすことがあり
憎悪を知りどけはしない
後者はただ愛だけである
ってこと言うんですね
前者は自分が引きつけられる対象に
着座しようと直進する
後者は自分の対象の魅力に
屈服しないしその対象を目指したわけでもなく
もっと遠くまで飛躍し
そして人類にはそれを通り越すことによってしか到達しない
って言うんですね
これちょっと話すと
結局家族愛祖国愛っていうのは
どっかで壁を作ってる
敷居を作ってるんですよ
枠を作ってるんですよ
そうだよねだからそれが攻撃されたら
国同士も来てるし
それと人類愛って言ってるのは
そもそもそこにはもう壁がないから
そういう意味で全然違うんだってこと言ってる
んですね
今のところ魂のこうした態度はむしろ
一つの運動であって自己重則的である
自己重則的っていうのは対象に依存しない
この人だから愛そうとか
っていう対象に依存しない
もうそれ自身で自立しているんです
それ自身で重則している
開かれた魂っていうのはそういうあり方なんだ
自身で重則
後の道徳の形成
確かに対象はまずあるようでないよね
人類愛って
あるようでないっていうか
それ自身で重則するんだそれによって
それが面白いな
だから
真に世界平和をもたらすものっていうのは
第2の開かれた魂の方から来る
開かれた独特なんだっていうことを
言ってるんですね
うん
それでこれあの面白いことに
カラマー族の兄弟の話とかちょくちょく出てくるんですよ
うーん
っていうか本の中では
なんかね鍵カッコしてセリフが出てくるだけで
それがどこの引用とか誰の言葉とかも何もないんですよ
うん
だからどっなんかこれは引っ張ってきたことなのか何なのかもさえもわからないんだけれども
それがどこの引用とか誰の言葉とかも何もないんですよ
なんか前田秀樹先生が解説してくれて
いやこれは実はカラマー族の兄弟のイワンのセリフなんですよみたいな
へー
これとかが出てくるんですよ
うーん
つながってんだ
なんかそういうなんだろうなぁ
ニヒリズムっていうのかなぁ
イワンみたいな感じとか
うーん
とか世にはびこっている利己主義みたいなものとか
みたいなこととかニヒリズムっていうのは
やっぱり理屈では超えられない
どうしても
究極的にやっぱ超えるのは開かれた愛の浄土だろうと
うーん
これがドステフスキーが扱いたかった主題なんじゃないか
みたいなことを
話してくださってたんですけど
うーん
なんかね
あれなんだよなぁ
イワンと亜量者が話す場面で
大新聞館の場面は使ったと思うんですけれども
これまでのアジアのところでもね
あそこでどこまで話したか記憶がないんですが
イワンが
イワンは子供たちが虐待にあったりして
そういう悲劇を
の上に
幸福みたいなものが成り立っているのであれば
それはもう幸福ではないだろうと
みたいなことの対話があったと思うんですよ
うんうんうん
あの時にアレクセイがサンナーアレクセイが
ものすごく熱を込めて
言うわけですよそうなんですよ兄さんみたいな
なんか
アレクセイの振る舞いっていうのは
開かれた道徳から来てる熱情がであると
うーん
座島長老とかもあれもそうだと
やっぱああいうものは
随所にこの開かれた
道徳の熱情みたいなものが入っていると
ベルクソンはそれに酷されて書いてるんだと思う
みたいなことを言ってくれてて
イメージとしては
ああいう感じなんだと思うんですよね
ああいう
有料車みたいな振る舞いとかってやっぱこう
僕みたいな人間からしたら
どっからそんな
なんだろうね考えとか
家族を守るとかさ
そういう愛は分かりやすい
自分の大切な人だからとか
確かにだからどっから来るんだろうってシンプルに
思うなぁと思ってて
なんかそれがまさにこのベルクソンさんが言ってる
厳選の問いと
まあそんな交渉のものじゃないけど素朴なところで
言うとそういう
なんかねこのエモシオンっていうのはね
想像を生むんだってことを言うんですよ
想像イマジネーションの方の想像
クリエイションの方の
そうそうクリエイションの方の
想像を生むし飛躍を生むんだってことを言うんですよ
うーん
飛躍ってのがさっき言った質的な
映像映画映像っていうのが
これ56ページのところに書いてあるのも
想像は何よりまず情動を意味する
このことは単に文学や芸術に関してだけではない
科学的発見が集中と努力を含んでいることは
集中の通りであるって言うんですね
実は科学
科学的発見が集中と努力を含んでいることは
集中の通りであるって言うんですね
だから実は科学
科学的発見も文学も芸術も
その生まれてくるクリエイション
っていうのは
情動から来てるんだって
エモシオンがエモシオンなんだって
このエモシオンこそが
想像や飛躍を生んでるんだっていうことを言ってるんですね
だから道徳もそうなんだって
うーん
だからどうやったら
ああいうアレクセイみたいな
人を教育できるか
言うと感動させることなんですよって
言うことになるんだと思うんですよ
その人に感動を与えるんですよって
うーん
感動を与えるって厳密には感動を与えようと思って与えられるものではないから
自分自身が感動するってことなんですよね
自分自身が感動すれば自ずと
それが伝播していく人がいるだろうと
それが結果感動を与えるということなんだと思いますね
なるほどね
うーん
そうか道徳も一種のクリエイションというか
想像だっていうことだよね今の話
その感動を与えるんですよ
その感動は今の過去の成人たち
っていうのは
その感動を与えるっていうのは
その人がどこかで
クリエイションを見るっていうことが
綿々と続いてるでしょ
っていうことなんですかね
そういうこと
別に
晴天とかに立ち戻らなくてもいいんだと思うんですよ
立ち戻ってもいいと思いますよ
書かれた言葉を読んで
自分の内側を破って
燃え上がってくる特権的な魂みたいなものが
目覚めてくるっていうことがあると思うから
そうやって今までたぶん来てきたと思うし
キリスト教の成人たちっていうのもそうやって生まれてきている気もするし
でも
身近な人でもいいんだとは思うんですよ
おそらく
その人が
晴天を仮に読んでなかったとしても
その人に流れ込んできているもの
っていうものは
おそらく成人たちが体現したことと
同質のものが流れ込んできているから
面白いな
ちょっと興味本位だけどさ
そういうふうに二元性を整理してますと
道徳の源泉に関する考察
それを受けて前田先生とかの勉強会では
そこまでは一旦前提いいじゃないですか
そういうふうにベルクさんは言ってると
ここからどういう問いが生まれたりするんですか
これはね
読む読者に託されてるんですよ
僕ら一人一人に
前田英樹先生は
毎回淡々とこのベルクさんの言葉を読み
それに補足するかのように
言葉を語ってくれて
だからもう第一章これ一年半
ずっと同じこと言ってるみたいなもんなんですよ
なるほどね
だから僕なんかも読んでいくと
その二つの厳選分かりました
だから何なのみたいな感じになると
僕みたいなね
問いたくなっちゃうというかね
そういう気持ちはあるような
うんうんうん
でもそこは触れないで淡々と
ベルクさんの言っていることに
肉付けしたり命を与えていったりしていくってことを
やられてるんですね
でもベルクさんの本の中にも
第一章だからちょっとね
まだそこまで出てないんだけども
結局伝えたかったメッセージみたいなものは入っているんだと思う
それを前田英樹先生からも
ちょっと感じてます
感じる甲斐があります
僕なりにそれを引き受けて
言えるのは
人間というものは
大地の閉じた道徳で閉じるようなものではないんだ
っていうことなんだと思うんですよ
開かれた魂っていうものが人間にはあるんだと
うんうん
あなた自身がたとえ小さい範囲であったとしても
その第二の厳選のような存在であってほしいと
うーん
そういう人間の持つ愛
真に持ってる愛みたいなものに
その愛を伝えたらいいなと思うんですよ
うん
それはじゃあまた読み進めて
まだこの先のお楽しみですね
そうですね
だからやっぱりね
いいんだと思う
こういうねカラマウソクの兄弟読んだりとか
なんかそういう感動する本を読むってことはね
見えないけれども自分たちの
この真の開かれた魂とか道徳性みたいなものを
養ってくれてるんだと思うんですよ
うん
うん
本当にそうかもね
今なんか純粋にお年をくれてました?
いやそれででも
ちょっと話変わるんですけど
発達理論を結構日清に
学んでた時があり
それで大学院アメリカの大学院行こうとしてた時期もあるんですよ
はい
発達理論の中には
道徳性の発達理論っていうのもあるんですよ
うーん
僕先にそっちを知っていたから
そっちとベルクソンの話ってどう違うんだろうみたいなこととかを
結構意識して最初の頃読んでたんですよね
ほうほうほうほう
面白い
その話をすると道徳の捉え方の深みが増すかなと思って
ちょっとその話もしてみたいなと思って
いいですね
いいですよちょっと話していて
もちろんもちろん
01:09:12
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