- すごいね。
それ開かれた授業なの?
開かれた授業。
誰でも受けられるから、本当に受けたらいいと思う。
- これ聞いてもし興味持った人は受けられるんですね?
受けられる。
- あーいいですね。
僕なんでベルクソン読んでるのって言われたら、もう前田秀樹先生に出会ったからなんですよ、もう。
- 先そっちなんですか?
一応2021年か2年ぐらいの時に、朝日カルチャーセンターってあるんですよ、歴史が結構長い。
で、あそこの哲学とかの講座を一通り受けようと思って、他にもちょっと余裕があったんで、バーっていろんなの受けてたんですよ、講義を。
で、だんだんね、つまんなくなってくるんですよ。
で、やっぱりようやく、基本ようやく的な入門の授業ってそういう感じなんですよ、パワポでうまくまとめられてみたいな。
それだともう面白くなくなってきて、やっぱり自分の何かと深く共鳴する本であり、ようやくではなく、その世界に深く入っていくような授業じゃないと、これはもう合わないなってことに、
改めて気づいていき、で、残ったのが、今はもうこれだけなんですよ。高橋さんの授業と前田彦先生の授業だったんですけど、今はもうこれだけになってしまって、
で、そのやっぱり授業の衝撃みたいなものがすごくて、
自分の何と共鳴してるのかは、いまだにちょっと言葉にしにくいんだけど、でも確実にあって、
でもなんか、前田彦先生のやっぱ、授業とかあの先生のなんかこの姿勢みたいなものにやっぱり惹かれて、
自然と飲まれていったね。
そうか。
それを経由でビルクソンという人への興味も、
より深まっていった感じなんですか?それ以前からですか?
いや、どうなんすか。そんなのでも浅い好奇心でしたけどね。
前田彦先生はやっぱり日本人の中で、良きビルクソン読者は、もうこの人に限るって言ってて、誰かっていうと小林秀夫だって言ってたんですよ。
えー。
小林秀夫さんの講義の中でも、ビルクソンについて語ってくれてる講義とかもあったりして、
その意味ではビルクソンに興味はもちろんあったんですけれども、
まあまあその程度の話で、
このビルクソン哲学のやっぱり神髄とか魅力に、やっぱり触れられたのはもう前田彦先生のおかげですね。
そうなんだ。
本当に。
大切な一冊じゃないですか。毎回そうですけど。
そうなんですよ。
ねえ。
ずっと気になってたわ。なんかじゅんさんのカレンダーが見れるじゃないですか。今一緒に働いてるから。
だからビルクソン入ってますね。
2週間1回で。
2週間1回夜にね。
今日授業なんだなと思って。
そうだね。
出たかな。
うん。
すごい気になる。
中田さんが好きなクキ修造さんとビルクソンってとても親しかったんですよね。
出てきますよね、クキさんの本とか、そういうの読んでると。
日記とか出てくる。
しかもビルクソンって裁判員龍町とかになって、
もう本当に人と会わないし、会う人限定してたんですけれども、
その中でも唯一日本人で招かれてたのがクキ修造さんだったんですよ。
あ、そうなんだ。
すごい。だからビルクソンからもすごく尊敬されてたんだと思う、クキ修造って。
もともとクキ修造さんはパリに留学して、パリ大学かどっかの大学でビルクソンが講師をしてて、そこで出会ってるんですよ。
なんだけども、ビルクソンも先生の立場だったけれども、クキ修造のすごく哲学的素質とか東洋的な考えみたいなところに、
何かやっぱりこう、いい哲学対話の相手として何かそういう関係性が生まれてきたんだと思うなぁ。
なんかたまらないですね、その辺のね、国を超えた繋がりも含めた。
しかもビルクソンってノーベル文学賞を取ってるんですけど、
そうなんですか。
文学作品を作ってないんですよ。哲学論文を書いていって、それがノーベル文学賞として。
そんなことがあるんですか。
そんなことがあるんですよ。
珍しいですよね、たぶん。
珍しい。
あんま聞かない?
っていうくらい、ビルクソンの哲学の論文ってすごいんですよ。
ちょっと違うんだ、その文学的何かがあるってことを。
今めちゃくちゃ主張的なことを自分でも言ってるんだけど。
そう。
でもちょっとこの内容に触れていくと、
それに触れられる?
わかってくる気がする。
なるほどと。
楽しみだなぁ。
ね。
でね、ビルクソン自体は1859年に生まれてるから19世紀半ば。
1941年に亡くなってるんで。
何年前ですか?80年前ぐらいですか?
ぐらいに亡くなった方で。
で、主著、メインの本が、代表作が4つあるって言われてるんですよ。
30歳の時に書いた、意識の直接予見に関する資論っていうものと、
7年後に、37歳の時に物質と記憶っていう本を書き、
それを何か聞いたことある。
さらに11年後、48歳の時に、想像的進化っていう本を書きて、
で、25年後の、何年か前に、
で、25年後の73歳の時に、教を扱う道徳と宗教の二元戦っていう本を書いたと。
晩年なんですね、それは。
晩年なんですよ。
だから、最後の主著なんですよね。
あ、そうなんですね。
でね、この4つの主著に関して、前田秀樹先生がこういうこと言ってるんですよ。
これちょっと前田秀樹先生の、ベルクソンの本なんですけど、
ベルクソン哲学の優位言っていう本が出てるんですよ。
横断した学芸文法から。
で、その第一章のところにこんなこと書いてるんですね。
ベルクソンを読むといつも感じるが、この四冊は彼の生涯を貫いて流れた四つの学章でなるシンフォニーそのものである。
彼ほど、その試作の曲説と書かれたものの展開等を見事に一致させて生き抜いた人はいない。
それは、試作することへの彼自身の激しく強固な意志、頼むことない努力がはっきりと操作させたのであって、四冊の展開にはどんな偶然も気まぐれも入り込む余地がない。
というふうに言ってるんです。
で、この四つはバラバラの本のように思えるんだが、関して流れているシンフォニーがあると。
かつ偶然が入り込む余地がないぐらい、何か強固な流れというか。
そうなんですよ。
気まぐらに書き連ねできたみたいなものじゃないってことなんですかね。
そうなんですよ。そうなんですよ。
やっぱり彼の人生のモチーフみたいなものが、人生のテーマみたいなものがあり、コンテアではそれが連ながって、このバラバラのように見える四つの書があるんだと。
なんか今の一節だけでももうその本読みたくなっちゃいましたね。
素晴らしい文章でしたよね。
ワクワクしちゃいましたね。
何回も言うけど本当に前田秀樹先生本当にすごいよ。本当にすごいっすよ。
これもうベルクソンが乗り移ってるんじゃないかなって思えちゃうくらい。
本当ですか。ジューンさんとして伝わってきますわ。お会いしたことないけど。すごいな。
いやそれでね、このベルクソン哲学の優言という前田秀樹先生の本の中にはね、ベルクソンってその4冊以外にあと3冊。
そうだよ、笑いとか。
4冊の詩書と2冊の論文集、それに笑い、持続と同時性の2冊を刊行した。
でまぁこれら7冊、ベルクソンがね優位本を残してて、自分が世の人に読んでもらいたいと思ってる本は結局この7冊に尽きるんだと言ってるんですよ。
で、自分がこれまで書いてきたようなこととか話してきたようなことは一切禁ずると。自分の志望。
おー、たとえば講演、わかんない、講演集とかそういうことを?
そうそうそうそう。
主張じゃないものの作品を残すのは禁ずると。
そう。
それぐらい、この7冊に自分のすべてを込めたから。
はぁ。
実際そのあと出版されてるんですけどね。
されちゃってんだ。
されちゃってるんですけどね。
あーそうなんだ。
でもよくも悪くもなんですけどそこは。
まあそうだよね。
両面あってもちろん。
でもそれを言い切れるところにまずなんかすごく大事な面白さがあるね。
そうなんですよ。で、その最後の主張が道徳と宗教の二元戦だから。
そうだよね。重要度が。
重要度が。そこにすべて流れ込んでると言ってもいいんじゃないかと思えちゃうぐらい本が詰まってるわけですよ。
そういうことなんですね。そういう立ち位置の一冊なんですね。
そういう立ち位置なんですよ。
ますます楽しみですね。
じゃあ内容入っていきますね。
いきましょう。
まずこの本、どう読してもね、ちょっと難しすぎるんですよ。
そうっすよね。
難しすぎる。だからちょっと僕が、ちょっとずつ読んでいきたいんですけど、僕のほうで今日は解説するほうが多いと思います。
ありがたいありがたい。
でも僕の解説というか、僕は前田秀樹先生の受け売りだから、これに関しては。っていう感じなんですけど、ちょっと話していきますね。
お願いします。
まずこれタイトル、道徳と宗教の二元戦なんですよね。
タイトルの通りで、道徳と宗教っていうのは、それぞれね、二つの元戦を持ってるんだってことなんですよ。
それぞれ異なる二つの元戦を持ってるってこと?同じ二つの元戦を持ってるってこと?
ちょっとね、これ第一章がね、まだね、道徳しか扱ってないんですよ。
そうか。
だから僕は宗教の元戦わかってないんだけど、でももう察することができて、察するに同じ元戦から来てるんですよ。
へー。
っていうのも、道徳と宗教をそもそもね、演技上分けてるだけであって、同じなんですよ。
うーん。
あ、そういう本なんだ。そういう。
そう。
例えばさ、
キリスト教の聖書の中で、三条の説教があって、貧しい者は幸いであるとか、
ああいう話っていうのは、道徳でもあり宗教でもあるんですよ。
うん。
あー。
そういう宗教の中で語られる、僧話とかあるじゃないですか。
そこにその道徳的なものがあるってこと?
うんうん。
まあまあ。
で。
うん。
それでね。
その、
その2つの厳選があるっていうことに関して、これまでそういう話を誰も言ってきてない。
うんうん。
道徳っていうのは主に哲学者が扱って、宗教っていうのは信学者だったり、宗教者だったりの人が本当は扱ってるんだけれども、
誰もこのことに触れてきてないと。
うん。
だから自分は語らねばならないというわけなんですね。
うん。
で、ベルクソンの前の道徳っていうのはどういうものだったかっていうと、主にやっぱりカントの影響とかが大きいと。
うーん。
うん。
で、カントの実践理性批判とか、そういうものとかに書かれてると思うんですけど、
カントの独特論の考え方って、ちょっとどう捉えるかあるんですけれども、
いわゆる主知主義って言っていて、その知性、まあもうちょっと言うと理性かな。
理性というものが人間の本質なのであり、
考えるということ、この理性そのものが人間にとって最高のものであるっていう。
うん。
っていう考えなんですね。
うん。
人間っていうのは理性的な存在で、だからこそ自分でこういう道徳法則みたいなものを立てて、
それに従う能力を人間自体は自律的な存在として持ってるんだと。
うん。
うん。
っていう人間観なんですね。
うん。
でも、なんかそれはわかりますよね。そうそうそうだなって。
うんうんうんうん。
でね、えっと、
例えば、なぜ人のものを盗んではいけないのかとか、
なぜ人を殺してはいけないのかっていうことに、たとえば子供に言われると、
なんて答えるかって言うとね、
うんうん。
いや、ダメだからダメなんですよみたいな感じになって、
なかなか難問なんですよ、こういうクエスチョンに対して答えるのって。
うん。
うん。
で、ほとんど説明されてないわけ。
確かに。
うん。
確かに確かに。
で、法律とかもさ、なんでダメかまで書いてないっすよね。
殺人したらこういう経緯になりますみたいなことが書いてあるだけで刑法にも。
確かにね。
うん。
なぜそれがそこに載ってるのかは書いてないか。
そう。
法になっているのかってこと。
うん。
うんうんうん。
で、こういう素朴な問いに対して、やっぱりカントみたいな人だと、
人間の、そういう自律的な理性こそが人間の本質なのに、
それを殺してしまうと、それ自体を否定する行為になってしまうと。
うん。
理性という、理性が人間の最高のものなんだから、
理性あるものを守ることが最高の証なんですよということで、
多分そういう説明とかされるんだと思うんですよ。
うん。
いろんな説明があっていいと思うんですけれども、
例えばイギリスの公理主義みたいな考え方とかだと、
ベンサムって最大多数の最大幸福ってことを言っていて、
殺人がすると幸福の総量減るからダメだよね、みたいなこととかね。
いろんなことを、いろんな形で説明が大人をするんだけれども、
ベルクソンはね、それらは全部理屈とか理論をね、
後から持って正当化してるだけで、そうじゃねえんだって否定するんですよ。
おお。
面白いね。
そう。
徹底的にカント批判が入ってくるんですよ。
そうなんですね。
そうなんです。
これは前田英樹先生言ってるけど、カント個人を批判したいんじゃなくて、
カントの哲学があまりにも影響を社会に及ぼしているから、
ちょっとそれは大事なんだが抜け落ちてることがあるっていうことを、
ベルクソンは補足したいんですよ、やっぱり社会に対して。
だからカントの哲学をあえて批判的な立場になって、
より事の本質みたいなものに迫ろうとしてるわけなんです。
うーん。
でね、ベルクソンはそれを否定するわけなんですけれども、
実際、道徳って理屈じゃないんですよ、確かに。
ほうほうほう。
例えばですよ、バレなきゃいいじゃないですか、みたいなこととか。
盗んだりしてもとか。
そう、殺したりしてもとか。
誰かにバレなきゃばせられないでしょ、みたいなこととか。
っていう話に入ってくるとややこしくなってくると思うんですよ。
カラマザフの兄弟で扱ったイワンとかスメルジャコフみたいなものっていうのは、
神がいなければ全て許されるみたいな話でしたけれども、
あれは神がいないからもうバレない。
そして人間にも誰にもバレないとばせられない。
許されるじゃん、みたいなことになってくると、これややこしくなってくるんですよ。
そういう人たちにね、そういうイワンとかスメルジャコフみたいな人たちに、
どう答えていくかって大事な話だと思うんですよ。
どうやって対話していくか。
カントだったらね、何言ってんだお前と。
それは人間を冒涜し侮辱する行為だぞと。
結局人間が人間たる意味や価値っていうものを、
お前は自ら否定してんだみたいなね、みたいなことを言っても、
いくら言っても普段に言ってんだみたいな感じで返すんだと思うんですよ。
そういうイワンとかスメルジャコフみたいな人たちに対してね。
だから、ベルクソンは主義主義みたいな考え方とか、
理屈とか理性では、もうそういう人たちの暴走を止められないだろうって、
いうことを言ってるんですね。
理性の判断で道徳的な振る舞いをするっていうのはないんだって。
そうじゃないんだって。
世の人は道徳の厳選っていうものは人間の理性から来てると思ってる。
そこじゃねえんだって。
原理はそこじゃねえってこと言うんですよ。
文字面だけ聞くと納得しちゃいそうな感じですよね。
道徳の厳選が理性から来てると。
うんうん、みたいなね。
そう。
うんうん、うんうん。
そうじゃねえと。
そうなんですよ。
もちろんです。
もう俺ここすごい興奮したところなんですけど。
1章それ。
1章。
1章が120ページまであって。
その104ページ目。
はいはいはい。
お願いします。
道徳の厳選は、あるいはその基礎さえも厳選だ。
うん。
道徳の厳選は、あるいはその基礎さえもが純粋理性の中にある。
という結論は出てこないだろう。
これはいいね。さっき言ったことだね。
うん。
重要問題は、自分の義務を果たすためには、
自分の成り行きに任せておくだけでは決して十分ではないというような場合には、
なぜ我々は義務づけられるか、その理由を知ることである。
って言うんですね。
これちょっと日本語が難しいですね。
ねえ。
聞いてるだけだと今オンってなったよ。
読んでもよくわかんないってことになっちゃうんだけど。
重要問題は、自分の義務を果たすためには、
自分の成り行きに任せて、これ自分の成り行きに任せてって言ってんのは、
理性のままにってことなんだと言ってたんですよ。
理性のままにしておくだけでは、十分ではない場合があるんです。
ほうほうほう。
理性のままにしておくだけでは自分の義務を果たすのに十分じゃないケースがあるんじゃないかってこと?
ほうほうほう。
でも、そういう場合でも、それでもなおなぜ我々は義務づけられるのか。
これ何が言いたいかって言うとね。
うん。
例えば身内が殺されるとするじゃないですか。
はい。
そうするとね、もう理屈もヘチマムもないわけですよ。
うん。
その時に湧き起こる復讐心みたいなものって、もう抑えようがないんですよ。
うん。
それでもなお、自分をね、義務づける、復讐するということを思いとどまらせるものがあるんだとしたら、それは何なんだ?って。
ほうほうほう。
ここを掴みたいんですよ。
いや、それはもう復讐して当然だってもちろんなるんだけど、でもそうすると、憎しみが憎しみを生む連鎖が止まらないだけで、どっかでそれを思いとどまるみたいなことがないといけない場面もあり、
そういう復讐して当然な場面でも、それを思いとどまるだけの道徳みたいなものがあるとしたら、それは果たしてどこから来るものなんだ?
うんうんうん。
それを見つけることが人間にとって重要なんではないんだろうか、みたいなことが言いたいんですよ。
はいはいはいはい。
理性みたいなものがあるし、失われるケースとして仮定してるから、それを取っ払ってんのに、そういうふうに自分をある種、義務づける何かがあるんじゃない?それなんだ?と。
そうそうそうそう。
面白いね。それを、さらにそれを理性って呼んでる人もいそうだよね。
そうだねそうだね。
それすら人間の理性であるみたいな、復讐の連鎖のことに思いを馳せたりとか、ではないって言ってるってことなんですね、ベルクソンが。
そうなんですよ。
ここまで話を整理すると、道徳の厳選っていうのはどこなのか、それは理性ではないということです。理性ではないんだとしたらどこなのかって、こういうベルクソンの見解を見ていきたいんですけど、
もう一つは、極限状態に置かれたときに、真に人間を道徳的にとどまらせるものって何なのか。
同じこと言ってるんですけど、結局それが厳選、ある厳選から来てるから、同じことなんだけど、っていうところから、ちょっとこの二つの厳選見ていきますね。
はいはいはい。それが二つの厳選ってことなんだ。似たようなこと言ってるけど。
そうそう、だからその問いは、今の問いは同じですよ。
同じ問いで。
同じ問いです。結局、厳選から来ると、人間を真に道徳的に測りかけてくれる厳選があるんだってこと言ってるんですよね、これ。
二つあるんだってこと言ってる。
そうですね。