なるほど。ちなみにさ、第62回から、もう何年も前だけど1回ニーチェやってるじゃん。
やってる。
なんかそれを聞いた方だったりとか、タイトルがある程度覚えてる内容でいいんだけども、今回したことと違くないそうだなみたいなところもあるの?
もしくはおさらいみたいな感じももちろん含むと思うんだけど。
わからん。
わからんって。
ただね、その意味で言うと、めちゃめちゃ違うことを言うかっていうとちょっとわかんないですと。
ほうほうほう。
同じ形で同じ人で同じテーマで扱ってるからっていう感じなんだけれども、ヘーゲルの時もそうだけど、同じヘーゲルで扱ってもやっぱりそれまでの蓄積とか流れとか、
それこそ関東、フィフティ、シェリングでやった後のヘーゲルと、なんとなく関東から飛んでやったヘーゲルとって違ったんじゃないかなと思うんだよね。
今回のニーチェも、もしかしたら近寄りのことを言うかもしれないけれども、やっぱり切り口とか視点とか、あるいはそこにつながってくる話っていうのは変わってくるかなと思うし、
あと受け手のほうだよね、多分僕だけじゃなくて聞いてくださってる方も、もちろん今回初めて最新回で聞いてるっていう方もいらっしゃれば、
第1回から聞いてるよみたいな、あるいは好きな人をつまみ食いしてるよっていろんな方がいると思うんだけど、
その人のいろんな文脈の中で、同じ本読んでもさ、やっぱり時によって受け取り方が違うみたいなのってあるじゃん。
それがお互いに起きてると思う。僕も多分同じことを言うけど違うふうに言うし、
受けてる方も、もしかしたら同じ神は死んだっていう言葉についてこれから聞いていただいても、全然違うことを感じるかもしれないし。
なので、普通に手を抜いてるわけじゃなくて、もう一回、前回62回から300回分ぐらい経た観音が、観音ハヤトが改めて任意地を取り上げてますよっていうような感じで思ってもらえるとうれしいですね。
はいはい、なるほどなるほど。確かにそうだね。このラジオに限らずさ、一回で聞いて覚えられるものなんてないから。
そうそうそう。普通に言ってるけど、21回やりました、じゃあこれ21回完璧ですよねって絶対にならないから。
だから、21話ラジオ作らなきゃダメじゃんみたいなね。それでも終わんないよっていうね。
そうそうそう。いつも言ってるけど、だって21話の研究を何十年と死ぬまでやってる人が何人もいるっていう世界なわけなんだから。
この2000年代も、21話の新しい論文がどんどん出てて、まだ議論が起こってるっていう世界だから。
なるほどなるほど。確かにね。高々に2回シリーズやったぐらいで、どこまで語れるかだったりとか、しかも周りに素人がやってるってことも含めてみたいな。
そうそうそうそう。っていう感じで楽しんでいただけると嬉しいですし、たぶんまた2、3年ぐらいに21回やってると思うんだけど、その時はその時はたちが21回になってるんじゃないかなって思います。
いやーなるほど。愚問でした。すみません。
いや、とんでもない。
前回の21は覚えてもいないのに、前回と何が違うんですかみたいな。違いを言われてもたぶん間違い探し2点ぐらいだと思う。
確かに全然見つけられない。チェイゼリアの間違い探しみたいなね。難しすぎるみたいな。
全然ね。わからん。
確かに。
そうですね。なので、そこも含めて楽しんでもらえればという感じでもあるんですけれども、なんでこの言葉がっていうと、
あともう一個は、宗教側の変化があって、カトリックからプロテスタントみたいな流れを言うじゃないですか。
要は、神・教会・人っていう三相構造。
神様とつながってるのは教会だけで、人は教会の教えを聞くしかありませんっていうふうな世界から、
神と人、個人が直接つながりますっていう世界への変化なわけなんだよね。
そうだね。いわゆる聖書も自分で読めるようになったし、むしろ読みなさいっていうふうになった感じだよね。
そうですそうです。出版技術が発展してとかっていうふうな感じなんだけど。
もちろんこれも単純化しすぎてるかもしれないけれども。
これも前回やったの、キルケゴールさんっていう人、覚えてるかな。
名前にはほとんど覚えてないようです。
人名として。
彼もまさにこの1800年代の人なんだけれども、彼が問題にしたのは、神と自分がどうつながるのか。
要は神と人間は断裂されてるはずなんだけれども、なんとかつながって、本当に神の秩序とかそういうものでいきたいと。
その中で現在とかっていうものでつながってるとかって話をした記憶があるんですけれども。
はいはい、現在の人か。
これはやっぱり面白くて、
本来なら神の御徴を僕らが受け取るとか、
それをクオーカイが橋渡ししてくれるって言うと、
しかも死体は神じゃないですか。
神様のお墓示しで我々はその光を少しでも受け取らせていただいてるって感じなんだけど、
神と自分がつながるって言ってしまうと、努力を押し出すじゃないですか。
その御徴をもらう努力ってこと?
もらう努力とか、どうしたら神とつながれるのかとか、
どうしたら神様の本当の言葉、要は聖書を読みますと。
でも、聖書の奥に神様の本当の意思というか、それが表現されてるわけじゃん。
でもそれを正しく理解できない自分とか、
それをどう解釈していいか迷う自分とか出てくるわけだよね。
そうなのか。
教会で僧侶がいれば僧侶の人に聞いて、これはこういう解釈ですよとか、
こういうふうに理解しなさいって言われて、はいわかりましたでよかったのに。
自分で伝わるとすると、やっぱり解釈したくなったりとか、
どうしても世の中一般の理解と自分の理解が違うとか、
あるいはこんなにも神を信じてるのに、なんかうまくいかないとか。
そういうことがいっぱい出てくるわけですよね。
なるほどだし、今話したいと思ったのが、
ぜひキンスト教は、本に書いてるか知らないけど、
その教会とかの扱いとか、プロテスタントはいろいろあると思うんだけど、
教会があるのかないのかとかさ。
なるほどね。
そこわかんないからさ、プロテスタントでもなんとなく日曜日に行って、
ボクシーさんも、その名前も確か違うじゃん。
はいはい、そうね。シンプルさんとボクシーさんとの違いみたいなね。
そういう的な人から話が聞けるのか聞けないのかでもまた違うかなと思ったし、
話すのももしかしたら違うのかみたいなね。
はいはいはい。
確かにね、リアルなところまで確かに見えてはいないから、確かに聞いてみたいなと思ったけれども。
ただ、そういう話だよね。大まかにプロテスタントと、
そうそう、枠組みとしてね。
カトリックを比べると、どうしても個人的に神と繋がらなきゃいけないっていうのが、
プロテスタントの大きな脱なというか、態度の荒い議会だよねって話だよね。
そうそうそう、繋がらなきゃいけないというか、そういう問いが出てくる。
で、キリケゴールがまさにそういったところをやりだって、
いろんな死に至り甘いとかそういうのを書いて出したよって感じなんだけれども、
そうすると、さっきの話と同じで、より切実に神と繋がりたいとか、
より本気で神を理解したいって思ったときに、自助努力が出ちゃうんだよね。
自分の力でっていうのは出ちゃうんですよね。
そうすると、神に全部預けてたはずなのに、
自分が努力をすることで神と繋がってなっちゃうと、
どんどん自分の重みが増すじゃないですか。
おー、確かに。
で、そうすると相対的に神の重みが軽くなっちゃうんだよね。
おー、なんかさっきの自然科学と同じような話になってきた。
そうなんだよね。
どっちも神様を切実に願えば願うほど、
なんか知らんけど神様の重みが下がってしまうっていう、
そういう逆説的なことが起きてるよねっていうことを言うんだよね。
そこ下がるんだ。あー面白い。
確かに下がるか。
今、勝手に脳内で、
いわゆる定座部仏教の修行、
自分があらかになるのだ、自分が悟るのだっていう修行との対比で、
勝手に脳内でシミュレーションをしてたんだけど、
神様がいるバージョンと、神様がいなくて自分が悟るのだバージョンで、
なんかそういう挙動の違い確かに生まれるのか?みたいな。
なるほどね。
例えば、あらかんとして悟った人がさ、
俺めっちゃ苦力した、俺めっちゃ頑張った、俺が偉いのだなんて言ってたら、
たぶん悟ってないじゃん。
まあそうだね。
だけど、さっきの神様と繋がるレベルで言うと、
もう俺めっちゃ努力したし、こんなにやってるから俺神様と繋がれたのだ、イエーイって言っても、
それを自己批判する構造確かにないのか?みたいな。
はいはいはいはい。
むしろそれが賞賛されそうみたいな。
あの人めっちゃ繋がってる、すげー!みたいな。
確かになるのか?みたいな。どうなの?それ。
そこでまず、我々の定則仏教とかはなので、
我々はある種、あらかんどまりですと。
要はブッダ、ゴータマシッタルトの境地はもっと上にあって、
そこにはいけないから我々はあらかんという、
努力でいける最高位を目指しましょうっていうのがそもそもあるんだよね、発想として。
だからそれは外から揶揄的に言われたんじゃなくて、自分たちがそれを自覚してるんだね。
そうそうそう。
で、大乗仏教はそれを乗り越えて、いやいや我々でもブッダになれる。
ゴータマシッタルトと同じとこまでいけるっていうのはそもそもの発想の違いだから。
はぁはぁはぁはぁ。
そう、っていう、
でもまあ、ブッダは神ではないけれども、
神的な理想を手の届かないところに置いちゃったのが定則仏教なんだよね。
すごく語弊があるけど、神と繋がるじゃなくて、神になるのだっていうのがある意味、近いのかな。
どっちの、どこの話?
仏教、仏教。
神にはならないよ。
ならない。
だってブッダはもう遠いところにいて絶対になれないから。
あと定則仏教でいうとね。
大乗仏教は?
大乗仏教は、なる。神になる。
神というか、ブッダの境地に至ることができる。
だからまあ同列にはなるぐらいのイメージってことはね、そこと繋がるとかじゃなくてね。
だから、それに対して何世代、その人生を何回もやり返してやるっていうところから、
いやいや我々一瞬で仏になるんだっていうところまで、いろんなバリエーションがあるのが仏教だよね。
はいはいはいはい。
っていうのがやっぱり仏の世界だけど、こっちのキリスト教的な世界でいくと、
ちなみに助烈もないからさ。
ここまでは神に近いとかってことじゃなくて、
神様という存在があって、そこと自分がどう繋がるか。
でも基本的には断裂されてるっていう、イデア界の世界だから。
っていう中で、でも繋がりたいっていう風な構造なわけだよね。
やっぱそれが繋がれる感触があると、さっきハヤトが言った、
繋がれる俺すげえにやっぱりどうしようもなってちゃうみたいな。
繋がれる俺すげえというよりは、繋がるためには自分を変えなければならぬっていう、
自分がっていう方にベクトルは向いちゃうんだよね。
でも神様に救っていただくとか、
救うじゃない、神様の恩情を受け取るとか、
神様が言ってることを聞くっていう、自動的な態度じゃなくて、
自分から神に近づいていくとか、
神の言葉を自分が理解できるようになるっていう、
そういう自分っていうものがどんどん大きくなっちゃうんですよ。
なるほどなるほど。ちょっとわかった気がする。
カトリックと言うか、いわゆる偉い人の言ったことを守っていれば、
天国への扉は閉ざされませんよぐらいの感じが良かった。
そういうこと。だから考える必要がないんだよね、自分で。
むしろ考えちゃダメだよね。聖書ももちろん読ませてもらえないし、
アクセスできないし。
物理的にも読めないし、みたいなね。
何語か読めないんだね。
そうそうそう。ラテン語とか多分いろいろあるけど。
なるほどなるほど。そこを自分で学んでいかないとダメなのか。
学んでいけるようになったことによって、
自分がもっと理解できるはずだとか、
自分の解釈っていうものを研ぎ澄ませられるはずだっていう、
さっき言っただよね、もっと世界を理解できるはずだとか、
もっとまんまる深淵に近づけるはずだっていう、
そのはずっていうものを追いかけてしまうっていうことが起きちゃうんだよ。
そうかそうか、ごめんごめん。俺すげえみたいな話しちゃったけども、
これさっきの自然哲学を純粋に追い求めた人と同じで、
純粋にそういう風にやるっていう挙動が生まれちゃうよって話か。
精実さんだよね、ベースになるのは。
だから承認要求的な、俺すげえじゃなくて、
あの人すげえじゃなくて、純粋につながるっていうものが、
インセクティブとして構造的にできちゃうっていう話で。
結果的に努力する道が開かれちゃうから、
努力をやり続けた結果、まさに絶望に至ったりとか、
繋がれないってことに気づいてしまったりとか。
なるほど、ごめんごめん。ちょっと冗談みたいな感じで遠回りになっちゃったけど。
なるほどね。
でもそういうことそういうこと。
っていうところを行き着いてしまうと、
やっぱり神を本当に信じて、
その世界を見出そうとしていた人ほど、
神を殺してしまうというか、
それがもしかしてないんじゃないかというところに行き着いてしまうっていう、
そういうことを兄ちゃんは指摘したんだよね。
すごい、だから自然的に考えたらちょっと、
めっちゃ頭いいというかさ、
学術的な人じゃないとダメそうだけど、
信仰を純粋に突き詰めるっていうのは、
誰でもできそうだもんね。
そうそうそう。
新人深い人ほどやっちゃう。
だから僕らは神が死んだっていうときに、
まさに理性的な理論的なことが発展していった結果、
合理的に神というものを排除できるようになったんだ、
みたいなイメージしがちなんだけど、
全然そうじゃなくて、
合理を突き詰めて神を表現しようとした結果、
それができないかもしれない、
こんなにも努力したのにっていうことに打ち当たってしまって、
結果的にこんなにも信じていたのに、
もしかしていなかったのかもっていう、
そういうところに放り投げられるわけだよね。
それがあれか、
どのルートから登ってもそうなっちゃうみたいな感じ。
神と真摯に向き合えば向き合うほどね。
この放り投げられた状態のことをニヒリズムって言うんですよ。
へー、そうなんだ。
つまり、神の価値、人間の最高の価値、
愛でも平和でもいいんだけど、そういうことを預けたじゃん。
前回フォイエルバッハが言ってた通り、
そういった人間にあるいいものを外に出して預けたものが神だとすると、
その神を信じていればよかったわけですよ、簡単に言うとね。
ここに人間の幸福とか最高のものがあるわけだから、
それを求めて生きてればよかったんだけど、
それが今突き崩されてしまって、それがなくなっちゃったじゃない。
その状態のことをニヒリズム、共主義って言うんだよね。
わー、そうなんだ。
うん。
だからなんとなく、世界には意味がないとか、
生きててもしょうがないよねっていう態度じゃなくて、
これ前回のショーペンハウンの悲観主義と一緒で、
要は構造的に、神を信じ尽くせば尽くすほど、
僕らはニヒリズムに至ってしまうっていう時代に行ったんだっていうことをニーチャーが言ったんですよ。
わー、すごいね。
だからあれでもね、俺こんな貧乏で仕事もなくて、
旅なんていねーよっていうのが主義なんじゃなくて。
そうそうそう、俺の人生虚無だじゃなくて、
信じたくても信じれない、
信じたくて仕方がない、その価値をどうしても信じられなくなってしまったっていう、
その絶望なんだよね。
そうだね、信じれば信じるほど信じられなくなっていく可能性が高まっていくっていう。
面白いね。
そうそうそう。
すごい偽世話の例えだけどさ、
例えば恋愛してて相手のこと好きだけど、
離婚しちゃったら他の女と歩いてたみたいなさ、
他の男といたとかってなったらさ、もう信じられないじゃん。
はいはいはい。
虚無主義です、それは。
え、それ嘘?
それは構造的にニーチェの虚無主義と違くない?
信じれば信じるほどさ、やっぱりさ、
本当は見なくていいのにスマホ見ちゃったりとかさ、
本当は行かなくていいのに尾行しちゃったりするわけじゃん。
神様はそんなことするか。
真実を明らかにしようという切実さだからね。
はいはいはいはい。
本当は私のことを好きなはずなのにみたいな。
でもそれを確かめようと思ってスマホ見ちゃったら、
なんかLINEがあるみたいなさ。
なるほどなるほど。まあまあまあそうだね。
アイドルはトイレ行かないみたいな話か。
それだとトイレ覗きに行っちゃうから。
一生懸命もそうね。
そういうことだよね。
要は確信を持てば持つほど確かめようとしてしまって、
で、確かめる術があればあるほど疑いを持ってしまうっていう、
まあそういうループだよね。
だから本当は確かめる術なんてなくて、
そのためのアクションとか理性とかがどんな方が良かったのかみたいな、
そういう声が出ちゃうわけですよ。
そうだね。
確かにその見たくない瞬間を見た時に後悔するよね。
そもそも知らなきゃよかったのに。
知らなきゃよかったっていう。
でもそれって後だから言えるし、
じゃあ例えばだけどキリスト教が、
いやプロテストなんて実はいらなくて、
我々はずっとカトリックでよかったのだって言えますかって話なんだよね。
それはそれでね。
そうそうそう。
っていうふうな話になっていくんだけれども、
じゃあこのニヒリズムがどんな状態かって言った時に、
その時に人間はどうなりますかって話もしてるんだよね。
気づいちゃった人たちね。
気づいちゃった人たち。
この話は面白いんだけど、
さっき絶望って言ったんだけれども、
この絶望っていうのは、
もうおしまいだとかじゃないんですよ。
じゃなくて、
だったらもうこの世界には意味がない、
虚無主義だってなったわけじゃないですか。
絶対の目的とか理想はないと。
人はどうなるかっていうと、
穏やかになるんですよね。
穏やかにっていうか、
信仰に気を使いますとか、
他人と摩擦を起こさずに、
人を疑わずに、とりあえず生き抜きますっていう。
そうなの?
そういうふうに人はなるんだっていうふうにニヒリズムは考えるんですよ。
そうなんだ。
これ末陣って言うんだけど、
末陣ってあの末。
末陣、末の末に人っていう。
面白いのは要は、
絶望、仮にだよ、
もうおしまいだってなったら、
もしかしたらどうしようっていうことを考えてるかもしれないじゃん。
そうじゃなくて、末陣たちはそのニヒリズム、
神様とかの人間の理想がなくなった世界で、
私たちは幸福を発見したって言うらしいんですよ。
ニヒジに言わせると。
つまり、何かを目指す必要もなく、
なんとなく生きてる中で、
日々穏やかだし、
飢えるほど苦しくもないし、
めちゃめちゃお金があるわけでもないけれども、
それなりに楽しく生きてるじゃんっていう。
それで一生を終えるんだっていうふうに言うんだよね。
これ何が悪いのって思わない?
それ別にいいじゃんって思わない?
ちょっと悟りっぽい感じもあるし、いいんじゃない?みたいな。
そうそうそう。
思うんだけれども、ニヒジに言わせると、
これはつまり、
神を殺せしまったっていう現実に向き合わずに、
ただただ日々を過ごすっていう。
それって要は何ていうのかな、
何にもしてない。
要は生まれたのに、ただ死んでいくだけで、
それこそ言ってみたら、動物と一緒というか、
動物に申し訳ないけれども、
そういうふうな人間になってしまうねっていうふうに考えるんだよね。
なるほど。それが虚無主義状態?
虚無主義の中に生きる人間、
虚無の中に生きる人間の状態。
はいはい、が末人ね。
そうそうそう。
ニヒジに言わせると、
そういう小さな幸福、日々平穏で、
毎日それなりの楽しさがあって、
まあしんどいこともあるけど、まあまあ生き抜きましたよっていうことは、
これニヒジに言わせると、ニヒジに言わせると、
それはもう人間のおしまいの姿なんだっていうふうに言うんだよね。
面白いね。ちょっともしかしたら先取りになっちゃうかもしれないけど、
例えば神様ダメだったわーって、
なんか別の目標とか立てちゃうと、
なんか同じこと起きそうだよね。そっちで。
いいね。それはまさに先取りになるんだけど。
だからいいんじゃないかなと思うけどね。末人の目標が。
つまり今の話はニヒリズム、虚無主義っていうものを受け取ってますって話なんだよね。
ニヒジがさっきさ、僕冒頭で結構刺激的だよとか、熱があるよって言ったと思うんだけども、
やっぱりそういう態度を、自動的な態度はニヒジはすごい嫌うんですよ。
なるほどね。
例えば神様の御徴だと受け取ってましたっていうこともやっぱり嫌だし、
ニヒリズムになりました。
じゃあそれはそれで我々楽しく生きていきますねっていう、それも自動的じゃない。
はいはい、そうだね。
的にその態度の人間っていうものをニヒジはめちゃめちゃ嫌うんですよ。
おー、わー、面白い、なるほど、そっか。
別の目標に向かって行くのも神様を純粋神経行為に、
同じことを繰り返しになっちゃうかもって言ったけど、
そのニヒリズムに浸ってるというか、
末尽状態でいるのは、今日の例で言うとカトリックだよね。
何も聖書も読まずに祝いたことをただ守ってるだけの、
自動的な状態。だからどっちもフラップの状態じゃない、
フラップというか、どっちがダメなんだ。
そうそうそう。国がいてその目的を受け取るのも、
神がいなくなって目的がないということを受け取るのも、
人間の態度としては一緒だから。
お前ら変わんねえじゃんと。
変わんないんだ。
もっと言うと、その意味を殺してしまった、
うわー俺はどうしたらいいんだってなる人が初めて、
能動的にやってくるんだよね。
わー、なるほどね。確かに、分かんないけど、
どっちもダメだってのも分かって面白いね。
なるほど。
そうそうそう。だから、さっきの例で言うと、
例えば恋愛の人の例で言うと、
そこで他の男とか女といたらもうダメだ、別れて、
次のもっといい男を探すみたいなのが、
まあまあ能動的じゃないですか。
能動的だけどさっきので言うと別の、あれだよね。
男を探すっていう目的になるから、
それはやっぱり同じ質問なんだよね。
だしまた同じ質問を味わう可能性もあるよね。
そうそう、ある。
まだ能動的っていうので、進んでますと。
一番ダメなのは、見たけど、いや私は見ていない、
そんなものはなかったって言って、
その状態が続いちゃうことだよね。
ああ、なるほどね。
受動的だから。
あとは、それを見たから別れても一生恋愛しませんっていうのが末人的?
うん。
それが何に向かうかによるっていうのがあって、
ちょっとこれ次の話をするんだけども、
自動的なニヒリズムだよね。
ニヒリズムっていう状態をただ受け取っている。
その中で何とかやっていこうよっていう話なんだけど、
そこに対して積極的や能動的なニヒリズムっていうのがあって、
つまり、世界に意味がなくなった神を殺してしまったらこそ、
私はこういうふうに生きるのだっていう、
それをちゃんと打ち出していくっていうふうなアクションがあるんだよね。
つまり、神以外の別の目的とか理想を受け取ろう、
探しに行こうじゃなくて、
その虚無のニヒリズムの世界に、
自分が生きる意味を自分で想像しようっていう、
そういう態度があります。
ニヒリズムっていうのは虚無とか嫌なことじゃなくて、
やっと人間が自分で自分の生きる意味を作り出せる時代になったよねっていう、
偉大な破壊と想像だみたいな発想なんだよね。
わー、なるほど。虚無主義。
前回のショーペンハウアーみたいに、人類はもう構造的に、
苦しみなさやね、そうそう。
悲観主義だから、もうダメだねーみたいな、どうしようねーみたいなじゃなくて、
ニーチャーそっから、だからこうするのだーみたいなのがめっちゃあるんだ。
むしろ、当時から主義からスタートなんだよーみたいな感じなんだ。
虚無主義。虚無主義っていうことに立って、初めて人間の想像性が本当の意味で、
開発されるというか、発揮されるっていう。
ニーチャーやばいねー。暑い。
暑さ伝わってきたよ。
暑いでしょ、すごいでしょ。
さっきの恋愛の例で言うと、他の男団がいたわ。
で、例えば、恋愛なんてそもそも、なんだ、
古いんじゃねーか、みたいな感じじゃなくて、
自分はそっちに依存するんじゃなくて、こういう風に生きるって言って、
ものすごい芸術をメンチとか、例えばね。
そういう風に、まあわかんない、それは芸術でもなんでもいいけど、
その人が信じる生き方になったとしたら、
それはニーチャーが言うところの自分で自分の人生を想像するってなるよね。
あー、面白いね。
別にそれで恋愛してもいいし、しなくてもいいし、みたいな。
芸術してもいいし、しなくてもいいし、何やってもいいんだけど、
ただその人が心からやるべきことをやっているっていう。
はいはいはい。
そんな感じかな。すごいキュってまとめて言うと。