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2021-04-11 27:21

「死者の復活がなければ」2021年4月11日(日)メッセージ

東京ぶどうの木教会 2021年4月11日(日)主日礼拝のメッセージです。

牧師:アブラハム黄

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今日は先週に引き続いて 復活に対するメッセージをあがっちゃいたいと思います。
今日は死者の復活がなければというお題ですけど
皆さん、キリスト社になるためには
聖書に記録されている 信じられないような何項目かのことを
信じなければなりません。
まず、神様が人間になった。 神様が人間になられたということを信じられますか。
少女が赤ちゃんを産んだ。
また、罪がない人がいる。
罪がない人がいるのでしょうか。
罪がないのに、一番残酷な十字架の敬意を受けて死んだ。
もともと信じられないのは、その人は死んだのに、確かに死んだのにも関わらず
よみがえられた。
また、何千年も経った今も生きて働いている。
理性、人性を持っている人は、これは信じられますか。
しかし、これを信じなければキリスト社になれないということです。
ほとんどの人は、これを認めることができないから、信仰に入っていないんじゃないかと思います。
ところが、皆さんはどのように知って、信じることができましたか。
皆さんは、2000年前、エルサレムにおられたんですか。
見ましたか。
ところが、どのように、見たかのように、信じると言っていますか。
それは、神の霊、聖霊様が教えてくださって知るようになり、
聖霊の感動によって、皆さんは信じますと告白するようになったんです。
ですから、ペトロが、主はキリスト、生きる神の子ですと言ったとき、
イエス様が、マタイの16章17節
シモン・パイローナ、あなたは幸いだ。
あなたにこのことを表したのは、人間ではなく、私の天の父なのだと言います。
これは、聖霊様が教えてくださって、そしてあなたがこのような告白ができたということです。
今日も、私は祈る心でいっぱいです。
聖霊様が教えてくださらなければ、照らしてくださらなければ、
この頭を持っては、神様の世界は理解できないからです。
じゃあ、聖霊様に委ね、今日も続けて、
第一コリン島中古書を通して、復活について申し上げたいと思います。
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今日のテーマは、死者の復活がなければ、ということです。
パウルは、キリストの復活について福音を述べ伝えましたけど、
信者たちの中では、でも、私は信じられないね、という人がいました。
もし、皆さんの中で、私は復活のことは信じられません、と言われる方がおられるなら、
今日のメッセージが役に立つことができればと思います。
じゃあ、まず一番です。死者の復活。
第一コリン島中古書中二節。
死者は死者の中から復活した、と述べ伝えられたのに、
コリン島教会の信徒たちの間では、死者の復活を否定する人がいました。
じゃあ、信じることができなかった理由を考えてみますと、
当時、コリン島教会には、ユダヤ人信者とギリシャ人信者が共にいました。
ユダヤ人信者の中では、パリサイ派出身、サトカイ派出身のユダヤ人もいました。
パリサイ派の人々は、復活も信じるし、天使も信じるし、死後の世界も信じていましたが、
サトカイ派の人々は、復活を信じませんでした。
彼らは復活だけではなく、天使も死後の生涯も全部信じていませんでした。
皆さん、同じように信仰を持っていると言いながら、
その中身はこんなに異なることもあるということを考えていきましょう。
これは、首都行伝23章の8節に書かれてあります。
反面、ギリシャ人は霊魂は不滅だと信じました。
しかし、体の復活に関してはあり得ないと言いました。
ギリシャ人の思想は、もともと理言論として、
精神と霊魂の世界は誠で美しい。
しかし、肉身と物質の世界は脆弱的で汚いと思ったのです。
このような思想を持っている人々は、福音を聞いて信者にはなれたのですが、
体の復活は信じていませんでした。
また、一般の信者の中でも、
イエス・キリストが復活されたということは信じます。
しかし、私も私の体も復活するということは、
いや、これはあり得ないんじゃないかと思いました。
パウロは、このような多様な意見を持っている信徒たちに、
復活の確かさ、またはキリストの復活と、
私たちの復活との関連性について話をしてくださっています。
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第一コリン島中国書の中二説から中九説には、
パウロが死者の復活があるということを説明するために、
もし死者の復活がないというなら、
どんな深刻な問題が生じるのかを、
論理的に話をしているわけです。
では、コリン島教会の信徒たちの一部が主張している通り、
もし死者の復活がないというなら、
どんな深刻な問題が生じますか?
では、はじめに、死者の復活がなければ、
キリストも復活しなかったはずです。
キリストが復活しなかったというなら、
どんな問題が生じるのですか?
私たちが伝えることも信仰も虚しいものになります。
私たちが信じて伝えるのは、
キリストが私たちの罪のために、
十字架に死んで三日目に復活され、
私たちの命の救い主になられたということですが、
キリストが復活されなかったというなら、
イエス・キリストの復活を証する全ての人は嘘つきです。
また、詐欺師です。
この牧師である私がみなさんを騙しているのに、
みなさんはかわいそうに騙されているようなことです。
また、神様が無能力者になります。
死者の復活がなければ、
神様もキリストを復活させなかったということになります。
そうであるなら、
善が悪に負けても、神様が何もできない。
そうするなら、神様が聖なる統治ができなくなります。
神様は絶対主になれないでしょう。
ですから、ありえないということですね。
また、相変わらず罪が勝利し、
みんなが罪のもとにいるようになります。
イエス様が私たちの罪のために、
十字架につけられ、死んでくださったのに、
もしイエス様が復活されなかったというなら、
人類の罪と死の問題は、未解決のままに残されます。
誰も地獄の刑罰を逃れることはできません。
では、信じて亡くなった人も滅ぼされた。
また、生きて信じている信者たちも、
すべての人の中で一番みじめな人になるでしょう。
皆さん、モーゼが王子としての生活を捨てて、
奴隷である自分の民とともに、
虐待を選択した理由がヘブライ賞で書かれてあります。
ヘブライ賞11章24節からです。
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彼は信仰によって与えられる報いに目を向けていた。
彼は信仰によって復活の栄光を見たということです。
だから彼は王子を捨てて、
自分の民、奴隷の民とともに、
虐待を受けることを選んだということです。
また、信約の人たちも春休したのは、
より良い復活を夢見て、
首都福音のために苦労しながら眠りについたんです。
彼らたちは永遠の復活の希望があるから、
この世のすべてのことを犠牲にして、
キリストの苦難に参加しました。
ところが、キリストの復活がないとするなら、
ありもない虚しい希望を抱きながら、
死んでしまったということになるでしょう。
それだけではありません。
この世で今生きている信者たちは、
一番かわいそうな人になってしまいます。
創世紀3章以来、人間は楽園を失って、
食べて生きるために、
死ぬほど苦しんでいるかわいそうな存在です。
この世の中の人、人間の希望があるなら、
生きている限り、もっともっと楽しんで、
もっともっとうまく食べていきたい、
うまく食べていきたいということではないでしょうか。
しかし、信者たちはこのような楽しみを犠牲にして、
主のために時間と物質を捧げながら、
教会に仕えているのではありませんか。
これは復活信仰があるからです。
ところが、復活がなければ、
偽りの希望に騙され、
犠牲ばっかりしながら、
死ぬようになるから、
信者たちが一番かわいそうなものになってしまうということです。
このように、復活がないと言うなら、
と言いながら説明する理由が何でしょうか。
いいえ、そうではない。
復活はあるということを言いたいでしょう。
皆さんの苦労は、すべて報いがあります。
私が初めて信じたとき、
家の先祖に対する苦情、
儀式を私はできないと言いました。
そのとき、いろいろな難しさがあったんですけど、
聖霊様が私の心に照らしてくださった見言葉がありました。
これがマルコの宗書の29節、30節です。
イエスは言われた、
はっきり言っておく、
私のため、また福音のために、
家、兄弟、姉妹、母、父、子供、
畑を捨てた者は誰でも、
今この世で迫害も受けるが、
家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も100倍受け、
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後の世では永遠の命を受けると言いました。
この見言葉通り、私をいじめた父は、
30年ぶりに私から聖霊を受けて天国に行かれ、
家族はほとんど今、信じています。
復活信仰によって、
首都福音のために犠牲したことは、
100倍も受け、
後の世では永遠の命を受けることを信じます。
そうです。キリストは死者の中から復活されました。
ところが聖書はこれを、
眠りについた人たちの初報だと言っています。
中国書20節には、
しかし実際キリストは死者の中から復活し、
眠りについた人たちの初報になられたと言います。
ここで初報という単語がくださる意味があります。
イスラエルの民は、
収穫の時に初報を神様に捧げました。
それは、これからたくさんの収穫をくださることを
信じて捧げたことでした。
同じように、キリストは死者の中から復活して、
眠りについている人たちの初報になられたということは、
キリストの復活は、これから数多くのキリスト社たちも、
同じように復活することになるということを表したことです。
ですから、私たちも復活することをお話ししてくださるのです。
ところが、イエス様お一人が復活したのに、
どうして全ての信者も復活するのかという疑問があります。
ここに対してパウロは、
礼的代表性の権利をもって説明します。
すなわち、アダム一人によって、
世の中に罪が入ってきて、
全ての人が罪人になったように、
キリスト一人によって、この世の中に命が入ってきて、
全ての人が生きるようになったということです。
皆さん、今まで人類が、現在によって苦しんでいますけど、
それはアダム一人の罪のゆえにできたことです。
私たちが罪を犯さなかったとしても、
アダムの中にいるから、
アダムの中にある罪と死の力に支配されてきたんです。
しかし、私たちがキリストの中にいるなら、
アダムの中にいる死の力の勢力から逃れるようになって、
私たちは自由になります。
なぜなら、キリストのうちには無限な命の働きがあるからです。
ですから、私たちは誰の中にいるのか、
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誰に直していて、誰の支配を受けているのか、
これが非常に大事な問題です。
私たちがキリストのうちにいるなら、
キリストのうちにいるということは、
イエス・キリストは私の救い主と主人として受け入れ、
イエス様を主人として拝み、ついていく生活です。
その人の中には、神様の認めてくださる印として、
聖霊様がおられます。
その人たちは、キリストが再臨なさるとき、
栄光に輝く体として、体に復活するようになります。
また、キリストに直されている信徒たちは、
イエス様が再臨なさるとき、空中に引き上げられ、
イエス様に出会うようになると、
第1デサルニカの4章、中6節から中8節に書かれてあります。
もっと驚くことは、第1コリント中5章、24節から28節には、
キリストの復活によって、将来行われるであろう、
宇宙的な事件を記録しています。
キリストが復活、昇天されて、今は、
神の右の座に座っているところなんですけど、
最後の時に裁き主として、この世を裁くために来られます。
この世の中は、今までサタンによって、
創造の秩序が崩され、その中で人間は、
まだ万物は苦しんで嘆いていました。
キリストが来られて、崩れた創造の秩序を正しくされ、
万物を回復することによって、
私たちキリスト社たちは、新しい天と新しい地で、
イエス様と共に永遠に支配するようになります。
その時は、もはや死もなく、
もはや悲しみも、嘆きも、苦労もないと、
目白21章1節から4節に書かれてあります。
これは、これからできることなので、
私たちはこのことを、私たちの頭ではなく、
精霊によって信じて準備することが大事です。
ですから、3番です。
私たちキリスト社たちは、
目を覚まして、正しい生活をしなければなりません。
パウルは今まで、死者の復活の確かさと、
キリストの復活が私たちの人生に与える希望に対して明かししながら、
ですから、私たちは復活があるかないか、
疑いながら時間を無駄に使うことではなく、
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復活の希望を持った人として、
どんな人生を過ごさなければいけないのか、
自分の例を挙げながら進めています。
復活の希望があるから、パウルは、
自分の身に危険が及ぶ可能性があるのにも関わらず、
イエス・キリストの福音を力強く述べ伝えました。
パウルは良い環境の中で、
楽に福音を伝えたわけではありませんでした。
ユダヤ人たちは、いつもパウルを殺そうとしたのです。
福音を伝えるために、小アジアとヨーロッパを回るとき、
数多くの難しさと危険性がありました。
しかし彼は、この全てを復活信仰によって乗り越えていきました。
第一次選挙旅行、第二次選挙旅行、第三次選挙旅行、
そしてローマまで、彼は最後にスペインまで行こうとしました。
復活の希望が彼を導いていったのです。
それだけではありません。パウルは復活信仰によって、
毎日毎日自分を捨てて、自分の十字架を背負う生活をしました。
中古書31節に、「私は日々死んでいます。」と言います。
彼はキリストに従うために、楽に過ごそうとする肉の欲を毎日否定しました。
また、この世の栄光を求めようとする名誉心、誰も持っているこの名誉心を否定しました。
人々から認めてもらう心も捨てました。
パウルは学問と才能が優れた人です。
自分が望むなら何でも手に入れることができたのです。
いくらでも尊敬され、いくらでも豊かに過ごすことができました。
しかし彼はキリストを得るために、このすべてを諦めたのです。
自分に有益なことすべてを排泄物としてみなしたのです。
彼は毎日自分を殺し、キリストのしもべとしての犠牲的な生活を過ごしました。
どうしてこのような生活ができましたでしょうか。
これは復活の希望のゆえです。
ですからこの話があるでしょう。
ノーペイン、ノーゲイン、努力苦しみがなければ得ることはない。
ノークロス、ノークラウン、十字架なしには栄光もない。
パウルはこのような生活をしたのですが、
このすべての表現が私は日々死んでいますという言葉で表れています。
ところが彼が死ぬ度にイエスサムの復活の命が働いて、奇跡的な働きが行われたことなんです。
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反面、復活や信仰がない人はどんな生活をするのか皆さん知っていますか。
私は度々息子が見せてくれて、
ずっとアラブ中東地域の金持ちの王子様がどんな生活をするのか見せてくれるのです。
高級の車で毎日パーティーをしながら快楽を求める。
このことはユートマにたくさん現れています。
そうです。復活信仰がない人は仕方がなく快楽主義者になります。
明日死ぬかもしれない。今日楽しもうとします。
当時は遠景劇場があって、猛獣と戦う剣道士たちがいました。
彼らは猛獣との戦いの中でいつ死ぬか分からないから、
彼らの希望はただ一つ。食べて飲んで楽しむこと。
これしか希望がありませんでした。
皆さん、この世で生きることで人生が終わりだとするなら、
思う存分楽しむことが賢明かもしれません。
しかしパウルは32節に、そのように生きることは私に何の徳があったでしょうと言っています。
それから見ますと私たちの自分を捨てて自分の十字架を背負う生活は絶対損ではないことがわかります。
皆さん考えてみてください。
100年しか生きられないこの世の中で快楽を求めながら、
結局最後に地獄に行って永遠な炎の中で苦しむことより、
この世の残りの人生、自分を捨てて自分の死のために生きながら、
永遠な天国で言葉で言い表せないほどの栄光と祝福の中に生きることが遥かに良いと判断したでしょう。
このためにパウルはこの世の中での堅持的な利益より、
首都福井のために献身する生活をしました。
これは復活の希望がない人は絶対できない働きです。
私は伝道師さんの家族と共に働きをしながら、
この世の中の楽しみを一切求めない、
いつも首都福井のために自分の家族、財産、自分の人生を犠牲にしながら
使える姿を通して復活進行を見ています。
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伝道師さんとご家族の犠牲があったから、
今私たちはここで教会を建てて、ここで礼拝を捧げているのではありませんか。
より良い復活の進行、希望を持っておられることを祝福いたします。
最後にパウルは五輪道教会の信徒たちにこのように勧めました。
第一五輪道中古書の33節34節
思い違いを知ってはいけない。
悪い付き合いは良い習慣を台無しにする。
正気になって身を正しなさい。
罪を犯してはならない。
私たちが復活の希望によって自分のすべてを犠牲して生きるなら、
周りの悪い友達がその人をつま先かせると言います。
お前だけが偉いのか、適当にしなさいよ。
他の人は信じてもお前みたいにやらないよと言いながら
皮肉をします。
その話に騙されてそうだねと思いながら
現実的に適当にしよう。
それで自分の生活ばかりする生活人にならないで
最後まで神様がくださった復活の希望を
私たち自身が守っていかなければならない。
皆さんぜひともこれを覚えてください。
皆さん死んだら終わりではありません。
私たちは驚くほどの栄光の復活ができる人たちです。
大きな祝福をもらうべき人たちです。
今いくら難しい過程の中にいるとしても
この復活の希望をもってもっともっと
主のために励む私たちになりますように
私の愛する兄弟たち、こういうわけですから
動かされないようにしっかり立ち
主の技に常に励みなさい。
主に結ばれているならば
自分たちの苦労が決して無駄にならないこと
愛してください。
私たちの復活の希望をもってもっともっと
自分たちの苦労が決して無駄にならないこと
あなた方は知っているはずです。
アメン。お祈り出します。
神様、死者の復活があるのか
理性、知性的には信じることはできませんが
聖霊様の照らしによって
聖霊様の教えによって
信じることができたことを感謝いたします。
聖霊様はもともとイエス様を知らせてください。
日本のすべての方たちが
イエス様の十字架の復印
27:02
復活の復印を信じて救われますように
そして最後に永遠な天国に
みんな一緒に入ることができるように
私たちを導いてください。
イエス様の皆を通してお祈りいたします。
アーメン。
27:21

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