1. 名谷教会
  2. 2017/01/22:主に会う備えをせよ
2017-01-22 1:10:05

2017/01/22:主に会う備えをせよ

2017/01/22 新年聖会

西本耕一師

ペテロの手紙第一 1:5-16

00:01
それでは早速、ここの正解、主に会う備えをせよ、というタイミングをしまして、
西本浩一先生から、御子様のプレゼントをよろしくお願いします。
午前に引き続いて、皆さんとともに、また主の豊かな恵みに預かることができますことを心から感謝いたします。
先ほどは、お昼の時には、たくさんの御食をいただいて、お腹がいっぱいになりました。
もう私なんか、もうこれで御言葉の奉仕もしたし、食べたから帰ろうかなとは思いませんでですね、
この午後も、また神様私たちに更なる、勝ったところの豊かな恵み、祝福を与えてくださる、このことを期待するものであるわけです。
昨日私はテレビで、アメリカ大統領の就任式をチラッとですね、ニュースで見ました。
ご覧になった方々もいらっしゃると思いますけれども、トランプさんが選ばれて、アメリカの大統領になる。
昨年選挙があった時には、ほとんどチラリさんが大統領になるんじゃないだろうか。
そういう言葉票がですね、多かったと思います。
ところがいざ選挙があって、その結果トランプさんになってしまった。
もう本当にびっくりっていうかですね、どうしてなんだろうかと私も思ったわけなんですけれども、
ある方が人生には三つ坂があるからなと言ってられたんです。
坂ってここしかないはず、上り坂と下り坂、三つもあるはずない。
いやもう一つあるんだと。
いや何ですかと聞いたら、まさかがある。
もうまさかということがですね、ああ本当にこれはもうあるんだと。
もうびっくりするようなことであるわけです。
しかし私たちは地上の指導者を求めるのではなくて、
クリスチャンは私たちの誠の王となってくださる、
イエス・キリストこそが私たちの王であり、そしてまた命を与え守ってくださる方であるということです。
私たちが期待するのはこの世のですね、大統領や首相や指導者ではない。
私たちの命をあがない、また命を与えてくださるイエス・キリストを私たちは何よりも待ち望む。
またそこに私たちの実は希望があるということを神様は知らせてくださるわけです。
03:07
もちろんこの世のことも私たちは心に留めておかなければならないと思います。
ある先生は、クリスチャンはですね、片手に政治、そして片手に新聞を持って、
神様が語られていることと、そして今起こっていることを見ていくならば、
私たちの今の時代、そしてまたこれから何が起こるかを私たちは知ることができて、
そして必ず神様は平安をもって私たちを導いてくださいます、と言われたことを思い出すわけです。
今は新聞をあまり読んでいる人は少ないんじゃないかなと思います。
だいたいどちらかというと、スマホとかですね、そういうものを持ってニュースを知ることができる。
先ほどもユン先生は、スマホがあったらいろんなことも知ることもできますし、
生徒も読めますよと言われているんですね。
2つ持たなくて1つで今の時代は生きるのかもしれませんけれども、
私たちは今のこの時代の様子を見つつ、そしてまた神の御言葉を通して、
私たちの今、そしてまたこれからを的確に知ることができるものであるということを思うわけです。
今は本当に全世界で起こっていることがすぐにニュースになって流れてくる。
去年もブラジルでオリンピックがありましたけれども、
もうライブで選手が競技しているのが地球の反対側にいる日本にそのまま伝わってきているような時代であるわけなんです。
起こった事件とか事故が本当に身近に感じられて、
今の時代ほどそうしたニュースがすぐに伝わってくるときは今までなかったと思います。
本当にそういうニュース網が張り巡らされて、便利な時代にはなってきているわけです。
私はある一つのニュース放送局が言っていたことを思い出すんですけれども、
アメリカにCNNというネットワーク、ニュース専門のチャンネルがあります。
その会社は一つの大きなビジョンを持っていると言ったんですね。
どういうビジョンかというと、同時休憩して世界にニュースを張り巡らしているんですけれども、
そのCNNの究極の目的というのは、イエス・キリストが再臨するのを同時休憩して全世界に流すのが自分たちの使命だと言って、
06:06
私はびっくりしました。すごいことを考えているんだなと聞いて驚いたんですけれども。
イエス・キリストがどんな姿を持って再臨されるんだろうか。
それをまたテレビカメラが映して、どういうふうにして全世界にニュースが流れていくんだろうか。
すごいこれは計画だなと思ったんですね。
でもその時にちょっと待ってようと思ったんです。
イエス・キリスト様の同時休憩を見ているということは、家でテレビを見ている。
ではクリスタンが家でイエス・キリスト様が再臨するのをテレビで見てていいのかなと。
聖書を見るとですね、テサルミケの手紙を見たら、イエス・キリスト様が来られる時に私たちは空中で主にお会いする。
クリスタンはですね、もうイエス・キリスト様が来られる時に引き上げられて、地上にはいない、空中でお会いする聖書にあるんです。
だからそのクリスタンが家でテレビを見ていたら、それちょっとどうなるのかなと思うんですね。
それはもう地上に残されてしまうということですから。
だからクリスタンはもう同時休憩の再臨の様子は見ないようにしてくださいと私も教会で言ったことがあるんですけれども。
私たちはイエス・キリスト様が来たら、天に引き上げられる。
そしてまたそれ以降のことは、むしろこう見るとですね、もう大変なことが出てきているわけです。
私たちはそういう聖書の記事を読む時に一番必要なのは何なんだろうな。
それはもう自分自身が救われるということであるわけです。
そしてもちろん自分だけじゃない。やっぱり家族やまた知っている人がですね、イエス・キリストを信じて救われるというのが私たちの最大の願いではないでしょうか。
そしてこのことのためにも先に救われた私たちがイエス・キリスト様の救いを鍛えていく。
それを神様は私たちに委ねてもらえることであろうと思います。
果たしてこの2017年どういうことが起こるかはわかりません。
アメリカの大統領が変わったから日本にも影響があると言われるんですけれども。
しかし一番重要なことは私たちがイエス・キリスト様にお会いをする。
そしてそれだけではなくて私たちの家族もそして周りにいる人たちも一緒に携え上げられてですね、
イエス・キリスト様とお会いすることが私たちの大切な目標ではないかと思います。
いつどんな時に再会があるかはわかりませんけれども、
09:04
私たちは神の御言葉聖書、そしてまた今の時代がどのようになっているのか、
そういうことを見させていただいて、そして何よりも私たち自身が神様の御前にいつどんな時でも出ることができるようにですね、
もう心の備えをさせていただきたいと思います。
それでは短くお祈りさせていただきます。
面深い県の知事なら神様、こうして敬愛します三和谷教会、この小さきものをお迎えいただきまして、
そしてまたこの2017年の初めにあたってまた御言葉を愛する先生方、また兄弟姉妹方とともに開かせていただいて、
また主の豊かな恵み、そしてまたこれからの時に起こること、その約束をも知らせめていただけることを心から感謝いたします。
どうぞまた主が私たちをこの御言葉をもって魂を整えてくださいますように、
またこの御前の礼拝でも語られさせていただきましたけれども、
ニコイエスの地、すべての罪より我らを清めると、私たちのこの穢れた心でさえも、
イエス・キリストの従事家の主はそれに勝って私たちの心を清め、そしてまた主の御前に立つものとしてくださることを覚えて心から感謝いたします。
そしてまたそれに勝るところの恵みを神様は私たちに用意をしてくださっておられます。
またそのことを私たちが深く知ることができるように、また続いて主御自身が私たちに語ってくださいますように、
また何よりも真理の御霊様が私たちの心の中に働いてくださり、
どうぞまた御言葉を解き明かしてくださって、神様の御心を知るもの、悟るものとさせてくださるようにお願いいたします。
今からの時を御手に委ね、尊き救い主、イエス・キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン
年があらたまって、日本ではおそらくもうほとんどの人はですね、
正月単元日にはお寺や神社に行っておられるんじゃないかなと思います。
まだまだ真事の救い主を知らない大勢の方々がいらっしゃるわけです。
私もこの間、ある新年生会に招かれまして、電車で行き、また夕方帰ってくる時にですね、
ちょうど東海エリスか何かだったと思うんですけれども、人がもういっぱい集まってですね、
やっぱり車とか何とか持って歩いているのを見たわけなんですけれども、
この世の人というのは、やはり現実的な幸せをですね、求める。
12:05
もう商売繁盛とか、また家内安全、健康ということをですね、もう世の多くの人たちは求めるわけです。
そういう私自身もイエス・キリストを信じる前はどうだったのかというと、やはりお寺とか神社に行っていたということを思い出しました。
でもそれでもって本当に自分が幸福になれたかというと、もうそういうものはなかった。
去年はあそこに行ったけれども、全然ご利益なかったから、今年はこっちに行こうというですね、
もうそんな形で変えていたというのをですね、思い出すわけなんです。
私たちに一番必要なのは何なんだろうか。
それは実は魂の救いである。
自分自身の魂が救われなかったらですね、いくら素晴らしいものがたくさん与えられたとしても、その心は決して満足しませんし、にきたりることはない。
それはこの世の神々、偶像をもって私たちの心を満たすことはできないわけなんです。
じゃあ一体何が私たちの魂を満たしてくださることができるのか。
それはイエス・キリストの救いである。
イエス・キリストを信じるならば、私たちは魂に平安と喜び、慰め私からを私たちは受けることができるわけです。
この日本はフランシスコ・ザビエルが一番最初に日本にやってきて伝道した、そのように言われているわけです。
彼はスペインの領主の息子でありですね、パリ大学で学んで、後にはもう自分も後を継いで領主になるというような青年であったわけです。
ところが、彼はその学んでいたパリ大学で、一人の中年のしかもけがを負っている人が大声を上げて喚いている。
近づいてみたら、自分にも話しかけてきてですね、自分がやっているサークルみたいなものにヘッと言ってきて、
その人物は誰かというと、ロヨラというイエズス会を起こした人物であった。
彼が言うのには、たとえ全世界を設けても自分の命を損したら何になるのか、と生徒の言葉を持って語っていたわけです。
ザビエルは最初は聞く任務も何にもなかったんですけれども、その熱意に引っ張れるというか、
15:04
じゃあ自分は今何のために生きているんだろうか考え始めるようになった。
そしてまたロヨラと交わりを持って、なんと彼はそのスペイン戦争に出てきた兵士だった。
もう自分にとっては相手はもう敵だったんですけれども、そんな自分に彼は話しかけてきて、
彼は最前線に出ていき、そして大砲の弾が炸裂して、片足を撃つような大きな怪我をしたけれども、
死に着いて終えて彼はその時にイエズスの救いということを体験することができた。
これ以上に素晴らしいものはない。
そしてついにザビエルは彼の影響もあって、このキリストを信じる。
そして彼が目指したのは東洋に伝道に行く。
インドまで行ったんですけれども、そこで一人の日本人に出会って、
もう一生懸命その日本に来てくれというその招きを彼は受けて、
ヤジロウという殺魔犯士、酒癖が悪くて人をたくさん知って、亡霊が出てくる。
誰も自分の魂を癒して救ってくれる者は一人もいない。
神社、仏閣に行ってもダメだった。
でもそのキリスト教の宣教師が来ているということで長崎まで行ったそうですけれども、
もうフィリピンまで帰ってしまった。
なんとそのヤジロウはフィリピンまで行ったそうです。
そしてそれからもうマラッカまで行き、インドのゴアまで行ってですね、
そしてそのジャベルがあって、もう差引替え覚悟で救われた目にはどうしたらいいのかと聞いたら、
イエス・キリストを信じなさい。ただそれだけ。
彼は物の見事救われたそうです。
なんでわかったのか、彼は寝たらですね、もういつも斬り殺した教人や農民の亡霊が出てきたそうです。
彼は不眠症になっていた。
ところがイエス・キリストを信じますとお祈りして寝た。
その晩のアクラ社、ジャベルのところにやって来て、
寝ませんでいた。ジャベルはびっくりして誰も出なかったのか。
亡霊が出なかった。
イエス・キリストは私の罪を許してくださった。
この机を日本に連れてほしいと言って、
二人は命懸けでまた日本に渡って伝道を開始するというのが、
日本戦争の始まりとあるわけなんです。
それは一人の人が救われた。
悩み苦しみの中から救われる。
イエス・キリストには私たちの魂を買えですね。
そしてまた喜び恐竜を与えてくださる。
これがある救い道であるわけなんです。
18:02
私は大阪で育ちました。
大阪というのは皆さんもだいたいわかると思いますけれども、
もうけばなくには目がない。
だから私も実は、今は牧師になってますけれども、
小さい時は商売になりたい。
何かやっぱり儲かるような仕事をしたい。
そういう思いを持っていたわけなんです。
ですから普通の世間話、挨拶する時には、
大阪では儲かりますか?とかですね。
ぼちぼちだな。
ぼちぼちってのはかなり儲かっているというようなことなんですけれども、
そんな話が出てくる。
私は大阪のある伝道中華に出た時にですね、
イエス・キリストを信じる人は儲かりますよって言われた。
え?と思ったんです。
え?イエス・キリストは儲かるのか?ってですね。
どうやって儲かるのかな?ってお話を聞いていたら、
儲かるっていう漢字ですね。
儲かるっていう漢字、皆さんわかりますか?
実は二つ目の漢字が合わさっているんです。
横から見ると、信じるものって何?
信仰の真理。
人のものですね。
信者。
横に並べたら、儲かるって漢字になるんです。
だからイエス・キリストを信じたら儲かる。
永遠の命が与えられる。
そしてまた神様は祝福を与えてくださる。
それがあるってことなんです。
そしてこれはただ単に、
私が言っているダチアレ的なものではなくてですね、
神様は私たちに素晴らしい祝福を与えてくださるんです。
今、第一ペトロンの手紙を読んでいただきました。
後説を見ますと、
あなた方は信仰により、神の御力によって守られており、
なんとイエス・キリストを信じる者は、
神の御力によって守られるという約束があります。
そしてこの約束は、今現実に生きているこの生活の中にも、
神様は私たちを守ってくださる。
そしてそれだけではない。
やがて私たちがこの神様の前に立つ時、
後説の終わりを見ると、
終わりの時に表されるように用意されている救いをいただくのです。
終わりの時に表されるように用意されている救いってですね、あるんです。
その時にも私たちは実は、
21:02
救いの確証が与えられる。
だから今私たちは心配する必要はない。
だから将来のことを、
クリスチャンは思い患わなくてもいいということなんです。
それは神様が私たちに、
その終わりの時、
終わりの時っていうのは、
このイエス・キリストの現れの時っていう言葉が、
実は7節のところと13節のところに出てきますけれども、
私たちはこのイエス・キリストが現れる時、
それは再臨の時か、
それとも自分が滅される時なのか、
でも必ずどちらかではあるわけなんです。
私たちは必ずこのイエス・キリストの現れの時に、
神様の前に出される。
でも心配しなくていい。
神様がその救いを用意してくださっておられるんだ。
そのことを表してくださる。
現れしてくださる。
実はそれは、
ご生霊ということになるわけです。
私たちではない。
ご生霊様が私たちにその証を与えてくださる。
そしてそれは、実は内住のキリスト。
それがもうご生霊様の姿であるわけなんです。
だからあがなってくださった方は、
私たちをまた弁護伝えください。
それは朝に言いました、
ヨハネの大志の手紙の実は2章に出てくる約束でもあるわけなんです。
私たちはいずれの時神様の前に立たなければなりませんけれど、
しかし私たちにはイエス・キリストがおられる。
そしてその方は今も守ってくださるし、
そしてまたやがて御前に立つ時にも私たちを守ってくださる。
キリストが私たちを補強してくださるということなんです。
では私たちはその約束をどのようにしてやることができるのだろうか。
真面目な立派なクリスタになればやられるのだろうか。
それともあまりさえさ、報じもしないし、
また魔神の船でもなかったらやることはできないのかなと。
その心配はないということです。
いやむしろそれは何によってやれるのかというと、
実は宗説を見ますと、
これは信仰の結果である魂の救いを得ているかやです。
信仰の結果としての魂の救い、
信仰って何かというのはもう信じる、ただそれだけなんです。
24:04
見たから信じるんじゃないんです。
見ないで信じる。
もうそれが信仰である。
もうそれ以外の何物でもありません。
本当にそれは不思議なことです。
だからまあ私も今よく自分自身がこんな高段に立つことができているなと思うのも、
私自身がただイエス・キリストを信じる、
その信仰によって神様はこうやって立たせて下さることもできるし、
またやがては神の御前に立つ時にも、
神様御自身が立たせて下さるんだ。
ただもうそれを信じるのみである。
その信仰によって神様は私たちを守って下さり、
そしてまたこの絶在なる魂の救い、
その魂の救いというのはこの世だけで生きているということではありません。
もちろん私たちは生きるのはこの世のことではなくて、
天の御国で生きるということなんです。
そしてその天国もどういうことなのか、
読みませんでしたけれども、実は四説のところにですね、
その天国の姿が出ているわけです。
朽ちることも穢れることも消えていくこともない資産を受け継ぐようにして下さいました。
これはあなたのために天に蓄えられているのです。
なんと神様は私たちに朽ちずしぼむことのないその資産を天に蓄えて下さっておられる。
だから私たちの特権は何かというと、それを信じることができるということなんです。
たとえもう全てのものがなくなってもですね、
神様は私たちに天に素晴らしい資産を蓄えて下さっておられる。
そしてその思いを神様は私たちの道に与えて下さい。
この神戸も22年前に阪神淡路大震災がありました。
そしてまた昨年もですね、熊本で思いがけない震災があったわけです。
熊本はあんまり地震が起こらないだろうということで、熊本にも私たちの教団の教会があります。
地震保険入ってますか?
入ってないと。
ここはあんまり起こらないところですからということで、
一般の人でもあんまり保険に入ってなかった方がたくさんいたようなんですね。
でもいつ何が起こるかわからないというのが今のこの時代であるわけなんです。
また東北でも大きい東日本大震災ありました。
東北でも私たちの教団の教会いくつかあります。
私も福島県に行きましたけれども、本当にまだまだ復興していかなければいけない。
27:07
仮設住宅でもまだ10万人近くの人たちが避難しているということを聞いています。
そして教会の使命としてはやはりその仮設住宅に訪問して、
特に仕事に出られないお年寄りの方とかそういう方がいらっしゃって励ましに行っているということを今も聞いているわけです。
この時代何が起こるかわかりません。
しかし神様は私たちにもう亡くなることのないその資産を天国で備えてくださっておられる。
だからこれを信じることができるならばですね、実は私たちは恐れることはないわけです。
宮城県の気仙沼市、もう太平洋に命じているところがあるんですけれども、そこの一つの教会はもう津波で全部流されました。
そしてそこの先生はあの被害を受けた時に神徒の方たちに、もうこんな状況ですからそれぞれのところで礼拝するようにしましょうと役人の方に言ったそうです。
ところが役人の方はですね、いや先生、こんな時だからこそ是非ここで礼拝をお願いしますと言われて、
で先生はもうその街道全部流されてしまって、もう下のコンプリートしかなかったそうです。
でも不思議にも街道の上に立てていた十字架がですね、そこに流されないで残っていた。
奇跡的に残っていたそうです。でその十字架を真ん中に立てて、そしてそこでですね、数人の人たちが集まって礼拝をした。
なんと周りにいた未信者の人たちがですね、日曜日の後何やってるんですかと。
いやここで私たちは神様を礼拝してるんです。私たちを愛、守って下さいという方なんですと言ったら、
いやもし再使えなかったら私たちもそこに食われてもらえないですかと言ってですね、
なんと近隣の未信者の人たちが言ってきてお願いしますと言って、数十人の人たちが、その審議会直後でですね、何にもない。
もうそのステンレスの十字架をそこに立てて、そして礼拝をしたそうです。
まあ今はもう立派な街道を建っているんですけれども、実はそのことを通して救われた方も起こされたと聞いてですね、
私はやっぱり神様がなされることはただでは終わらない。本当に素晴らしい救いまた恵みを必ず与えて下さい。
この年何が起こるか誰も予測はできません。しかし私たちに確実なものは何かというと、魂の救いを得ているということなんです。
30:05
そしてそのことは神の力によって守られている。もうフォセスにある総理なんですね。
だから大変なことが起こってきても私の魂は救われている。
イエス様の十字架によって一切の罪が許されて、もうその恵みであえてもって私は御前に立つことができるんだ。
もうその信仰があるならば、そして神様は私を守って下さるというその信仰があると、私たちはどんな苦しみや苦難にあっても立ち上がっていくことが可能になるわけです。
ファンの日本で一番大きな会社は多分山崎製パンではないかなと思います。
実はその山崎製パンの社長さんはクリティアンです。法律教会の業界の役員もやっておられる方で今は3代目になっておられますけれど。
私は直接お会いしたことはないんですけれども、その教会の僕先生も今召されたんですが、高齢の方がいらっしゃってですね。
私は山口で開拓していたときに、御世話になっている先生の教会員の70過ぎた方がですね、おばあちゃん、おばあちゃんと言ったら親かもしれませんけれども、高齢の方が結婚すると言われてですね、びっくりしたんです。
こんな70過ぎて、そんな嫁のもらえてもあるのかなってですね、不思議に思ったんですけれども。
でもお相手の方が聞いたらもう90過ぎだと。それはもう花嫁で行くというよりもなんか買い物に行くんじゃないかなと。実際はもうそうだったんですね。
その先生の教会に山崎製パンの社長さんが礼拝に来られていた。
実は本田先生も特殿なんかに招かれて、メッセージ語られてですね、祝いの形式に募ったときに手を挙げられて、すぐに救われた。
本田先生のそういうつながりもあって、日本芸術の教会で、僕先生も高齢だけども奥さんを召されて一人大変だからというようなことの反応があってですね、
70過ぎの女性の方が結婚されて、私も驚いたんですけれども、ニコニコしてですね、もう10歳くらい若返ったような顔をして喜んでおられましたけれども。
でもその教会のファン屋さんが洗礼を受けられたと聞いたんですけれども、工業がですね、鍵だ。
東京高校外の武蔵野というところで、最新式の設備を入れられてですね、そしてまたこれからたくさんそこでパンを作って、もう全国に回っていこうというような計画を持っておられたんですけれども、全票された。
33:06
本田先生もびっくりされたそうです。もうこんな試練があったら、もう本当に進行をやめられるんじゃないかなと思っておられたそうです。
でも結果はどうだったのか。その社長さんは、これくらい耐えたことはない。たとえ全世界を背に入れても、自分の命を損したら何になるか。
自分は助かったよ。また新しい工業で研修を受けている従業員も、亡くなる方とか怪我を受ける方、人的被害はゼロだったそうです。
もちろん建物も機械も全部灰になってしまった。でも信仰があるならば、必ずあの木の中から復活してくださったイエス様は私たちを幸なわらってくださいますと言ってですね、もう家族全員イエス様を信じて、そしてまた神様の助けを求めていった。
その結果、他の工場もフル開店して、もう24時間でですね。開店をするたちも一生懸命、3交代勤務で働いてですね、足らない分を作り、もう一丸となってやっていって、その困難を乗り越えていった。
私はその時に初めて、私たちの救いというのは、この世のものが与えられるのは救いではない。物とかお金とか人の助けというのが救いではなくて、私たちの本当の救いというのは、魂の救いであり、全能の神様が働いてくださることがまことの救いなんだ。
もうこの救いは、2000年前も今も変わることはない。そしてこれからの日も変わることのない、私たちの大きな補強であるということをですね、私は確信します。
そしてこのペテロの手紙、あの1世紀の時代にこの手紙が書かれたと言われています。ペテロはネロの迫害の時に彼は殉教した。その前にこの手紙が書き記された。
そして多くのクリスチャン。一番最初に見たらポント・ガラテアという地方の名前が出ているのですけれども、おそらくはローマで迫害にあったクリスチャンが東のほうの地方に逃げていって、そういうクリスチャンを励ますためにこの手紙が書かれたと言われているのですけれども、いや、地方の人たちだけではない。
ローマに残っていたクリスチャンたちにもこの手紙は大きな励ましになったということです。そしてその希望は何か。この企業のことではない。やがて来るイエス・スピリット。そして天の御国に私たちは移されることが自分たちの希望である。
36:12
彼らはそのことを確信したでしょう。そしてまたこの手紙を通して励ましを受けたということを思います。出会うならば私たちも、たとえどのような苦しみや試練が来たとしても、同じイエス・スピリットを信じているわけです。そしてその方が私たちをまた慰め、励まし、力を与えてください。
そのことを私たちは知ることができ、また信じることができるわけです。
独説のところを見ると、あなた方は大いに喜んでいますという言葉が出てきています。そしてこの喜びというのは、この八説の終わりを見ますけれども、言葉に尽くすことのできない、社会に満ちた喜びに踊っています、とあります。
もうこれは魂、もう心の喜びである。誰もこれを私たちの心から奪うことはできない。ただし、これはもう信仰によって得られる喜びです。私たちが苦難にあっても、そしてまたどのような試練にあっても、私たちは信仰によって神様からこの大きな喜びに預かることができる。
このことは新約聖書で初めて出たことではないんです。実は旧約聖書にもその喜びについて私たちが得るべきものが記されています。それはどこにあるかというと、ネエミヤ記を見ますと、そのネエミヤ記の中に、死を喜ぶことはあなた方の力ですという言葉が出てくるんです。
ネエミヤという人はこの保守にあって、バビロンに連れて行かれて、そしてそこでこのバビロンの王に仕える一人であったわけなんです。ところが70年の年月が経って、イスラエルの人たちは神様の約束通りにイスラエルの地に帰っていく。ところがそこは立派なところではなかったわけです。
もう荒れ垂れて、町も神殿も全部ほどごとく破壊され、いきつねがためくが出るような荒れたところになっていた。しかも周りは違法人がいて、そのイスラエルの福を伺って妨害してくるというような状況であったわけなんです。
そういう中で神殿を再建し、自分たちが生活するというのは容易なことではありませんでした。普通の生活をしながらですね、そしてまた神殿を建てていく。そんなものは不可能だと。もうみんな反対したわけなんです。
39:14
しかしその時にネヘミアは、「主を喜ぶことはあなた方の力です。」彼はそう言った。私たちも絶対絶命。何の助けもない。ではどこに自分の希望があるんだろうか。私はネヘミアと同じだと思います。主を喜ぶことはあなた方の力です。
ではその主とは誰なのか。私のために十字架にかかり、身を押さえて、世の中に許してくださったイエス・キリスト。そのキリストを私たちは喜び感謝することができる。そしてそこに実は復活の力が与えられることができるわけなんです。
神様は愛してくださる方です。そしてまた無から有を作ってくださった。その私たちにも神様は必ず祝福、恵みを与えてくださる。私たちが苦難に陥る時に主を喜ぶ。そのことは私たちの大きな力となりですね、復興していくことができるわけです。
そしてそれが天の御国につながっていくものとなります。そしてこれは実は精霊によって与えられるということを私たちは知らなければなりません。
この約束はですね、もうまさに新約聖徒ができる以前から、旧約聖徒の時代から実はこのことが与えられていた。そのことは実はこの後に出てくるんですけれども、
10節のところにこの救いについては、あなた方に対する恵みについて予言した予言者たちも、という言葉があります。旧約聖徒の予言者。彼らは何を予言したかというと、救い主が来られるということを彼らは約束したわけなんです。
神様そのことを伝えなさいと言って、彼らは予言書を隠すと言った。そしてそれは実は、じゃあ誰のためだったんだろうか。12節を見ますと、彼らはそれらのことが自分たちのためではなく、あなた方のための法師であるとの提示を受けました。
なんとその予言というのは、その予言者たちのためではなかった。あなた方のため。あなた方というのはこの手紙を読んでいる人たちのことであるわけですし、またこれは広い意味では私たちにも含まれていることであるわけなんです。
42:14
だから旧約聖徒で予言されて約束していることは、その時代の人たちのためのものではなくて、後の時代、そしてこれは今生きている私たちのために神様は予言され約束され、そしてまた私たちにそのことを約束してもらえるということなんです。
イエス・キリストの誕生の予言は旧約聖徒に300以上出ていると言われています。
あのユダヤのベツレヘム、小さな町で生まれるということも予言されているわけです。そしてまたダビデの家系から王として生まれる。
マリアとヨセフはダビデの王の家系であって、ヨセフは直系です。神様が約束されたことがそのことによって行事する。
では300以上のことが全部行事するというのは偶然にできるのか?偶然では絶対にできないのです。
ですからそれは神様の計画であり、そしてまた私たちもそのことが聞かされている。だから私たちの生涯も決して不幸で終わってしまうことではない。
必ず私たちは天の御組でその栄光に預かることができるんだ、その約束があるんだ。
でも大事なことは、気をつけておかなければならないことは、実はこの精霊が働いてくださるということを私たちは知らなければならない。
11節を見ますと、彼らは自分たちのうちにおられるキリストの御様が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって明かされた時があるんですね。
預言者はただ単に神様から、天におられる方からお言葉をいただいたというのではないわけです。
テトラはこのところではっきりと、自分たちのうちにおられるキリストの御様がと言ってはいる。不思議なことです。
私はキリストの御様、正解で何回も聞きました。内住のキリスト。キリストが私のうちに生きておられるのである。
パウロが書いたガラケヤシの2章、20節に、私はキリストに十字架につけられた。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのである。
だから私は、キリストが私のうちに生きておられる。内住のキリストの恵みというのは、主役の恵みだ。そう思っていたわけなんです。
45:07
主役聖徒の時代には、それは与えられてはいなかったんだろうと思っていたんですけれども、なんとテトラははっきりとここでですね、
あなた方に対する恵みについて予言した、予言者たちの、はやらは自分たちのうちに生える、キリストの見たままおかしされた、というふうに彼は語っている。
だから内住のキリストは、私たちのうちにだけにおられるのではなくて、もう時代を遥かに越えて、旧約の時代に、そしてまたは聖徒を書き記した、予言者を書いた、あの予言者たちの心の中にも、同じキリストが生きておられた。
キリストは三位一体の神と言われるんです。聖霊もそうです。もうはじめから、血が浮かぶ神だけではなくて、キリストもおられて、御聖霊もおられた。そして宗教記の一節を見ると、神の霊が動いており、という言葉があるんです。
もう血の形がなる以前から、実は御聖霊は働いておられた。もちろん天主教の時もそうですし、旧約時代の時にも予言者を通し、聖霊は働かれて、約束の言葉を書き記され、そしてまた私たちは聖徒を今読んでいます。
じゃあ私たちは聖徒は何よって読んでいるか。実は私たちは聖霊の説教をいただいて読む必要がある。今私は新学校でも講師の一人として教えさせていただいています。
今はもう90分授業になって、昔は60分で早く終われてよかったなと喜んでいたのですが、最近はもう大学と同じ90分授業になりました。
そしてまたある程度は学科の準備をしていかないと、たまにやっぱりツッコミを入れる新学生もあったり、これはどういう意味ですかと問われることもありますから、しっかり勉強はしていかないといけないのですけれども。
じゃあ聖徒は私たちの奇跡とか智慧とか能力で読んでいくことができるのだろうか。その回答を得ることができるのだろうか。私はもうできない。限界がある。
じゃあそれは一体何によって明らかにされるのか。実はここに十二節の中頃で、啓示を受けましたという言葉が出てきます。この啓示を受ける、それはどういうことかというと、そこにあるものが見えないけれども明らかにされて見えるようになる、わかるようになる。
48:29
それが啓示なんです。ないのに与えられるということではなくて、もう既に与えられている。約束されている。
言うなれば、この啓示というのはもともとはベールを剥がすという言葉から受けるんです。覆いを取り除く。そしたら中にあるものははっきりここにありますということが見えるわけなんですね。
でもその覆いがかけられていたら見えない。それが外せられると私たちは見ることができる。あ、確かにあった。イエス・キリストのこの誕生、また私たちに対する救いも、実はもう神様が約束してくださってわれて、既に与えてわれた。
そしてそのことがいかにして理解できるかというと、聖霊によって啓示されるということなんです。
ですから沢村吾朗先生が平野神学校で授業を持って、その授業の前に祈られたという言葉があるそうなんですけれども、それは神の霊感によって置かれた聖書が、御聖霊の啓示によって明らかにされますようにと沢村吾朗先生は祈って授業を進められた。
私はそれを聞いて、なるほどって思いました。私自身に反省させられた。もう私がやっていることは奇跡の切り古しかやっていることにしかすぎない。ただ自分が勉強して学んで得たものを提供しているだけにすぎない。
でも沢村先生は違う。本当に天からの啓示、御聖霊がそれを明らかにして分からせて下さい。そしてそれで得るものが本当に命の糧となっていくんだと。もう本当に私自身が教えられたことがあるんですけれども。
私たちはまた聖書を読む時に神様が啓示して下さるということを祈りつつ読む必要があると思います。なぜならば私たちの理解ではもう分からないようなことがいっぱい聖書の中にあるんですけれども。しかしまた神の御言葉は神の御言葉によってそれが表される。回答が与えられる。
51:03
そして私たちも御聖霊が働いてくださって、私たちはそのたきかなものを知ることができるわけです。そしてその理解を知ることだけではなくて、実は十二節の中古から終わりを見ますと、それらのことは天から贈られた聖霊によってあなた方に福音を語った人々を通してあなた方に告げ知らされたのですとあります。
ここに天から贈られた聖霊によってあなた方に福音を語った人々を通してあなた方に告げ知らされた。福音は当然人によって伝えられていくんですけれども、それは人の力だけではない。天から贈られた聖霊による。ペテロはそう言っています。
ペテロ自身もどこかで勉強してきたというわけではないわけなんです。彼はもともとはガリラ屋の田舎の漁師だった。ヨハネと一緒に、それよりも前に彼はイヤシ様から声をかけられて、イヤシ様に従っていった。
そして人の働きを見ても、もう彼らがその福音を伝えていく、その姿を見て人々は何て言ったのか。彼らは無悪なただ人だ。普通の人にしか過ぎないのに何でこんなに力強い言葉を語っていくことができるのか、とですね、驚いたのです。
裏返しになれば、実は福音というのはもう普通の人でも語ることができる。イエス・キリストを信じているならば、私たちはキリストを述べ伝えることが許されている。保証されている。
でも大事なことは何かというと、生命の助けがあるのかないのか、そのところなんです。
神様が働いてくださらないと魂は救われません。私たちは人の助けとか励ましによって救われたのでしょうか。もちろんそういう助けはですね、あったと思います。
誰かが誘ってくれた。教会に連れてきてくれた。聖書の話をしてくれた。でも私たちの信仰は自分自身が神様に対してイエス・キリストを信じます。告白するところにあるわけです。
ですから聖書の中に誰でも聖霊によらなければイエスをすと告白することはできない。本当に不思議です。私もそうでした。キリスト教は良い宗教。
54:08
自分に言ってもらいたいことも人に言いなさい。もう黄金歴というか、もう愛の言葉がいっぱい出ている。そこがつまずきがあったわけなんです。一つは何かというと死んだ人がよみがえる。そんなことは絶対信じられない。ありえない。
また聖霊によってイエス・キリストが生まれる神の神。そんなことを信じられることはできない。私は心の中に拒絶反応が起こって残念ながらすぐには信じられなかった。でも教会の中にも神様が働かれて、そして自分が罪を犯した人間だということがはっきりと示されてきたときに十字架以外にはもう救われることはできない。
私は受け入れることができました。そしてそのことを告白することができた。
じゃあそれは何を言ってできたんだろうか。もう私はやっぱりこれは御聖霊が働いてくださって私をそのように示してください。キリストの前に導いてくださった。そして自分の口で言えるように告白してさせてくださったんだ。御聖霊が働いてくださった。
私は今もそのようにはっきりと思います。そうでなければ罪もわからなかったし、悔い改めるってこともなかったでしょうし、またその後に与えられる許しと愛ってことは全然わからなかったと思います。しかし今は御聖霊が働いておられる時であると約束されているんです。そして私たちが今伝導できるのはもうこの時であると私はそう思います。
この時はやっぱり私たちは用いさせていただかないと。実は目白を見るとやがてその御聖霊が引き上げられる時が来るってですね、ちゃんと記されてあるんです。それはもう大変なことだと思います。もう御聖霊が引き上げられたらどうなるのか。もう信じたいと思ってもですね、信じることもできないし、もう罪もわからないし、滅びにかなければいけない。
だから今私たちが伝導できるのは、イエス様のことを他の人たちに話すことができるのは、もう今この時にしかないということなんです。
そして私たちのやはり一番の喜びは何か。自分が救われた。自分の罪が許された。神のことをさせていただいた。これが私たちの大きな喜びではないでしょうか。
節剤でもクリスチャンになった人はですね、他の人もやっぱり救われてほしいと思うと思います。そして自分の家族も救われてほしい。願わないクリスチャンはいないと思います。神様はそのことをまた必ずやってくださる。
57:09
今御精霊様が働いてくださる時にですね、私たちは授業をいただいた。この福音を伝えていきたい。そしてそのためには私たちはどうするべきか。実は十三節に、あなた方は心を引き締め身を慎み、イエス・キリストの現れの時、あなた方にもたらせる恵みをひたすら待ち望みなさい。
私たちは心を引き締めなければいけない。確かに日本は戦後71年経過してですね、物質的には豊かになり、そんなに経済的に困ることもですね、大変だということもあんまりなくなってきてます。ああ別に救いなくてもいいと思うような心が出てくるわけなんですけれども、少し心を引き締めなさい。
ペテロはそう言った。まだこの時は大迫害は起こっていなかった。この後で、あのネロの恐ろしい大迫害が起こって、多くのクリスチャンたちは捕らえられた。そして彼らはどうしたのかというと、自分たちの命を喜んで捨てていくことができた。
なぜか、このペテロの励ましがあったから、彼らはその信仰をもって応答することができたということなんです。神様は必ず救ってください。このキリストの哀れの時にあなた方にもたらされる恵みというのが何か。
神様は必ず私を救ってくださる。それが一世紀の時代のクリスチャンの希望だった。私たちも今、もう本当に終わりの時代が近づいてきている。そして政治はどうなっていくかわからない。金融諸国の環境はどうなるんだろうか。もういろいろ心配なことは出てくるんですけれども。しかし大事なことは、私たちが天国に行くということであるわけなんです。
そして今の時代、経済的にも物質的にも豊かだけども、私たちは心を引き締めて、イエス・キリストがおいでになるということを、私たちは切に待ち望まなければない。そしてキリストがおいでになるということは、福音選挙とは無関係ではない。関係があり、もうそれはせいひれしていくということです。
福音が伝えられれば伝えられるほど、キリストのサイレンは早まる。なぜならば、全ての人に福音が伝えられて、イエス・キリストが来られるというのが、聖徒の一つの約束です。
ですから本当に不思議なんですけれども、クリスチャン人口のグラフを見たら、もう1世紀から21世紀、今の時代ほど右肩上がりになっている図は他にはないんです。もう何億という人たちが救われている。
1:00:13
今もう地球の人口は71億を超えたと言っています。クリスチャンはどれだったか。23億。だいたいもう3人に1人はクリスチャン。でも決して多いとは言えない。いやまだまだ救われなければいけない人たちがいる。
日本を見たらどうなのか。1%以下なんです。天国に行けるという確信を持っている人は1%もいない。99%は滅びに行ってしまう。そのことがわかるのは誰かというと、救われている私たちではないか。
私たちは本当にそのことを自覚して、イエス・キリストのその救い、罪の許し、その愛、それを私たちは私を知ることができる。しかもそれは神様の約束の御言葉、そしてご精霊の励ましをいただいて、私たちはこのイエス・サマの愛を伝えていくことができるということなんです。
そして私たちが苦しみに遭うということは言うなれば、神様は私たちにそのチャンスを与えてくださってはやることではないでしょうか。
7節にこの試煉という言葉が出てきます。信仰の試煉。火で精煉されつつ、なお朽ちていく菌よりもたっぷりとあるんです。菌は火で焼いたらどうなるかというと、もう溶けていくんです。もう脆くなって、もう流れていって、もうダメになってしまう。
しかし私たちの信仰というのは、その火で燃っても朽ちることはない。滅びることはない。いやむしろそれは社会に満ちた喜びにあって、キリストの哀れのときに7節の終わりを見ると、賞賛、光栄と栄誉になる。変えられる。そうなるんです。
そしてあのネルの迫害があったときどうだったのか。クリスチャン人口は減らなかったんです。かえって逆に増えていった。迫害で滅される人たちよりも、新たにその迫害を通してイエス・キリストを信じるという人たちはですね、もうそれよりも多く起こされていった。
ついにはローマ政府もそれを認めた。ローマの国境になった。それがもう世界中で、普通の人でも学んでいるところなんです。それは何よりも神様が彼らを愛した。
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あの一世紀のクリスチャンの人たち。彼らはですね、15節のところを見ると、あなた方を召してくださった聖なる方にならって、あなた方自身もあらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。
16節に私が聖であるから、あなた方も聖でなければならないと書いてある。神様は聖なる方である。実はこの聖という言葉には大きな意味があると思います。
もともとは性別する。このようなものとは分けるという意味がですね、中心的な意味なんです。そして神に属するものとなる。しかし新約聖書の恵み、そしてまた聖霊の叱りでもって、神の聖とは一体何なんだろうか。
私は十字架である。十字架が神の聖である。なぜならば神様は罪で穢れ、そして神に逆らっていた。こんな私たちをも、あのイエス・キリストの十字架の基礎によって洗い清め、罪を洗い流す。そして私たちを聖なるものとしてくださった。
神はその一人号を賜ったほどにこの世は愛された。神の聖とは何か。一人号を十字架にかけるほどの愛である。そして神の微聖である。そのことによってまた私たちも十字架の血をいただいて、性別され神のものとなり、聖なるものとさせていただくことができる。
そしてしかもパウロは、私はキリスト共に十字架につけられた。彼はそう言っているわけなんです。そしてそのことは私はペトロの心の中にも同じ信仰が与えられた。本当に自分の自我を十字架に釘付けして、そして復活のキリストが私のうちに生きて終わる。彼のうちにあったでしょう。
そしてあの巨大のクリスタン、一世紀の時代のクリスタン一人一人に私は確実に与えられた。だから彼らも喜んで自分自身を仕掛けていった。ペトロの生涯の細部は聖書には記されてありません。
しかし彼はですね、あのローマの都からアピアカエルを下って、彼は一人の若者と一緒に逃げていった。ところが反対方向から一人の人がローマに向かってやってこい。なんとそれはヒエス様だった。
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彼は驚いて、主よ、どこに行かれるんですか。その方はローマに行く。ローマに行ってもう一度十字架にかかってきた。ペトロは驚いた。自分の不信仰をあのヒエス様が十字架で許してくださった。
そしてあの最後の晩餐の時に、おなたの信仰が立ち直ったら、兄弟たちを力づけてあげなさい。ヒエス様は私に託された。彼は三回嘘をついてヒエス様を捨てていったけれども、ヒエス様は許してくださり、愛してくださって、私を立ち直らせてくださった。
私はもう一度ヒエス様に従っていこう。なんと彼は向きを変えてローマに帰っていく。友の青年はどこへ行くんですか。尋ねたらローマへ。そして彼はローマに帰っていった。
弟子たちはペトロ先生、他にも多くの人たちに福音をかざってください。ローマはもう私たちがここで守ります。しかしペトロは帰ってきて、弟子たちはペトロの姿を見て喜んだ。勇気が与えられた。自分たちのために戻ってきてくださった。
それはヒエス様が私たちを愛しておられることなんだ。もう大きな力を彼らは受けて、そして喜んで順調していった。その話があるわけです。
彼らの心の中にも復活のキリストが生きておられる。喜んで彼らは命を捧げ、そしてまたそのことを通して、多くの人たちは神の栄光を見て、自分もそのようになりたい。その素晴らしい栄光の人生を自分も相まさせて欲しい。ヒエスキリストを信じる人たちが多くお答えだ。
これがもう歴史の事実であるということです。ローマでなされたことを神様は日本でできないんだろうか。いや、私は日本でもできる。セゼルのように私たちも本当に人に自分の信仰を言い放すことはできない。ひょっとして嘘をついた。否定してしまったこともあったかもしれない。
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いや、その次を問う。ヒエスキリストはあの十字架の上で自分を追ってくださって、月をかえらを許してください。涙を流して、火を流して、私たちを許してくださったのではないでしょうか。そしてその方は、死の中からよみがえられて、そして弟子たちを励まされた。
神が帰って帰りましたけれども、やがて私は再びもう一度来ると約束してくださって、終わるんです。私たちの望み、喜びはどこにあるでしょうか。私のために命を救ってくださった方が、もう一度会いに来てくださる。これほど大きな希望は他にはない。
私たちはこの人を切に待ち望み、そしてまた光るべき大いなる救いを私たちは信じて、そしてまた私たちも福音を伝えるものにさせていただきたいと思います。お祈りいたします。
01:10:05

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