2024-05-12 27:50

#死者の復活はあるのか 24/5/12

マルコ12:18-27からの礼拝説教。2024年5月12日録音。(2024年5月12日22時まで前回の音源がアップされていました。)「死んだ人がよみがえるなどありえない。死んだら終わりだ」という死生観を(当時の祭司でイスラエルの特権階級の)サドカイ人たちは持っていたのです。イエス様は彼らが名だたる宗教家でありながら聖書と神の力について無知であることを厳しく指摘して死後の復活について教えたのでした。それは東日本大震災の時にトモダチ作戦で被爆し非業の死を遂げた兵士を始め多くの人に希望を与える言葉です。1.復活の体の状態、2.生きている者の神、3.人を生かす神の言葉、の3つの点から学びましょう。


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マルコ12章18節からお読みします。
復活はないと言っている サドカエビドたちがイエスのところに来て質問した。
先生、モーセは私たちのためにこう書いています。
もしある人の兄が死んで、妻を後に残し、子を残さなかった場合、
その弟が兄の女を妻にして、兄のために子孫を残さなければならない。
さて、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、死んで子孫を残しませんでした。
次男が兄嫁を妻にしましたが、やはり死んで子孫を残しませんでした。
三男も同様でした。こうして七人とも子孫を残しませんでした。最後にその妻も死にました。
復活の際、彼らがよみがえるとき、彼女は彼らのうちの誰の妻になるのでしょうか。
七人とも彼女を妻にしたのですが、イエスは彼らに言われた。
あなた方は聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか。
死人の中からよみがえるときには、人はめとることも、とつうこともなく、天の御使いたちのようです。
死人がよみがえることについては、モーセの書にある芝の箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなた方は読んだことがないのですか。
私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるとあります。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなた方は大変な思い違いをしているのです。
以上です。
今日はこのところから、死者の復活はあるのかと題して、御言葉を取り継いでお話をします。
皆さんおはようございます。
この里会人という人が、聖書の中に出てきますが、
死んだ人がよみがえる、そんなことはありえない。死んだら終わりだ。
これは現代人と言いますかね、今の人たちも考えそうな姿勢感ですね。
そしてその同じような考えを、当時の里会人たちも抱いていました。
里会人というのは、イスラエルの祭司たちの階級です。
これまで出てきたようにサンヘドリンと言って、71人の国会議員と最高裁判所の裁判官を兼ねた人たちがいますが、
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やはり里会人たちもその一員だったんですね。
そしてそのサンヘドリンの議員たちは、イエス様を簡単に言うと、自分たちの立場を脅かす者として排除したかった。そして殺したかった。
それでしばらく前から繰り返し見ていますが、その中の議員たちが特会筆会やってきて、イエス様を言葉の罠にかけたり、
多くの群衆から指示を得ていましたけれども、その指示を失わせるような恥をかかせようとしたわけですね。
今日の7人兄弟が結婚して、そしてその後、その7人兄弟とその妻が死んで蘇った場合に、この妻は誰の夫になるんですか?という質問。
これは当時の、今は何か弁論大会とかディベートやりますけどね、相手をバカにするときにこういう言い方をするそうです。
そんなことあり得ないでしょうということで、このような馬鹿げた例えを持って相手に聞いてですね。
そして相手をバカにする。相手の手の内を探るということがあったそうです。
この彼らの質問の意図はですね、じゃあ7人結婚して蘇ったら、この嫁さんは誰と一緒に住むんですか?
7人全員8人がその1個の家に住むんですか?そんなようなバカにするような言い方が、この彼らの質問に隠れているわけです。
そんな時にイエス様は一刀両断ですね。このように言ったんですね。これ読めるかと言ってみましょうか。
イエスは彼らに言われた。あなた方は聖書も神の力も知らないので、そのために思い違いをしているのではありませんか?
これもですね、さらっと読むと普通の言葉なんですけども、ある学者に言わせれば、ウォールストリートジャーナルというアメリカの有名な雑誌がですね、新聞記者が全くアメリカの経済ことが分かっていないね。
そういうバカにするような感じですね。あんたたちは専門家なのに専門分野のこと全く分かってないじゃないか。そういう厳しいイエス様の言葉だそうなんです。
彼らが根本的に何が間違っていたかというとですね、この地上の人間関係がそのまま蘇ったとして、その延長線上にですね、死んだ後の人間関係や体もあると考えていた。
その誤解がまさに聖書も神の力も知らないという彼らの間違いだったんですね。つまり自分たちの常識でしか神様の真理を捉えられない、そういう狭い考えのことを言っています。
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例えがいいかどうか分かりませんけども、私も犬を飼ってたんですけど、犬を引き付けたことあります?犬を引き付けるのに1秒で引き付けなきゃいけない。
例えば吠えるときにですね、吠えた犬をやめさせるために、吠えたらすぐ口を押さえて黙ったらご褒美のおやつをあげる。
トイレもトイレしたらすぐ1秒以内にご褒美の餌をあげる。なぜかというと1秒、2秒経つと忘れちゃうんですって犬って。
だから2、3秒経ってあげても何のためにもらったか分からなくなっちゃうから身につかないというんです。
賢い犬でも大体人間の3歳児ぐらいの知能があるというんですね。でも3歳児です。
例えば昔もこういうことがあったんですけど、お手ってしたらおやつをあげるように教えたんですね。
そしたらその犬はですね、おやつが欲しいと何をするかというと、僕のところに来てお手をするんですよ。
あげなきゃいけないのにこうやってお手をする。何が言いたいかというと、どんな犬が賢くて私も犬好きですけども、やっぱり犬は犬として限界があって人間社会のことは理解できない部分がほとんどだということなんですね。
同じように無限の神様、偉大な神様のことを有限な人間が完全に理解すること、その神様の真理や教えを私たちの頭の常識で理解することはできないんだということをまず抑えておいてほしいんですね。
そのことを理解した上で、復活の体とか復活について今日3つの点から一緒に見ていきたいと思います。
まず体がどんな風になっているのか。復活の体の状態。イエス様は復活はあるよ。でもお前たちが思っているような地上の再現じゃないんだよと教えています。復活の体の状態はこうです。
死人の中から蘇るときは、人はめとることもとつぐこともなく、天の見つかりたちのようです。これは文字通りこのような形で私たちが死んだ後、蘇ってもこういう状態だということなんですね。
このことをさらに理解するために、この後の使徒パウロがどのように復活の体について言っているかを聖書から抜粋しました。こういう言葉です。
コリントビートの手紙第1、15章の43節から47節の抜粋ですね。
死者の復活もこれと同じです。
朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえらされ。 癒やしいものでまかれ、栄光あるものによみがえらされ。
弱いものでまかれ、力あるものによみがえらされ。 血肉の体でまかれ、御霊に属する体によみがえらされるのです。
ここで読みましょうか。私たちはから3、はい。
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私たちは土で作られた人の形を持っていたように、天に属する方の形も持つことになるのです。
このまかれというのはですね、土層ですね。死んだ人が土の中に埋められるという、そういうことが重ね合わされているんですね。
この死んだ時の体は癒やしく、弱く、血肉、いわゆるこの体なんだ。
でも、よみがえた時はですね、朽ちない体になり、栄光ある体になり、力ある体になる。
そして、霊に属する体になると言っているんですね。
このようにですね、パウルやイエス様が教えています。
何が言いたいかというと、イエス様もパウルもですね、復活はありますよ。
体を持ってよみがえりますよ。でも大事なことは、この地上の体と同じような体ではないんですよということを一番言いたいんです。
英語でトランスフォーメーション、トランスフォーマーというアニメをやりましたけど、変容する、全く変わる。
イモ虫がサナギを経て蝶になるように全く変わるということが、ここで一番言っていることなんですね。
地上の体とは違う、変容する。
ここで大事なことは、こうなりますという具体的な状態のことは教えていません。
でもこのようなものだと例えて教えています。なぜならそうやって表現するのが精一杯なんですね。神様の真理。
イエスさんを信じている私たちは、永遠の命が与えられていると信じていますよね。
でもこの世の旅路を終えた後に、どのような状態の体になるかということは、繰り返しますがはっきり聖書は教えていませんね。
でも永遠の命は与えられます。一番大事なことは、後で出てきますけど、
神様との関わりの中で生かされていくということなんですね。
聖書はこのようにはっきり教えていません。でも大事なことはだからといって、死後の復活を否定してはいけない。
もちろん、聖書の教えるところを超えて詮索することもいけないですし、ましてや偽りの教えでね、はっきりここだというのを教えられて、それに傾倒してもいけないわけです。
私たちはですね、聖書やキリストが教えているところまでを受け入れて、そしてわからないところの限界も受け入れて、その上で復活の希望を持つ。
それが健全なキリスト教の信仰だということをまず覚えておきましょう。
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2番目。イエス様の論法の内容をですね、詳しく見ていきましょう。
イエス様はですね、こう言いましたね、2番目。
生きている者の神、生きている者の神とはどういうことか、それがどう復活と関係するのかですね。
イエス様が続けて言いました。
死人が蘇ることについては、モーセの書にあるシバの箇所で、神がモーセにどう語られたか、あなた方は読んだことがないのですか。
私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるとあります。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。あなた方は大変な思い違いをしています。
このモーセのシバの箇所ってどこかわかります。
質エジプト記、モーセがエジプトのこの原野でですね、イスラエルの民を導きなさいと神様に呼ばれた時にですね、神様が燃えるシバの中に、まあ、音をして現れてモーセに語りかけたんです。
あなたは誰ですかって言ったらですね、モーセの問いに対して神様はシバの中から、私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると答えたという箇所です。
質エジプト記3章。イエス様は聖書にそのことが復活についてこう書いてあるよということでこの箇所を引用しました。
じゃあなぜこの言葉が、死んだ人のよみがえの根拠になるのか。その理由はですね、こういうことなんですね。
神様はモーセに対して、私はアブラハムの神である。英語とかと似てますけど、現在形で言いましたね。
アブラハムはおそらくというか、モーセの何百年も前に死んでます。イサクもヤコブも。
だけども現在形で、過去のアブラハムに対して、私はアブラハムの神である。本当ならですね、もしアブラハムたち死んだままで復活してなかったのであれば、神様はこういうはずだったと言うべきだったんです。
私はアブラハムにとって神であった。過去形を使うべきだったんですね。
でもそうじゃなくて、彼らがこの地上の生涯を終えて何百年も経った後に、アブラハムの神である。今もそうであるって言っているんです。
このことから、アブラハムもイサクもヤコブもまだ生きているとイエス様はおっしゃったわけなんですね。
そしてさらにイエス様はこう付け加えたんです。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なので、だって言うんですね。
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だから、つまりそのことどういうことかというとね、 神は死んだ者の神ではなくて、生きている者の神様なので、
神様がその時ですね、 アブラハムとイサクとヤコブに対して、
当時この地上の生涯を終えたこの3人に対して、私は彼らの神であると言っている以上、
アブラハムもイサクもヤコブもまだ生きている。 死んではしまったけれども、神の前で生きているということが言える。
生きている者の神だから、 私は彼らの神だと言っている時に、
彼らももちろん生きているんだというのが、 このイエス様の論法なんですね。
そして最後3番目。 さらにですね、この
神様の言葉、 それには
人を生かす力がある、人を生かす神の言葉ということを3番目に見ていきます。 この
マルコの12章27節の言葉
最後ですね、神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。 このくだりについて、ある学者がこう解説しているんですね。
アブラハム、イサク、ヤコブは明らかに死んだ。しかし、神の力と言葉によって、彼らは今も生きているんだと言っている。
このように、神様の言葉というのはですね、
力があって、 神様ご自身にも力があって、
アブラハム、イサク、ヤコブはたとえ地上の生涯を終えて死んでしまったとしても、 神様の言葉と力によって、
神様は彼らを蘇らせることができるんだと言っている。 神の言葉には力があって、死んだ人を蘇らせると言っているんですね。
その上で、この学者はこう続けて言っているんですね。 神に属する者は皆死んでも、
私はあなたの神であるとの言葉の力によって生きるであろう。 神様がですね、そう言って呼んでくださった、その言葉の力によって、あなたの神である。
その言葉の力によって、 神に属する者は死んでも生きると言っているんですね。
実はこのことをですね、 実証したのがイエス様なんですね。
ヨハネの福音書を読むとですね、イエス様は死んだ人に呼びかけて、墓の中から呼び出している場面があります。
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それはラザロという人です。 ラザロという人は死んでしまったんですね。
そしてあの妹たちがですね、もう臭くなっているでしょうと言っているけれども、 イエス様は
彼ら、ラザロにですね、墓の中のラザロに呼びかけるんですね。
ラザロよ出てきなさい。 そうすると彼は出てきました。
イエス様はこの世を歩まれて、 神の言葉が死んだ人を蘇らせるということを、その言葉の力を示したんですね。
こういう出来事をちょっと抜粋してみました。 ヨハネの11章の43節から44節。
その墓の中のラザロに向かってイエスは大声で叫ばれた。 ラザロよ出てきなさい。
すると死んでいた人が手と足を長い布で巻かれたまま出てきた。
彼の皮は布で包まれていた。 イエスは彼らに言われた。ほどいてやって帰りなさい。
このようにイエス様の呼びかけた言葉によってラザロが蘇りました。
そしてイエス様は死んだ人を蘇らせる力がある。 神にはその力があるということを、この地上を歩まれた神様として明かししたんですね。
それのみならず自分も死の中から復活して、 復活の希望を教えたんです。
イエス様はこう言ったんですね。 自分のことについて、私は蘇りです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。
ところでですね、
今メジャーリーグが大谷翔平選手のことで大変話題になっていますけど、もう一人ダルビッシュがいますけど、同じカリフォルニアにサンディエゴパドレスというチームがあります。
サンディエゴというのは軍の町です。 私も行ったことがあるんですけども、サンディエゴに行ったらですね、
朝霞市を知っているよという人がいたんです。 なんでしたら、大役軍人で、昔、朝霞に米軍キャンプがあったんです。
だからサンディエゴに行って朝霞に知っているというおじいちゃんに何人も会いました。 それはそれとしまして、実はこのサンディエゴにですね、
ロナルドレーガンという原子力空母があります。 それが一つの大きな話題になってですね、それは3月11日の2011年の東日本大震災の時に友達作戦というのにロナルドレーガン空母が参加しました。
震災が起こった11日から2日後の3月13日からですね、
日本政府から要請を受けたアメリカが海軍に要請して、 韓国に向かっていたこのロナルドレーガンを急遽、この福島沖に向かわせたわけなんです。
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で、実はですね、 この看板の上で、これちょっとその時の写真ですね、これ初めまして、なんでこれやってるの。
この看板の上で支援物資を被災地に送ったんですね。 本を読んだんですけど、ペットボトルをどんどんどんどんですね、このヘリコプターに投げ込んで、少しでも多くの水を運ぼうみたいにしてたんです。
でも悲惨なことにですね、この時彼らには原発事故のことが全く伝えられていなかったんです。
そしてたくさん放射性物質を浴びたですね、ヘリコプターが来たり、そして風によってたくさんの放射性物質がこの看板の上、船に押し寄せてしまって、多くの人が被爆しました。
防護服もないまま3日でしょうか、救助した。でも余談ですけれども、しばらくした後からトイレが満杯になったというのは、もうお腹を下してですね、
トイレに駆けつける人が増えたわけなんです。
残念なことに、そのおそらく放射性物質を浴びたおかげで、2023年の段階で23人の人が癌になりました。そして20人の人が癌で亡くなっているんですね。
被爆した兵士たちはですね、その後、サンデコの地方裁判所に、簡単に言うと訴えを起こして、被害を認めて賠償してくれという裁判を起こしました。
でも簡単に言いますけれども、その訴えがもう何年もの裁判などと認められずにですね、2021年だったかな、終結して、
簡単に言うと、日本政府もアメリカの政府も彼らを見捨ててしまったわけなんです。
そんな中にですね、2014年の4月に最初の犠牲者が出たんですね。
その方は、ホルコムさんと言って35歳。一人の娘さんを残して死んでしまいました。脳腫瘍だったそうです。
もう亡くなった時にですね、放射性物質の影響で、体がもう異常に膨れ上がって悲惨だった。
最初の犠牲者がその方だったんですけれども、その時の葬儀がですね、退役軍人たちによって取り行われて、そこでこんな祈りが捧げられたんですね。
4月12日、天に召された彼の一生は、あまりにも短かった。
慈悲に満ちた聖なる神よ、悲しみの中にあって、我々は神の導きを見ることができます。
イエスの言葉は、復活の命を意味します。私を信じる者は、たとえ死しても、永遠に蘇ることができるのだ。
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どうか我々も、このホルコムのように、任務に忠実であり、永遠にこの国を守る力をください。
まあちょっと軍人らしい言葉で抵抗ある方もいるかもしれませんが、このような
復活の命をイエス様にあって、希望を持ってですね、
死を悼んで祈っているということがあるわけです。残念ながらここで言われている
この国はですね、永遠には
続きませんし、 そしてこのホルコム氏も残念ながら、結果的にはこの国に
見捨てられてしまった形になりました。しかし彼はですね、イエス様によって蘇らされ、永遠の神の御国へと入ることができたのです。
まあこのようにですね、実はイエス様にある復活というのは、大きな希望になるんですね。
パウルはこのコントラストをですね、 失望と一緒にしながら、
失望と希望のコントラストをですね、こう描いているんですね。 第1コリントの15章の19節から20節。
もし私たちがこの地上の命においてのみ、キリストに望みを抱いているなら、復活がなくてということなんですね。
私たちはすべての中で一番哀れなものです。 しかしから読んでみましょうか。
しかし今やキリストは眠った者の初音として、死者の中からよみがえられました。
ここに希望がある。 そしてさらにパウルはイエス様、復活のイエス様によって私たちは最後の敵である
死にも勝利するんだ、というその死への勝利の希望を述べて、こう言っているんですね。
第1コリント15章57節58節。 しかし神に感謝します。神は私たちの主イエスキリストによって私たちに勝利を、死に対する勝利を与えてくださいました。
ですから読んでみましょうか。
ですから私の愛する兄弟たち、固く立って動かされることなく、いつも主の技に励みなさい。
あなた方は自分たちの老くが主にあって無駄でないことをしているのですから。
このイエス様の復活の希望をいただきながら、この世を歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。お祈りします。
天の神様皆を賛美いたします。 死んだ人のよみがえり、
永遠の命、後頭無形に響くかもしれませんが、 イエス様が死からよみがえられ、また神の言葉の力によって、あなたは私たちをよみがえらせてくださる、
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その希望を与えてくださったことを感謝いたします。 どうかそのような希望が与えられているのですから、この地上の生涯を、
確信を持って歩んでいくことができますように、 困難の中にあっても、それに立ち向かい、あるいは対処しながら、あなたに会って歩んでいくことができるように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、 主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。 それでは1分ほど、神様に応えて、祈る時間、黙祷の時間を持ちましょう。
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