2024-05-05 29:00

#納税問題 24/5/5

マルコ-17からの礼拝説教。2024年5月5日録音。しばらく前から(11:27)イエス様とユダヤのサンヘドリンよりの使者たちとの神殿内でのやり取りが続いています。「ことばじりをとらえようとして」と質問者の悪意が明示されていますが、イエス様に問われているのは「ローマの皇帝に納税することは神の律法にかなっているのか」という問題です。1.背景と言葉の罠、2.地上の権威に対して、3.神様に応えて生きる、の3点から考えて行きましょう。


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それでは、聖書を読みます。マルコ12章13-17
さて彼らはイエスの言葉尻を捉えようとして、パリサイ人とペロデトーの者を数人、イエスのところに使わせた。
その人たちはやってきて、イエスに言った。
「先生、私たちは、あなたが真実な方で、誰にも遠慮しない方だと知っております。
人の顔色を見ず、真理に基づいて、神の道を教えておられるからです。
ところで、カエサルに税金を納めることは、立法にかなっているでしょうか、いないでしょうか。
納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。」
イエスは彼らの欺瞞を見抜いて言われた。
「なぜ私を試すのですか。でなり銀貨を持ってきて見せなさい。」
彼らが持ってくると、イエスは言われた。
「これは誰の肖像と銘ですか。」
彼らは、「カエサルのです。」と言った。
するとイエスは言われた。
「カエサルのものはカエサルに。神のものは神に返しなさい。」
彼らはイエスの言葉に拒談した。
以上です。
今日はこのところから、納税問題と題して見言葉を取り付けます。
みなさんおはようございます。
しばらく前ですね、このマルコの11章27節から、ユダヤのサンヘドリ、
その指導者たちと、そしてイエス様との論争が続いています。
それでですね、季節はおそらく3月4月頃、杉越の祭りの頃ですね。
その後、私たち1ヶ月ぐらい経ちましたけれどもね、
もうしばらく前から、今日も7月ぐらいの気温で、
とても夏のような暑い日になりましたけれども、
こうやって皆さんと礼拝しておりますが、
おそらく3月4月ぐらい神殿で論争をしていました。
そしてもう少し前のですね、イエス様がエルサレブルに入場して、
いわゆる宮清めと言われている出来事も、それもですね、
からの話が今日のところまで続いているかと思います。
それはですね、代わりバンコにですね、当時のユダヤの指導者、
最高議員のですね、サンヘドリンと言ってますけれども、
そこから入れ替わり、立ち替わりですね、議員たちが使わされてきました。
そして、今日もですね、パリサイ人とヘロデット王の者たちと書いてありますが、
やはり来たわけです。
そして彼らはですね、ローマの皇帝に、
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カエサルというのは皇帝ですね、
ローマの皇帝に納税することは神の立法にかなっているのかと、
イエス様に問いているわけです。
今日の聖書にもはっきり書いてあるように、言葉尻を捉えようとしてという悪意が見て取れるわけです。
イエス様と彼らのやり取りを通してですね、
今日は納税のことを少し触れますけれども、
そこから民の指導者や私たちが学ぶべきことを共に見ていきたい、
知るべきことを見ていきたいと思います。
いつものように、このやり取りの背景がありますので、
その歴史的な背景も含めて最初に説明します。
2番目は、その上で地上の権威にどう私たちは対処すべきなのか、
クリシャンとして、最後は神様に応えて生きるということを見ていきます。
一番最初ですね、まずこの背景の説明ですね。
背景と言葉の罠ということを見ていきます。
最初にですね、使わされた者たちがイエス様にこう質問しています。
先生、私たちはあなたが真実な方で、誰にも遠慮しない方だと知っております。
人の顔色を見ず、真理に基づいて、神の道を教えておられるからです。
ここからちょっと読んでみましょうか。
ところで、かえさるに税金を納めることは、立法にかなっているでしょうか、いないでしょうか、納めるべきでしょうか、納めるべきでないでしょうか。
こういう質問がイエス様に投げかけられているわけです。
言葉の罠、前の聖書ではですね、言葉尻を捕らえようというところがですね、言葉の罠にかけようとしてと訳されていました。
まさに言葉巧みにですね、イエス様を罠にかけようとしていることが、ここだけを見てもわかります。
イエス様が真実な方で、誰にも遠慮しないで、人の顔色を見ないで、真理に基づいて、神の道を教えるというところですね。
そこから、こういう質問が出てきて、そうやってですね、
単刀直入にイエス様に答えさせようとしていた、そういうことがわかるわけです。
で、どういう言葉の罠が仕掛けられているのかということを、もう少し見ていきましょう。
で、この出来事が起こるですね、約イエス様が亡くなったのが、起源後30年か33年頃としまして、その約25年ぐらい前の起源後6年ですね、AD6年に、
実はローマが、特にイエス様が活躍したガリダヤ地区をですね、調査したわけです。
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そして税金を取ろうとしたんですね、ローマの帝国は、ガリダヤから税金を取ろうとしました。
で、その時にユダという人物が放棄して立ち上がってですね、この住民を煽動したんですね。
そしてローマに対する反乱が起こったんです。で、彼は何を民に訴えたかというとですね、
納税によってローマ帝国に従うことになる。それは誠の神への反逆になるんだというふうに主張したんです。
で、それで彼はですね、こういうふうに民に迫ったんですね。お前たちは神を持ちながらローマ人たちを主人としているんだ。
そういうふうにですね、この煽動したわけですね。で、ここでは神を選ぶのか、ローマを選ぶのかという二者卓一のことが問題とされているわけです。
その後どうなったかと言いますと、このユダはですね、捕らえられて処刑されました。ローマへの反逆をしたということです。
で、そういう中でですね、今日の箇所での質問者たち、ユダヤの民の指導者ですね、繰り返しますけれども、議員や裁判官を兼ねているサンヘドリンの者たちの中から
パリ裁人とそしてヘロデ党の者たちがやってきた。
で、彼らも同じような問いをイエス様に投げかけることによって
言葉の罠にかけてですね、イエス様にローマの反逆を煽るような言葉を言わせようとしむけたわけなんです。
皇帝に対して税金を納める、それは神の立法にかなっているのかどうかという。ここでもやはりローマの皇帝に従うのか、神に従うのかということを二者卓一の問題としているわけですね。
それとも両立できるのかということを問題としているわけです。で、実はこれはですね、先ほどユダの反乱のことから始まって
ずっと続いている潜在で大きな問題だったわけです。
まああえて言いませんけどアメリカのですね、選挙でもあることを通して賛成反対化ですごくこう
教会が割れたりもするわけですけれども、とても潜在で大きな問題だったわけです。
カイザル皇帝への納税、それが立法に反するかどうか。
で、事情を言いますとですね、このパリサイ人たちというのは、こと細かに生活のあらゆることに規則を設けて、これは立法にかなっている、神の立法にかなっている、いないということを教えていたんです。
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で、実はパリサイ人たちは、嫌々ながらもですね、ローマへの納税をしていた、そういうこともしていたわけなんですね。
で、一方ヘロデ党というのはですね、よくわからないんですけれども、このイエス様の生まれた時に地域の子供たちを虐殺したヘロデ大王たちの残党と言いますか、
彼らヘロデ大王にコミットした人たちの残党で政治的な中層になっていたのがヘロデ党だと言われています。
で、ヘロデ大王というのは、彼が曰くダビデの末製の正式の王だと言われながらも、実はローマの傀儡政権だったわけです。
そして彼は実は納税ですね、民から税を、ヘロデ党の人たちは民からのローマの税金を受け取ることによって、実は彼らも私服を肥やしていた。
旨味に預かっていたので、それはローマに従うことも納税も大賛成だったわけですね。
ですからもしここでイエス様が、納税は立法にかなっていない、つまりそれはしてはいけないということにもとられますので、
そういうことをしたらローマへの反逆罪だと言って、当時のカクテルのユダのように捉えられる、そういう危険があったわけです。
反対に、この立法にかなっている、納税しても神の立法に背かないというようなことを言ったならば、このユダに扇動されたような群衆は、ローマの支配に反感を持っていたわけですし、
ローマから自分たちを解放してくれる救い主としてイエス様に期待していたわけですから、イエス様は、
アリテイの言葉で言えば、民衆からの支持を失う。ヘタをすれば民衆によって殺されかねないわけですね。
だからバブテスマのヨハネの権威についてイエス様が尋ねたと同じように、どっちに答えてもこのイエス様は窮地に立たされる。
それがですね、この言葉尻を捉える言葉の罠という問題だった。 安全な答えがないという意味で罠だったんですね。
で、イエス様がどう答えるか。 このサンヘドリンから送られた使者たちはカタツオを飲んで、その答えを待っていたわけです。
そして、ご存知のように、安全な答えがないという意味で言葉の罠だった。
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そこでイエス様がこう答えられました。
デナリ銀貨、ローマ皇帝が発行している銀貨を持ってきなさい、と持ってこさせました。
彼らが持ってくるとイエスは言われた、これは誰の肖像と名ですか。彼らはカエサルのですと言った。
するとイエスは言われた、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。 皇帝のものは皇帝に返しなさい、と言ったんですね。
イエス様の答えが絶妙だった、それはイエス様が言葉の罠にかからなかったということからもわかります。
簡単にイエスかノンかで答えなかった。ですから罠にかけようとした者たちは、
イエス様を捕まえるどころか、その答えに驚愕した、とご聖者にも書かれていたわけです。
その上でイエス様はどういうことを言ったかというと、税金を納めることは理にかなっているのだよ、ということをさらっと言っているわけです。
そこで、まず私たちがこのイエス様の発言で覚えておく一番大事なことは何かというと、イエス様は言葉の罠にかからない答えをしたということなんです。
では、その先に難しい議論ということは、イエス様の言動からはイエス様は意図していないと考えてもいいんですね。
とにかくイエス様がこういう答えをされたのは、まず言葉の罠にかからない答えをされたという点なんです。
その上で私たちが学ぶべき、聞くべきこと、それはイエス様の後の人たちやパウロの言葉から学ぶことがあるんですね。
大事なことは、これは皇帝と神様とどちらに忠誠をする、誓うかにしては卓一の問題ではないということなんです。
この問題は、神様は皇帝の権威を超越している。そこが大事な点なんですね。
どういうことかというと、皇帝の権力をはじめ、国の権力というのは、神様の主権や許しのもとでこそ存在している。
そういう意味で、この国なり、この地上の権威を超えて、神様の権威が一番上にあるということがまず大事だということなんです。
有名な言葉で、イエス様の言葉からよく引用される聖書の歌詞は、ローマ人の手紙の十端章の1節から7節なんですね。
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そこの一部抜粋しますけど、このようにパウロは教えています。また、ローマの教会の人たちに教えています。
ちょっと短くて難しいかもしれませんが、読んでみましょうか。
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて神によって立てられているからです。
彼はあなたに益を与えるための神の下辺なのです。ここにはっきり書いてあるように、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて神によって立てられていると言われている通りなんですね。
さらに、この権威、彼はというのは権威は、この世の権威は、あなたにキリスト社であるあなた方にも益を与えるための神の下辺だということなんですね。
ですから、私たちが一国一市民として、キリスト社でありながらも社会的な福祉や何か
益を受けているとするならば、それも神様の恵みの一環だと理解することができるわけなんですね。
そういうこともあるので、クリスチャンは神の国に属するものでありますけれども、一市民として責任をその地域、国の中で果たすべきだ。
そういう意味で、納税もその範疇に当てはまると考えられるということなんですね。これは例えば仕事にも当てはまると思いますが、その職場の上司とかですね、学校でも教師っていうんでしょうか、そういう権威ある人がいるわけですけれども、その中での関わりにおいても言えることです。
当然、今よく言われているハラスメントとかですね、そんなことにおいては、きちんとしかるべき手段を取るわけですけれども、基本的にはそう考える。
神の権威のもとに、この地上の権威もあって、一市民としてそれに従う、一つのメンバーとしてそこの権威に従っていくということが、私たちが学べることなんですね。
大事なことはですね、イエス様の言葉も、そして聖書自体もですね、パリサイビドと違うアプローチをとっています。パリサイビドというのは、とにかくこと細かなことまでこうすべきであるということを、規律を与えています。
でも、そのように聖書もイエス様も教えていません。大事なことはですね、私たちはいろんな難しい状況に追いやられるかもしれませんけれども、その時に私たちそれぞれが
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最高の権威者である神に従うべきものとして、どう振る舞うべきなのか、イエスと言うべきなのか、ノーと言うべきなのかということの判断が委ねられているということですね。
それを覚えておきましょう。またこのような見言葉もあります。
パウロはこの国家と納税に関して、最後の部分でこのように言っているんですね。ちょっとここで読んでみましょうか。
すべての人に対して義務を果たしなさい。税金を納めるべき人には税金を納め、関税を納めるべき人には関税を納め、恐れるべき人を恐れ、
敬うべき人を敬いなさい。このように当時のクリスチャンたちに教えているわけです。
そしてそれは今の私たちにも当てはまるというわけですね。それをもとに日々の生活の中で歩んでいくのが私たちであります。
そして最後ですね。 それでは
その中でもう少し積極的に神様に答えできるということを考えていきたいと思います。 イエス様は先ほどの答えの中でこのように言われましたね。
そのデナリ銀河、皇帝の銘が打ってある、皇帝の肖像が書いてあるこの銀河を見て
イエスは言われた、返さる者は返さるに、神の者は神に返しなさい。 彼らはイエスの言葉に協談した。
この意味をもう少し、返さる者は返さるに、神の者は神に、をもう少し見ていきます。
実はこの大事なことはですね、16節に
出てくる。 誰の肖像と名ですから、この肖像という言葉。
これはごとの言葉では、ギリシャ語でエイコーンと言うんです。
これはエイコーンとは何か。 それはですね、日本語のスマホやパソコンのアイコンの元となった言葉です。
そしてもっと言うと、英語でどっちもアイコーンと言うんですけども、ギリシャ聖教とかですね、聖教会の
イコンを指すんです。 ああいうとこの教会の壁にですね、絵が掲げてあって、
それがいいかどうかは議論は別として、ここがまさに神の存在を覚えさせるものとしてですね、この前で信者を祈ったりするわけです。
そういうものとしてのイコーンがですね、このアプリを
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これどこもですね、アプリをですね、代表する
アイコンとして出ているわけです。 とにかくこの肖像というのはギリシャ語でエイコーン、アイコン、イコンの元となった言葉だということをまず覚えておいてください。
そしてその上でこの言葉の最も大事な意味はですね、 創世紀の1章26、27節で神が人を作られた時にですね、
神様のに姿として人をご自身の形として作られた文言があります。 その形という言葉が
ギリシャ語の聖書では エイコーンなんですね。
どういうことがここからわかるか、それはですね、 私たちが
神の形として人間が神のに姿として神の形として作られた 肖像の秘蔵物の頂点である。
それは神様に最も愛され、そして神に愛をもって応答する存在として、そして神ご自身をこのように表す存在として人というのは作られたということがこの
見姿、エイコーンという形、言葉に褒められているわけです。 ですから
イエス様がここで言っていること、神のものは神に返しなさいというのはですね、 この銀貨が皇帝に属するように人は本来神のものであると言っているんですね。
なぜなら 銀貨に皇帝の
見姿が刻まれてその存在を表すように、人間にも神の見姿が埋め込まれていますかね、 刻まれていて神の栄光を表すものであるから。
そしてそれを神にお返しするのはどういうことかというのは、人が神のものであるなら 神のために生きる、神に応えて生きるのが人間であるということがこの言葉からもわかる
そこから何がわかるか、実はこのイエス様が対峙している民の指導者たちの問題が浮き彫りになるわけです。
繰り返し言ってきましたように彼らの問題はこの民をですね、自分たちの所有物であるように考えて彼ら、彼女から
搾取していたわけですね。その問題をイエス様は指摘するために宮峡命を行ったわけです。
神殿の礼拝そのものを否定したり、そこで物を買ってそれを捧げることを否定したのではなくて、そのことを利用して
この民の指導者たちが民から搾取している、それを強盗の巣という言葉で批判したわけです。
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それは何かというと先週見たまさに
古作林がですね、葡萄園の農園種のものであるこの鳥群を横取りしたかのようにするかのごとく、民の指導者たちはこの神の民から搾取していたということなんです。
本来ならばその民の指導者たちは
この民をですね、神の形として神に応答できるべくお捧げし指導するべきはずだったということが
願蓄されているわけなんです。で、先週見ましたけれどもこの民の指導者たちに重ねられた農園の古作林たちはですね
農園種の愛する一人息子を殺してしまったわけです。 そしてこの民の指導者たちもやがてですね
民を正しく導くどころか民を先導して仕向けてイエス様を十字架につけろと叫ばせるということに至るわけなんですね。
それではですね まあこれは指導者の問題です。ご存知のように民の指導者がですね民主を私物化するとですね
いろんなものを自分のために使ってしまったりあるいは
とある会社が会社を私物化したり社員を私物化するとですね ゴルフボールで何か傷つけたりとかですねそういうことが起こったり
この社員にボールペンの置き方が間違っているというだけですね 本でもない周知をしたりとかですねまあそういうことが起こってくるわけです
それではなく私たちは神に従って生きようと 真摯に生きる神の民として私たちはどのように学ぶことができるか
それは私たち自身が神の形に作られたものとして神様に応えて生きていくということを ここから読み取ることができるわけです
つまり私たちの周りではですね今いろんなことが起こります 自分の身にいろんなことが起こりますそれをですね
神様の見心と実は神の愛に照らして出来事を見ていく そしてその上で自分がそれにどう答えていくかそれは神に応えていくことになるんですね
そのことを 振る舞いながらその振る舞いはですね神に応える
生き方として考えていくときに見えてくる違って見えてくることがある それが私たちがこの神の形と作られに作られ神に応答するものとして学ぶこと
べきことではないかと思うわけです まあパウロが
述べていますように私たちは神に応えて生きるものとして最後にこの三日ともを 共に読んで終わりにしたいと思います
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熱にから読みましょうかはい実に私たちは神の作品であって良い行いをするために キリストイエスにあって作られたのです
神は私たちが良い行いに歩むようにその良い行いをあらかじめ備えてくださいました 神の栄光を表す神に応えていくお互いとして歩んでいくものとありたいと思います
お許しましょう 天の神様皆を賛美いたしますあなた私たちはあなたご自身のためにお作りになりました
どうぞ私たちが イエス様を心にお迎えして
あなたの愛あなたの見事も知りあなたにお答えして生きていくことができますように どうか日々の出来事をそのあなたの愛と導きの視点からも見ることができるようにそれに
答えて生きることができるようにどうか導いてください どうぞまた
一つの国の民として市市民として神にあってどのような責任を果たすべきなのか そのことも
あなたからの 導きと考え正しく歩んでいくことができるようにまた
難しい局面によ 立たされた時に神に従う道なのかどうかそれが
あなたによって 悟りを与えていただくことができるようにどうか判断に迷うとき
あなたが私たちに歩むべき道生きるべき道をお示しください この願いと感謝を私たちの救い主
シューイエス様のお名前によってお祈りしますああ
それではいつも通り1分ほど神様に答える時間を持ちましょう
29:00

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