1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #401 あなたも私もルサンチマ..
2026-03-01 59:26

#401 あなたも私もルサンチマン!ニーチェが語る、知りたくなかった道徳の真実

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00:12
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回はニーチェ第3回ということで、前回はニーチェの虚無主義、ニヒリズムは何なのかというところを見てきたというところでした。
はい。まあね、おそらく一番有名な、神は死んだっていう言葉をね、ちょっと取り上げながらですね、
死んだっていうか、もうむしろ俺たちが殺したんだみたいな話もしたと思うんですけど。
そうだね。
うん、で、それもね、もちろん何か傷つけたとかってことじゃなくて、神をむしろ信じ切るとか、信じたいって思いがまあ突き詰めていきすぎた結果、
そうじゃないことというか、もしかしたら神様ってなんかいないのかもみたいな方に行ってしまったみたいな、
そういうところでお話ししたかなと思うんですよね。
なるほど。なんか神様側からとっては、ちょっと愛が重すぎるね。
ちょっとね。
そうそうそう。
ね、前回もちょっと恋愛に例えて話もしたかなと思うんだけど、
やっぱり信じたいとかね、そこに努力できてしまうと、どうしてもこう嫌なものを見てしまうみたいなものになるよねって、日常生活でも思ったりしますよと、っぽい。
で、その中でね、今回はルサンチマンっていう言葉を取り上げながらお話ししていこうと思うんですけど、
前回もね、これ兄貴がさ、ネタミとか嫉妬みたいな感じだったっけみたいな、そういうことを言ってくれたと思うんですよね。
そうね、その辺のキーワードはなんとなく覚えてる感じだった。
でも、多分ね、これも前回ニーチェやった時にお話をしてはいるとは思うんだけども、
結局このルサンチマンって、何なのか話したことあるんだけど、どうしてそんなことを言い出したのとか、それによってニーチェは結局何をしようとしたんだっけみたいなことって、ちゃんと言えてなかったような記憶もあって。
ちょっと僕の力不足でですね。
なんで今回はですね、もうちょっとそれに近づけるんじゃないか、なんでルサンチマンなんてことをニーチェが言い出したのかっていうことを、
前回の神は死んだとかニヒリズムとか、そういう流れでお話しできるんじゃないかなと思ってますので、お楽しみにというところですね。
はいはい、そうはね、この前やったトムシュニとかニヒリズムは、ちょっとヤバいねっていう感じになったもんね。
マジかみたいなね、すごい状態だったね。
そういうのをね、今回も伝えていきたいんですけれども、ちょっと前回の振り返りになるんですけれども、
やっぱりニーチェって、ハンマーとかダイナマイトとかっていう話もある通り、結構既存の価値観とか、増殖みたいなものを徹底的に疑って壊していくんですよね。
03:09
で、その先にあるのは、やっぱりこれも扱うんですけど、超人っていう、やっぱり新しい人間の姿というか、そういうものがあったときに、
やっぱり外に基準を置くんじゃなくて、前回も言ったけど、自分の内側から出てくるもので生きていくとか、
その生きる価値っていうものを、これまでは神様とか外の真理みたいなものから受け取っていたというか、
それはある種妄信してたんだけれども、そうじゃなくて、自分でそういう生きる価値とかを作っていくんだみたいな、
そういう、なんていうのかな、個人とか自分っていうものを割と厳しく見ていくみたいな、そういうふうな発想があるんですよね。
なので、前回も末人っていう話をしたと思うんだけれども、日々楽しくて安定してるし穏やかだし、生きてりゃいいじゃんみたいな態度って、
全然それも幸せの一つじゃんとかって思えるんだけれども、僕らが考えるとね。
2Hからすると、自分の力を放棄して、外に基準もない、自分でも基準も作らない、そういう人生を投げ出した態度みたいな、そういうふうな感じだよねっていうふうに2Hが捉えるんですよね。
いやー、だから普通そこでゴールな感じするよね、その末人にしたって、ちゃんと本気で純粋に、
例えば前回の話で言うと、信仰だよね。それを本当に突き詰めて突き詰めて突き詰めきった結果、そういうのはなかったかもっていうか、そこから離れて穏やかに暮らすみたいな、
何か一つをやりきった人のさ、それこそ行く末みたいなさ、末人じゃん。もうそれでいい気がするんだけど、2Hはその末人状態も受動的だよねと。
何も自分から生み出してない、積極的じゃなくて受動的なので、何も考えてないというか、ある意味悟りっぽい雰囲気なんだけど、実はそうじゃなくて、ただただ受動的に生きてるだけだよみたいな、そこで良しとしないところがすごいよね。
そうだね、やっぱり徹底してるなと思うし、それでいくと、いわゆる突き詰めた人が落ちるのが末人というだけじゃなくて、神が死んだ時代に生きている我々、あるいは2Hからするとお前ら全員が末人だっていう感じなんだよね。
06:08
なるほど、そうなんだ、じゃあそれやりきった人、個人じゃなくて、だからやっぱり構造の話をしてるんだ。
そうそうそう、その時代に生きている君たちは末人であるという感じだね。
それを突き詰めた人が、みんなにそういうもんだよっていうものが、ある意味体現しちゃって広めちゃうし、
あと自然科学にしても、万有引力の法則はこうだったみたいな感じで、いわゆる例えば神話、聖書、そういったものとのちょっと違うよみたいなものがバーっと、
やっぱりそれを見つけた人だけじゃなくて、周りで知っちゃった人っていうのも、ある意味一緒に末人になっていくっていうような構造の話っていう理解でいいんだ。
なるほどね、そこは前回で分かってなかった。
確かにね、ちゃんと言ってなかったなと思うんだけども、ニーチェはそういう突き詰めた人が末人に陥ると言ってるんじゃなくて、この時代、すべてが末人化していくっていう、そういうふうなことをまさに考えてるんですよ。
なるほどね、だから我々が殺したんだっていうのは、そういうのを突き詰めた我々じゃなくて、もうみんな我々なんだね。
そういうことです、そういうことです。だからニヒリズムとか絶望っていうところで、この世がある種の神を失って、この世界全体が虚無になってしまったよと。そこから逃られる人っていうのはいないんだよっていうことを考えていくんだよね。
なるほど、わー、はいはい、よりなんか面白くなってきた。
よかったよかった。
なるほど、なるほど。
そう、っていうふうな、割ともう本当に救いのない世界なんだけれども。
やばいね。
どうするの前に、さらに救いなんてないんだぜって話を兄ちゃんはするんですよ。
どういうことかって言うと、さっきも言った通り、兄ちゃんは結構個人で頑張るって母の行政を言うじゃないですか。
でもマテオと、ショーペン母の時にもあったけどさ、僕らはとはいえ社会っていうものを持っていて、人と人の繋がりっていうものがあるじゃないですか。
つまり、全ての価値観が失われた、神の死によって大事なものが失われたとしても、
例えば、でも人に優しくできるよねとか、お互いに愛し合うことができるじゃないかとか、いわゆるそういう感情的な部分とか、まさに道徳だよね、倫理とか。
こういうものがあるじゃないかっていう発想もできるじゃないですか。
09:03
つまり、神はいなかったかもしれないけど、人間同士っていうものが、その新たな秩序を作れるじゃないかと。
おー、はいはいはい。
っていう発想もあると思うんだけれども、兄ちゃんはこの道徳っていうのも、すっきばけに壊すんですよね。
そう、今いい流れだったのに壊しちゃうんだね。
壊しちゃう、壊しちゃう。
なんでかっていうと、道徳っていうものが兄ちゃんからすると人間を弱くしていると。
個人が本当は立ち上がるべきなのに、道徳なんてものがあるせいで個人が立ち上がる力が失われているんだみたいな、そういうふうに考えるんだよね。
なるほど、なるほど。
その根っこにあるのがレサンチマンなんだって話なんですけど、ちょっとそこのつながりを今日はお伝えしていくことで、
兄ちゃんが、「僕ら普通、道徳的とか倫理的っていいことだって思ってるけど、なんでそれが違うねんみたいな話をしていこうと思っておりますよ。」っていう感じなんだよね。
へー、これはその、例えば道徳とかそういうものを突き詰めれば突き詰めるほどみたいな、この手無しに的な話とはまた違うんだね。
そうそう、違うんです。
なんでかっていうと、ちょっと今日話してみようと思っていて、兄ちゃんはそれを、同じ時代、兄ちゃんが生きた時代じゃなくて、歴史的な流れっていうところからそこを分析しようとしだすんですよ。
へー、はいはいはい。
どういうことかっていうと、これあくまでも兄ちゃんの分析なので、その学術的にこうだとか、これが正しいとかってことではないんだけれども。
ごめんね、いろいろ聞きたくなったんだけど、兄ちゃんが言ったことは学術的には違う。
えっと、なんていうのかな。
こういう哲学とかの学術的ってなんなの?
言ってみればヘイゲルだって学術的なのかみたいなさ。
そういうことね。
ごめんね。
確かにね、学術的な言葉がそうだよね、そういうことってなると思うんだけど。
その兄ちゃんの道徳分析、要は道徳とは何かをあくまでも兄一が分析した話をこれからしますと。
かつそれが歴史的なものってなったときに、要は道徳というものは歴史的にこういうふうに発展してきましたっていう、そもそもその視点自体が結構ユニークだったりするよね。
はいはいはいはい。
だったときに兄ちゃんはそれをやったんだけれども、例えばそれから100年200年経ったときに、
道徳って言ってもヨーロッパにもあればさ、別に中国とか日本にもあればっていうふうに、
この世界の道徳がどう発展してきましたかっていうふうな発想はまた別であるわけよ、当然。
12:05
はいはいはいはい。
だから道徳というものは、こういうふうな流れで、こういうふうな系統的なパターンを持って発展してきましたっていう学問は多分あるんだけど、
それとは一旦置いといて、兄一が道徳を分析したらこういうふうに見えましたっていうこと?
なるほど、そうか。
学術的とは何かっていうよりも、
今現在道徳っていうものを世界ここん東西について学ぶ、もしくはちゃんと研究するっていう学問があるので、
兄一はそれにはのっとってないですよっていう意味での学術的って感じね。
兄一が言ってることはそことは違いますよ、おそらく。
のってるかって言われると、そもそも歴史的に道徳というものを分析するっていう発想自体が、
多分兄一から始まって言ってたらこれからのかもしれないけど、多分そういう感じなのよ。
じゃあいいじゃん、学術的で。
いや難しいな。
学術のイデアの話をしちゃった、ごめんごめん。
なんでそんなことを言うかっていうのは、多分この後話を聞いていただきゃ分かると思うんですけれども。
ごめんね、だいぶ余談になっちゃった。
でも多分大事だね。
兄一が言うことって、インポクサが強いんですよ、やっぱり。
前回の神は死んだとかもそうだけど。
はいはいはい。
なんかそれ、兄一が言ってるから神はもう死んで、この世の価値というのは全部破壊され尽くしたんだって思われても嫌だし。
あーなるほど。
だからね、あんまりそういうことを言う、この哲学の紹介で学術的に云々みたいな話までそんななかったのかなと思ってね、めっちゃ頭に引っかかったんだけど。
兄一があまりにもカリスマ性が高すぎるから、その辺の冷静さをハヤト側でもバランスとって伝えないと、あまりに兄一に引き寄せられる可能性があるんだね。
そう思っている。
熱に当てられる可能性が。
なので基本的に哲学者でテーマにするときって、わりとその哲学者になるべく表意するというか、その気持ちなんて喋ることが多いと思うんですけど、
やっぱり兄一でそれやると台本作っても、さすがにこれ言い過ぎじゃないとか、こんなこと言うんだけど、道徳なんてクソだみたいなことを言ったりするわけよ。
そういうときに、さすがに僕の気持ちだし、それも言い過ぎかなみたいな。
15:01
いかにそうやってラジオがバランスを端もとっていきたい、極端なものもバランスの一部だからって思ってても、さすがにいろいろ言わないとまずいかもなと思って、
ちょっといろいろ、エクスキューズというか注意書きをいろいろ言ってるって感じはありますね、今ね。
はいはい、なるほどなるほど。失礼しました。だからちょっと余計な余談みたいな、学術のイデアみたいな話になっちゃったんだけど、
そういう意図があったってことはね、兄一が実際に学術好きかどうかじゃなくて、あくまでこのカリスマ兄一の語った言葉なので、冷静に聞いてねっていう意味での話で。
そうですそうです。
そういうことです。
はい、失礼しました。
20代の僕みたいにね、兄一すげえこの世なんてもう、壊してしまえって思う人もいるかもしれないから。
なんだって、サラテストラは書く語り聞きだっていうか、自分は読んでないんだけど、それを常に鞄に持って歩いてる人みたいになっちゃうってことだよね。
僕みたいに、この余談だけど、僕みたいに日記の裏に兄一の言葉を書いて、それを大事にする人になっちゃうから。
やってたんだね。
やってたやってた。
ちゃんと一回はまってるんだ。
はい、ちょっと話は戻しますと、今日は道徳なんですけど、道徳の中でも、これも異論はあるかもしれないんですけど、
基本的には、善悪とか、いわゆる基準っていうものを考えていきましょうって、そこから今日話を始めていくんですよね。
兄一がどういうことを考えましたかというと、今善悪って言ったと思うけど、善が良くて悪が悪いだよね。
っていうふうに僕らは普通思っていて、まず善のほうが価値が高くて、悪のほうが価値が低いとかっていうふうに、価値判断とも紐づいてると思うんですよ。
で、こういうことは違和感ないですよね。
ないね。人を助けるのは良いことで、盗みをするのは悪いことだ、みたいな。
そうそうそう、そういうこと。
で、あった時に兄一はこの善悪みたいな話と、良さと悪さみたいな話、良い悪いって、実は違うシステムじゃったのだ。
兄一さん。
実は違うシステムだったんじゃないかって言い出すんですよ。
はいはいはい。
道徳に2つ名前をつけて、君主道徳っていうものと奴隷道徳っていう、この2つを言ってくるんだけど。
まずこの君主道徳からいくと、こっちが良いと悪いっていう話です。
これは古代のギリシャとかローマの、特に貴族とか騎士みたいな、値段高い人が持ってたっていうふうな話を考えるんだけれども、
18:02
つまり君主とか騎士からすると、その良いことは何かっていうと、つまり強いとか美しさとか、後期であるという身分とか、
つまりはもう自分たちが持っているそういうパワーみたいなものを指して良いっていうふうな話をして。
その反対ではね、弱いとか美しくないとか、あるいは帝族であるとか、そういったものを悪いっていうふうに言ってます。
ここで大事なのは、悪いっていうことには、別に価値は低いかもしれないけど、
それを非難するとか、さっきの泥棒みたいに、それは良くないことだっていう意味合いは実はなかったんだっていうふうに認知がかかるんですよ。
確かにここには見下し、要は貴族とかしたときに身分の低いやつが劣っているとか、
弱いみたいなパワーを持ってないっていう見下しの視線はあるけれども、だからといってそれが罪であるとか、
それが非難されることではない、もうそういうもんだみたいな話なんですよね。
そうだね、確かにルールの話だもんね、悪場で。
なので、そこに対して実は良いと悪いっていう君主道徳には、
いわゆるそれを非難するとか、悪いであるとかっていうことがひもついてなかったんじゃないかってことを考えだしますと。
そうなると疑問になるのが、いつこの僕らが普段思ってる良いとか悪いっていうもの、
イコール良いことは奨励されて、悪いことは制限されるっていう、
それがひもついたんですかねっていうことを問うわけですよね。
へー、そうなんだ、ほうほう。
それを考えていくと、ここに実はイコール逆転がありますと。
どういうことかっていうと、要は弱者たち、当時でいうと奴隷とか、
あるいは貴族に対する意味でいうと、初期のキリスト教の僧侶たちとかも、
当然、位が最初低いわけだよね。まだ力を持ってない時代だから。
っていうときに、要は彼らの側からすると、貴族とか騎士っていう力を持ってる人たちから詐欺すまれて、
見下されて、嫌なわけですよ、当然。悔しいと。
そんな見下されてたのかな。
やっぱり地位って変わんないから、自分たちの思ってることが実現されないし、
21:05
苦しいってなったときに、どうしようかって考えるわけだよね。
でも当然力も弱いから、物理的な暴力でも勝てないし、
社会的にも政治の実験とかも、貴族は握ってるから勝てないわけよ。
っていうときに、どうするか、どういうことを考えただろうかっていうと、
いわゆる物理的な力じゃなくて、まず言葉とか価値観とか、そういうものを使って倒してやるんだというふうに、
どこまで意図していたかわかんないけれども、
そういうことをやったんじゃなかろうか、ということを考えだすわけなんだよね。
ここまではOK?
もちろんOK。
いわゆる当時の弱者たちは考えだすわけですよ。
どういうことかっていうと、貴族とか騎士たちに対して見下す姿勢があるわけだよね。
それを捉えたときに、あいつらは人のことを見下して傲慢だし、
力はあるって言うけど、すごい粗雑だし、暴力的で、何でもかんでも力で解決するじゃないかと。
言葉は結局、あいつらは自分のことを好奇だとか、美しいとかって言ってるけど、
結局は欲望にまみれて、自分の行動を制御できない奴らじゃないかと。
つまり、そういった自分たちのことを強いとか好奇だとかって言ってる奴の方が、むしろ粗雑であって悪いっていうことなんだと。
もっと言うと、その強さっていうものは実は悪の源泉なんだみたいな、そういうことを考えだします。
ここにおいて、その良さと悪さっていう、英語だとgoodとbadって書いてあったんだけど、
そのgoodとbadっていう本来goodだったものが、悪いっていうよりもevil、英語で言うと。
つまり、その力が強いということは、それを制御できない愚かさの裏返しであるみたいな、
そういうふうにロジックをすり替えたんだっていうふうなことを日常考えるんだよね。
そこで、良い悪いみたいなものが、悪みたいな、正義悪みたいな。
つまり、力が強いっていうことは本来良いこと、文章とかでは良いこと、goodだったんだけど、
力が強いがそれを制御できないっていうふうに結びつけて、
それは悪である、醜いことであるみたいな、そういうふうに接続させたんだよね。
24:07
なるほどなるほど。悪いねえじゃなくて、悪だねって言っちゃうんだね。
そうそう、悪ですと。
そうすると、その君子とか騎士っていう人たちが悪ならば、
むしろ誰も傷つけずに平和に、本当に生きている私たちこそが良いのだ、善なる存在なんだっていう逆転も起こしてます。
ここでgoodとbadが全く逆転してるのがわかりますよね。
しかもそう言われたらそんな気してきません?
それはあるだろうね。
俺たちの方が実は正しいんだ、みたいなね。
あいつらめえ!みたいな。
そうなんだよね。
めっちゃまとまりそう。
そう、であった時に、さっきまでは悪い子だった弱さとか、
その定属さっていう見下されていたものが弱いってことは実は優しさなんだとか、
定属ってことはむしろ人のことを傷つけない善良さなんだみたいな。
別に何かを自分のために守って誰かを排除するとかってこともしないから、むしろ寛容さなんだとか。
そういうことにくるくる価値観が変わっちゃってくるんですよね。
なんかもう自由自在だね、それを始めてから。
そうそうそう、そうなんですよ。
で、これを兄ちゃんは奴隷道徳っていうふうに呼んで、
今ある道徳とか倫理っていうものは、
この君主道徳から奴隷道徳に変換されたものが引き継いでいるんだと、
っていうふうなことをある種暴き出すんですよね。
ほうほうほうほう。
っていう意味で、みんながありがたがっている道徳って実は奴隷道徳なんだぞというふうに言いますと。
この奴隷道徳っていうものがなんで悪いのかとか、
なんで兄ちゃんは悪いって言うんだけど、
なぜかっていうと、そこにルサンチマンっていうものが出てきて、
この奴隷道徳を生み出した根底にある感情が、
ルサンチマンっていう妬みとか冤婚とかっていう言葉でも言ったりするけど、
そういう感情に基づいて生まれたものが奴隷道徳なんだという話なんですよね。
なるほどなるほど。
本当はそういう憧れてるわけですよ。
騎士の強さとか貴族の尊さにね。
酸っぱいブドウの話とかあると思うんですけど、
イソップドアとかだっけ、
キツネがブドウを食べなかったときに届かなくて、
あれは酸っぱいから食べなくて正解なんだって言って帰っていくみたいな話があるんだけど、
27:04
そんな感じで自分の手の届かなさとか足りなさっていうことを隣に挙げまくって、
あいつが悪い、ブドウが悪い、騎士が悪い、貴族が悪いみたいな、
そういう風にすり替えちゃうんですよね。
それによって、何も変わってないのに自分たちが何か優位に立っている気がするとか、
自分たちの方がむしろ貴族とかよりもいいんだっていう風に優位に立とうとする。
そういう働きをルサンチマンという風に名付けたんですよ。
なるほど、これか。
はいはい、何か思い出してきたというか、確かにこれがね、あれか、妬みとか。
そうそうそう。
そうですそうです。
憧れも入ってるんだね。
憧れも入ってる。憧れてると苦しいというか、自分たちは弱いままだから、
憧れを規定に変えて、あいつらが実は不正をしてるんだとかさ、現代でもあるじゃん。
お金持ちとかにされて、西軍とかに行って税金逃れしてんだろうみたいなことがあったときに、
よくわかんないけどそういう批判をすると、何か自分が戸惑える気がするとか。
あれ、例えばで言うと、あんまりまだ売れてない芸術家たちが集まっていて、
めちゃくちゃ売れてる芸術家を、あいつは媚びを売っているみたいな。
俺たちこそが真の芸術を体現しているのだ、俺たちこそが真の芸術家なのだって言いながら、
くだまいってるみたいな。実は真の芸術家とは何でもないみたいな。
別に頑張ってるわけでもないみたいな。
そうね。それに近いと思う。
やっぱりそれって言うのは、芸術には勝てないというか、多分負けているけれども、
精神的には優位に立とうとするって、まさにそういう真理だよね。
みんな集まれ!おいでよ!みたいな。
そうそうそう。動物の森みたいな感じで。
そうそうそう。
やっていくとルサンチマンですと。
ほうほうほう。
そう。
っていうのがあったときに、
今日ね冒頭も指し添われる、ニンチャンは個人に頑張ってほしいんですよ。
新しい価値を想像してほしいと。
神が死んで、基準がなかった時代で、自分からその基準を作ってほしいのに、
このルサンチマンというものが働き出す瞬間に、それをやれない人間になっちゃうんですよ。
はー、はいはいはい。
さっきのゲゲとかの話で言うとさ、
相手が魂を売ったんだとか、機嫌に目がくらんだのとかって言ってる間って、
30:02
絶対努力しないじゃん、自分で。
そうしてる人はそう言わないからね。
そう決まったら、やってるから。
そうそうそう。
ってなったときに、それは人間を弱くするし、
ニンチャンの目線で言うとね、人間を弱くするし、
立ち上がれなくする、もう毒だっていうふうに考えるわけなんだよね。
つまり、彼からすると、ルサンチマンから出ている奴隷道徳、
世の中にはびこっている、善は良いとか、悪は避けるべきだとかって言うときに、
その善って言ってるものがルサンチマンから出てるとすると、
本当に優しくしましょうとか、お互いに仲良くするのがいいですよねっていうことは、
もうなんか、そんなこと言わずに自分で頑張るよとか、
良くないかもしれないけど、君を共闘しても自分を強くするっていうときに、
それは悪だというのっておかしくないみたいな、そういうことを考えるわけなんですよね。
いや、とんでもないね。
とんでもなさが伝わった?
これ、自覚したとして言語化できないよね。
いやー、そう思う。
なんだろう、そういうくだまいている人たちの中で、
こいつらなんだって言って頑張るというか、
一億円みたいにやっていく人も絶対いるじゃん、たぶん。
いる、いる。
それで終わるじゃん、個人の人生としてさ。
これってどういうこと?みたいなさ。
ここまで見れるというか、
言語化とも違うよね。
見れる、気づけるというか、違和感に気づいちゃうんだね、ここまでね。
まさに分析だし、
これたぶん前回の62回とかの21回で言ってるけど、
彼は本当に天才的というか、
若くして大学の教授にもなったりして、
過去のギリシャの分析とか、そういった歴史的なところとかも見てるような人だから、
やっぱりすごい観点というか、独自のものを持ってるわけだよね。
そのときに、もちろんさっき言った通り、
学術的に道徳というものは本来逆転してるものだとか、
現代の道徳とは人を弱くさせるものだっていうことが、
別に学術的に正しいかとか、それしかないかってことはまた別の話なんですよ。
ただ任意地に言わせると、我々が今大事にしている道徳というものが、
このルサンチャマが出ているものだから、
かもすると、神がいなくなっても人間の繋がりとか道徳というもので、
33:02
我々は生きていけるんじゃないかっていうことも実は違うんだっていうことを、
ロジックで言おうとしてるときにこういうふうになっていくっていう話なんだよね。
ロジック構造か。
うんうんうん。すごいね。
そう。
はいはい。
そういったときに、これももちろん穴は多分あるんだけど、
そうやってバーって言われちゃうと、確かにそういうこともあるよねとか、
確かに自分の善なる部分とか、人に優しくとかってちょっと弱さとか、
逆にそんな厳しい環境に自分がはまり込んでも困るみたいな、
そういう感覚もあるよねっていうのは多分みんなどっかに持ってると思うんですよね。
うんうんうん。
だから響くというか、だから理解できるっていうような感じかなって思うんだよね。
はいはいはい。
まあそうだね。この前からの流れでね、こんな感じで虚無主義になって、
さらにサンチマンはこんな感じでとかって言われたら、もうね、すごいですねーってなるね。
こういうふうに積み上げられちゃうと。
そうそう。確かに。じゃあ倫理とか道徳もダメかーってなっていくときに。
もう一個お話したいのが、ショーペンハンマーさんいたじゃないですか。
前回やってた、彼が恐怖と共に苦しむっていうところの共感っていうところから、
むしろそういった世界というものが立ち上がっていくとか、
悲観主義の人間がエリアレベルで、わりともうどうしようもない世界で生きてるんだけど、
同じ苦しみを持っているとか、それを共感できるっていうことから、
新しい悲観主義の中でも生きていけるっていう話を言ったんだけれども、
それはそれで一個僕も大事だと思いつつ、兄者から言わせると、
これは今日の話ではわかる通り、ありえない論理なんですよ。
いやー、奴隷道徳側の奴らの言い訳だ、集まりだになっちゃうわけね。
そうそうそうそう。何言ってんだと。
ショーペンハンに恐怖の苦は奴隷道徳側の苦だっていう話になっちゃうわけか。
というよりも苦しむことがあったとしても、それをお互いに傷の舐め合いみたいになってしまうと、
それは人間を堕落させるよねと。
その苦しみを持って、よしこの苦しみを持って自分は生きていくんだってなれば、
それはたぶん兄者からすると、いいじゃんいいじゃんって感じなんだよね。
あーなるほど、もう一歩踏み込みが甘かったのか、兄者から言わせると。
その共にっていう、そっちに行っちゃったからっていうのが、やっぱり良くなかったんだよね。
あー共にの方。
36:00
苦をどういうふうに認識するかじゃなくて、共にの方、どっちもか言ってみれば兄者からするか。
それで言うと、例えば前回の末人の話をすると、末人は別に苦しんでないわけですよ。
僕らは幸せで、なんとなく生きていけばいいよねってなって出したときに、
そこからはやっぱり自分で頑張ろうっていうものは出てきませんねと。
そこに対して、いやなんか苦しい、なんか生きづらい、
これはやっぱり世界が価値を失って生きる術がなくなったからだっていうことに気づくと、
そこに対して、じゃあどういうふうに自分が生きていくかっていうことに芽生えるかもしれない。
そういう意味では苦しみってやっぱり一個のきっかけにはなるわけだよね。
ただそれを、いや自分も苦しんでるしみんなも苦しんでいるから、
肩を寄せ合って生きていこうってしちゃうと、
結局それって自分で何かを作り出したっていうよりも、
その集団の中で逃げ込んでることと同じじゃないですか。
なので、ちょっとごめんなさい。
ニーチェが言っているっていうことではないんだけれども、
僕の理解で言うと、このショーペンハオが言った恐怖っていうところの共にっていう方向に行くこと。
これがニーチェが考えている、やっぱり超人とか個人がやっぱり乗り越えるっていうことと、
それよりも、ショーペンハオの恐怖っていうものを、
最初は本当は大事にしたんだけど、いやこれじゃダメだって言って、
より個人的な方に行ったみたいな、そういう流れなんじゃないかなと思うんだよね。
はいはいはいはい。
うん。
なるほど。
そう。
たまにね、やっぱり基本的には同情。
同情はあれだけど、人の痛みに寄り添うとかさ、
その苦しみをね、気遣うっていうのは基本的にやっぱり、
本来美しいことなはずじゃないですか。
美しいっていうか、それ自体を非難しにくいと思うんだけれども、
やっぱりニーチェはもう徹底的に、これはいやもうダメなんだって言うんですよ。
へー、そうなんだ。
なんでかって言うと、やっぱその、同情するとか苦しみを伴いすると、
やっぱりその生命力が弱まるんだと。
つまり、苦しみっていうのは悪いことでない方が良いって言った瞬間に、
この、抜死予楽とかってこともあるけど、苦しみを取り除いて楽楽しみを与える。
結局はその本当はその苦しみを糧に変わるかもしれなかった人が、変わらない。
現状維持になっちゃうんじゃないですか。
なるほどね。
だから、そこに二人の人間がいたときに、
相手側の、いわゆる積極性というか、自分でこの世界を切り開いていく可能性を奪う可能性があるんだね。
39:01
そうそうそう。
その予楽に、その抜死、一応バック予楽によってね。
そうですよね、バック予楽から。
抜死の方、ハーネ行っちゃった。
あれだ、仏教の話だね。
そうですそうです。
っていうのがあるので、まさに今言ってくれた通りで、
そういう、生きる力強さとか、自分で価値を作り出していく、想像するっていうところのパワーっていうものを奪うんだと。
これが、現代のルサンチマンから流れている奴隷道徳の罪なんだと。
そういうことを考えるわけなんだよね。
すごいね、だからルサンチマンはだけ聞くと、ただの非神野郎の集まりみたいにさ、
はいはい、そうねそうね、車巻いてるって話ね。
自分をただに置いて言うけれども、だったとして、
でも今のさ、よかれと思って誰かと肩を組んで生きていくみたいなのとか、
それもルサンチマン側なの?それともちょっと違う概念なのかな?
それもルサンチマンからとる道徳ですね。
ああ、そうなんだ。
そう、だって、なんていうのかな、けどさっき言った君主道徳でいくと、
やっぱりその、いわゆる強さとか美しさとか、そういう良いものあって、
それを共有しているということが良さなんだよね。
良いものを共有しているね。
で、じゃあこのお互いに苦しみを分かち合うとか、慰め合うとかっていうのって、
良さが高まってないじゃないですか、別に。
現状維持で、いやいや俺たちも悪くないよって言っているっていうことは、
さっきの芸術家の例で言うと、
仮に芸術力がレベル1の人がやってて、レベル1のままじゃないですか。
ああ、なるほど、うわ、面白い、OK、OK。
お互い慰め合って励みし合って頑張ろうで、そのレベルが2とか3に上がるんだってまだありかもしれないけど、
ある種、苦悩の幕とか傷の名前になってしまうとすると、それは人を高めないんだよね。
うわー、だから良いものを共有するっていうのが、それもいろんなケースはあるかもしれないんだけれども、
これはあれだね、例えば自分の考えるこの良いこと、この2っていうのを世界観っぽく抽象的に言うけれども、
一人の人間が、自分はこうやって生きていくのだっていう人がいたとして、
42:02
AとBがお互い適当にいいですね、いいですねって言い合うんじゃなくて、
もうあなたのその部分のその感じめっちゃいいです、でもこの部分はこうだと思います、みたいなものを言って、
逆にAはBに、いやまあありがとうございますと、でもあなたのそこも良さそうです、
その部分はちょっと、もしかしたらあれかもしれないけど、みたいな、そういう褒め合い、単なる慣れ合いじゃなくて、
ちゃんと批評し合うか、みたいな感じだとレベルアップ、レベルアップって言うとそれが良いみたいな話になっちゃうけど、
そこと、いや俺もあなたも辛いね、みたいなものの、圧倒的な辛いみたいな世界観でOK、認識としては。
一旦OKなんだけれども、お互い切磋琢磨しましょうとか、そういう大切なお互いに手を挙げられる人を見つけましょう、でもないんだよね。
はいはいはいはい。
これは大事で、今話しながらでそういうところになったんだけれども、頭でニーチャーは個人なんですよ。
だからそんな人なんかいなくても自分で自分を鍛えて、自分は常にこれを高めていく、この良さをどんどん高めていって、
人として、芸術家でもなんでもいいんだけど、そういうものとして、より良い存在になっていくと。
それを自分ができること、自分でできることが、やっぱり一つのニーチャーの方向性なんだよね。
はいはいはいはい。
なので、基本的にニーチャーの哲学だと、あんま図書っていうものが大事なものとしては出てこない感じがする。
出てくるのかな、ちょっと飲み込んでいただいたかもしれないけど、基本的にはないかな、個人っていう方が強いです。
確かにここまでの流れからするとそうだよね。
共に強くみたいなものはダメだし、あとは一人で頑張れみたいなね、自分で考えろみたいな感じだとすると。
一応そのニーチャーのツラテストラとかもそうなんだけれども、やっぱり一人でこもって山にいるんだよ、実はツラテストラってもともと。
人の名前だっけかそれ。
そう、人なんですが。
そういう伝道師みたいな人がいるんだけど、その主人公が山を降りて、みんなに自分の教えを伝えに行こうっていうふうな物語なんだよね。
そうなんだ。
だから、完全に一人でこもって自分だけでやれっていうよりも、やっぱりそういう人を増やすように働きかけるっていうこと自体はあるはあるんだけど。
別にツラテストラも誰かと切磋琢磨して磨いたっていうよりは、自分そういうのを考えたり修行したりして、その教師に至ったっていう感じなので。
45:11
全然受け入れられないんだけど、行った後に。
そうなの?
そう、全然ダメなんだけど。
そうそうそう。
っていうところがあるので、やっぱり誰かと何かをするっていうのは、たぶん後で。
本当には自分でやっぱり高めるとか、自分で価値を作るっていう。
へー。
そういう発想はあります。
ほうほうほう。
ちょっと今日の話をまとめていくと、道徳とか律命っていうのは、君主道徳と奴隷道徳とあってみた話をしたんだけれども、
道徳一般を阻止してそれはダメだとか、そんなものなくせってそれも破壊せよっていうことっていうよりも、もっとでも厳しいかも。
僕らが今大事にしている道徳っていうのは、ルサンチマンが出ているその奴隷道徳、弱さを隠すとか、
そういう本来良いものを悪くする、そういう転倒された道徳なんだということに気づけって話なんだよね。
はいはいはいはい。
だから、例えば僕が落とし物を拾ったりとか、人を助けをして、僕はいい人ですとか、善人ですとかって言うときに、
その裏っかわりは、それでなんか褒めてほしいとか、それによって自分というものを高めたいとか、
そういうことやってないとダメだみたいな、そういうふうなものを含んではいやませんかとね。
それをやることによって、例えば、落とし物を拾えないような仕事ばかりで人のことを気遣いできない奴はダメだとか、
それでお金をたくさん稼いだとしても人情味がない奴は、自然はその程度に人間だとかって思ってるとすると、
それはもうルサンチマンが爆発してるわけよね。
本来いいことといわゆることをしている裏側に、そのルサンチマンとかって隠れてはいませんかと。
ということをちゃんとニーチェは指摘をして、確かに隠れてるかもって思わせるようなことを言ってくれたよね。
うんうんうん、なるほどね。
だからその大元の、例えば君主道徳と奴隷道徳ってのがあったとして、君主道徳の方が正しいとも言ってないんだよね、ニーチェは。
言ってない。
そこじゃなくて、そっちはどうかは知らない。
48:00
ただ、どうかは知らないというよりは、多分それが当時の社会のしょうがない、そういうメジャーなルールなんだよっていうものは認識した上で、
そんな奴隷道徳みたいな考えをしてるんだよっていう、まず自分たちのひねくれ具合に気づきなさいよみたいな話ってことは。
そういうこと。みんなが大事にして、もしかしたら道徳を使ったら、神が死んだ後の世界でも生きれるんじゃないかって思うかもしれないけれども、それも結局ダメなんだよと。
それは結局人間を弱くするんだよってことを言いたいんだよね。
はいはいはいはい。
面白いんだけど、さっき言ってた通りで、通称徳と奴隷道徳って分けたんだけれども、ニーチェに言わせると実は根っこは一緒なんだよと言うんですよ。
つまり通称徳も、貧しい人は悪いとかいうときに相手を支配するとか、自分のほうが強いっていうことを言ってるわけじゃないですか。
奴隷道徳もいろいろ言ってるけど、結局は弱いっていうのが実は強いんだっていうことで、自分たちのほうが優位であるっていうことを言いたいわけだよね。
はいはいはいはい。
そういうふうにすると、どっちに関しても働いてることって要は、自分たちのほうが強くありたいとか、優位に立ちたいとか、あるいは苦調したいとか、そういうふうなことがどっちにも働いてますよね。
はいはいはいはい。
つまり人間っていうものは、そもそもそういう、もっと自分の力を押し広げたいとか、優位に立ちたいとか、そういうものは持ってやしませんかねっていうふうに言うんだよね。
わーお。わー面白い。これさ、今ちょっと思ったんだけどさ。
なになになに、はい。
落とし物を拾いましょうとかさ、人に優しくみたいなのあったじゃん。
うん、あった。
これもさ、それ手面上的な話でいうとさ、ホップスとかのさ、例えば、万人の闘争状態ってあるでしょ。
あるね、うんうん。
あれスタートだとするとさ、仮に争い起きるじゃん。
はいはい。
だから単純に力強いものが勝ったりとか、例えばもう落ちてるものはもう自分のものにした方が絶対こう生存確率が上がったりとか、その世界で強くなっていくわけじゃん。
うん。
だからその世界でさ、落とし物を拾ったら持ち主に返しましょうとかさ、人に優しくしましょうっていうのはルサンチマンかもしれないみたいな。
あ、そうそうそう。だから生存戦略だよ。もしそうしたら相手がこっちに感謝してくれて、自分も敵じゃないとみなすかもしれないって思ったら、それも一個の生存戦略だけど、でもその渡した斧で追いかけられるかもしれないじゃん。
51:10
うんうん。
そうなったらそう。だったら僕は絶対返さないよね、そうなったら。返すというか落とし物を渡さないよね。
でもそっちが君主の道徳側だよね、その世界観でいうと。
まあ力っていう意味ではそうだね。
そうだよね。面白いね。
だから強さか、強さ。なんで今その力を強さって言い換えたかっていうと、この力っていうのは次の回取り上げる、結構兄ちゃんの大事な概念で、
そういった自分の力を広げていくとか、乗り越えようとして優位に立とうとするっていうものを一般を指して、これ力への意思っていうふうに兄ちゃん名付けるんですよ。
わー、すげー。そっか、この三次元的な世界観を考えた上で、再そういう抽象的に道徳について考えてるんだ、兄ちゃんは。
道徳っていうかそこに働く法像とかエネルギーだよね。
えー。
そんなエネルギーだよ。つまりショーペンハーワーは、生きる意志っていうもので、宇宙っていうものはカオスで、ただただ生きる意志があるとか、人間になった瞬間に。
方向性はないんだけど、それが生きる、生き続けたいっていう意志になって、それを否定するっていう話をしたじゃないですか。
はいはいはい。
っていうようなことをショーペンハーワーはしたんだけど、兄ちゃんは力への意思とか、これ権力の意思って言われたりするんだけど、そういった力への意思っていうものをむしろ、それを発揮させていこうとか、それを最大限実現するっていうことがいいことだ、みたいな。
いいこと。
いいこと。そういうふうな発想に移るんですよね。
えー、そうなんだ。
そう。なので次はこの力への意思っていうものを取り上げて、結局ルサンチマンはダメだと。それは確かにそんな気がするじゃないですか。
そうね。
そう。でもさっき言ったように、一人優位に立ちたいとか、自分の範囲を広げたいっていうものって、どうするとちょっと傲慢だし、なんか嫌な感じしない?
なんか無限の争いループに入ってきそう、なんか。
そうそうそうそう。なんだけど、兄ちゃんはなんでそれを良しとして、こんな力への意思っていうものを考えたんですかねっていう、そういうところを次回お話しして、
そのニヒリズムで、ルサンチマンに陥った人間が結局何を頼りにすべきなのかということを、次回お伝えしようと思ってますっていう感じなんですよね。
おー、なるほどなるほど。ありがたいけど、大丈夫?これ。
ニーテが私たちに一発バック余楽してない?大丈夫?
してないよ。してないっていうか、次回聞いてみてほしいです。
54:02
またね、関東の時とかあるじゃん。そんな関東みたいに生きられませんよみたいな、誰でも同意するとかいつでも通用するような格別なもとに生きなさいとかってできないよって話あると思うんだけど、
たぶんね、ニーテもそんな感覚になると思う。基本的には。
あとごめん、このバック余楽を2人とも連行してるけど、自分はたまたま最近コテンラジオで仏教の僧侶の方が起きてる万が一編を聞いてとても楽しく聞いてるから、このバック余楽がすごい馴染んでるんだよね。
そこそこごめん、確かに。
この言葉を説明してくれない?少しだけ。
ちょっと待って、そうだよね、いきなり授業で話したことあるじゃん。
ごめんね、そこは何も言わずにさ、なんとなく。
そうですね。いわゆるその慈悲、慈悲って言ってもらうか。
次回一回使う?それ。
いいよいいよ、そこまでやんないけど。
要は仏教だとね、宿泊があるじゃないですか、生老病死とかさ、苦しみっていうのがあったときに、いわゆるまずその苦しみを取り除くと。
要は人生一切皆苦だから思うようにならないし、いろんな苦しみもあるんだけれども、仏教的に言うとまずはその苦しみを取り除いてあげましょうと。
追えるとか、要はそれは追えないことはできないし、病でもなるんだけど、それに対する恐れとか嫌だなと思う気持ちとかってのは取り除けるじゃないですか。
取り除いて、むしろ楽って言うと、むしろ仏の道をちゃんと真っ直ぐ向き合いにするとか、いわゆる楽しむってことよりも、そこにちゃんと焦点が合うようにする。
っていう意味で楽を与えるというふうな話を、要は楽って言ったりするんですよね。
あ、そうなんだ。
合ってるのか、ちょっとないと思うんですけど大きな反射して。
これを要は慈悲っていう、仏の慈悲とかを言ったりすると思うんだけど、そういう人を慈しんで、ちゃんと修行というか仏の位置を専念させるようにするっていうふうなことをやってくれるんだよっていうか。
そういう話を四字にまとめたのが、幕僚楽なんですってことだよね。
なるほどなるほど。
合ってた? 古典ラジオさんで言ってたことと。
あ、わかんない。
わかんないって何? わかんないってどういうこと?
自分なりに勝手に改造しちゃったから。
57:01
なるほどね。
何となく仏教の世界観って、楽しいというよりは空を覗く。だから基本マイナスな世界でゼロにするのが楽である。
そういう意味で、みんなマイナスだからゼロに、なんとかみんなゼロにしようねっていう世界観の中でマイナスなやつらばっかりの中でバックだから、
そうすると少なくともゼロに近づくことが楽なんですよ。
だから、何となく欲しいものを買うっていうプラスが楽ってことさ。
レジャーに行くみたいなプラスが楽しいとか楽って考えるんだけど、
何となく勝手に仏教の世界観で言うと、マイナス9がマイナス5になることも楽と考えてるのかな。
ゼロになるとだいぶ幸せなのかな、みたいな世界観で捉えてるから。
なるほどね。
そういう意味でバックでイコールだったりとか、その結果の因果として余楽になるよみたいな感じで勝手に赤い図をしてた。
うん、なるほどね。でもそれは間違ってないような気がするし。
なんかなってるけど、ゼロって固定されたものじゃなくてクーだから、確かに。
別にゼロになるってことはないと思うんだよね。
常に関係性だからね。
そうそうそうそう。
ちょっとややこしくなるんですけど。
そういう意味で言うと、任天に戻ると、さっき言った恐怖、お互いに苦しんでいるっていうところを取り除くというよりも、
その苦しみをもとに、むしろそれをパワーにして拡大していくというか、こういったことになっていくかなと思うので、
それで世界観を次回お伝えしていきたいと思っております。
はいはい、わかりました。
次回ですね、このルサンチマンの後、人はどうすればいいのかというところについて聞いていきたいと思います。
では、次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
59:26

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