1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #345 本居宣長が見つけた日本..
2025-08-20 1:01:25

#345 本居宣長が見つけた日本古来からの「あはれ」と「かみのみち」

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

本居宣長の思想を通じて、日本古来の「あはれ」と「神の道」について考察します。特に古事記や日本書紀から派生した日本人の心の特徴を探り、儒教との対比を通じてその独自性を明らかにします。彼は、日本の古代から受け継がれてきた「あはれ」と「かみのみち」を探求し、これらが日本人の心のあり方と文化にどのように影響を与えているのかを考察します。彼の学問は古事記や万葉集を通じて、日本人の感受性や自然への敬意を示し、現代においても重要な指針となっています。このエピソードでは、感情の多様性や人間関係への理解が重要であることが語られ、日本の歴史的背景も考察されています。本居宣長は、日本独自の思想や神道の重要性について探求し、特に「あはれ」と「かみのみち」の概念を強調します。彼の考え方は、江戸時代の哲学や思想における重要な要素として位置づけられ、古事記や日本書紀の影響を受けています。また、彼の思想について解説し、日本古来の「かみのみち」と「あはれ」との関連性を探ります。

本居宣長の思想の探求
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、江戸の思想シリーズ第7回ということで、前回からもとおりのりなが入っていったんですけれども、
今日がその中でももとおりのりながの思想の中身に入っていくというところでした。
今回も一回目で話すので、そんなに深いところまでいけないかなと思うんですけれども、
前回、いわゆる当時の晩的な学問だった朱子学、あるいは儒教に対して、
それって外国から来た、ある種異国のものじゃんと、空心という言葉で言ったと思うんですけれども、
理性とかね、使って物事の根源をまさに理というものを追求するとかって、ちょっと違和感あるよね。
それって本当にできるの?みたいなことも含めて批判したということをさせたかなと思っています。
その反対に魔心とか大和心といわれるような日本本来の学問であったり、物事の捉え方ではあるんじゃないかというような話をしたかなと思うんですよね。
はいはい。ごめん、冒頭からいきなりちょっと疑問ぶつけちゃうんだけどさ。
はいはい、大丈夫ですよ。
前回は思わなかったんだけど、結構この元折里永が、どっちかというと西洋だったりとか、
この朱子学的な言うところの理とか、根本に向かう姿勢っていうものからちょっと距離を置いたというか、話があったけれども、
これは足足取りなのかな。この日本人、そもそもの日本人の心があるはずだ、みたいなやつが。
はいはいはい。
どうなの、それは。
それね、すごくいい感覚で、この後またちゃんとお伝えしたいんですけど、答えを先取りすると、
日本人の心、もっと言うと今日説明する神の道っていうのがあるんだけど、これは事実あります。なぜなら古事記とか日本書紀に書いてあるからです。
これは元折里永的な話で言うと。
的な話。
このスタンスから言うと。
スタンスから言うとね。
はいはいはい。
でも、理みたいなものとか、もしもタオとかでもいいんだけど、それって書いてないでしょ、どこにあるのっていうふうに言えるんだよね。
なるほど、あの、ソースあるのっていうね。
そうそうそう。もちろん修行の果てにたどり着けますとか、そういうものがあって、それから位置を承知してとかって書いて、言ってはいるけど、どこにあんのっていうふうに、のりながさんは言うんだよね。
論語というかさ、そういうのじゃダメなの。
論語はもちろんあるんだけれども、でもそれも孔子が書いた古代の聖人のことを、何だろうな、ある種言った話だとしたときに。
だから何とかな、孔子は別にいいのよ、そういう意味で言うと。
それに則って素朴にやっていくのはいいんだけど、それを体系化してリーダーとか、リーダーとか、そういうふうに言うのはダメっていう感じなんだよね。
あと日本人が、そもそも日本人が、儒教、孔子はわかるよ。
でも日本人が儒教のほうをやるんじゃなくて、日本にも古事記とかそういうのあるでしょ、みたいな感じってことなのかな。
そうそう、そういうこと、そういうこと。
オッケーオッケー、儒教とかがダメだとか、古事記のほうがすごいとかじゃなくて、
そのソースが日本にもちゃんとあるから、中国にもちゃんとそういうソースがあるのは結構ですけれども、別にいいじゃん、日本のソースでやれば、みたいな話とか。
そういう意味で言うと古事記のほうが優れてるとは言ってるんだけどね。
言ってるんだ。
日本の神聖なる源
そうなんだ。
なんでかって言うと、これも先ほど言ってたんだけれども、古事記、日本書紀は罪が作ったものですと。
イザナギの見事とね。
笑っちゃダメな。
イザナギ、イザナミがいて、アマテラスがいて、神様が作った、あるいは成し遂げたものですと。
宣伝も孔子って人がやったものでしょうと。
そうね、一儒者だから。
仏教も仏陀って人がやったものでしょうと。
神がやったものと人がやったもの、どっちが上ですかっていう話を野田さんが考えるのね。
なんか、ちょっと斬新だね。あんま日本の思想でそこまで神様がみたいなのってなかったから。
そうね。
ちょっと面白いそう。
これが前回の野田さんの発想を僕らは受け入れにくいっていうところがまさにこれで。
はいはいはい。
野田さんからするとアマテラス大神会にはもう間違いなくいるし、現実にあえて彼女というか女性神と言われてるからね。
彼女が作った秩序が今でも受け継がれてるのがこの日本という国であるっていうことがやっぱり時代というか国家観なんだよね。
僕らが今それをそのまま受け止めなさいってのは結構難しいじゃない。
もちろん知識とか物語としてそういう神様がいてっていうのは馴染むかもしれないけれども。
面白いかもしれないけれども価値観としてそのままインストール可能かと言われたら、
ちょっと今は遠慮しておきますみたいなちょっと怪しく感じちゃうかもしれない。
どうしてもね。
それはこれ宗教とも違ってこれが難しいんだけど、神様のことを信じ何かを願うとかってことでもないのよ。
えー違うんだ。
なぜなら神様と日本の今の国が実続きであるっていうはずなんだよね、野田さんからすると。
神様の時代と今の江戸時代ってのは実続きであると。
これはいろんなもちろん考え方あると思うんであえてざっくり言うんだけど、
要は中国との対比で言うと、中国っていうのはそのいろんな王朝が入れ替わったりして、
その皇帝がどんどん育っていきますと。
っていう風にある種、人が作った国だから、それをまとめるためにわざわざ自学とかそういうものが発明されて、
そのある種、国をまとめるとか、国を乗っ取られない。
そういうためにわざわざ学問を作らざるを得なかったんだっていう風に野田さんは捉えるんだよね。
おー面白い観点。はいはいはい。
日本にある古事記日本書紀に代表されるような神様の道っていうものは、
別に何かを守ろうとか何かこうしてるっていう風に作ったんじゃなくて、
神様が与えてくれたものをそのまま天皇という万世一家の人たちが受け継いできたものだから、
それってなんていうのかな。
しかもそれが途絶えてないじゃないか我が国は。
これはどっちの方が安定してるかとか国としてより良いかって、
日を見るより明らかだよねっていう風に野田さんは考えるんだよね。
おーなるほどね。はいはいはい。
かなりそれだけ聞くと外国心というかね、
すごく日本国万歳みたいな人なんだけれども、
でも彼の学問的なスタンスからするとそう考えざるを得ないんだよね。
はいはいはいはい。
なぜなら外国から心っていうものを背して日本の真心とかっていうのを発想するときに、
それがちゃんと見つかってしまったから、古事記というもので。
そうだよね。想像とか伝承じゃなくて、ちゃんと残ってたって話だもんね、それがね。
そうそうそう。なしで天皇も実際にいらっしゃるじゃない。
俺はお会いしますじゃないかと。合ってるかな。
はいはいはい。
ごめんね天皇さんと縁がないセクトックというかちょっとわかんないんだけど。
どういう言葉を当てていいかね。
当てていいか、そうそう。
だけども、そういう風に今現にいらっしゃるし、
その天皇が天寺室大女神の子孫であるということもきちんと残っていると。
これ以上に寄って立つものってあるのかいっていう発想なんだよね。
へー、そうなんだ。だからそういう人がだいぶその想像を信じてるみたいな話もなってくるね。
冷静な目でというかね。
そうね、冷静に見えるとね。
意地悪な目で見えるとね。
それは本当にそう。
これは非常に難しくて、
神の道の重要性
本当は物の哀れを知るの方から言おうと思ったんだけど、
神の道から言おうと思っているんだけれども、
なんで天皇さんはそれをそこまで信じられたかっていう話なんだけれども、
ここは本当にたぶん2つで、
1つはその古事記っていうものを本当に丹田に読み込んでるんだよね、この人は。
はいはいはい。
その古事記伝かなっていう注釈書を何冊も書いてるような人なんだけれども、
そこを見た時に、
あ、こんなに神のある種儚いというか、
っていうものが隅々まで書かれてるんだというか、残ってるのってもそうだし、
すごく日本のやっぱり多神教の神様が面白いのは、
一神教、特にキリスト教とかとか、ある種神という絶対的なものがあって、
それが人間を作りましたかっていう時に、
この世を作りましたっていう時に、
なんでこの世には悪があるのかとか、
苦しみも不幸も両方あってこんなに辛いのかとかってなった時に、
これは神が与えた試練であるとか、
いわゆる発展途上の一部であるみたいな、
神は絶対なんだけど、
この世界とかで人間はある種罪深いとかさ、
そういう発想になるじゃないですか。
っていう風に結構そこのロジックが苦しいんだよね。
ほうほう、なるほど。
でも日本だといろんな神様がいるんで、
アマテラスっていういい神様もいるんだけれども、
マガツカミかな。
マガツヒノカミっていう、
いわゆるマガマガシーとかワザワイの文字が出られるんだけど、
そういうのは悪いことをする神様もいるんですよ。
なので、なんでこの世ってこんなに苦しいんですか、
辛いことがあるんですかっていう時に、
なぜならマガツヒノカミがいるからですって言えちゃうんだよね。
そういう風に、この世界のことを、
当時の神話の時代と照らさせても、
全然違和感なく解釈できるっていう風に
ノリノカさんは思うんですよ。
うん、なるほど。
なので、あえて何度も言うんだけど、
主役っていう外から取ってきたものを当てて、
秩序を割とガチッと作ることはなくって、
ただ単純に神様が作り出したというか、
生み出している秩序、それに則って過ごすことこそが、
実は日本人的な道なんだというか、
日本人として正しいやり方なんだよねっていう風に考えるんだよね。
だから、あくまでも人が作ったものでもなく、
自然の、ただこれは当時西洋の知識がないからなんだけれども、
ロックとかの時にさ、
いわゆる人間が白磁であるとか、
白磁の状態から人間でも捉えた時に、
自然に人権とか、自分の財産を守る権利が出てくるとかって話をしてたじゃないですか。
それはある種、自然状態とか、
何ていうのかな、
何もないゼロベースで考えるってことなんだけれども、
ってことでもなくって、
森永さんは神が作った道、
人の道でも自然の道ではなく、
神の道っていうものを使って、
我々の通常を説明できるんじゃないかっていう風に考えるんだよね。
ああ、今のおかえりとずるいね。
なんでなんで?
ずるいっていうのは、面白いなと思って、
例えば西洋哲学でジョン・ロックがさ、
いや、人間は生まれながらにして、
自分の財産を守る権利があるのだ、みたいなさ、
言われちゃうと、そうだそうだってなるけど、
例えば古事記とかでさ、
いや、世の中はもともとこういった神様がいるのだ、みたいな時に、
神様の方が本当かってなるけど、
ロジックとしては一緒だなって思って。
そうなんだよね。
面白いなと思った。
結局何によって立ってるかっていう違いだけで、
言葉はそんなに変わらない。
実は僕らが理性的なものを良しとして、
神様とか超越的な存在とかっていうものを疑うっていう気持ちがあるだけで、
実はフラットなはずなんだよね。
そうだね。
不思議だね。
財産を守る権利はあるんだって言うけど、
そのまがつ日の神はいるかわからんのだ、みたいなさ、
そこには何の差があるんだろうって今のハエとの話で思ったし、
ジョン・ロックを先に出されると神様もいるかもしれないってちょっと思わされるみたいな。
ちょっとなんかテクニック使われたって思った。
それと兄貴がね、素朴すぎるだけだなって思った。
本当にお兄さんの家とか電話で素朴しないで欲しいんですけど、
聞いてる方はぜひ。
騙されちゃうからね、お兄さんね。
あ、そうかな。
古代の思考と信仰
今はちゃんと疑いの目を持って見てなかった、今の。
確かにね。
でもそういうことも含めて、多分当時の受学者もそうだったと思うんだよね。
もうちょっと批判的な目で、いやそんなものいるわけないとかさ、
あるわけないとか、要はもう理というもので世の中できてるんだとかって思っていた人が大半だと思うんだけれども、
多分一部前回言った通りいろんな弟子がいたって思うんだけど、
よくよく考えたら確かに神様ってものいるかもしれないとか、
当時の文献的な解釈とか、天皇が実際にいらっしゃるみたいなことを含めたときに、
そういう働きが日本という国にあってもおかしくないよねっていうふうなことは、
やっぱり説得力が出てくるんだよね。
そうね、全く違和感はないよね。
そうそうそう。だし、これ面白いのが、
神の道、そういうふうな神様の言ってることってなんだよっていうふうに示すのって、
実は、乗り長さを乗る術って言うと、示す必要がないんだよね。
あー、そもそもね。
そう、なぜなら、それは逆しらの空心だから。
あ、そういうこと?そもそも古事記に書いてあるじゃんとかじゃなくて。
うん。書いてあるじゃんもそうだし、
それ以上のことを邪推して、そもそも神様はこう言ったんじゃないかとか、
それを体系化するとこういう秩序になるはずだとかっていうこと自体を乗り長さんは否定しちゃうんだよね。
なるほど、だから前回の和歌のたしな見方と似てるって話だね。
あ、そうそうそうそう。
かわえる、かわず飛び込む水みたいな時に、
そのかわずとかを分析する必要はなくって、
あくまでもそれをそのまま受け取るべしと。
はいはいはい。
っていう風な感覚なので、
何ていうか、よく言えば素朴に世界観を受け取るんだけど、
悪く言うと、これ実際そうなんだけど、
めちゃめちゃ復讐するというか、
盲目的に信じるみたいな感覚にもなってくるんだよね。
いやー、これね。
実際その乗り長さんもそうだったらしいんだけれども、
この神の道に従う、
それを江戸時代の当時やろうとするのはどうなるかっていうと、
いわゆる神の直系の子孫である天皇に従いましょうと。
天皇が認めた将軍徳川家に従いましょうと。
あー、それはオッケーだね。
徳川家が認めた各藩主にも従いましょうと。
あれ?あれあれ?
つまり既存の政権とか体制を受け入れるっていうふうな発想になるんだよね。
あれ?なんか意外と官僚的な方にいったぞ。
なぜなら天皇が、もっと言うと神様があることを決めているはずだから。
天皇がいる限りは。
官僚かつ法権制か、当時で言うとね。
すごい、なんか朱子学よりもそっちに馴染んじゃうぞみたいな。
馴染んじゃう、そう。
なので、前回朱子学とか仏教も良しとしたって言ったじゃない。
それも野良さんからすると別に学問として一定レベルに優れてるからとかじゃなくて、
そういうものが日本に受け入れて広まることも、
もっと言うと天皇は良しとしたから、しゃあなしで認めたるぜっていうはずなんだよね。
なるほど、自分の考えと違うとこはしゃあなしでみたいなとこにはなるけど。
なぜならそれも神のおぼしめしだから。
そうなってるってことは?
なってるってことは、そう。
すごいね、だからあらゆる現象というか、起こってることを割と受け入れる的なふうになっちゃう。
受け入れざるを得ない。
日本という国において起きることは全て神のそういう働きだから、
天皇がいる限り、天皇がいなくなるっていうことが、
神の秩序が働いてる国っていうものがなくなるってことだから、それはありえないんだけど、
学問の意義と受容
天皇がいる限りは、この国は神の国だから、神の秩序によっている国だから、
起きることも全てオッケー。
へー、そうなんだ。
結構極端じゃない?これ。
いや、だいぶ極端だよね。
だから当時からすると全然主流じゃない考えで危ないかもっていうのはあるけれども、
いわゆる革命的な?そういう感じではなかったんだね。
そうなんだよね、そう。
大正を失わすとかっていうのも、それはやっぱり良くない。
神様の上半に反したことになっちゃうから。
へー。
それが前回も言った、いわゆる聴人根性というか、
自分は別に政治家でもないし官僚でもないし、ただ一回の医者であると。
別に何か世の中を動向する力はないんだけれども、ただただそういう古事記とかを通じて、
日本の彼が言うところの本質って言っちゃうとすごく理性的な言葉だけれども、
そういうものをちゃんと明らかにしていくっていうことは淡々とするしかない。
いつか自在、それこそ何百年後でもいいんだ、自分が死んだ後でもいいんだけど、
いつかそれがお神に取り上げられて、こういう国づくりをすればいいんだって言って、
この告白、自分の考えが発想として受けられるんだったら、それが自分の喜びだみたいな。
そのぐらいある種、冷静にというか、もちろん厚いものはあるんだけれども、
自分の導き出した神様の秩序っていうものにそのまま馴染んでいる。
それは絶対意識してるっていう人でもあるんだよね。
はいはいはい。教団がやっぱり承認っぽいのが面白いね。
あ、そうそう。どういうところで思った?
変に押し付けるっていうよりは、うまく流れを中で漂ってるんだけれども、
かといって、いわゆるさっき入っておいたただの盲目ではないというか、
ちゃんと動かすものは動かしたりとか、出すものは出して、環境の相応要因みたいなもので、
結果変わった中で自分もうまく得してるみたいな。
なんか自分がオラーっていかないみたいな。そういう感じがしたね、なんか。
そうだね。だからこそ簡単と自分の学問をやり続けられたというか、
それを残しつけたりとかもあると思うし、
1個、本を読んでて面白い言葉があって、
森永さんが大事にしていた言葉には、戦果たなしという言葉があるっていう話があって、
戦果たなしって、今でも時々さわかまんだけどやるせないとかどうしようもないみたいな、
そういう意味合いなんですよね。はいはいはい。
つまり、いわゆる神様のことなんで、やっぱり世の中どうあるかとかって自分にはどうしようもない。
将軍が誰かとか、あるいは愛する人と付き合えるかとか、別れちゃうかとか、
家族が病気になるとか怪我をするとか健康になるとか、そういうのは全部どうしようもない、戦果たないことなのと。
でもそれをちゃんと感じる。
それをちゃんと心で感じて、今自分は喜んでいるんだとか、辛いと思っているんだなとか、
そういうことを一個一個ちゃんと感じていくことが、まさに神様の秩序っていうものと繋がってるんだっていうふうな、
そういうふうな実感があるんだよね。
へー、なるほど。面白そうな感覚だね。なるほどなし。
ひらがなで書くと戦果たなしって書くんだ。
ここはね、戦果たなし。
これってあれなのかな、セムっていうのは攻めるとか、そういう感じなのかな。
あのね、これセムなんだけど、私はムをンで読むじゃないですか。
どうやら戦果たなしは患者と、何かのため、なすみたいな言葉あるじゃない?
なす?
なすとかため、なすすべなしみたいな。
はいはい、誰かのためみたいな。
誰かのためとかっていう、それをセンって呼んだみたいだね。
へー、そうなんだ。
だから、なすすべなし、どうしようもないっていうことが戦果たなしっていうことの意味合いみたい。
ははは、そうなんだ。はいはい、なすすべなし、はいはいはい、なるほどね。
今で言うとそうなるね。
はいはい、わかりました。
そんな感じの言葉で、これは時代も平安時代ぐらいからあるような言葉らしいんですけれども、
っていうふうに、ある種の諦めだよね。
うんうんうん。
っていうのが、やっぱり信長さんの学問的なところから出てきます。
へー。
ただ、ある種諦めてもダメなんで、その中でどういうふうな生き方とか、
心が大事かっていうのが、もう一個今日のキーワードにしたいと思っていた、
その物の哀れっていう本なんですよ。
はー、なるほど、そっか、そこへ言える、
もうなすすべないなーっていう長主義ではないって話なんだ。
そう、ではない。
はいはいはい。
これは多分諸説ありますの話なんだけれども、
僕が読んだ、えっと、サガラ・フォール先生さんがいらっしゃって、
その人が書いた本では、この物の哀れと神の道っていうものが、
根っこでつながっているんだと。
では、物の哀れって結構、なんとなくイメージ的にも、
自然に触れて、心が動くとかさ、
ちょっと和歌とか歌とか、そういうふうな世界観の話で、
神の道を舞い立てる古事記とか、
まあよりこうちょっと勉強的にチックが話したんだけれども、
これって実は、のりながさんの中では、もっと言うと、
彼が学んだ鴨野真淵さんの中では、
一度も切り離さない関係なんですよね。
そうなんだ、はいはい。
もっと言うと、当時、古事記日本書家もあるんだけど、
万葉集っていう歌を集めたものがあって、
それがある種、古い時代の日本人の心を表していますと。
その万葉集の歌っていうものと、
古事記とか日本書記のある種物語、事実なんだけれども、
っていうものを両方読み込まないと、
日本のこと、古代のことはわかりませんぜっていうふうな発想があったみたいなんだよね。
へー、はいはいはい。
なので、歌を読むのも実は学問だし、
古事記とか万葉集の世界に浸って、
昔の日本人に思いを馳せるのも学問だよと。
これってきっと切り離さないよねっていうふうな発想があったらしいんだよね。
はいはい、そうやって原点をちゃんと読み込むというか、
裏の裏までみたいな感じがすると確かに必要な。
そうだし、それをただ知的に読むんじゃなくて、
ちゃんと感じ取る。
心を使って読むっていうことも大事だと思う。
ところで、物語って始めてくるんだけれども、
物の哀れの概念
これってすごい深い概念なのかなと思ったら、
実は割とシンプルで、
物に触れたときに動く心、そういうふうな話なんだよね。
はいはい、今でいうとエモいぐらいの感じ。
そうかもね。エモさだね、確かに。
でも本当にそんな感じで、
でも大事なのは、やっぱりさっきには出てこないんだよね。
何か物であったり人であったり出来事とかで触れたときに、
やっぱり心が動きますよね。
その動きっていうものを、あるいは、
もっと言うと季節の移り変えとかでもいいのよ。
例えばね、春からちょっとずつ夏に変わってきたなとか、
それって具体的な物に触れてるわけじゃないけれども、
感じたりするじゃない?
ちょっとワクワクするとか、秋から冬だと寂しくなるとか、
こういう感覚をちゃんと勘案することが物のあまりなんだよね。
で、これってさっき言った通り、
どうしようもないって話をしたと思うんですけど、
あれもある種、自分ではどうしようもないじゃないですか。
そういうふうに感じることとかさ。
辛いなとか寂しいなとか嬉しいなとか、
そういうのも、ある種自然に感じること?
むしろそれを抑えようとするほうが不自然じゃないですか。
抑えるってことはもう生じちゃってるからね。
そうそうそうそうそう。
で、それをある種、生じさせないようにしようというのが仏教なんだけど、
この観点からすると、やっぱり野沢さん的には、
その仏教もやっぱりおかしいんだよね。
なるほどね、確かに不自然なんだね。
本来どうしようもないはずの人間の感情をあえて切り込んでいって、
発しないように、生じないようにするっていうのが、
それもある種、腹心やっぱり頭とか理性で抑え込もうとするっていう発想なんだよね。
その時に、この猛の哀れっていうのが大事だっていうのが、
本居宣長の思想の導入
今言ったようなどうしようもない世の中においても、
でもある種それも同じでどうしようもなく感じる感覚とか、
そういう思いっていうものが出てきた時に、それをちゃんと大事にしましょうと。
これって面白いのが、史詩学だと、
側陰の嬢みたいな、よく言ってた井戸に子供が落ちる時に助けたいと思うみたいな。
どんな悪陰でもそういう心はあるでしょみたいな話だよね。
それは共通だよみたいな話で、
ある種、人間の美というか共通項があるよっていう話だと思うんだけど、
これ、野中さんが言ってたわけじゃないんだけれども、
この感覚からすると、なんでわざわざそれだけ取り上げんねんみたいな発想なんだよね。
まあ、そうだよね。無限にあるでしょっていう話だね。
そうそうそう。感情なんて無限にあるし。
しかも別に、そういう時に助けたいと思わない人がいるかもしれない。
本当に世の中で見渡した時に。
その余裕がない人がいるかもしれない。
それをあえて、やっぱり史詩学は切り取って、
いや、そんなことはない。万人が同じ心を持ってるはずだって言い切っちゃう。
それはおかしいというか、やっぱり型に当てはめすぎてるんだよね。
やっぱり野中さんからすると、それも物の哀れって感じた時に、
ものすごい本当に自分も死ぬぐらい感じる人もいれば、
ちょこっとしか感じない人もいるかもしれないし、全く感じない人もいるかもしれない。
それ自体が別に人の出来事、心に出来る出来事だし、
それはやっぱり否定することはできないでしょうと。
いやー、だからそういう、なんて言うんだろうね。
不自然、さっきのような当てはめみたいなものに対する、
まあ難しいけどね、空心か、特に空心に対する不自然さとか、
あと作為みたいなものを感じちゃうんだね。
感じちゃうね、どうしても。
やっぱりそれは、前回も言った、政治になることこそが良いことだっていう発想。
自学とか自学にある発想をやっぱりすごく嫌だったのと思うね。
やっぱり森永さん的には。
それが目標になるから、やっぱりそういう自分を伝えましょうとかさ、
いろいろ学びましょうとかっていう風にどんどん出てくるんだけれども、
そもそもその目標って違うじゃんと。
僕らが神様が持っている秩序の中で生きていて、
いろんなことをやるせないこともいろいろあるけれども、
それも含めて今日本という国に生きているじゃないかと。
その時に何かを目指すとか、何かを耐えていくっていうことよりも、
ちゃんと時々起きている出来事とか物事とか人との関わりを大事にしたりとか。
あとはやっぱり、前回これもちょっと言ったけれども、
源氏物語っていうのを読んだ時に、光源氏さんがいわゆるプレーボーイですと。
ある意味的に考えたらダメなことをやってるんだけれども、
そういうところにもやっぱり思いを致してしまうとか、
こういう人もいてちょっと憎めないなとか、
でもそういうことがむしろかっこいいなって思ってしまうのも人間の心とすると、
それを言ってするのってやっぱりおかしいよねっていう風な発想なんだよね。
単純に道徳的に悪いことは絶対やっちゃダメだっていうのも一つの発想なんだけど、
やっぱりそうじゃなくて、それも含めて一つの人間の心の動きだよねとか、
そういうことを苦しくても辛くてもやってしまうのが、
人間のある種、どうにもまさに先駆たない特性だよねっていう、
どうしてもない特性だよっていう、それを認めてあげましょうよっていう風な、
そういう風な発想にどんどんなっていくんだよね。
そういうところがあるので、学問的にとか秩序だって何かを唱えてるわけではないんだけれども、
それを離れたからこそ言えることとか、
そういう秩序とか本質っていうものから距離を取ったからこそ、
ややもっと柔軟でいいじゃないっていう風に言えること。
やっぱり野中さんの強みというか、その特徴かなっていう風に思うんだよね。
はいはいはい、そうだね。
みたいな感じで、神の道っていうものと、物の哀れっていうものを話してみましたけれども、
人間の感情と共感
どうかな、印象として。
物の哀れは本当にそれだけというか、もっと深く言えばあるんだろうけれども、
基本的にはそういう感覚だっていう話だね。
そうだね、説明するとこんな感じになっちゃうかな。
もっと実際こういうものだよねとか、こういう歌を読んだ時にとかっていうのはあるんだけど。
うん、なるほど。
いやーでもそうはね、本当その通りだよねっていう。
面白いよね。
たぶんその、うちらはたぶん趣旨学的な、頭からに返せる感覚で、
基本的にはベースにはなってるけれども、
じゃあ一方でこの仙方なしとか物の哀れって言われた時にも、
なんとなくこう、分かる部分ってあるなーって思ったんだが、
これはやっぱりその趣旨学と陽明学と似たような関係だなと思ったんだけど、
なんだろうなー、やっぱりすぐその相対主義というか、
もうあの、俺がこう思ったんだとか、いや私はこう思ったみたいな、
そういう方にも行きそうで、なんかどっちが帰りそうだなって思った。
そうそうそう。
ほら、やっぱりこれはまさに哲学の宿命というか、
まさにこの、これが正しいんだっていうふうな発想と、
相対主義的な差がいろいろあるっていうところがやっぱり揺れ動いて、
やっぱり世の中、哲学って発展してきた。
これ有名論と実在論とかっていうようなことも言ったりするんだけれども、
そういうふうにやっぱり違う発想がお互い対立し合うことで、
やっぱり人間の発想ってより深まっていくっていうか、
やっぱり発展していくとすると、趣旨学とかそういう空心に対して、
やっぱりそうじゃないものごとの捉え方とか考え方とか、
世の中の使い方があるっていうふうな意味では、やっぱりすごい良い相対化をしてくれてるんだよね。
いやー、そうはね。
例えばこのモノの哀れ的な話、今回の話だったりとか、
要命学が実際相対主義的な、何でもありの世界観かって言われると違うじゃん。
違う。
だから、いわゆるこの問題の本質、これこそが正しいんだっていうことと、
もうちょっと本質的な部分のスタンスが正しいのだ、みたいな。
ただ出てくる答えは人それぞれかもね、みたいなのがあったときの難しさで、
何だろうな。だから、もしかすると本質的には一緒なのかもしれないよね。
例えばっていうのは、これこそが正しいのだっていう厳密主義的な方も、
その本質からちゃんと理解すれば、例えばそんな極端にはならないでしょうとか、
そういう、例えば揺らぎは許すでしょうとか、
ある意味、そこを指針としながらも、
実際の生活とか実際の局面で生まれてくる揺らぎとか、
柔軟性って出てくるんじゃないかなって個人的な期待してるので、なんとなく。
なるほどね。
で、一方で、例えば陽明学とか今回の話を言うと、
みんなそれぞれを曲解しちゃうと、
いや、俺も正しいし、君も正しいしとか、
いや、俺が正しいんだ、お前はダメなんだ、みたいな変なふうに、
それぞれ言っちゃうんだけれども、
その本質を正しく理解したとすれば、
本当の意味で、僕も正しいし、あなたも正しいねって本当の意味で言えるかもしれないし、
本当の意味で、僕は正しいけど君はちょっと間違ってるかもね、
っていうふうなことは本当の意味で言えるかもしれないみたいな。
神の秩序と日本の歴史
だから、実際同じことをもしかしたら言ってるのかもしれないんだけれども、
実は同じ難しさがそこにあるみたいな。
そうだね。
ただ一般、理解できない前提でそれを、
社会とか共同体にポンって投げたときの共同体の挙動が違うっていう。
その原理主義的なほうがみんなそうだそうだって、
もしかしたら扇動みたいなふうにされちゃうかもしれないから、
一つのほうに行っちゃうかもしれないけど、
相対主義的なほうはただどちらかあるみたいなさ。
そこの起きる現象は違うだけで、みたいな意味で言うと、
やっぱり受け取る側の、これは理想郷みたいな話だけどね。
受け取る側がちゃんとしてればどっちでもいいじゃんみたいな。
ちょっと思った。
でもね、今兄貴のおかげで一個で言いたいなと思ったことを忘れたことを思い出したんだけれども、
今兄貴のいわゆる違う思想とか発想を持ってる人も分かり合えるんじゃないかとか、
共通の思いを持てるんじゃないかっていう話をしてくれたと思うんだよね。
それは多分学問とか、いわゆる哲学の領域ではあり得るんだけれども、
これが一気に宗教になると話が変わってくるんですよ。
どういうことかって言うと、
森永さんの話で一個、ああーって思ったのが、
ああーっていうのは、やっぱり僕らは受け入れられないなと思ったのが、
彼の発想は、日本はアマテラス王女神の、作った秩序がありますと。
そこまではいいじゃん。
なので、日本は他の国よりも優れている。
逆に言うと、他の国は神の命を知らない、劣った国であるっていうふうな発想に繋がるんだよね。
今日のお話で言うと、神の秩序が足りないから、
人が作った学問ごときが、学問風情が必要になってしまうのだ、みたいな感覚ってことね。
統治者もわんわん変わって、わざわざ変わらないようなものを作らなきゃいけない。
わざわざ王朝が変わらないためには、維持するためにはっていうものを。
日本はそんなものいらない。
なすなら天皇というものがいて、神の秩序があって、常に続いてきたじゃないかと。
今回僕らからすると、天皇も南北に分かれたりとかいろいろあったっていうものを歴史的に知っているから、
単純じゃないよって思うんだけれども、
当時の歴史認識からすると、そこまでの細かいものはないはずなんだよね。
だから天皇がちゃんと日本というものを続いてきた。
要は同じように日本という国を存続させ続けてきたと。
そうすると別にそんな秩序をあえて作る必要がなかったんだと。
そうなったときに、やっぱり日本は優れていて他の国はダメだみたいな、
そういう感覚が実はのりながらにもあるんですよ。
なるほど。その謎のプライドね。
謎じゃない。だって神がいるから。神によるプライドね。
これはさっき言った宗教って話で、
これは僕もあんまり詳しくないから言えないけれども、
やっぱり宗教によっては、やっぱり他の神によって信じている奴は邪教徒だからね、滅ぼせとかさ。
それは一切わかり合えないから、むしろ殺してあげた方があいつのためだみたいな感覚を持っている宗教もあるわけだよね。
それをどこまで行っても、その違いを乗り越えて共感できると思うのもまたおこがましいっていう発想もあるんだよね。
なるほど。
なぜならそれって、神様が言うことを捨ててくださいってことじゃん、相手に対して。
わかり合えるっていうことは。
つまり、邪教徒は仮に滅ぼせという、そこまで効かないようにせよ、神様がいたとして、
そういうことをしたらダメですよ。それはダメで、もっとお互いにわかり合いましょう。
共通の理解を持ちましょうっていうことは、神の言葉を捨てなさいっていうのと一緒だから。
それが非常に攻撃的なんだよね、本来。
なるほど。これは面白いね。
自分がある意味、例えば無宗教というかな感覚だから、何を言ってもいいかとか、
みんなわかり合えるはずだとかいうのは、逆に無神経な場合があるというか、話だね。
本当にそうです。
ああ、面白いね。
僕もそれを人に指摘されて、そっかって思ったからっていうのもあるんだけど、
なので、やっぱりさっきね、わかりやすそうな原理主義と相対主義とかって言葉を使ったんだけれども、
ある種、原理主義側の人からすれば、そんなものは相対化できない。
ですなら、自分たちのとか、今自分が持っている発想こそが全てだからっていう発想もあるし、
相対主義の人からすると、いやいやそんなものないよみたいな話にしたときに、
日本古来の思想の探求
よく言われるけど、そんなものないよっていう発想を絶対化しているみたいなことがあったときに、
どちらもすごく矛盾しかちなんだよね。
ああ、言うてね。
それが旗から見ると矛盾に見えるんだけれども、本人たちはかなり切実なレベルで真面目に思ってるから、
そうです、そうです。
外野からやいのやいの言うと、それが実はただ、こっちは何の気なしに、
いや、どっちも正しいよとか、中立があるはずじゃん、みたいなことを言うのは、
攻撃しているのと変わらない。批判というか、批判だよね。
悪口言っているのと変わらない。
外から石を投げているのと変わらないみたいな感じだよね。
なるほど、確かにそれは不誠実かもね、確かに。
なるほど、なるほど。
ってなっちゃうんで、やっぱり思想哲学はすごく難しい。思想宗教はやっぱり難しい。
哲学はやっぱりとはいえオープンに話しましょうとか、お互い言葉というものを何とか使って共通理解を作りましょうというスタンスがなくはないから、
その意味で僕は哲学が好きだし、やっぱり哲学って面白いと思っているんだけれども、
たぶんのりながわさんに、そんな日本の神様だけじゃなくて、
哲学は良いことありますよって言っても、たぶん全然伝わらないはずなのよ。
確かにここまで思っている人だとそうだね。
存在は認めてあげるけど、価値は感じないよとか、たぶん普通に言われちゃう気がするんだよね。
先方なしで今日本は広がっているけど、認めないけどね、みたいなね。
本来もっとちゃんとしたオカミがいれば、たぶん自分の方を取るけどね、ぐらいに思っている人が多いんだよね。
言い詰めたことなので、やっぱりこののりながわさんの、ある種突き詰めた国学日本の、
特に古事記、日本書記というものを深く理解したからこそ、
思想とか、哲学とか空心的なものを相対化した。
そうやってめちゃめちゃ惹かれるんだけど、やっぱりのりながわさんの思想を、
これに基づいて生きようとは思えない。今の自分がね。
というところの難しさがあるなと思って、それがめちゃめちゃ面白いと思ったんだよね。
江戸時代の思想と哲学の違い
いやー、なるほどね。だからあれだもんね。
ハヤトは今回、江戸時代の哲学じゃなくて、江戸時代の思想ってわざわざ言ってるのはやっぱりその辺なんだ。哲学じゃないよっていう。
哲学ではないと思う、これは。
というようなところですね。なので、主旗から始まって、本当にね、今この本森のりながわまで来た、
500年ぐらいかな、時代的には隔たっているんですけど、
哲学の面白さとか、日本でそれはどう受け継がれたかっていうのも、結構抑えてきたかなと思うし、
最後として、哲学をある種批判しつくしたというか、
全然そんなんじゃダメだよっていうふうに言った森永さんの、やっぱり強みもあるし、でもそれって、
僕らからすると、神様はそんなこと言ってもね、みたいなところの、なんとなく受け入れきれない感覚を含めて、
いろんな発想がありながら江戸時代っていうものがあったっていうところを少し抑えなきゃじゃないかなと思ってるんですよね。
わー面白いね。この国学、元森のりながわの国学は、どんぐらい影響があったのかな、実際。
まあ500人弟子がいたとかってあったけれども。
えっとね、実はそれを次回お伝えしようと思っていて。
おー。早いところに手が届きますね。
ありがとうございます。やっぱ面白いっていうか、気になるじゃん。これってどうなのとかさ。
そうそうそうそう。
江戸回の冒頭にも言ったけど、そういった朱子学とかって、僕らの前提にあるかもしれないけれども、
学問として学ばないじゃないですか、朱子学とかをね。
確かにね、そうだよね。
どこ行っちゃったのって、やっぱり僕自身も思っているんだよね。
なのでちょっと次回、これもちょっと諸説ありませんになっちゃうとは思うんですけれども、
なんで江戸から明治になったときに、朱子学とかってどこ行っちゃったの?
それとも明治とか大正ぐらいまであったのか、それとも本当に西洋に駆逐されちゃったのか、
この辺どうだと思っているところをちょっと調べようと思っているんで、
それをお届けして、江戸時代の思想編最後という風にしたいなと思っておりますという感じですね。
信仰と思想の交差
おー面白そうだね。ぜひぜひ。
あと今日のハエットの話でいうと、ちゃんと何か信じている人、
宗教だったりとか信仰、分かり合えないことがあるみたいな話、
そこは自分的には盲点というか、
確かにその中立、無宗教みたいなものの方が、
多分優れてるというか、柔軟性があっていいかもみたいに多分思ってたのかもなっていうね。
お面識的にね。
そうそうそうそう。
でもそう考えると、この元桜里信長が日本の方が優れてるって普通に思っちゃったみたいな感覚って、
なんか下手したらというか、もしかして根は同じなのかもなって思った。
あーすごいいい感覚だと思う、それは。
だから本人が強くそう信じてるとかじゃなくて、
なんとなく自然とそう思っちゃってる?
そうそうそう。
だからさっきのように言ってくれたけど、
受学者からしたらこうし申しになろうっていうのは当たり前にいいことだし、
宗長さんからしたら、神の指導に基づいて先駆なしで生きていくっていうのはいいことだし、
僕らからしたら、いわゆる人と仲良くしましょうとか、
人種とか国家とかさ、いろんな文化が違ってもやっぱり理解し合いましょうではいいように思っているんだけど、
それって全部たぶん根は一緒なんだよね。
根は一緒、今はやとはいいっていうことは当ててくれたんだけども、
いいですらない、当たり前みたいなさ。
あーなるほどね、そっかそっか。
だから元森信長が当時生きてる人が朱子学だったりとか、
日本の古来だと思ってる、たとえば御苗字みたいなもの、
そういうものを古来のものだとも思ってないというか、ただ思った。
当たり前にね。
だからそんぐらいの感覚、いいとも思ってなくて、
そういう土俵にも入ってないっていう感覚だったと思ったから、
今こうやって時代を遡って元森信長を見ると、
だいぶ日本好きじゃんみたいな風に確かに見えるかもしれないけど、
今日流行ったのは自分に言ってくれた、忠義的な立場っぽいところから、
他の宗教の矛盾点みたいなものをついて分かり合えるはずだとか、
なんの気なしに言ってるみたいな、みんな友達みたいなさ、
それぞれいいじゃんみたいな話を、分かる分かるみたいな話をしてるっていうのは、
もし同じだとすると、だいぶ危ういなっていうね。
そうなんだよね、実は。
怖っ。
僕もまさに同じようなことを言って指摘されたことがあるから、
自分の無自覚さというかその浅はかさをすごい思った時があったんだけど。
それってだって早藤もその時別にいい悪いの観点で話してなかったでしょ?
そういう問題ぐらいの。
思ってた。
まさにその宗教的な話の時に、
いわゆる神が違っても理解できるかどうかみたいな話をしてて、
それはできるでしょうと。
だって神様が薄いってことは当たり前じゃないですかって言ったら、
それがどれだけ怖いことかわかってますかみたいな話になって、
一神教の人からしたら自分の信じる神様以外はいないわけじゃない一神なんだから。
そうだよね。
だから他の神様を信じるということは自分の神様を裏切るというか疑うことに直結するときに、
それはできないよね。
それをなんとなく21世紀の時代じゃないですかと、
多様性のいろんなことがあっていい世界じゃないですかっていうのは、
例えば仮に、これ想像だけど10人しかいない一神教があったとして、
うち一人が減ったら、いわゆる信者が膨大な、要は9人とかでどんどん消滅したわけじゃないですか、その宗教が。
その時に一人が他の神様もいるよねとかって言おうもんなら、
それってすごい、何て言うのかな。
何を言ってしまったんだこいつはみたいな、鎌内からすると。
本当に事件じゃん。
そういうぐらい、自分の信じる主義、主張、神様、思想っていうものを捨てるっていうのは本当に怖いことだと思うんだよね。
哲学だけは唯一じゃないかもしれないけど、ある程度多様性が得られやすい、
科学的なことってあると思うんだけど、
やっぱりその真理っていうものを何となく置きながらも、
例えばいろんな発想があっていいよねとか、そもそも一個の発想だけでさりつくないものがあるような気がするっていうふうな営みだなと思うから、
だからこそ自分は哲学が好きだし面白いなと思っているっていう感じなんだよね。
なるほどね。今回その話してもらってよかったね。
すごい兄貴が見えないところに光が当たったかもね、今ね。
そうそうそうそう。
あんまりね、だからそういう、特に多分日本にいると、
そんな仕事の中でもそんな微妙な線を渡るほどの、
そんな話ってそんなにしないよね。
基本はしないよね。
意外的な話だけど言うとそんな別に、そんな地雷みたいなのは限られてるというかさ。
そこが信仰レベルっていうのは本当、そこがイメージのないことの無責任さだよね。
だから日本矢を寄る図だからいいじゃんっていうのも、もしかしたら一つの無自覚な思想なのかもっていう。
本当そう思う。
これはダメだ、ダメというか、面白い観点だなと思ったね。
そうね、でも今の話は面白くってやっぱりその、
当然だけど自分の考えって光を当てないと見えないし、
分かりやすいこともできないじゃない、それを反省することもできないし。
そうだね。
だから今ね、それと兄貴が言ってくれたことで、確かに僕らって無意識に、
まさにそういう英語なのがいいことだとかさ、神様っていっぱいいてとか、それってお互い分かり合えるよねとかっていうことに、
無意識に本当に思ってるとしたら、やっぱりそれちょっと怖いよね。
そうだね。さっき兄貴が言ったけど、哲学はそこが割と自由にされてるっていう意味で、
このそれ哲ラジオは哲学をメインで扱ってるから、
あれと何言っても許される感覚って今まであった気がしたんだけど、初めて。
今回は思想ベースだから、やっぱりそういうとこ間違っちゃうと単に、
無意識、無責任な、無自覚な自分の意見の押し付け、
良かれと思って言ってるけど、ただの批判みたいなさ、相手からそういうことがあり得るのだみたいな。
そういう意味で、そのうちどこのこの思想みたいな。
例えばさ、さっきの言うと、一神経的な感覚ってどういう感じなんだろうかみたいなさ。
そういうのを聞いてみたい気がしたな。哲学とは全然違うし、
かやとの専門というかね、興味分野が違うからちょっと難しいか、その辺はもしかすると。
いや、興味は非常にあるんだけど、やっぱそれをね、
このポッドキャスで扱うことの怖さがあるとやっぱ思ってて、やっぱそれが、
無意識的にそういう思想で生きてる人をやっぱり傷つけてしまうとか、
同じことか、家庭起業というか。
相対化してしまうことになっちゃうから。
当事者でもないうちらがね。
あれとしたら、いわゆるキリスト教的な思想の中で別れていった、
例えばカトリックとかネプロテスタンとかっていう時に、
それって一体どういう違いがあったんだろうかみたいな、
そういうことを伝えることができるかなとは思うんだけど。
確かにあるとしたらあれだね、たぶん聞き手を自分じゃなくて、
本当に宗教の牧師さんとか神父さんみたいな、例えば。
やるとかの方がいいかもしれないなと。
じゃないとダメかもね。
なるほど、いやちょっとでも面白いね。
今までなかった話、ごめん、ちょっと大きな感想になっちゃったんだけど、
元森森永さんじゃないってことの感想になっちゃったけど。
はいはい。
面白いとこも、やっぱり神様の秩序でとかっていう話って、
もちろん中世史学とかもやったけれども、
本居宣長の思想の探求
あの時はどっちかっていうとキリスト教の宗教という思想的なところにできるだけ光を当てていたから、
だからあんまり感じにくかったかもしれないけど、
元森森永さんはかなり神様の秩序みたいなもので、
特に日本の秩序とかっていうところで言ったから、
特に受け入れにくい部分があったからこそ感じたかもしれないね。
うーん、そうだね、確かに。
そんな感じで最後ちょっとバーっと色々喋っちゃったんですけれども、
近いですね、さっきお伝えした通り、
なぜこの江戸思想が明治まさに開国して、
まさに国が変わっていくって時にどうなったのか、
っていう話を踏まえて江戸思想の最終回というところで終わっていきたいなというふうに思っております。
分かりました。では次回ですね、江戸思想の最終回ということで楽しんでいきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
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