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2023-02-13 49:54

第百三十七回 町屋良平『ほんのこども』を読んだ直後のうわごと

町屋良平『ほんのこども』を読み終えた直後の録音です。
この日の日記→ https://akamimi.shop/?p=2541 
Dr.Holiday laboratory『脱獄計画(仮)』の詳細→ https://drholidaylab.com/Plandeevasion

00:07
はい、こんにちは、ポイエティークRADIOです。
お相手は、私、柿内正午と奥さんです。
どうぞ、よろしくお願いします。
間違えた、間違えた。どうもありがとうございました。
もう終わり?もう終わり?終わりにする?
もう一回始めて、やばくない?
お相手は、私、柿内正午と奥さんです。
どうぞ、よろしくお願いします。
どうぞとどうもがね、一音の違いだからね。
間違えちゃった。
びっくりしちゃった、最初から。
これは半分です。
でね、いきなりオープン始めました。
今ちょうどね、小説を読み終わってさ、
今日一日ずっと難しい顔してたんだけど、
読み終わったから、ちょっとその本の話をね、
しようかなと思ってます。
町屋良平さんの本の子供と、
という小説を、今読んだばっかりなんですけど、
脳が壊れちゃって、脳が壊れちゃってってかなんかもう、
日記も書いたんだけど、もう既に。
なんかちょっとまだ収まりがつかないみたいなので、
すごいもの読んだなっていう興奮がある。
まあね、ちょっと一回話して、
多分うまくいかないから30分くらいで切って、
残り30分はちょっとまたその、
冷静になった頭でも一回喋るみたいな感じになるんじゃないかと思うんですけど、
とりあえずちょっと、
今の壊れたての脳みそね。
とりあえず一回ちょっと脳が壊れちゃったから、
すごいもの読んで脳が壊れちゃったからすごいもの読んだぞっていう話をね、
しとこうと思うんですよ。
もしうっかりこれでうまく喋れちゃうと、
録音しとけばよかったなって思うかもしれないっていうことで、
今これを録音しているわけですが、
まずね、あれなんですよ、いつだっけ、
22日週かな、
だからこれの録音、この配信の次の週くらいだと思うんですけど、
コマバーゴラで、
ドクター、ホリデー、ラボラトリー、
脱オフ計画カッコ借りっていうね、
カサレスの小説を原案とした演劇作品が上映されまして、
それに連動企画としてね、
霞ヶ関のつまづく本屋ホールさんで、
今、死なないためのブックフェアっていうのをやってるんですけど、
03:00
そこに僕もちょっと2冊1000書とコメントさせていただいているので、
もしよかったらね、この埼玉の方に見に行くか、
もしくは公演期間中だったらコマバーゴラの劇場でも、
本屋が展開される予定ですので、
そこにもしよかったら見に行ってくださいなという宣伝でした。
で、この戦勝はね、
穂坂さんとか佐々木篤さんとかね、
佐々木篤、いつも佐々木篤って呼んでるから、
まぁいっか、
佐々木のあっちゃんとかね、
いろんな豪華なメンツがね、戦勝してるんですけど、
その中にこの本の子供を描いている町谷良平さんもいらして、
で、その戦勝した後縁で、
その早稲田で今の稽古場で、
脱語不計画かっこかりの、
都市稽古みたいなのが公開されていたのをお呼ばれしたので、
それをちょっと見に行ったりもしたんですけど、
その時に客席にね、いらしたりして、
でもその時ちょうど、
その生きの電車で読もう、何読もうかなと思って、
本の子供を緑に入れてたんだよ。
でもそろそろ読むか、みたいな。
それは何でかっていうと、そのちょっと前に、
大寛山伝谷書店で、
久坂和志と群二平洋が対談をしててね、
その対談の中でちょっと話題に上がってたの。
みたいなのがあって、
なんかそろそろ読まないとかなとか思いながら、
まあ緑に入れてたら、
まあ戦勝もしてるのはしてたんだけど、
行ったらね、こう町谷さんがいらして、
わーって思いつつ、
まだ読んでないんだよな、
まだ読んでないんだよなって思いつつ、
ちょっとご挨拶だけはさせてっていう感じだったんだけど、
今ものすごく、でもこれ読んでから行ったら、
そもそも怖くて話しかけられなかったのかなっていう、
気もするんだけど、
とにかくなんかね、ちょっとタイミングが、
違っちゃったなっていうのはあるんだけど、
でもあそこでその場でなんかこう、
ちょろっとだけね、ニヤミスしたから、
今はちゃんと読もうと思ったみたいなところもある、
みたいな感じで、
まあこの本のこともっていうのをね、
読んだわけですよ。
ちょっと今もうすでに興奮して、
早口になってるからあれだけど、
とにかく、
今月のね、第3週かな、
にそのドクターホリデーラボラトリーの演劇公演がありますので、
もしよかったらね、
皆さんそちらを見に行っていただくと、
僕や町谷さんや小坂さんやのね、
戦章が見れたりもしますので、
22から26か、
22から26か、
小間場アゴラ劇場でやっておりますので、
よかったら見に行ってねと、
それも大変なんか面白くなりそうな気がする公演で、
まあこの話はまた今度するんじゃないかと思うんですけど、
ですので、どうぞという中で、
まあ読んだわけですよ、本のことも。
これはすごい、すごかった。
06:00
ほんとすごかったわ。
どういう話なのかっていうのをね、
そもそも言えないというか、
あなたにちょっとだけ読んでもらったじゃない、
今日僕日記にちょっとさ、
文体模写とまでは行かないけど、
ちょっと出来損ないのパロディみたいな感じで日記を書いたんですよ。
そしたら奥さんになんかこう、
え、怖って言われた、怖い本だったんだねって言われて、
あなたにちょっとだけ一段落ぐらいこんな感じだったよって読ませたら、
すごいなんか、
すごい一文一文はちゃんと名石なはずなのに、
通して読むと意味が取れるんだか取れないんだか分からなくて怖いみたいな感じで、
言ってましたけど、前編そんな感じでね、
異様な密度で、異様な論理展開で、
異様な文が続いていくっていうようなところの怖さもあるんですけど、
なんだけどこれ恐ろしいのが、
両役できないわけじゃないんだよ。
つまり、こんなに、
あなたにちょっと読んでもらって分かった通り、
ものすごい文位を取りづらいというか、
文位は取れるんだけど、
その次何が書かれているのか全く分からないみたいな文章で、
とにかくすごい読むことに負荷がかかってくる。
野間新文芸賞の先行委員の一人が、
あまりの読みづらさに毎日隠蔽な顔して読んでいたら、
自分の子供に、今日も本の子供を読むの?って、
すごい不安げに問いかけられたみたいなエピソードも、
どっかでお見かけしましたが、
どっかでっていうのはツイッターですがね、
まあみたいなのもありましたけど、
みたいなような本ではあるんだけど、
書かれている内容としては非常にね、ある意味クリアなんですよ。
それが恐ろしくてね、
それが恐ろしいんだけど、
でもその書こうとしている内容だったり、
そこで取られている方法論みたいなものを、
ある意味名責に語ろうとすれば語ることはできそうではあるんだが、
その上でそんな風に名責に語ってしまって、
何か語ったことになるんだろうかっていうね、
不安にも常に苛まれるっていう、
要するにこういう書き方しか確かになかったんじゃないかっていう、
そしてそれはなかったんじゃないかって思うってことは、
名責に語られてしまうってことは、
それ自体がもうすでにバカらしいことではないかみたいなところで、
すごい途方に暮れるしかない本なんだよ。
だから今から僕が言う野望の極みであり、
すごい一面的な見方だから、
それを全てだと思ってほしくないんですが、
ちょっと一人でも多くの人に、
この本を読んでほしいって僕も思ったというか、
読んで感想を知りたいというか、
みんなどうする?これっていう気持ちがあるから、
どうするっていうのをちょっと言いたくて、
あなたにこんな本を読んでよっていうのを説明するのと同時に、
09:00
プレゼンになったらいいなっていう気持ちがあるんですけど、
これはね、すごいんだよ。
まず最初の書き出しからすると、
どうやら語り手は小説家らしいっていうところから始まっていくんで、
最初の一文だけ読んでしまうと、
小説家になったので夢日記でもつけようかとある日決心した私だったか、
子供の頃から日記の類は苦手だったっていうところから始まっていく。
どうやらこの小説家というのは、日記を書こうとしたけれども、
なんか日記って苦手だし、
詩小説みたいなものを書こうとしたこともあったが、
何度か失敗しているみたいなところから話が始まっていて、
青春群蔵劇みたいなものでデビューをしたんだが、
その後自分の体験も交えながら、
ボクシングの小説でアフサガワ賞を取って、
これでようやく小説家としてやっていけるかもな、
みたいなことを思った矢先にスランプに陥って、
一体何を書けばいいのかわからなくなったので、
とにかく日記なり新編作記みたいなものを書きながら、
とにかく作品にする前に、
とにかく書いてみるってことをどんどんやっていこうと思っているんだ、
っていうようなところから小説というのは始まっていくわけですね。
だからその時点で、あ、町屋さんじゃんっていうか、
1ラウンド1分34秒かな?でアフサガワ賞を取っているんですけれども、
思いっきりそういうことが出てきたりとか、
デビューする時に自分がその当時住んでいた地域の駅の最寄駅をペンネームに付けて、
みたいなことも書いてあって、
もう明らかに町屋さんだっていうのがどんどん変わっていく。
これは書けなくなった町屋さんの詩小説なんだなっていうふうに読み出していくわけだ。
そこまではまだよくあるというか、
あるじゃない、自己言及的な詩小説っていうのはね、
というふうに見ていくんだけど、そこからどんどんおかしくなっていく。
でもやっぱりそういって自分は日記を書いたり、
詩小説を書くみたいなのはちょっと苦手っぽい。
だから私は私というものをうまく直接書ける気がしないというか、
私は私をあまり面白いと思っていないみたいな話になっていて、
その時にこの本の子供の中の私っていうのは、
小学校の頃の同級生のことを思い出す。
この同級生が阿部くんっていうんですけど、
阿部くんっていうのは小学生の時にほんのちょっとだけしか一緒にいなくて、
すぐに転校しちゃった子なんだけど、
なんで転校しちゃったかというと、阿部くんのお父さんがお母さんを殺して、
そのままお母さんを殺した後にお父さんと阿部くんが、
12:04
お父さんは阿部くんを連れてずっと車で18時間ぐらい逃げ続けていたところを警察に捕まって、
阿部くんはそのまま一人になってしまったんだみたいなところが語られていくわけ。
自分の教室にいた人殺しの子である阿部くんっていうものを通じて、
私っていうのを書けるんじゃないかみたいなところで、
詩小説はそのまま書けないから、
私は私のことを彼と目指して三人称で自分のことを書いていくけれども、
その彼っていうのは阿部くんのことも彼として書くみたいなことを言い出すわけ。
そこからどんどん、町ある部屋は割といろんな漢字を開くんだけど、
開かないで書かれた彼っていうものによって、
どんどん混濁した記述がなされていくわけ。
今この時点では小説家として生きている私と、
かつて人殺しの子としていた同級生の阿部くんっていうものの、
二つの人生を同じ彼という三人称を使いながら描いていって、
意図的にその二つの記述の主体がどっちがどっちだかっていうのを
ちょっとぼかしながら書いていくっていうようなことを試みていくわけですよ。
みたいなところから始まっていきながら、
どんどん阿部くんが殺人事件の経験があるからかないからかはともかくとして、
どんどん暴力に握られていくみたいな描写に深く小説が進行することになっていくわけだよ。
みたいなところから、そこで読んでいるこっちはとにかく隠物なわけ。
話自体もよくわかんないし、具体的な状況の描写がないわけ。
どんどん彼は彼はっていうのでどんどん続いていくんだけど、
その彼がそもそもこの小説を書いているこの私なのか、
それとも彼として小説の登場人物として書かれ直されている阿部くんなのかだんだんわからなくなっていく。
しかもここにそもそも町屋良平の文体っていうのは、
昔うっかりその小学校卒業後の10年後ぐらいにバッタリでっくばした阿部くんと私は一回再会していて、
そこでそれ以降、阿部くんから小説と名付けられた3文がメールで送られてくるようになった。
まだ小説家になっていない頃の私は、その3文を読んで、その3文に憧れて、
その文体を盗むようにして書いていくことで小説家になっていったんだ。
つまり結局今、町屋良平とされている本の子供の私が書いている文章っていうのは、
その阿部くんが書いていた風景描写を真似して作っていった文体によって書かれていて、
さらにこの小説の中で阿部くんのことを書くときには、阿部くんから送られてきたそのいくつある3文を混ぜ込んで、
15:04
風景描写として阿部くんが書いた文章をその小説の中に使いながら、
手によかだったりちょっとした修正を加えつつも、
一つの長編小説に阿部くんの3文を仕立て上げていくってこと自体が阿部くんの人生を語ることになっていくみたいなことが明かされていくわけ。
そうするともはやこっちとしては、これは町屋良平としての私が阿部くんのことを書きつつ自分のことも書く小説だと思っていたら、
実は阿部くんの文章を元に作られていった町屋良平の小説というものが、
阿部くんと町屋良平のことを書いているみたいなところで、どっちがどっちか分からなくなっていくみたいなところでどんどんこっちは混乱していくわけ。
その上でどんどんその小説内に描かれる阿部くんというのは、
どんどんどんどん自分でも人の身体を壊していくような暴力の道に枯れずに入っていって、
その小説はどんどん精算の描写が続いていくわけ。
でも全く小説の手をなしていかないというか、
本当にだから、ある意味陳腐な人形ものっぽいさ、描写とかがどんどん続いていけながら、
とにかく嫌な人体破壊が続いていく。
だけど、人体破壊が極まれば極まるほど、
この小説というもの自体のエゴや嫌らしさみたいなものが一緒に膨れ上がっていくわけ。
要するに阿部くんの人生というものがめちゃくちゃで、
破滅的なものになればなるほど、小説はフィクションとしてどんどん面白くなっていくんだよ。
で、その阿部くんが落ち込んでいく暴力の世界というのも、
ある意味人形映画が先なのか、暴力団の実態が先なのか分からないぐらいフィクショナルな世界として、
現実に生きている人たちがフィクションのように振る舞って生きている世界にどんどん誇張されていくわけ。
でもそれって普段の生活から全部そうなんだと。
要するに小説に何かを書くってこと自体がかなり暴力的なこと。
他人の内面というものにズカズケと入り込んでいって、
他人の人生はこうだったみたいな形で記述をし直していくってこと自体が、
そもそもその阿部くんと他者の体をバラバラに壊して、
もう一度配列し直して語り直すっていうことになっているんだってところで、
一体本当に暴力的な、そして他者を損ねているのはどっちなんだみたいなところで言うと、
その時点で彼という三人それに流されている書き手である私と書かれてである、
書かれてっていうのはよく分からないけど、書かれる主体である阿部くんとっていうものが
両方ともある意味すごい極端なピークを迎えるわけ。
ある意味ここはものすごいよくあるというか、
18:00
書いている時には絶対的に考えなきゃいけない点なわけじゃん。
そもそも人のことを書くってどういうことなのかみたいな時に。
そこで基本的に書く対象から文章まで奪い、
言葉まで奪い、体験まで奪い、人生まで奪い、その一生というものを書いていくっていう
小説というもの自体の暴力と、実際に人の体を壊していくという暴力とが
どんどん重ね合わさって進んでいくと、
その描写している側の暴力性、ないしはその暴力を誘発する形っていうのが
どんどんどんどん極まっていくわけ。読んでいくうちに。
そうするとだんだん安倍くんが人の体を壊していく描写に対して
おぞましさではなくてだんだん読んでいるこっちもそのリズムに
ちょっと気持ちよくなっていくわけよ。
だんだんそれが面白くなっていくわけよ。
特にだんだん最初何を書いているかよくわからないわけよ。
これは結局何の話なんだろうと読んでいくと、
安倍くんの暴力によって筋がすごいシンプルになるんです。
これ壊していく話なんだってなるわけ。
そこですごい読めちゃう。読めちゃった瞬間に
分かりやすいフィクションになった途端に読めてしまっているなと。
これまでの読みづらさっていうのはある意味
そのフィクションへの疑いだったり抵抗でもあったわけ。
要するにこんな話の中でもこの小説の中で何度も何度も出てくるんだけど
現実のひどいことだったりっていうものを見るときに
どうしても映画みたいだとか。
あれこれ何かで読んだみたいな気持ちが先立ってしまって
そのまま現実を学ぶことができないっていう話がずっと出てくるわけ。
要するに僕らでも綺麗な風景とか見るときに
写真みたいだみたいなことをどうしても先に思っている。
でも先にフィクションがあってそのフィクションのフィルターを通さないと
そもそも現実を視覚できないようなもどかしさがそもそもある。
逆にそういう風に生きているとどんどん現実の方がフィクションにじみてくる。
これは僕がツイッターを見ているときによくあることだけれども
現実というのはツイッターのような気持ちになってきて
ツイッターの中で声を上げてどんどん大きく声をしていくと
現実の側をそれに合わせていっちゃう対応みたいなことが今でも起きているわけじゃないですか。
要するにフィクションを返さないと現実を見れないし
現実の側もフィクションを返してどんどんフィクションにじみていくみたいなところで
そのある意味ウロウロっぽさというかね
フィクションと現実とかお互いを食い合っているような状況で
どちらを思うどちらかを媒介としないとそもそもそこにたどり着けないみたいな状況があるみたいな中で
一体どうしたらいいんだろうな。
21:00
フィクションから逃れて現実というものをそのまま書きたいけれども
現実を現実のまま書こうとすればするほどフィクションにじみてくるし
フィクションを書こうと思ってフィクションを書けば書くことになぜかそれは現実に見えてくるみたいなところで
ただ書くことの暴力というところから
その暴力が逃れようとしたらするだけより一層なんか暴力的になっていくみたいな
袋小路に小説がはまり込んでいくというような話になっていくわけですよ。
要するにこの小説自体が小説だけではなくて
あらゆるフィクション物語というものは
どうやったってある意味他者の心身を損なうものだし
その損ない方というのは
安倍くんが最終的に属することになる暴力組織であったりとか
一番ポピュラーな暴力組織である国家であったりとか
というものにあっという間に回収されてしまうというところに
こう進行していくわけでは自体が
その暴力的な雰囲気というのがピークに達したときに
とうとうこの本はアウシュベッツの話になるんだよ。
そこからだと本当に苦しくて仕方がないんだけど
とにかくそういう書きかかれる暴力であったり
そのフィクションが現実を犯してしまうのは
そもそも人間というものはフィクションというものを通さないと
現実というものを視覚できないからだみたいなところを
とことんまで突き詰めていくと
そういう民族浄化的なところにまで
フィクションのフィルターが厚くなっていってしまう
現実の側がどんどん民族というフィクションによって
塗り固められてしまうみたいなところにまで
進行していってしまうんだっていうところに
入っていくような小説でね。
なんかね、やっぱりこの凄さはうまく説明できてる気はしないんだけど
でもなんかすごいね。
なんかね、最初の50ページくらい読むのに
ものすごい時間がかかったんだけど
そこから先もずっと読みやすくないわけ
ずっと同じように続いていくんだけど
読みやすいところが一番しんどい
ある意味最初から小説によって
現実にフィクションにとにかく殺され続けている体っていうものを
書き続けているんだけれども
そこからある意味どう逃れうるかとか
24:01
じゃあそこの小説というものの
払う暴力性みたいなものがいかに自由になるかみたいなことを
考えていくとさ
文章自体から壊れていくしかないんだよね
でも壊れていくほどむしろその暴力性がむき出しになっていってしまって
むしろ最も可烈な形で暴力になってしまっている
っていうような本になっていて
手放しに絶賛するにも野蛮すぎて
どうしたらいいんだろうみたいになるんだけど
ある意味圧倒的な暴力を前に人は言葉を失うわけじゃない
その言葉を失うような暴力を言葉だけで構成してしまっている
っていう本なわけですよこれは
すごいものを読んだなっていう風に思って
もうちょっとここからはループになりそうだから一回チョコを食べます
そんな一冊でございました
お疲れ様です
一段落しか読んでない小説は私
腹ためきの最後の方って小説に詩が出てくるというか
小説の究極的に最終形態は詩なんだみたいな感じになるじゃん
あれを読むとすごい寝て出している時の夢みたいっていう感じがするんだけど
そういう感じがした
すごい何だろうね
辛いけど何が起きているか明智しがたいみたいな
確かに腹ためきのそれこそ
詩と小説の区別のつかなさというか
詩を経由した小説の書かれ方と思い出すところがあるよね
腹ためきも圧倒的暴力の話じゃない原爆の話だから
今のそれはすごくいい助け舟だと思う
27:00
あともう一個言うと
存在の既存と暴力の話っていうと
高校の時の原告科なんかでシェーベリア浴流の手記をやったことがあって
それは最終的にみんな番号で呼ばれていたと
番号ではなく個人名を取り戻さない
最後の一人まで個人名を取り戻さないと戦争は終わったことにならないっていうような話
ちょっとタイトルわかんないんだけど
具体と抽象
抽象とフィクション
なんていうんだろうねうまく言えないけど
なんだろう
個別具体的な個人と
そもそも彼が何を流しているのかっていうのは番号で呼ばれているのと一緒なわけじゃない
言ってしまえば
それがアウシュビッツの
ユダヤ人と言っている間は個別具体的な個人に寄り添ってはいないわけじゃない
みたいな話をふわっと
あなたの感想を聞いた感想を
でも今のあなたの2つの感想は非常に重要で
腹ためきの葉とかにこの話に出てこないんだけど
アウシュビッツの手記は引用されていたりもするわけ
それはしかも収容されていたユダヤ人の個人の証言だけでなくて
そこの収容所を運営していた側も含めて
両方とも文献を読み漁っていくという仕立てになっているんですけど
ここがすごくて
さっきの腹ためきの話にもう一回引き戻して言うけど
腹ためきの小説のある意味描写の混乱の苦しさというか
象結ばなさというのは腹ためきの当事者性ゆえなんだよね
原爆体験というものを言葉にならないものを言葉にするための
文体として獲得していったわけじゃない
この街や両兵はユダヤ人じゃないし
戦争を知らないし
人を殺してもいないんだよ
だからとにかく徹底的に当事者性から距離がある
この本の描写っていうのは常に
だからユダヤ人のこと
アウシュビットのことを書くっていうところで
30:02
一番その緊張は頂点になるんだけど
そもそもなんでお前が書くのっていう気持ちになるわけ
でもそのなんでお前が書くのっていう気分は
そもそも最初から同級生の阿部君という人のことを
私と混同しながら三人称の彼で書きますっていう宣言からして
すでにチャンチャラある意味おかしい話なわけ
なんでお前はそれを書けるのっていう
常にその問いに晒されながら書き手を書き続けているわけ
だけどその当事者性
なんで書くのって思わせるところと
描写の凄みが増していくところがすごいぴったり合うわけ
だからなんかね
ある意味この絵って当事者でなければ書けないものとか
当事者というものが獲得していったものみたいなものを
常に散脱し続けていく
一番の作詞の頂点にいるものとして
小説家が置かれている小説なんだよ
そこが一番恐ろしいところで
基本的にこうやって今小説の話を
小説に書かれた暴力だったり悲劇みたいなものについて
読み手側が語るということは
それ自体一つの矢島根性であったりとか
一つの作詞の振る舞いじゃないですか
経験の散脱という意味では
だからそういうところにもすごいいやらしさがあるんだけど
そのいやらしさを
読み手だけでも指定させてもらえないというところが
この本の恐ろしいところで
常に書き手が全部取っていくんだよ
しかも全部取っていった上で
書き手っていうのは読み手でもあるから
全部の責任を最終的に読み手にも転嫁してくるわけ
ひどくない?
本当に当事者の言葉を読むことも
それをもう一度書き直すことも含めて
それは非常な暴力であり
散脱であるということを自覚した上で
それでも書いちゃうし読ませちゃう
というところにいるわけですよ
しかもこれが面白いんだよね
ある意味最初の安倍くんから
どこまで意図して書いてるかわからないのですか
すごい面白いんだよ
今僕が話してた内容で言うと
当然そこまで行き着くよねみたいな話として僕は話してるけど
これを初めに書き出した時にどこまで意図されてたか
全然わからなかった
とにかく一文から次の一文に至るまでの間が
いちいちすごいね
いちいち考えてる
どうなるかわかんない
って思いながら書いてる感じがあるわけ
33:01
常に今言ったような
他者の経験を書くってどういうことなの?
みたいなところが
一文から次の一文に至るまでの間が
いちいちすごい考えてる
他者っていうものを書くってどういうことなの?
みたいなところから常に
一個一個問いを重ねていったら
最終的にそこまでたどり着いてしまった
みたいな書き方をしていて
しかも途中に小説が出てくる
書いている彼に小説が話しかけてくる
みたいなところがあったりする
君にとって小説ってのはそうなんだねとか
君に対していやそうじゃないみたいなことを言いながら
そんなんじゃまだ普通の小説になっちゃうよみたいな
いろんな小説からの語りかけに対して
それを拒絶しながら小説が前に進んでいく
みたいな書き方をしていたり
途中でなんかね
フランスの文学を勉強してた
人みたいなあんまり詳しくはないけど
翻訳家みたいなのが出てくる
フランス人の
その翻訳家の人が
小説の登場人物でもあるんだけど
私のことを小説の中に出していただきましたか
街や両兵の小説について
なんか批評をしだす
あなたはもともと一人称で書いて
小説を書いていましたかみたいなことを言いながら
あなたの小説における認証というのはこういうことですよね
わざわざ言ってきて
つまり今の彼と認証の付け方自体は
疑問そのものではみたいなことを
中盤ですごい募るわけで
そこでわかったよみたいなことを小説家である私は言って
もうこれからはそうじゃなくてこういう書き方をする
つい宣言してしまうことによって
そこから小説の書かれ方が変わっていってしまう
みたいなシーンが半ばに出てきたりしながら
小説ができていくまでの小説でもあるわけ
なんかメイキング
小説のメイキングの小説でもあるわけ
なんだよ
とにかくそういうね
どうやったら小説というのは小説になるだろうか
ということを小説と一緒に考えながら
生で小説と話し合いながら
さらにはその小説のそこまでの小説を読んだ
翻訳家によって評論されることによって
その評論による自己言及をさらに
一つ糧としながら
別の小説として
一つの小説として完成に向かって動いていくっていう小説でもあって
なんかね
とにかくだから読んでる間ずっと
何かが今
小説が作られていっているみたいな
気持ちにさせられる
36:00
ほんでね
すごいだからワクワクするんだよね
ワクワクするけど辛い
ワクワクするけどこんなにしんどいんだ
小説書くのってめっちゃしんどくない
それはスランプになるよねってなりそう
小説書くのってめっちゃしんどくないって思う
まだ書けるんだろうかと不安になってくるぐらい
ゴリゴリ身を削っていく
ような書き方を
自分で自分を食べながら先に進んでいるような
小説になっていて
これはすごいわ
っていう気持ちになったので
まだ絶対まとまんないっていう自信があったけど
喋りたくなって
まとまんないまま喋ってしまったよ
結構喋ったね
十分喋っちゃったかもね
すごいわ
これはすごかったですね
僕アトピーなの
突然ですが
語り手の私もね
アトピーなんだよ
何度も何度も出てくるの
アトピーを書き壊しちゃって
寝室液かな
黄色い液が出てきちゃって
化粧板が出てきちゃって
パリパリに乾いていってブロブロ剥がれて
白い皮膚片が粉雪のようにパラパラと
机の上に山となっていくみたいな
描写がずっと書かれていく
皮膚が書き壊されていくってことを
何度も何度も出てくる
それに対して
もう一人の彼である安倍くんは
常に風景だけがあって
主人公が不在の描写だけがある小説を
書き続けているわけ
この小説において書くと読むが
読み書く方の書くことと
皮膚を書き壊すことと
混在引退となっているわけ
主人公が小説家が
自分の皮膚を書き壊せば書き壊すほど
書かれていく安倍くんは
安倍くんで人体を破壊していく
作りになっていて
アトピー文字としては
肌荒れの
辛くて自分でどうしようもなく
自分の皮膚をベリベリと剥がし回ってしまう時の
辞められなさ
それは別に自己破壊衝動とちょっと違うけど
ある意味自己破壊衝動そのものでもあるような
39:02
辞めたくても辞められない
自己破壊の感じっていうのを
思い出していて
これ以上書いてると絶対血出てくるんだよなって思いながら
書くの辞められないときの気持ちで読んでたっていう
本でもあってね
大変怖かったですね
とりあえずそういう
読み書くことの暴力だったりとか
当事者性みたいな話だったりとか
また戦争とかね
肌荒れ
こういったところのキーワードに一つでも何か関心がある方は
絶対この本のことは面白いと思う
っていう小説でした
怖かった
怖かったね
すごいどうでもいいこと言うけど
たまにあなたが書き壊す音で目が覚めるんだよね
僕が寝ながらね
すごい音で
ちょっと止めたくらいじゃ止まらないわけ
すごい私には止められない小さな暴力が
すごい嫌だったんだなって今思っている
そうなんだよ
あなたがこれを読むとすごい
寝ている僕が自分で自分を壊しているとき
思い出して嫌な気持ちになる
慣れたから力づくで止めてるけど
そういうね
なんかね
あれなんだよ
やっぱりなんか
本人とちょろっとでもお会いすると
よもって気になるからさ
1ラウンド1分34秒も読んだの
すごいね
それ読んでから読んでよかったなって思った
他のちょっとたくさん書かれてるから
他のは読めてないんだけど
1ラウンド1分34秒ボクシングの話なんだけど
こっちの方が笑えるし
ユーモラスで怖くないんだけど
でもやっぱりちょっと怖いの
どういう風に怖いかっていうと
どうしようかなって思ってるみたいなところから始まるんだけど
対戦相手が決まると
その対戦相手のことが好きになっちゃって
夢の中に出てきて夢の中で無二の親友として
一緒に遊んで回っちゃうぐらい
相手のことをとことん研究して
相手に感情移入しちゃうっていう僕が主人公なの
でも対戦相手が決まると
まず試合のビデオを全部見て
SNSを全部調べて
42:01
友人まで全部調べて
バイト先からバイトのシフトから
趣味から好きなドラマから全部調べ上げた上で
こういう人なんだってなって
〇〇くん俺はわかるよ
〇〇くんは優しい人だから
夢の中で一緒にコンビニでエロ本読んだりしながら
うわーこいつ結構好きでじゃん
みたいなことを言いながらキャッキャをフーフーして出して
最終的に相手の前に立つときに友達になっちゃって
上手く殴れないみたいな
そういうわけです
でもこれをもっと過激に書いていくと
ほんの小学校の一年足らずの間
一緒だったある意味そこで
物語性を帯びやすい境遇にあった
同級生に勝手に
自分を投影するようにして
その人のことをずっと考え続けて
その人のことを書いてしまうという小説家の生理
他人の物語を自分として書いてしまう
自分を投影しながら
自分に最も親しいもののように
遠い他人のことを書いてしまうという小説家の生理というのと
全く同じことが書かれている
その上で1ラウンド1分34秒は
こうやってあまりにも自分の中で
相手のことを膨らませすぎてしまうと
勝てなくなるよという話なわけ
相手を強く殴りつけるためには
ある意味そこに断絶が必要で
相手のことを殺すって気持ちぐらい
相手と自分が隔たる瞬間がないと
そもそも相手のことを殴れないというところで
どのように相手を殴るか
ミクシングものとしてあったのね
こっちは最初から常に殴る人のことを
人を殺す人のことを人を殺すようにして書いている
というところで
自己投影のどっぷり感というか
他人に対して勝手にあらゆるものを投影してしまう
おぞましさをそのままに
踏み越え方が
1段2段深くなっているというのが
自分の子供という小説だったので
ボクシングによっての
爽やかな青春ものっぽいさ
じゃんボクシングってどうしたって
物語の帯方がね何でもいいんだけど
微妙に爽やか風にしていることによって
逆に際立つ気持ち悪さが
その爽やかを兼ねぐり捨てた上で
異様の怪物にまで育っていった
やっぱりボクは一番グッときたなというのが
その2作を通して読んでの
感想でした
他のも読んでみたいような
ここまできたらこの次の作品が読みたいような
気持ちになった本でございました
45:22
いつか絶対に読むだろうって思ってる
人の本ってあんまり読まないじゃん
町屋さんも文学界とかのエッセイで何個か読んでて
割とエッセイ読んでる感じめっちゃ好きだなって
思ってたから
いつか読むだろうって読んでなかったんだけど
特に別に何も当たり障りのない
世間話ぐらいしかしてないんだけど
そういう機会があると
読んどこうという気持ちになるし
最初は読んでからお会いできたら
どんなに良かっただろうって思ってたけど
今ちょっと無理かも
強火ファンみたいになっちゃってさ
なんか普通にアッアッアッってなっちゃいそう
っていう意味で
ある意味良かったなというか
先に落ち着いて挨拶できてるな
みたいな感じでありまして
とにかく
めっちゃ面白かったという本でした
本でしたよ
怖かったな
特に最近の本の流行って
当事者の言葉をいかに取っていくか
社会学系の本の盛り上がりもそうだし
心理学とか
ケアみたいな話もそうだし
またそもそもフェミニズム系の本もそうだけど
とにかくその体験者が自分の言葉で語るということに
すごい重きを置いているような時期だと思うし
そういう人たちが
読む人たちに対して
書くことに対して
安全権から
何やってんねんみたいなことを言ってくる
すごいあるんだけど
やっぱり当事者性というものを踏み越えた上で
それでもなお書くことも読むことも
こんだけひどい媚びだぜ
ということを言いつもってくる
やっぱり違うくらいかと
48:01
するよね
ここからかなり脱線になるけど
あなたに対して一番あるとすると
これはすごいね
ここから一気にレベル下げるよ
オベロに読ませたい
FGOのオベロに読ませたいな
これは特に
広がらないというか
わかる人にしかわかる
というような気持ちにもなった本でしたね
なんだかんだで1時間
話しちゃったか
ちょっとごめん
今日は僕しか読んでない本の話だから
あなたがあんまり
コメント差し挟みづらかったわ
それはわかってたから
特に固まってないから
録音中で
喋ることはないかな
整理はしてからね
じゃあ一回ここで止めて
あとのここからの
あなたが話す面白い話は
僕たちだけのものにする
じゃあ
そういうことで
ポエティブラジオ
お相手は私が記念賞ごと奥さんでした
どうもありがとうございました
49:54

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