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2025-01-04 32:06

#28 文学とは幻花をつくり出す仕事である / 石牟礼道子の『花をたてまつる』その1

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今回は、石牟礼道子さんの「花をたてまつる」

随筆とある詩を紹介していますが、
ここに石牟礼道子さんの祈りが入っています。
そして、彼女にとって文学とは何であったのか、
彼女の文学論も感じられると思います。

前半は、亡き母に対しての想いから、彼女なりの原体験と文学の意味が語られ
後半は、東日本大震災の後にも捧げられた「花をたてまつるの辞」を味わっています。

「花をたてまつるの辞」は、こちらの朝日新聞のサイトから
原文と、石牟礼道子さんの朗読音声があります。
https://www.asahi.com/special/kotonoha311/ishimuremichiko/
00:00
こんにちは。
こんにちは。
じゃあ、りょうさん、今日はどんな企画を持ってきてくれましたか?
今日はですね、こちらです。
石牟礼道子さんの『花をたてまつる』
おー、ついに。
ついに。
石牟礼道子さんの登場。
来ました。
来ました。
ついに来ました。
結構、表紙の感じだと、何て言うのこれ。
昔の想定をそのまま使ってるという感じなのか、古書なのか、これは。
そうだね。参考本だからね。
たぶん文が出てるんじゃないかな。
ちょっと出てないかったらあれですけど、
この本自体は1990年に出てるんだね。
うーん。
石牟礼道子さんって1927年生まれで、
2018年まで生きてたんだよね。
だから結構最近まで生きてたらしちゃって。
だからこの本は62歳のときに出た本かな。
うーん。
ジャンルで言うと何なんですか?
これはね、エッセイ集になります。
エッセイ集。
僕、実はまだ石牟礼道子さんの書籍は読んだことがないので、楽しみ。
そうです。
100分で名著で、
不害情度っていう代表作を、
私の師匠の若松英介さんがご紹介してくださってて、
それ見たことあります?
ないです。
ないですか。
はい。
僕の中で、100分で名著史上、一番すごかったと思ってるんですよ。
100分で名著の名作。
そう。
名著中の名著。
えー。
あれは本当に、ちょっとお金払ってでもオンデマンドに見れるんでね。
見てほしい。
いつでも見れる。
いいですね。
今日はそんな一冊、そんな石牟礼道子さんの書籍の中から、
不害情度ではなく、この一冊を持ってきました。
不害情度ってちょっとね、やっぱりね、難易度高いね、文学としては。
だから、随筆から入るといいし、100分で名著入るのとてもいいな、やっぱり。
もう、あれ見たら本当に感動した。
ちょっと見てもらいたいですね、じゃあ。
これ聞いてる人もね、ぜひ。
そうだね。
で、石牟礼道子さんって本当にね、別次元。
03:04
なんか世界観そのものが。
へー。
なんか、だから、随筆もね、ちょっと違うね、やっぱり。
うーん。
違う。
うーん。
違う。
違う。
なんかそれ、今日ちょっと感じられると思います、なんか。
モードが今ね、ここで差の違いを説明してもらうよりは、
ここから触れながらみんなでちょっと感じてみる方が面白いかもしれないですね。
ね。
今日はこれ、第1部、2部、3部、4部あって、それぞれにいくつかの作品があるんですけど、
第1部に5編エッセイが載ってて、この5編全部、お母さんのこと書いてるんですよね。
うーん。
実のお母さんのこと。
石森美智子さんのお母さんの番にもう亡くなっていくっていうときの、
てか何だったらもう亡くなった後のこととかも、
心情が書かれてあるっていうところで。
はい。
で、その中で一個、峠っていう、カオルに花、仏壇に備えるお花のことですね。
うーん。
作品をちょっとご紹介できたらなと思っています。
いいですね。
では、ちょっと読んでいってもいいですか。
いきましょうか。
お願いします。
はい、いきます。
これちょっと途中の部分から読みますが。
はい。
えっと、ちょっと待ってくださいね。これね、えっと、
あ、もうお母さん、亡くなった直後の話に書かれてるんだと思います。
はい。
はい、読みます。
小学二年生の時だった。
友達が荒ぬぬねぎ布を着せて意地悪をした。
私はジタンダを踏んで泣きじゃくり、
それが止まらずに村の草地で、
ひきつけ、ひきつけっていうのは敬礼のことを起こしてしまった。
人だかりがして、どこの子だという声が聞こえる。
使いが行ったと見え、日暮れ頃に母が駆けつけてきた。
地面でひくひく敬礼しているのを抱き上げながら母が言った。
どげんしたか?なんばしたか?
あーこげんなるちゃーよっぽどんこっちゃー
どうしたこつか?なんのありましたでしょうか?
06:00
私は自分の声がきっと母に届いて、
助けに来てくれると信じていた。
聞こえる近さではなかったが、
念破のようなもので来てくれると思い込んでいた。
走って帰って訴えれば十分くらいの距離だったろうか。
理不尽な言いがかりをはねのけたいのに、
言葉がうまく出てこない。
親に言いつけに行くというのはフヤではない気がした。
母の声でひとかきが割れる気配を感じたときの
救われた感じを忘れない。
全身のしびれがみるみる溶け去った。
その胸と腕の無限の仏性を今思う。
近くのポストに夕暮れ道を原稿出しに行ったりする。
すると不意に遠いかの日の泣きじゃくりの衝動がこみ上げてきて、
自分の手を見たりする。
母の手に似てきたから。
というところまで。
一端まで不意に。
まだ続くんですけど。
これはその作品の結構、
序盤の入り方としてのところの文章なんですか?
これはちょっと序盤、
10行ぐらいあって、
なんだろうな。
お母さんのこと思い出してるんですよ。
お母さんとの思い出というかね。
幼い日の記憶。
そう、ときのことが書かれてある。
そう、念破のようなものが母には通じるだろう。
って言って、来てくれって。
そうするとこの経練がみるみるうちに溶けていって、
母の胸と腕の無限の仏性を今思うっていうから、
母の中に仏の姿を見たっていう感じなんですよね。
無限の仏性っていう言葉がポンと出てきて印象的だったなぁ。
石森三子さんの言葉遣いって、
仏教の言葉遣い出てくるんですよ。
あ、そうなんですか。
そう、よく。
そうか、浄土みたいな話はもしかしたらそうなんですか?
ちょっと私も知識がないけど。
そういうこと、外浄土の浄土はまさにそういうこと。
そうなんだよね。
こういう救われた感じっていうのが、
石森三子さんのある原体験の一つなのかもしれないですね。
09:02
そうね、印象的な場面、すごく映像が浮かんできた。
でね、これね、次の言葉がすごいんですよ。
ここを書き写したりしてるぐらいの言葉なんですけど、
ここを読みたいがために、ここまでの文脈をちょっと持ってきたかなと。
ちょっと読みますね。
文学というのは、この世との岩やお塾の沼の中から原火を作り出す仕事である。
って言うんです。
ちょっと待って、もう一回、漢字が浮かなかったかも。
そうだね、漢字が出てこないよね。
文学というものは、この世との岩やお塾、岩っていうのは岩間の岩。
だから調和が取れてない。
岩。
岩やお塾。
お塾?
岩とかお塾とか。
お塾って何ですか?
お塾ってあの、恥ずかしめ。怪我する。
怪我するはじめのお塾?
へー。
の沼の中から。だから、この世にある許しみや不条理の中から。
みたいなことなんですよ。
岩やお塾の沼の中から原火。原火っていうのは幻の花って書いて原火。
原火を作り出す仕事である。
文学というものは、この世との岩やお塾の沼の中から原火を作り出す仕事である。
これはすごい。
なんか、ちょっとじゅんさんのすごいは聞いてみたいかもな。
俺はね、
今日ご紹介していくから、それでまた帰ってきましょう。
そうしましょう、そうしましょう。
でもね、端的に現れてるのは、
その、
外情度っていう、やっぱりもうこのタイトルに象徴されてるんだと思うんですよ。
この文学っていうものは、この世にある苦しみとか不条理っていう、そういう沼の中から、
花を作り出すことであるっていうわけじゃないですか。
この原火っていう、この花は、とってもいろんなものを秘めたものなんですけれども、
そういうものを作り出すのが文学なのだと。
苦害情度っていうのは、南多病で海が水銀で汚染されたっていう、
12:06
だから苦害、苦しみの海。
その苦しみの海というものは、それはそのまま、
情度。
情度につながってるっていう、そういう、
なんですよね。
苦害と情度っていうところの対比と、今回で言うと沼と花みたいなところが、
重なってるっていうふうに書いてある。
仏教、破寸の花を大事に扱いますよね。
まずは沼から出てきますよね。
あー、そうですね。
その辺もなんかあるんでしょうね。
仏教の言葉で、煩悩則菩提っていう言葉があります。
煩悩っていうものは。
それはもう、すなわち即、菩提。
それこそ、悟りそのものなのであるっていう、
とても矛盾を秘めた言葉なんですけど。
煩悩がそうな、菩提である。
すごい、一見不思議ですね。
そうなんですよ。
これは、これはなかなかすごい言葉なんですよ。
しむりみちゃんさんの言葉も含めて。
なかなかすごい言葉なんですよ、これね。
これを言葉で説明しようと思うと何かがこぼれ落ちそうですもんね。
すいません、ちょっと力不足なんですけど。
いやいやいやいや、そういうものなんじゃないですか。
そうだね、これは自らこの言葉の意味との関係性を深めていかねばならないものですよね。
すぐにわかった気になりたくない言葉でもあるなぁと思いましたね。
これちょっと続き読んでいきましょうかね。
お母さんとの思い出が書かれてあるのに、急にこれが出てくるのよ、この言葉が。
確かに、じゅんさんが最初に紹介してくれたエピソードのすぐ直後にその一行が出てくるってことですか。
結構おとつかある感じがしますね。
じゃあちょっと続き読んでいくね。
そのすぐ後の話ですか?
もう一回ちょっと読んでいきますね。
文学というものはこの世との岩や汚食の沼の中から原価を作り出す仕事である。
15:01
その辛さを母が黙ってわかってくれていた。
最後の言葉は綺麗な顔添い震えを帯びた声だった。
ごめんねーみちこ、ごめんねー。
続けてナムアミダブツナムヤミダブツと唱えた。
生きて火星をしてやりたいが、ごめんねー。
生活の苦労もかけたねーという意味だったろう。
元気な頃、私を訪ねてくる人たちを全部賄ってくれていた。
延べ千人近いのではないだろうか。
一旦一区切りなんですけど。
最後、亡くなっていくときに、
ごめんねーみちこ、ごめんねーって言うんだって。
ナムアミダブツナムヤミダブツって唱えて。
生きて火星してやりたいけど、もうできないから。
そして生活の苦労もかけたねーってお母さんは言うんだけども、
全然そんなことないって、しめみしこさん感じてるんだと思うんですよね。
元気な頃、私を訪ねてくる人たちを全部賄ってくれていた。
延べ千人近いのではないだろうか。
それぐらいのことしてくれてたんですよ。お母さんは何を言うんですかって。
これ千人近い人が訪れてたっていうのは、あれなのかなー。
なんかあれなんだろうね、きっと。
今本源病が起きたときでも、いまだに終わらない問題として、
ずっと戦いがあるんですけれども、
やっぱり窒素工場との訴訟みたいなものとかで、
そういう動きがあったりしたし、
源病に苦しんでた人も、もしかしたら訪れてたかもしれないし、
その関係者、取材する人とか、そういう方もきっと石森さん、
しめみしこさんと訪れてたでしょうからね。
本当にいろんな人が多分来てたんでしょうね。
その時間の量みたいなものを感じさせますね。
それだけの人数だと。
いろんな人が来てたんでしょうね。
さっきの文学というものは原価を作り出す仕事である。
その辛さを母が黙ってわかってくれていた。
言うんですよ。
この文学というものは、沼子が原を作り出す仕事であるって。
18:00
これは本当に辛いことだって。
言ってることなんですよ、これ。
しめみしこさんは。
いろんな図筆で絵を描いてる。
何年の時が経ったんだろう。
もうおばあさんになったのかなと思ったら、
鏡を見たら全然そんなことなかった。
描きながらある種、没入してってこと?
愛なんですよね。
戦い。
しめみしこさんの文学は戦いの文学なんですよ。
世の中の不条理っていうものと戦い続けている。
早くに楽になりたいんだけども、
来てくれないんでしょうね。
その辛さを母が…
その辛さを母が分かってたってすごいなって思った。
母さん分かってたんだね。
分かってたってすごいですよね。
だから、千人来ても全部母が賄ってくれたし。
何言おうとしてくれたんですか、じゅんさん。
そうなんだよな。
月とロクベンスさ、ご紹介した。
モームの第2回でご紹介した。
あれの主人公も、実は苦しんでないかみたいなことだと思うんですけど。
あれはなかなか見えないから、どういう苦しみか。
みなまたびを発端としたものに戦い続けた人だから、
石見美智子さんの文学のすごさがあるなっていうか。
ちょっと読んでいきましょうかね。
きりきりのいいところ。
ちょっと読んでいきましょうかね。
きりきりのいいところ。
21:27
赤鉛筆のところは切るじゃろう。
母を煮かせるための仕事をやめると、
あくる日、ひどく真剣な嬉しそうな声で大きな貸し箱を差し出した。
新聞の切り抜きが入っていた。
赤鉛筆のところは切っといたわい。大事なもんじゃろう。
見れば必要な記事の外側の赤鉛筆の跡が残っているというだけのものも大切に箱に入れてある。
ティラガナとカタカナは読めたが漢字を知らなかった。
ため息をついてよく嘆いた。
ほんに馬鹿じゃったね。
親は学校はどこまでも出すち言いよったて。
学校すかずに。
じいばちゃんと覚えとけば取れば何でもかんでも読んで添えて稼いできたね。
無用な肩の切り抜きの切れ端をそっと取り除きながら、
私は百万歴の助詞がついていると思っていた。
これお母さんがね、
ティラガナとカタカナは読めたんだけども、漢字は読めなかったんですって。
ほんに馬鹿じゃったね。
これお母さんが言ってるんですよ。
自分の親はね、学校出すよって言いよったけども、
自分自身が学校すかなかったから、好きじゃなかったから。
じいちゃんと覚えてたら、何でもかんでも読めて揃えて、
稼いできたのにねって言って。
さっきも稼いってお母さん言ってました?
稼いでねって言葉を大事に使ってくれてるお母さんだったのね。
稼いっていう感覚もすごくいいなあ。
ライゴーズ、第一回の小林秀吉さんの会で、
見るみたいな話のやつでしたっけ?
仏教の中にはライゴーズっていう絵があって、
阿弥陀さんが雲に乗って、いろんな仏達たちが、
もう衆生を救わんともして、
その病みがたい思いで救済しに行くっていう、
24:01
活性しに行ってくれるっていうね。
そういうニュアンスもあった。
仏教とのさっきの話で言うと、
そういうちょっとつながりも少し感じる?
お母さん、本当に最後の最後まで、
新聞の切り抜き、手伝ってね。
それが、しむれみちこさんとしては、
100万歴の女子がついてると思ってましたよ。
お母さんに言ってるんですよ、これ。
亡くなった後のお母さんに。
もうちょっと読みますね。
パパが9つか10の頃に、
その女親は気が触れた。
人目につきすぎる恐母、狂った母に対して、
自分の方が親にならなければと思ってきたのだと、
死ぬ1週間前くらいに打ち明けた。
気のちごをとったおっかさまじゃったげ、
自分が親のごたる気持じゃった。
思えば、その側を探すのが幼い私の仕事でもあった。
この方が親のような気持ちだったとは、
死ぬ直前まで知らなかった。
母が、娘たちにも言わないで、
胸の中に飲み込んで、
あの世に持っていった万感の思いは、
文学の核である。
っていうんです。
前半に出てきたのは、お母さんのお母さんってことですか。
そうそう。
お母さんのお母さん。
石森美智子さんからすると、祖母ですね。
その祖母っていうのは、
ちょっと気が狂ってた人だったらしい。
だから、石森美智子さんのお母さんは、
おばあちゃんのことをね、自分の親のことを、
自分が逆に親にならないといけないって、
子供の頃から思ってたんよってことを、
死ぬ一週間前ぐらいに打ち明けてくれたと。
その、そういう気持ちだったとは、
死ぬ直前まで知らなかったわけですよ、石森美智子さんはね。
そのこと一つとっても、
なんか、きっと分かり知れない思いがあったんでしょうね。
石森美智子さんにとってはね。
27:01
きっと他にもあるんだろうと、
誰にも言わずに、
自分の心の胸の中にしまって、
飲み込んだものが、
あの世に持っていったその万感の思いっていうものが、
あんなものだったろうかと、
これが文学の核なんだって言ってるんですよね。
この思いを、どういう風に扱うのか、
なんかあれですけど、
受け取ったり、
お母さんに対して、
お母さんの魂に向けてこういった言葉を届けたりとか、
きっといろんなやり方があるんでしょうね。
これが石森美智子さんの文学なんですよね。
柴田さんは特に作品も触れてるから、
そことの繋がりが。
やっぱり苦外情動もさ、
みなまた病で亡くなった人の思いっていうものをさ、
扱ってるしね。
あるいは、
退治性みなまた病つって、
お母さんがみなまた病になったら、
生まれてくる子どもを生まれながらにしてみなまた病になってて、
言葉出せない人もいる。
そういう言葉ならない人の言葉を引き受けて、
それを文学にしていく。
お母さんもお母さんで、
あの世に持っていったものがあって、
それを扱わなければっていう、
そういうものを、
石森美智子さんは扱って、
ある無人みたいなものを、
やっぱり幻の花にして、変えて、
あむけてるんでしょうね。
言葉がないですね。
黙っちゃうね。
やっぱこういう文学者っていないよね。
少ないよね、やっぱりね。
僕ちょっとやっぱり、
大人って世界観の人だなって言ってたのは、
こういうところなんですよね。
こういうところ、もうちょい聞けると嬉しい。
30:01
こういうところっていうのは、
この世のことだけじゃないんですよ、やっぱり。
あの世のこととかの方がむしろ、
石森美智子さん関係が深いんでしょうね。
あの世にいる者たちの声の方がよく聞こえてくる。
それは、
その人の無人の声だったりするから聞くのが辛いわけですよ。
エッセイはここまでにしましょうか。
一旦この、
えっと、
あとこの工芸っていうエッセイはね、
一旦ここまでにしましょうかな。
そっか、これで工芸っていうタイトルならまた、
すごい気になる。
そうだね、これは、
本当にいろんな意味があると思いますけど、
これ、さっきの文学っていうのは、
花を作り出す仕事であるって言ってるでしょ。
だから、
この言葉自体はもう花なんですよ、石森美智子さんからすると。
お母さんに向けた花なんですよ。
これ、やっぱりお母さんに捧げてるんですよね。
お母さんって言うか、
32:06

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