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2025-06-08 48:26

#324 もはや道徳のイデア?カント『実践理性批判』による道徳と定言命法

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

カントの『実践理性批判』では、道徳と定言命法に関する新たな視点が探求されています。特に、人間の意識や行動における自由や正義の概念が、経験を超えた認識としてどのように存在するのかが考察されています。カントは理性の本質を探求し、道徳的行動の根源を考察しています。彼は条件付きではなく、無条件の道徳として定言命法を提唱し、道徳の普遍性を強調しています。このエピソードでは、カントの『実践理性批判』における道徳の概念と定言命法の役割について掘り下げられています。道徳は普遍的なルールとして理解されるべきであり、自分自身の行動とその選択をどう結びつけるかが重要なテーマとなっています。カントの『実践理性批判』を通じて、人間の道徳的地位や定言命法の重要性について考察されています。

カントの理性批判への導入
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回もカントということで、前回まで純粋理性批判っていうところを見てきたんですけれども、今回から実践理性批判どこに移っていくっていうような話をしてたというところでした。
そうですね、前回かな、人間の知る、常念とか感情、意欲の意みたいな、これで知、常、意っていう3つがあって、これをカントが結構深掘りしたんですよっていうふうな話をしたと思うんですよね。
前回までのこの純粋理性批判っていうのは、いわゆる知るだよね。この営みっていうところで、単純にロックンかヒウムが言ったような経験を外から受け取る、外から内へっていうことじゃなくて、
人間の中にある空間とか時間という枠組みとか、それが個性だよね。そういうふうなものが働きかけて、世界を作っていくんだと。
っていうふうな感じで、世界そのものを人間が取り込んでるんじゃなくて、物自体が見えなくて、人間の方が派手めで世界を作り上げているんだみたいな。そういうことをお伝えしてきたと思うんですよね。
はいはいはい、その辺が全然ベルニークス的展開だったみたいな話だね。
そうですそうです。
その辺は何となく覚えてる。
よかったよかった。
ディテールはね、もう1週間、2週間になると忘れ始めてるけど。
そういうニュアンスだけでもね、つかんで終わったら本当に大丈夫かなと思ってるんですけど、そういう意味でいくと、カウントにとって知るという営みを考えると、
あくまでも現象を知るので、世の中そのものじゃなくて、僕らってやっぱり写しみたいなものしかわかんないよっていう感じなんだよね。
へー、そうなんだ。
だから、やっぱり経験できないものは本当の意味では認識できないというふうな話なんですけど、
例えば、いろんな抽象的な概念ってあるじゃないですか。
例えば、PUBの時にやった正義とかもそうですし、あるいは善とか自由とか、
そういうことはもう、あなたが自由を経験してますかって言われると、結構難しくない?
あー、まあそうだね。これはHUMEの話で納得したけれども、
正義そのものとか、美そのもの、美しいそのものみたいな、イデア的なものはやっぱり経験できないよね、
一生ないよねっていうのは確かにいいと思ったよね。
そうですね。PUBの時はね、正義そのものというか、正義の心であったりとか、
正義っていう気持ちから出る行動とか、そういうものを通じて、
僕らは正義っていうものをある種、体験できるよね、経験できるよねっていう話をしたと思うんですよね。
はいはい、そのものじゃなくて、その文化って人たちなりのみたいなね。
だからそこで、神そのものと正義そのものとはちょっと違うよとか、
正義そのものはわかんないけど、正義っていうことは実感できるよっていう、
ちょっと苦しいけど、なんとか理解できるんじゃないかっていう話を当時したと思うんですよね。
人間の挙動をそれで説明したっていう感じだったね。
そうそうそう、そうですそうです。
感度から言わせると、やっぱり正義を認識するとか、正義を経験するってちょっと違和感があるよねと。
それで目の前のリンゴを見るとかさ、何かドアを開けた時に触れた感じがするのはやっぱりちょっと違うよねと。
もっと言うと、感性って前回みたいに感性と誤性に分けて、
感性がキャッチしたものを誤性で枠付けするみたいな、そういう仕組みだったじゃないですか。
そういった時に、正義とか善とか自由って感性で捉えられますかって言うと、無理筋だよねって考えちゃうんだよね。
へー、なるほどなるほど。
そういう意味でも純粋理性で考えると、そういうものって認識はできないよねっていう感じなんだけど、
でもやっぱり僕らって、とりあえず自由になりたいとか、正義の心で行動するとかってあったりするじゃないですか。
っていうふうに、やっぱり僕らの人生にとって意味深くて、ちゃんと行動とか判断に影響を与えているとしたら、
何かこれ考えなきゃいけないように思うわけだよね。
はいはいはい、なるほどなるほど。
ヒウムが言ってることに100%はできないけど、じゃあ自分どうしようっていう環境でいるみたいな感じだね。
そうですそうです。
逆に純粋理性をある種やりきって、人間の知の部分はやりきったら俺の仕事は終わりだじゃなくて、
その知ではやっぱり扱えないものがあるっていうことを証明したのが純粋理性批判なんだけど、
その扱えないものをどう扱いましょうかっていうことをどんどん考えていくわけだよね。
あーそっかそっか、人間の挙動としての限界っていうものを一旦あったから、
でもその外に、例えばこういう正義みたいなものがあったときに、これもとはいえ存在するというか、あるよねみたいな。
どうしようみたいな。
大事じゃんっていう。
そういうところで歩みを止めないんですよ。
はいはいはい。
今日はその話をしていくんだけれども、立選リスクとかって話をする前に1個お伝えしたいのが、
これはちょっと言葉として使わないかもしれないんですけれども、
構想力、構想って何て言ったらいいのかな。何かを組み立てるとか、構築の構に想像の層かな。
あーはいはいはい。
構想力っていうふうな働きを考えていて、
例えばこれ、前回もちょっと話したことあるんですけれども、
いわゆるペガサスとかケンタウルスみたいなものがあったときと、
あとは例えば正三角形、いわゆる正五角形とか正六角形とかあるじゃないですか、
っていうときに正三角形っていうものをちょっと考えてみたいんですよ。
概念の認識と実践理性
ほうほうほう。
そう。例えば前編のケンタウルスとかでいくと、
あれって要は上半身が人間で下半身が馬っていうふうな存在というか、何かキャラクターだと思うんですけど、
それは僕らは想像できるよね、想像することは。
うんうんうん。
でもケンタウルスを実際に見て、やっぱり経験した人はいないでしょうと。
あーはいはいはい。
って感じなんだよね。ここまでOK?
OKOK。
で、次に正三角形、どうかどうかと考えてみたいんだけど、
これもおそらく見たことがある人ってほとんど嫌いと思うんですよ。
でもやっぱり定義からして、
千個の同じ長さの辺で囲まれた図形だよねっていうことが言われたら多分わかるし、
なんとなく想像しきれないまでも、
こんな感じ、ちょっと丸に近いけどちょっと尖ってるよね、道筋が。
そういうのは想像できると思うんですよね。
そうね。
つまりこの観点でいくと、そのケンタウルスも正三角形も、
その想像とか思考はできる。
うんうんうん。
でも、この感性で捉える直感とか経験ってものとは結びついてないので、
概念としては考えられるけど、認識はできないものっていうふうに言うんですよね。
あーはいはい。認識はできないと。
うん。ただできないって今言ったんだけど、正三角形はさ、頑張れば、
例えばプログラミングで表示するとか、
そうね。
で、なんかめちゃめちゃ正確な機械で書いてもらうとか、
うん。
やればそれ認識できますよと。
そうね、そっちはありそうだね、正三角形の方。
そうそうそう。
そっちは認識の可能性があるけど、今は認識できないとか、
経験したことがないっていうふうな概念なんだよね。
うんうんうん。
逆にケンタウルスはどんなに頑張っても、多分認識できないでしょうと。
まあそうだね、例えばそれを模したぬいぐるみとかさ。
あーそうね、イラストとかさ。
それだとあれだもんね、あくまで本物ではないから認識とはちょっと違うよって話で。
そうですそうです。あくまでもケンタウルスのイラストの認識であって、
ケンタウルスそのものではないって話だよね。
はいはいはい。
これってさっきの自由とか正義とかと結構近くて、
僕らは正義とか自由っていうものをある種概念として想像はなんとなくできる。
はいはいはい。
でもじゃあ正義を認識しましたか、それを賛成とらえましたかって言われるとちょっと無理。
この辺はなんかヒュームと近い感覚としてはね。
そうそうそうそう。
僕らはその認識ができなくても構造力っていうものを持っていて、
それを使うと正義とかケンタウルスとか正三角形とか見たことがないもの、
経験したことがないものも考えられるよね。
逆に言うとあくまでも経験したことがないものだから認識ではないよねっていう風な、
そういう風な区別をつけて考えていくんだよね。
はいはいはいはい。
なのでちょっとここまではどっちかというと前回までの純粋理性批判の復習的な感じなんだけれども、
こんな風にちゃんとシーンを置くことである種カテゴリーをちゃんと分けてあげる。
やっぱりじゃあリンゴとケンタウルスって同じように語っちゃダメだよねとか。
うんうんうん。
それと言うとリンゴと正義とか自由もやっぱり同じように考えられない扱えないっていうのをちゃんと切り分けてくれるんだよね。
はいはいはいはい。
これ結構さでもやっぱりなんとなく言葉にしては概念として持ってちゃうと、なんか同じように思っちゃったりするじゃん。
あーまあそうだねうんうん。
だってあの多分、関東の違和感がまさにそうだと思うんだけど、
その安定感が鋭いと思うんだけど、やっぱり実生活で正義だったりとかさ、
あとケンタウルスとかさ、いろんなものが当たり前のように使われている世界があったとすると、
その区別だよね。
普通は考えないもんね。それで基本そのものが回っていくからさ。
そうそうそう。
やっぱりなんとなくやり過ごせてしまうところをちゃんと規範して、どこまでが理性で扱えるのか扱えないのかっていうことを分けていきます。
これがすごい関東のさすがだと思うところなんだけれども、
さっき言った正義とか自由とかって、それこそもっと正しいことをすべきだとかさ。
もっと人が自由であるべきだみたいな感じで、いろんなことを僕ら思って生きてるんだけれども、
やっぱりこれって、なんとなく経験として受け取ったものをカテゴライズするだけでは出てこないよねってやっぱり関東は思っちゃうんだよね。
つまり、いわゆる人間の意思とか意欲みたいなもの。
さっきの地上意でいうところの意っていうものがあって、ただそれは知恵は扱えないんだっていうことに関東は気づくんですよ。
わー、はいはいはい。
これって本能とか感情なのって言うとそれも違っていて、
体験を超えた理性の役割
これもちゃんと理性で扱えましょうっていうときに、ある種実践理性っていう、別の理性を考えるんだよね。
はー、なるほどなるほど。面白いね。そうか。
ただ単に感情とか、ある意味不確定なものというか、
心みたいなね。
変に人それぞれでしょみたいな相対主義にせずに、それにもちゃんと仕組みと名前と構造っていうものを与えようとしてるんだ。
そうですそうです。
関東っぽく言うと、やっぱりそこにもアプリ寄りなものや経験に先立つものがあるよねって考えるんですよ。
わー、それを使うんだ。その考え方も。
そうそうそう。そうじゃないと、僕ら生きてる中で何となく、
例えば挨拶したら喜んでもらえたっていう経験を通じて挨拶は大事だっていうものを学ぶとも言えるんだけど、
でもその手前に、そもそも人とそういう心地よいコミュニケーションを取ることは大切だみたいな、
そういうもので立てれるんじゃないっていうことをやっぱり関東は考えるんだよね。
ほうほうほうほう。
つまり経験によらない素晴らしさとか善とか自由とか、
そういうものを考えていくときの働きを実践理性っていう風に考えて、
それも理性の働きだというところで考えていきます。
理性と本能の関係
それは出発点なんだよね。
わー、なるほど。
すごくない?この話。僕らって理性と本能とかすぐ分けたくなっちゃうけど、
理性にももっといろいろあるんだぜっていう話なんだよね。
いやー、そうだね。今回言うと、関東が言う理性とアプリオニな部分が、
うちらで言うと多分本能とか、そういうね。
そうだね。生まれ持ってあるものみたいなね。
そこの違いも多分あるだろうからね。
どっちが先なんだろうね。本能っていう概念があったのかな、そもそもね。
当時どうなんだろうね。本能か。
あんまりなかったかもしれないね。やっぱり理性って変調な時代だと思うから。
そうだよね。ディカイトンの漢字だとなさそうだよね、理性のやつが。
そうそうそう。でもやっぱり人が1個の理性だけだとやっぱり、
じゃあなんで人はそうやって感情的なものなのかとか、正義っていうもの扱うか、
わからない企画で、ちゃんと分けて考えていきますと。
そうはね。ちょっと今回の本数とずれるかもしれないけれども、
これなんとなくのイメージだけど、勝手なイメージだけど、デカイトンの方の理性の話をした時に、
ロックとかのエギリス経験論との比較の時にデカイトン悪くいった時の話だけれども、
デカイトン的な理性で言うと、そこからずれてる人、
例えば挨拶をしたら心地よく思うみたいな理性が人間にはあると考えてたとすると、
そう思わない人は異端というかさ、ちょっと排除される。
確かに確かに。
正しい理性を持った人間じゃないっていうふうに排除されちゃう可能性があるかなと思って。
そうだねそうだね。
カントの道徳観
勝手にだけどこっちのカントの話は、排除するとかそういうあんまり価値観ベースが薄くて、そこより。
はいはいはい。
人間とはこういうものだよっていう、簡単に分析してるみたいな。
臭いが強そうだなって勝手に思ってた。
それはね、めちゃめちゃ鋭いというか、やっぱりアンテナ高いなって思うんだけど、
カントは本当にそうなんですよ。
それを行き過ぎたときに、それはそれで問題というか結構いろんなことが起きてくるんで。
その辺りを今回次回ぐらいで味わっていきたいと思うんですけれども、
そういう意味でいくと、これまで正義とか自由とかっていう言葉を扱ってきたんですが、
これを一言にして道徳っていう言葉でちょっと今日は扱っていきたいんですよと。
道徳。
要は人はどう生きるべきかとか、何を正しいとすべきかみたいな感覚だよね。
そんなところを見ていくんですけど、カントが考えたことをすごい平たく言うと、
道徳っていうことをどういうふうに捉えたかっていうと、
僕ら個人個人がこれをするべきだとか、こういうふうに考えたり行動すべきだとしたときに、
そのべきっていう感覚ってどこから来るのっていうことを考えてくるんだよね。
これってなんで人は、もちろん全員がそう思ってるかわかんないけれども、
ある程度道徳的に振る舞うべきだっていうことを共通認識として持っているかという問いでもあるし、
もっと言うと、人は何である行動を正しいとか間違ってるとか、
おかしいとかおかしくないとかっていうふうに考えられるんだっけっていうふうな問いなんだよね。
これは地だけでは、要は経験からだけでは無理ですというふうに言います。
カントにそういうのを考えていくにあたってなんだけれども、まず外から与えられる理由。
例えばそれをするのが気持ちいいからとか、そうすると何かいいことがあるからとか。
もっと言うと宗教上の神の命令だからとか。そういうものを全部排除するんですよ。
カントはね、一旦ね。
カントはそう。なんでかって言うと、それは外から与えるものなので、
何でかって言うと、いわゆる何かいいことがあるからやるとか、やりたかったからやるみたいな話で、
本当の意味でどこでも通じる道徳じゃないよねって。
だから条件付きのやるべきであって、いつでもどこでもやるべきっていうことが道徳って言葉なんじゃないかってね、カントは考えるんだよね。
はいはい、すごいね。
だから徹底してるんですよ。
文化による違いとか宗教による違いみたいなものを一旦排除して。
そう、一旦排除して純粋に考えていく。
あるのかな、すごいね。道徳そのものに近づこうとしてる感じがするね。どうなるの?
意外と結論から言うんだけれども、カントにとって本当の道徳って何よって言うと、これは制限名法だって言うんですよ。制限名法。
どうだって言うとね、制限って絶対的なもの言葉というか、
ブーのネットの辞書から知らせると、どうだって言うと論理学とかの概念なのかな。
あることを無条件に主張しちゃうとか、断言するみたいな話なんだよね。
制限名法だよね。定める言葉の命だね。制限名法。法律の法か。
まったくこれだけじゃわかんないね。
ごめんごめん、今さっと言っちゃったんだけど。
繰り返しになっちゃったけど、その提言っていうのが、いわゆる断言するとか、無条件に成り立つみたいな話ですね。
名法はいわゆる命令するみたいなことで考えてもらっていいんだけど、
これは無条件にこうすべきだというみたいな、そういうものを制限名法って言って、
その反対、対義語として、下限名法、要は仮の言葉っていうものをある種強いにして考えるんですよね。
またさっきの、例えば何か挨拶をしたら、褒めてもらえるからやりますみたいな。
これって逆に言うと、褒めてもらえないならやらなくていいですっていうことも含んじゃうじゃない?
こっちは下限名法、仮の命令って感じなんだよね。
そうかそうか。絶対挨拶せよじゃなくて、褒めてもらえるならっていう条件付きだから。
そうですそうですそうです。
っていうふうな違いがあるんだけれども、もうちょっと下限名法の方を簡単に言うと、
要は、下限名法の話をしていくんだけれども、
これってカウント風に言うとどうなるかっていうと、
自分の行動をやってることが、みんなのルールになってもOKって心から思えるんだったら、
それって道徳的だよねっていうふうに言うんですよ。
おー、わかりやすい。
もうちょっと固く言うと、それを砕いた言葉ね。
固く言うと、自分の行動の原理原則。
これが全ての人にとって同じように当てはまるべきかを考えなさいっていうふうに言うんだよね。
わかんなくなったね。
同じことなのにね。面白いよね。
ちょっとね、具体例を挙げていきますと。
例えば、さっきは挨拶だったけど、今度は嘘をつくっていうちょっと悪いことを考えたいんだよね。
基本的に嘘って良くないよねって言われたりするじゃないですか。
でも僕らって普段、とはいえ嘘をつくことが良いこともあるよねとか、
全部が全部本当のことだけで生きていけないよねっていうことを使いながら僕らって生きると思うんだよね。
っていうのがある種日常の僕らの在り方なんだけれども、
その時にね、確かに嘘はついちゃダメなんだけど、
でも自分にとって都合が悪い時、その時には嘘をついて良いんだっていうルールを考えたとしますと。
出会った時にこのルールってどう思う?
うーん、その条件だとあんま良くないよね。
はいはいはい、あんま良くないそうだよね。
それがじゃあなんであんま良くないかっていうと、
さっき言った通り、この自分の行動のルールがみんなのルールになってもOK、ダメと同等的だって言ったじゃないですか。
逆に言うと、自分にとって都合が悪い時は嘘をつくっていうルールがみんなのルールになっても大丈夫ですかと考えるんだよね。
そうするとどう思う?
結構ヤバい世界だと思うよね。
みんなが自分が都合が悪い時は嘘をつきまくってOKってなったら、信頼とか契約とか何となくなっちゃうじゃん。
そうね、遅刻した時に毎日親戚が死んでるみたいな。
そうそうそうそう。
みんなOKって。
もうちょっと想像しにくいと思うんだよね。
それはダメなんだけど、この単純なルール、要は自分の行動のルールがみんなの行動のルールになってもいいですかって当てはめるだけで、
自分にとって都合が悪い時は嘘をつくっていうルールはダメだっていうことが判断できる。
要はダメっていうのは同等的じゃないって判断ができるんだよね。
すごい質問を考えたね。
これを低減名法っていうふうなものを使って概念化しましょうっていうのが勘とかってことなんですよ。
これが面白いっていうか、ハンザがやっぱり徹底してるなって思うのが、
嘘をついたら悪いことが起きますとか、誰かが困りますっていうふうな個別の行動とか結果っていうことじゃなくて、
そのいわゆるルールだよね。都合が悪い時は嘘をつくみたいなルールって言った時に、
それが普遍化できるかどうかとか、あるいは他の人類とかも含めて共感してもらうかどうかっていうことで判断するという点なんだよね。
つまり、ある種僕らって道徳的なことで言うと、嘘もバレなきゃいいとかさ、
あるいは嘘をついても、それがある種他の人にとってメリットがあるならいいとかっていうふうに考えたりするじゃない。
これってやっぱり個人的な理解とか、その場面場面での良し悪しっていうことで考えてるんだよね。
それは日常的なレイヤーでは別にいいんだけれども、
何とか言わせると、この定言明法とか普遍的な道徳っていうのは、
全人類、本当に人種とかも関係なく、全人類に広げる可能性がありますかっていうことを考えるんだよね。
彼にとって道徳っていうのは、一歩一歩のことに適応するような考え方じゃなくて、
定言命法の多様性
本当に無条件、自在とかそういうのが重なっても、無条件に成り立つ命令っていうのが定言明法っていうのがもうなんですっていうふうな考え方なんだよね。
ほうほう。これは関東が作った概念?
関東が作った概念と思う。
はいはいはい。
わかんない。もしかしたら何百年前にこれが言ったとかっていう記述があるかもしれないけど、
基本的には関東に由来するっていうか、そういう概念だね。
はいはいはい。
っていうような感じで、なんとなくその道徳と定言明法の繋がりって見えてきたかな。
見えてないね。
見えてない?え、なんでなんで?
もう一回、定言明法イコール道徳。
確かにわかりにくかったかもなと思うのでもう一回言うと、
定言明法っていうのは実は一個のものじゃなくていっぱいあるんですよ。
いっぱいある?
っていうのは、自分の行動のルールがみんなのルールになってもOKなら、それはよしみたいな話をしたじゃないですか。
なので、この自分のルールがみんなのルールになってもOKっていうのは、いわゆる三段基準なんだよね。
例えば、これにいいえって思うかどうか一つずつだと思うんだけれども、
例えば絶対に薬についちゃダメですとか、あるいは貧しいものには施しをしましょうとか、
そういうものがあったときに、それが自分だけじゃなくて全人類がそうすべきと思うなら、
それが一個一個が定言明法になるんですよ。
なるほど。だからこの定言明法って結構がっちりした概念な感じはするけれども、
結構これは多様性を含んでるというか、相対的というか、人によって結構違うんだね、これは。
そこが実は難しくって、それによって違うって言っちゃうと、その瞬間に誰もがそのルールに合意するっていうところから外れちゃうじゃないですか。
要はみんなのルールになってもOKっていうのは、自分だけがそう思うんじゃなくて、他の人もそのルールに合意するってことを含むんだよね。
定言命法と道徳の理解
なるほどね。自分がそう思い込むんじゃなくてね。
そうそう。だから絶対良さついちゃいけない、みんなもそう思うはずなのはダメなんだよ。
ダメなんだ。
ちゃんとそこに他の人も合意するよねとか、反論ではないであろうということは明確に言えるとか。
そういうことが初めて定言明法になるんだよね。
わー、なるほどね。なかなかイデアっぽい概念だね。理想的だというか。
そうなのよ。
なるほどなるほど。
さっきも言った通り、関東って一個一個の日常的なところに役立つ道徳と語ろうとしたんじゃなくて、
さっきアプリ織って言ったけど、その経験によらない道徳の尊厳というか、道徳的なものってそもそも何っていうことを説明しようとしてるんだよね。
はいはいはい。
それが定言明法だっていう意味は、そういうふうに自分のルールを全世界全人類のルールにして良いということが明確に言えるものだとしたら、
それが道徳と言って良いでしょうという話なんだよね。
わー、なるほどね。
となると、関東が言う道徳だよね。しかもアプリ織りな法だよね。
定言明法っていうものに基づいて作られているってよりは、本来作られるべきものが道徳であろうという偽装だったりとか、本質の話を関東は考えていると。
そうですそうです。
ただ、関東が実際の社会からこの定言明法に至ったとしても、人間が実際この定言明法に沿って挙動していたとしても、
たぶんこれが理想、イデア的な話だから、全ての人間がこれに基づいて道徳を生み出すとか道徳的な振る舞いを判断しているわけではないねっていうところはちょっと差はあるんだね、たぶん。
そうですそうです。
実践理性の働き
オッケーですオッケーです。
ちょっとそこが分かりにくかったかもしれないんだけど、道徳って言うと、普段僕らは社会とか生活の中で生きる時の道徳というか守るべきルールっていう感じだと思うんだけど、もうちょっとレイヤーがスープに高いんですよ、関東の道徳って。
なるほど。レイヤーだし、アプリオリだから、いわゆるもううちらで言うと無意識部分というか、本能というか。そっち部分の話だからこうなるんだね。
こうなるっていうのはまずね、なんていうのかな。
関東のような定義名法っていう新しい概念を作らないと説明できない、言語化できない分野の話、分野の概念ってことなんだね。
そういうことです。
むずいけどすごいね。ちょっと分かってきた気がする。どの部分の話をしてるのか。
そうだね。
うちらの感覚とか概念にない部分の話をこうやって定義名法って新しく作ってるから、たぶんこんなにも分かりにくいんだなって思った。
確かにありがとう。僕もちゃんと理解しようと頑張りすぎた結果、ちょっと気につけた瞬間に逆にそれを今ちょっと伝えにくくなってる。
要は月明け場っぽいからちゃんと説明しなきゃいけないって思ったんだけど。
何回も言ってくれた通り、関東が道徳について語っているときに、「これは良い、これは悪い。」とか、「これは道徳的なものです。並べ上げる。」っていうことはやっぱりしないんだよね。
そうじゃなくて、道徳というものがなぜ成り立つのか。それを人間の理性で捉えたときにどんなふうに説明できるのかっていうことを伝えていきます。
しかもアプリオリナね。
アプリオリナ、そうそうそう。
そうしたときに、この働きがまさに実践理性だというふうに関東は結論付けるんだけれども、
実践理性というものを働かせると、僕らは自分のルールは全人類のルールになってOKみたいな原則を発見できて、
それに合致したものを定言明報という形で道徳として扱いましょうというふうな、そういうふうな発想のつながりが出てくるんだよね。
はいはいはい。
確かにちょっとこれは難しい。やっぱり難しいよ、関東。
そうだね。やっぱり概念として持ってない部分の話だから。
仏教でいうとこの荒屋敷とか。
ああいう場所の話に近い感じがする。
なるほどね。言われみたらそうかもね。
もちろんやっぱり言葉としては道徳とか文章的な感じがするからわからんっていうのはあるなと思ったんですけど、
ちょっと今わらわら話してしまったんだけども、まとめると、
なんと私今兄貴が言ってくれた通りで、道徳について語るときにかなり僕らの概念にない抽象度の高いことから語っていきますと。
なのでルールとか、ルールに当てはまるかどうかというふうな判断基準というものを作っていくんだよね。
その判断基準を照らしたときに、これは道徳として認めようとか、これは道徳ではないとかっていうことをジャッジしていくんだけれども、
実はこのジャッジするっていうだけは結構大事で、話題が飛ぶように感じるかもなんですけれども、
この働き、このジャッジするっていうことが、僕ら人間の自由につながってるんだって言うんですよ。
へー、面白い。そうなんだ。
今回の定言明報とか、カントの言うところのアペリオーニーな人間が持ってる道徳観みたいな、観というか機能みたいな話からいくと、
どうなんだろうね、ちょっと縛るむしろ。
方向に直感的にはいきそうだなと思うんだけど、それを逆に自由な存在にしてるみたいな。
ごめん、今パッと面白かったから言ってしまった。
本当そうで、ガチガチな感じするじゃない、定言明報とかで全人類に適応するルールがとかって言われちゃうと、
自分の校舎以内とか、自分でとかってなっちゃう気がするんだけれども、
自由って言葉も、僕らが普段使ってるような自由な時間とかそういうことじゃなくて、
人が何を考えることができますかって思うと言うと、神、自然の法則とか、
そういうものから解き放されて、人間って思考とか理性を働かせることができるんですかっていう意味での自由なんだよね。
はいはいはい。
思ったときに、冒頭で自由とか正義とかって話をしたと思うんですけれども、
やっぱり自由って純粋理性では扱えないんですよね。
ああ、そうだね。直接経験認識できないから。
できないから、そうそうそう。
そういうときに、純粋理性は無理なんだけれども、この物線理性っていうものを使うと、
例えば普遍的なルールとしては、嘘はついてはいけないとか、弱き者は助けようとかってあったときに、
基本的に従わなきゃいけないからやるんだけど、
でもそこに対して、自分は嘘をつかないということをちゃんと守ろうとか、
弱い人を助けるためにこういう行動をしようとかっていうふうに、
そこに自分の意思を乗っけることができる。
はいはいはい。
っていう意味で、自分にちゃんと自分で命令ができるんだよね。
ああ、観との感覚に従うとね。
そう、実践理性を使うと。
それまでは、神の説理とか、神がこういうふうに定めたから人間をこうすべきとか、
経験っていうものに反応する生き物としてこういう行動が出てくるみたいな、ちょっと着替えろっぽくなっちゃうけど、
カントの道徳観の深化
そういうふうなやっぱり発想が強かったんだよね。
ああ、なるほど。
そうじゃなくて、自分が自分に対してそういう行動を命じることができるとか。
わー、はいはい。
っていう概念って、ファンと以前にあんまなかったんですよ。
わー、すごいね。なんかあの、なんとなく人間個人っていうものを、
そのロックヒュームがある意味大陸合理論から取り戻した感じがあったんだけれども、
今のハヤトの話を聞くと、まだまだこうなんだろうな、
その人間、自分自身の自由っていうものを取り戻すというか、
その感覚がまだヒュームでもなかったんだなって。
ハヤトの言う機械論、その外部に対する反応としてだけ、リアクションとしてだけで、
自分の意思、ここで言う理性みたいなものが、
確かに捨てられちゃってるなっていう感覚が初めて湧いたというか。
じわじわとね、確かにね。
ヒュームから進んだ感があるね。
ロックとかヒュームは、やっぱりその罪から逃れる、あるいは王様っていう絶対権利から、
やっぱり人間を解放するっていう意味ですごく進んだんだけど、
その解放した後の人間が、どうあれべきかとか、
どういう存在かっていうところは、やっぱりまだちょっと弱いんだよね。
なるほど。ある意味現代性のカウンターというか。
そこは強かったんだけど。
そこに対してカントは、罪とか王様みたいなものから離れた後で、
人間を何に基づいて生きていくのかとか、何に基づいて判断していくのかっていうと、
それがまさに純粋理性とか実践理性とか、まさに第3作で判断力秘魂って、
まさにその判断そのものの言葉が出たりするんだけど。
まだあるんだね。
そう。っていうふうに、自分の中というか、
そういうところからちゃんと人間ってのは行動できるんだぜっていうと言うんだよね。
わー。ちょっとそうだね。今回も難しかったけれども。
カントの凄みがもう一段階深まった気がする。
あー良かった。嬉しい。
もちろんさ、今の僕ら、21世紀。あれ今21世紀だよね。
そのルールは嘘をついちゃダメっていう中でも、嘘をついて良い自由とか、
嘘をついた方が良いと考える自由とかっていうところまで言っちゃってると思うんだけど、
うーん、でも言っちゃってるって、それ自分で考えてないよね。
そうそうそうそう。
それが社会的にオッケーになってる話だけだよね。
そうそう。とかそういうふうに通用してる。
それがなんとなく受け入れられてる風だからやっちゃってるだけで、
それを自分の道徳として判断して自分に命じたりするわけではないじゃない。
そうだよね。っていうのは多くなさそう。
確かに確かにね。
自分も含めて。
そうした時に、カントがそのちゃんと普遍的なルールと自分の行動っていうのを繋いで、
そこに自分が選んだのだというか、そういう風にすべきだと思ったのだっていう、
ちゃんと繋げてあげたっていう感じだったよね。
だからカントに言わせると、道徳を守るっていうのは、そういうルールにガチガチって感じるんだけど、
本当はめっちゃ自由な行為じゃんっていうふうに言うんだよね。
なるほどー。これはすごい話をしてるね。
じわじわ来てる?
うん。じわじわ来てる。
おー嬉しい嬉しい。
長くないから今日は言わないけど、じわじわ。
もうちょっと話聞いてからにしようかな。
はいはいはい。
次回も実はこの実践理性の方をやっていこうと思っているんですよ。
今回の話だけでも、やっぱり前回まであった純粋理性っていうものとの違い、
やっぱり伝わっているテーマが違うなとか、
カントの中でも、そういう理性、純粋理性っていうものを切り分けた時に、
そこからこぼれ落ちたものをちゃんと救いに行こうとしてるみたいな感覚って、
ちょっと感じていただけたんじゃないかなって思うんですよね。
やっぱり僕らは道徳とか正義とかっていうと、ある種何を成すか、
どういう行動をとるかっていうのにやっぱりすごい行きがちなんだけれども、
そもそもその道徳とか正義っていうものをどう判断しますかっていうと、
原理原則の方。
これを問うたっていうのがやっぱりカントのすごいところなんだよね。
いやー本当にね、すごいね。
HUMEでだいたい生き切ったと思ってたけれども、
ある意味HUMEが捨て去ったというか、
例えば印象のない観念は妄想、
まあそう言ってないけれども、観念じゃないみたいなところ、
観念じゃないものもちゃんと分析しやがったみたいな感じですね。
そうね。
だから何度も言うけど、HUMEは自我っていうのは束でしかない。
カントの道徳的見解
自我っていうものはだいぶ薄い。
その時々思わずやっぱり言ったんだけど、
それはカントは我慢にならなかったんだろうね。
うーん、なるほどね。
そんな感じで、やっぱりカントのすごさっていうのをちょっと今味わっていただいたと思うんですけれども、
次回また引き続き、カントの道徳みたいな話をしていくんだけれども、
カントに有名なフレーズがあって、
これ時々たぶん倫理の教科書とかも出てくるぐらいなんだけれども、
すごいくらいというと、
人間を手段としてではなくて目的として扱いなさいみたいなのがあるんだよね。
人間を手段じゃなくて。
人間を手段じゃなくて、常に同時に目的として扱いなさいっていうのがあって。
なんか分かるような分からないような感じじゃないですか。
分かんない。人間って何を指してるのかも分かんないし。
なるほど。いいねいいね。
何か哲学論が育ってきてる感じがするね。
そうなの?ありがとうございます。
実は人間っていうものを翻訳してて、
本当は理性的存在とかって言ったりするんだけど、
そうなんだ。
っていうのを考えた時に、それってどういうことなの?とか、
あとこれがまた別の概念で、自立とか尊厳とか、
ちょっとこれも僕らが普段使っている概念とちょっと違ったりする意味なんですけれども、
それが言葉とも繋がり出てくるんで、
カントはまさに人間とは一体どんなふうに捉えていたのか、
そこにどんなふうな関わり方っていうのが良しと考えていたのかっていうことを、
次回見ていく中で、今回の道徳とか実践理性っていう話を
より一歩掴めていきたいというふうに思っております。
はいはい。分かりました。
ちょっとこれ以上深くなる余地がどこにあるのかみたいなね。
もう想像がつかない段階に入ってる。
確かにね。
ただただ楽しみにしてるっていう。
これは多分一人の人間がやったってすごいよねって思うわ。
カントもないの?複数人いました説ないの?
カントは一人だったらしいです、ちゃんと。
さすがに最近の人だからね。
なるほど、分かりました。
じゃあ次回ですね、そのカントをさらに深く追っていくと。
いいところで楽しんでいきたいと思います。
では次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
48:26

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