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2026-09-12 12:03

#122 虚無や無常を描く詩 / 塔和子詩集『日常』朗読解説その2

今回は、塔和子さんの詩集『日常』

ハンセン病であるために生まれた詩もありますが、
病にかかわらず、誰もが過ごすような何てことない日常の中に潜む大事なことを詩にしてくれています。日常をこのように受けとめられるとどれだけ豊かな人生になるのでしょうか。

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サマリー

塔和子詩集『日常』から、「法末の中で」「骨」「外出」「集めている」を朗読し、無常や虚無、生と死の表裏一体性について語る。楽しいことも嫌なことも長くは続かず、最後には取り残されるという厳粛な事実に向き合いながら、日常の喜びや、死に終わらない何かを求める感覚が論じられる。詩の流れは秋冬のような終わりから春夏の立ち現れへ移り、「外出」では買い物や町での無関心、家に帰ったときのくつろぎが描かれる。「集めている」では、夫との人生の道端にあった花を集めることで嫌なことが消え、人生が花ばかりだったように感じられる幸福が語られる。

無常と虚無を描く「法末の中で」「骨」
ちょっとじゃあ、次行きましょうか。
あのね、次はね、ちょっとだけ トーンが変わる感覚があるんですけど。
法末の中で。 法末?
法末って、歌方っていうの?なんていうの? 泡が、シュワシュワって。
法末の中で、友人との親密な関わり、
気に入った衣服を着ていたあの気安さ。 したたるような緑の中で、
果物がなっていた。 草花が咲いていた。
何者も、おかしがたい確かさの中に、 永遠に生きていられるように、
心よい笑い声を立てていた。 あの日の私。
ひとひらの不安の限りもなく、 なぜあのように、いられたのだろう。
肉体の健康、すぐ飽きる衣服、季節が過ぎると、 跡形もなくなる花や果物、
うつりげな人との関わり。 泡のように消えるものに囲まれながら、
何を楽しみにしてあったのか。 あのかっこたる思いは、
錯覚とも気づかずに愛しんだ。 悲哀と疲れで傾いてゆく、私の砂漠。
という詩です。
これはどういう
心境で書いたのか。 でもやっぱパッと感じるのは本当にこういう
ある虚無感みたいな。 無情というか。
そういうものですよね。
そういうものに気づいてしまった。 これも詩に
するんですよね。何でも詩にしたらいいんですけど。
次もちょっと似てるんですよね。
次も読もうかな。「骨」っていう作品なんですけど。
読みますね。
どんなに嫌なことも、どんなに楽しいことも、 そう長くは続かないのだ。
それなのに、その時々は深刻に悩んで、 明日という日はないように、
焦って電話をかけたりする。 生臭い、人のなりわいの真っ只中。
そんな自分を疎ましいと思ったり、 愛しいと思ったりするが、
時は荒松のように消え去り、 どのように思おうとも、つまりは
取り残されるこの身。 そして今、鳥も獣も巣に帰り、
地獄のような寂しいところで、 骨のように立っている私。
これがある意味では、
厳粛な事実であって、
その上で、じゃあどう生きていくのか、 っていうことのように思ってまして。
うん。
これがね、
生と死の表裏、秋冬から春夏へ
あの、こう感じながらも、
でも、
日常の喜びを謳っていくっていうことでしょ、 この刺繍は。
うんうん。
だから、
こういう虚無感っていうのかなぁ、
その、
長い歴史の中でたった100年生きて、
80億いる中でたった一人の、
とってもちっぽけな存在で、 死んで忘れ去られてっていう、
そういうことなんだけど、そういうことに 終わらない、
何かがあるっていうことをね。
うん。
こういう厳粛な事実と向き合うからこそ、 それに終わらない何かってことを、
一方で求めたくなる。
感覚があるように、自分にはある気がしていて。
それを実感するために、 日常の死を書いているようにも思えてくる。
うん。
表裏一体のものだから、生と死っていうのが一体のものだし、
今の二つは、
散りゆくものというか、虚無に向かうものというか、 そっちの視点に立っている時なのかな、みたいな。
なんかイメージが湧いてて、
季節で言うと、
秋冬の落ちていく時っていうか、 終わっていく時の季節の感覚に生まれながら、
でも必ず春と夏っていう、立ち現れていく。
なるほど。
それも裏側にもあって、みたいな。
なるほど。
なるほどな。
だからそっちの秋冬側に包まれた感覚で、
春夏側を書いたのかなとか、そういうのを受け取りました。
確かに。
町への外出と家に帰る安らぎ
これ今連続して読んでるんですけど、
これ次の詩とか、さらにその次の詩とかね、
そろそろ春って感じがしてくるんですよ。
ちょっと読みますね。
次、外出っていう詩です。
私は化粧をする。
アクセサリーにも気を配り、
時々町へ出ていくのが楽しい。
町は私に何をくれるのか。
財布が許すだけのショッピング。
ウィンドウの中の美しい商品を見せてくれる。
でもやがて人はいっぱいいるけど、
互いに無関心な町に疲れて帰ってくる。
今日は5000円のブラウスを買って、
スーパーのレジで店員と双子と巫女と、
お金を払うための会話をした。
楽しいなんてものじゃなかったけど。
そして私は一日、
構ってあげられなかったメシーの夫に、
急いで煙草を吸わせる。
どうしてここにいるみか一瞬忘れて。
やっぱりここへ帰ってくると、
くつろぐわねえ、などと、
誰はばかることもなく、
大きな声で言いながら。
本当だ。
一日の中でもね、
人巡りしますもんね。
春めいたり、
閉じていったりみたいな。
なんかこのね、
閉じていくこの、
なんていうのかな、儚さとか、
そこに、なんて言うんだろうな、
そこの描き方がいいんだよな、この、
なんて言うんだろうな、
なんかカッコつけてない感じっていうか、
なんて言うんだろうな。
「集めている」と人生の花束
次、集めているっていう作品ですね。
羽が生えたように軽くなったり、
石を抱いているように重苦しくなったり、
私は夫の表情一つを頼りに生きてきた、
奇妙な生き物。
二つの心が一つになって、
あるとき美しい調べを奏で、
うっとりと酔いしれるときもある。
そのために生まれてきた、
そのために生きてきた、
そのために乗り越えてきた、
至難の道であったような、
しかしその道端には花もあった、
私は今その花を数えている、
一本一本糸をしんで糸をしんで集めている、
そうしているとすべての嫌なことが
ドブドブと消え去って、
花ばかりが浮かび上がってくるのだ、
今はそれを花束にしてしっかりと温め、
自分の人生が花ばかりであったかのような
錯覚の中で至極幸せだ、
っていう作品です。
錯覚でも思い出を花束にする
なんか法末の中でってときにはね、
泡のように消えるものに囲まれながら、
何を楽しみにしてあったのか、
あのかっこたる思いは、
錯覚とも気づかずに愛しいんだって言ってて、
でも、錯覚でいいじゃないか、
恥ずいことになっていくというか。
ね、なんか錯覚でいいじゃんって言って、
すごくこう、この、
花だけは集めて花束にして純度上げて、
ね、錯覚とした思い出を、
引き締めていってるっていうかね。
そうですね。
そういう感じ。
それでいいよねって思わせてくれる。
一方でこの人、生臭い人のなりわいみたいなところも、
すごく愛してるから。
そうだね。
うん。
ですね。
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