今回は、アンリ・ベルクソンの主著「道徳と宗教の二源泉」。
いまだ止むことない戦争の時代に、真の道徳はどのように生まれてくるのか。
今の時代だからこそ、平和への道筋を見出すために、本書は読み継がれなければならないように思います。
平和な社会をつくるために、道徳論を一緒に深めていきたいと思います。
サマリー
道徳性の発達理論とベルクソンの道徳論を比較し、コールバーグの理論と彼の前提に基づく認知的な捉え方について考察しています。ベルクソンは、道徳の進化を生命の創造性に結びつけ、理性的な整理だけでは説明できない真の道徳の育成を提唱しています。このエピソードでは、道徳の発達理論とベルクソンの道徳論が比較され、道徳性の多様な側面が探求されています。特に、感情やスピリチュアリティに基づく道徳の理解が重要視されています。
道徳性の発達理論の理解
ちょっと話が変わるんですけど、僕、発達理論を結構日清に学んでた時があり、それで大学院、アメリカの大学院行こうとしてた時期もあるんですよ。
で、発達理論の中には道徳性の発達理論っていうのもあるんですよ。
で、僕、先にそっちを知っていたから、そっちとベルクソンの話ってどう違うんだろうみたいなこととかを、結構意識して最初の頃読んでたんですよね。
ほうほうほうほう。面白い。
そう。で、その話をすると道徳の捉え方の深みがちょっと増すかなと思って、ちょっとその話もしてみたいなと思ってるんですよ。
いいですね。
いいです?ちょっと話していて。
もちろんもちろん。
発達心理学って、ジャン・ピアジェっていう20世紀を代表する心理学者の人がいるんですけど、ピアジェが結構大きくて、ピアジェの後継者として、その系譜を受け継いで道徳性についての発達理論っていうのを作った人がローレンス・コールバーグっていう人がいるんですね。
コールバーグは20世紀に来た人だから、そこから今21世紀になって、コールバーグの理論を引き継いでさらに磨いていってる人たちもいるんですよ。
で、一旦ちょっとここではわかりやすくコールバーグの道徳の発達理論を見てみたいんですけれども、コールバーグの発達理論って3つに分けてます。細かく言うと6つに分けてるんだけれども、ちょっと3つで話しますと。
で、この3つは何かっていうと、まず監修的段階っていうのがあるんですよ。監修的なモラルっていうのがあるんですよ。
おー、なんか近そうな話が出てきましたね。
で、その前がプレ、プレカンバセーショナルモラリティ、だから監修的段階の前、全監修的道徳っていうのがあるんですよ。
で、そっから監修的な道徳になって、監修的な道徳の後がポスト監修的、ポストカンバセーショナルモラリティっていうことになってくるんですね。
前後で挟んでるのね。
そう、そう、っていう3段階なんですよ。で、プレ監修的って言ってるのは自己中心的なんですよ。
しかもその監修的なものに従ってない、もう足りなく自分の存得とか自分の欲求を満たすことで突き動かされてる人なんですね。
だからわかりやすく言ったら、子供とかがそうで、盗んじゃいけないけど自分が欲しいから盗んじゃうみたいな話なんですよ。
それが監修的段階になると、社会一般の習わしに従うようになるわけですよ。
そしたら法とか秩序とかも含めてそこに従って善悪を決めたり不留まるを決めるわけですよ。
っていうのが、ほとんどの人がこの段階。
で、ポスト監修的になってくると、そういう社会一般とか法や秩序みたいなものさえも疑っていき、より普遍的な倫理原則、道徳原則を求めていくという段階に入っていくと。
ざっくりこういうわけなんですよ。
これ異変なことに言えるから、僕も仕事の中でちょっと援養したりしてるんですけど、こういう発達が、ざっくりするとあるわけですね。
なので、例えば以前扱った運命のトリソミーの中で出てきた西田先生の話ってあったじゃないですか。
13トリソミーの患者に会ったときに、今までの常識では、延命治療、救命治療はしないということだったわけですよね。
それはなんでかと言って、手術しても短命ということは変わらないんだから、手術して傷つけるってことを避けたほうがいいでしょって。
それが一般的な倫理規範だったわけですよ。
それに従ってたわけ西田先生も。確かにその通りだと。
これ、監修的段階なんですよ。
でも西田先生は、実際そういう患者たちに生に出会って退治していくわけですよね。
そこに一つの固有の命と出会っていくと、葛藤が生まれてくるわけですよね。
それでいいんだろうかって言ってる。
これがだから、ポスト監修的段階に入ろうとしているところなんですよ。
っていう分け方なんですよね。
ベルクソンの道徳論と生命観
こうやって道徳というものは進化をしていくんだっていうことなんですよ。
その段階を細かく分けてくれているという話なんです。
ここまでわかりやすい。
納得するじゃないですか。
まあまあ納得するよね。
階段で上がっていくイメージだよね。
そうそうそうそう。
だから俺、ベルクソンのこの本を読んだときに、
ベルクソンが言ってる一つ目の原先の、
結局監修っていうのはまさに監修的な段階のことを言ってるんでしょと。
で、もう一つの原先って言ってるのは、
ポスト監修的のとても高い次元から来ていることを言ってるんでしょと。
そこを抜き出して言ってるだけなんでしょっていうふうに見えちゃうわけ。
はいはいはい。
でも、確かにそうとも言えるんだけど、
僕も1年半講義を受けてくると、
どうもそうじゃない部分があるなってことに気がついてきたんですよ。
おーそれは面白いね。
それは聞きたいね。
で、何かっていうと、
結局ね、ロレンス・コールバーグが扱ってるのってピアジからの影響なんだけど、
ピアジとかも認知の発達を扱ってるんですよね。
認知。
これ、ベルクソンで言う理性に近いんだと思うんですけれども、
人間っていうものを認知的な存在、理性的な存在として捉えているわけです。
前提として。
そう。
でも、ベルクソンっていうのは人間の存在を生命として捉えてるんですよ。
はいはいはいはい。
前提が違う?ちょっと。
おいてる前提っていうか。
ちょっと人間感違うんすよ、やっぱり。
人間感だね。
ベルクソンって3つ目の主張が創造的進化で、
あそこでエランビタールっていうのがあるんですけど、
生命というものが創造を作って進化させてきたっていう、そういう話が書かれてあって、
道徳も同じことが起きているっていうことを、ここでは同じ話が起きてるわけなんですけれども、
はいはいはい。
ベルクソンっていうのはそういう生命の浄土とか創造みたいなものに着目してくれてるんですね。
だから道徳発達っていうのを、段階的に発達していくよねってコールバーグは捉えてるけれども、
ベルクソンってもっと一気に飛躍したりするみたいなこととかにフォーカスを当てているし、
理性的に何か整理して、よく実行されて、やっぱりこっちのほうがいいんじゃないかみたいなことよりも、
もっと浄土的なものとかっていう、質感が違うんですよやっぱり。
みたいなもので道徳っていうものは真に育まれていくんだみたいなことを言ってるんですよね、ベルクソンに。
はいはいはいはい。
で、確かにカラマー族の兄弟読んでるとね、
ゾシマ長老のお兄さんの話とかも、病になって寿命半年になり、急激に激変したりするじゃないですか。
確かに飛躍オンパレードでしたよね。
そうそうそうそう。でもどこかで、可笑しいけどあり得るとも感じるというか。
そうですよね。
そう。で、あの側面って、やっぱりコールバーグとかピアジオの理論じゃ説明しきれないんですよ。
段階を飛躍しすぎてるから、なんか。
順番に階段が上がっていくこの線的なモデルじゃなくて、急に質が変わるみたいな。
道徳の理解の多様性
そうそうそうそう。でもベルクソンの話だとそれがなんか説明つくような感覚がしてくるというか、感じがしてくるわけ。
でもコールバーグと言ってる段階も、なんか納得感があるから、やっぱり認知的理性的な側面から見るものと、
ベルクソンの言うような、こういうエモションとか、冷静的な部分もベルクソン扱ってるから、
そういうスピリチュアリティみたいなものとかから見る道徳性みたいなものとか、やっぱりちょっと違うんだろうなみたいなことを思っていて。
なんか二つとも確かにあり得るというか、あるよなみたいなことを一応現時点ではないかと思ってるわけなんですよ。
どっちが正解どっちが間違いとかじゃなくてってことですね。
うん、両方ともあるよねって。
あるよねっていう感覚があると。
うん。
むしろちょっとコールバーグの話でベルクソンの話を収めることはちょっと違うなっていう、なんか忌ましみを自分はちょっと持ってて。
うんうんうん。
確かに、なんか収まりき、どっちが大きいとかじゃなくて、双方に収まりきらなそうだよね、なんか。
そうそうそうそう、そうなんですよ。
なんとなくね。
うん。
うーん、いや人間観、どの人間観からこの道徳を捉えるかですと結構違うんだね、なんか面白いなあ。
そうなんだよね。
いや面白いなあ、面白かったなあ。
普段ね、道徳ってあんまゆっくり考えないじゃないですか。
多分日常の中でさ、無意識にいろんなところで作用してるんだと思うんですけど。
うんうん。
意識しないから。
うん。
うん。
そういう意味でもすごい面白かった。
うん。
りょうさんどうでした?
ねえ。
うーん。
改めて、自分がなんでこの本をこんな熱心に勉強しているのかっていうと。
確かに。
一応今になって思うのは、中田さんに何度も話してるけれども、やっぱりアレクセー的なね、何かこう人間性みたいなのに憧れがあり。
うーん。
そこに近づきたい、少しでも近づきたいと思っている自分がいますと。
で、そうするためにはどうすればいいのかみたいなものを、なんかこの本から掴もうとしてる気がするんですね。
うんうんうん。
いやー。
呼びかけだよね。呼びかけられてるのかな、じゅんさんも。
そう呼びかけそうなんですよね。
呼びかけなんだなあと思って。
だってきっといろんなエモーションがあったんですよね、じゅんさんの生きてきた人生。
これまで触れてきた、いろんなものにね。
ねー、そうですね。
そこに呼びかけられてる。
うん。
うーん。
それを紹介してくれてんだよね、この文学ラジオは。あるし、ちょっと遅わけど。
そうかも。
じゅんさんのエモーションが動いた。
うーん、そうなんすよ、そうなんすよ。感動したことを伝えたいっていうね。
感動っていうのは最初からあるテーマでしたよね、本で。
そうでしたね。
それを、うーん、素晴らしい感動の先人たちが紡いできたものを、そう考えるとめちゃくちゃ、そう見るとさ、人間の歴史を、なんかすごい。
すごいですね。
紡いでるわ、なんか。
うーん、それに今でも触れられるっていう、すごいわ。
ねー。
うーん。
そういうものが、こう、社会の中の、地下水脈みたいなところで、みゅくみゅくと流れてるって思うだけで、かすけたもんじゃないなって思いました。
ねー。
安い感想だけど。
いや、ほんとそうなんすよ、ほんとに。希望の本なんですよ、俺はほんとに。
うーん。
すごい。
ま、またちょっと僕、引き続き講座受けていきますんで。
それ時々登場する感じですね、絶対。
1年半後ぐらいになるかもしれませんけれども。
忘れた頃にね。
あの、ホチカメでさ、時々起きてくる人いるじゃないですか、日暮さんみたいな。日暮さんだっけ。
なんか、何年かに1回起きる人いるんすけど。
そんな感じで登場してくるのかな、この本が。
ねー。
うーん。
うん、忘れた頃にまた。
うん。
はい。
扱ってください。
扱ってください。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
また次回。
はい、ありがとうございました。
ありがとうございました。
13:11
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