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皆さん、おはようございます。
今日、このイースター礼拝にようこそいらっしゃいました。初めての方、また久しぶりの方々もいらっしゃいますけれども、
私はこの教会の牧師をしております、ユンソンと申します。
今日は、キリシキ教では、イエス様のよみがえり、復活を記念し、礼拝するイースター、外来語ですけれども、復活節、あるいは復活祭と日本語では言いますが、
その礼拝にまた皆さんお越しいただいて、共に礼拝できますことを感謝いたします。
この教会では、いつもメッセージの前に隣の方と握手をしたり、挨拶をするんですけれども、
今日、よかったら、イースターおめでとうと挨拶していただけますか。よろしくお願いいたします。
イースターおめでとうございます。よくいらっしゃいました。
はい、ありがとうございます。
今日は、イースター礼拝ですが、日本語では復活と言います。
日本でですね、〇〇活という言葉が多くあるんですね。復活とか、あるいは中活、最近は婚活という言葉もあるんですけれども、
東京にですね、あるいは若者がいっぱい集まる教会では、クリシャンの信仰生活、長いですからよく縮めるんですね。
で、〇〇活というらしいです。何かトンカツの名前みたいですけれども、
今日のお話はトンカツでもなく、ブカツ、コンカツ、シューカツでもなく、復活の御言葉になります。
イースターとは、イエス・キリストが、私たちをすべての悪や脆いから救うため、代わりに有事化で亡くなられるんです。
そして完全に死んだ後、よみがえられた日を記念する、礼拝の日です。
で、もっと詳しく申し上げますと、イエス様は、私たちの過ち、あるいは罪、あるいは穢れを許して救うために、
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そして永遠の命を与えるために、十字架で私たちの身代わりとなって死んで下さいました。
ですが、人となられたイエス様は、死という絶望の闇に閉じ込められたままではありませんでした。
御自分を信じて望みをかける人々、彼らに私たちにたせかな救いの保障を与えてくださるためにも、
二千年前あの日、死に討ち勝って復活して下さいました。
さらに御自身の十字架と復活を信じる人には、誰にでも同じように復活できる望みを約束して下さったのです。
ですから復活というものは、たくみまれなる望みを私たちに与えてくださった希望です。
一つインターネットである記事を読みました。笹原さんという復元師の仕事をしている人の話です。
東北の被災地で亡くなった方々のお顔を、生前のお顔に復元する仕事。
彼女は復元のボランティアの働きをずっとされたそうです。
復元師は亡くなった方のお顔をできるだけ、生前の面影に近く復元する。
特にその本人のお顔にかつての笑顔を戻すことです。
そのことを通してご遺族の悲しみを少しでも和らげて、
最後に良い記憶を、亡くなった方の最後の面影を残して、愛する人の死を受け入れやすくしてあげて、
そして遺族の方々に穏やかなお別れができるようにする、という良い意味を込めた仕事だと思うんですね。
彼女がこだわっているのは、化粧でお顔を作るのではなく、本人のお顔を元に戻すことだそうです。
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特に笑顔を戻すこと。だから復元と言うんですね。
一つのエピソードがありました。岩手県の遺体暗記所で、ある男性の遺体の復元をお願いされたそうです。
質疑のかたわらに、共生の息子が泣いていて、何度見たって同じだよ。こんなのお父さんじゃないと背の高く泣いていたそうです。
確かにもう亡くなったわけですから、顔の一部の顔色が違っていて、また顔には涙がぶつかったせいで鼻が凍っていた。
そしてこのかたわらさんがお願いされたわけですから、心を込めて生前の顔を写真を見ながら復元して、
そして家族を呼び出した。そしたら駆け寄った息子がお父さんの顔を見て、もう泣いてお父さんがお父さんだ、お父さん起きてよお父さんと泣いたそうです。
愛する人の見るにこらえない泣きがらを目にしたご遺族の、誰か元に戻してという叫びに何とかして答えようとした働きだと思うんですね。
元に戻ってほしいです。大切な人を亡くしたとき、自然と誰でも我々は心の中から出てくるうめきがあるんですね。
しかも誰でもできるものなら愛する人を取り戻したい、元に戻したいんですね。
私も5年前、日本に行っている間父を亡くしたですね。向こうの韓国にいましたが、糖尿を真月して、最後の亡くなるときにはそばにいられましたんですけれども、後々掴めに行ってまいりました。
僕はこういうふうに亡くなった方の顔をきれいに削ったりすることはしないんですね。
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すごく糖尿したわけですから、体に水分も抜いて、本当に骸骨を見ているような顔をしていました。
そしてはもちろん生前のお父さんの顔を覚えているんですけれども、最後のお父さんの顔はすごく怖かった、そういう思いがあるわけですね。
元に戻ったい気持ちは誰にもあると思います。しかし皆さん、人間にはそんなことは不可能でございます。
それをみんな知っているんですよね。悲しい中でも、そこに亡くした人を一時だけでも取り戻せたという思い。
そして心の中に茎をつけて、愛する人の死を受け止めて、最後のお別れをするということだと思います。
ところが私はこの記事を読みながら、亡くなった方の面影を復元するという働きの話を読みながら、こんなふうに思わされました。
さあ、私はもっと素晴らしいことを知っている。もっと素晴らしい希望を私たちはいただいている。その希望とは復元ではなく復活ということです。
面影の復元は確かに慰めになるでしょう。ただし残念ながら、立ち入れられた中でのせめてもの慰めです。
どんなに頑張っても一時だけの復元で、その面影もいつまでも残しておくことはできません。
どんなにそっくり復元されたとしても、口は聞いてはくれませんし、生命も戻ってきます。
でも私たちは復元よりはるかに素晴らしい復活を知らされているんです。
一時だけ面影を復元されるのではなく、本人が生きて取り戻される復元の場合は、仮に100%復元されたとしても、また朽ちる朽ちてしまうわけですね。
だけど復活の場合は永遠に取り戻されるんです。変えられるんです。もはや失ったり、死んだり、朽ち果てたりすることがありません。
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ただ、元の姿に戻るのではなくて、以前の命と身体よりもはるかにバージョンアップした、この地上にはない完全完璧な命と身体に変えられるんです。
それが聖書が教える復活であり、あの2000年前、あの朝、イエス様が自ら復活で教えてくださったたぐい稀なる希望、その希望が我々に与えられるんですね。
皆さん、私たちはこの復活を知らないと、今の命と今の身体にこだわってしまいがちです。新しい身体があるなんてわからないからですね。
復活向きではせめて今まで持っていた身体を一番良い形で復元し、ひとときだけでも取り戻すことが慰めです。
けれども復活が本当にあるとわかっており、信じているならば全然違ってきます。完璧な希望が開かれているんです。
この身体が朽ち果ててももっと素晴らしい命と身体を持てるからです。
今日の御言葉49節にはこういうふうに書かれていました。
私たちは土で作られたものの形を持っていたように天女の形をも持つのです。
復活によって与えられる新しい身体は土でできている身体ではなく、天上の身体、もや朽ちることのない命と身体です。
そして私たちはキリストを信じ、すり当てなくした人をひとときの復元ではなく、永遠の完璧な仕事で取り戻せるんです。
ところが皆さん、我々人間の死というものは、仮のものを失うだけのことです。
35節私が読みました。ところがある人はこう言うでしょう。死者はどのようにして蘇るのか。どのような身体で来るのか。
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この清宗時代の人たちも、死んでも蘇るという話はなかなか信じられなかったようですね。
今のようにドライアイスがあるわけでもない。死んだ身体はすぐに腐ってしまうからです。
だから蘇ると言うけれど、そしたら腐ってくっさけた身体で蘇るのかと思ったりしたんですね。この清宗時代の人たちも。
そういった人たちに、パールはこのように言いました。
愚かな人だ。あなたの蒔くものは、死ななければ生かされません。
彼は種蒔きを例えにしました。
あなたの蒔くもの、すなわち種とは、私たちのこの身体のことです。
蒔くというのは、この身体が死んで埋葬されることです。
ですから、種は土に蒔かれると、新しい命が芽生えてくるんじゃないですか。
私たちもそうなんです。身体は死んだら朽ち果てて終わるわけではないんです。
蒔かれた種みたいに、やがて新しい命と身体が与えられるんですよと言っているんですね。
続いて37節を見ますと、あなたが蒔くものは、後にできる身体ではなく、麦やその他の穀物の種粒です。
後にできる身体とは、種が蒔かれた後、新しく生えてくる作物のことです。
例えば皆さん、大根を思い出してみてください。大根の種があるんですよね。
種を蒔きますね。そしたらやがて緑の葉っぱが出てきて、そして白くてうまい長い根のついた大根が出てくるんですね。
ですから、後にできる身体とは、種ではなく大根なんです。
ですから私たちは大根と言ったら、例えば大根を買ってほしいと妻にときどき言われてラムに行くんですね。
そしてラムに行って、種を買う人はいないんですよ。大根を買うんです。
ですから私たちの身体、命を言うときに、私たちは今のこの地上の身体を思ったり、これしかないかのように思ってしまうんですけれども、実はそれは種なんです。
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後にできる新しい命、新しい身体があるんです。
ですから人間も死んだら土に埋められてしまう身体ではなく、神様が復活のときに死を信じる、復活を信じるものを新しく変えてくださるときが来るんです。
種が蒔かれて大根が出てくるように。
この地上のこの朽ち果てる身体が死んで、この土に埋葬されて、イエス・キリストに会って亡くなった人には新しい命、新しい身体で蘇るそのときが来るんです。
だからパウロは、あなたが死を迎えて埋葬されるとき朽ちてしまう身体は、あなたにとっての本当の身体じゃありませんよ、と言うんです。
この世で失うものは本物ではなく、仮のものなんだ。中身ではなく抜け殻を失うだけなんだと教えているんです。
皆さん、私たちの身体は、今の地上での命は、実は本物じゃありません。仮のものです。抜け殻なんです。それを失うだけなんです。
そして本物の命を得ることができる。その日が来るということです。
ですから、死は永遠のものをいただくための肯定的プロセスと言えるでしょう。
50節の御言葉を見ますと、こういうふうにつかれています。
兄弟たちよ、私はこのことを言っておきます。
血肉の身体は、神の国を相続できません。
朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
続いて、53節を見ますと、朽ちるものは必ず、朽ちないものを着なければならず、死ぬものは必ず、不死を着なければならないからです。
皆さん、この身体を血肉の身体と言うんですね。
血肉の身体とは、今の肉体ですけれども、これは朽ちるものです。死ぬものです。土に還るものです。
しかし、一方、神の国とは、いわゆる天国と呼ばれる、永遠の世界で朽ちないものに還られるんです。
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永遠の命に還られる、そこには呪いも、涙も、病気も、争いも、差別も、苦しみも、憎しみも、その身体によみがえるんですね。
ところが、その永遠の命、あの天国に行くためには、今も朽ちるこの身体は、相続できない、入ることができない、ふさわしくないということです。
だから、不死を着なければならないと言うんですね。
つまり、皆さん、私たちの今のこの血肉の身体を脱ぎ捨てること、それがどうしても必要なんです。脱ぎ捨てるんです。
というのは、私たちは、実は強がらなく死ぬというわけではありません。
血肉の身体を強がらなく失うわけでもなく、むしろ積極的に必要にあって、必要にあって、この身体を脱ぎ捨てて、そして、恵みのうちに死という時を迎えること。
私たちは時々、全く予期しない、想定外の悲惨な形で、この世の命と身体を失うことが、しかしば、私たちの周りに、
ニュースで皆さんご覧になられたか知りませんけれども、2日前、韓国でフェリが沈没して、けさまで33人が死にました。
まだ、260人の安否が不明です。ほとんどが高校生なんですね。
だから、高校生の息子娘を亡くした家族、親を亡くした家族。
ある6歳の娘とお父さんお母さんが、ソウルで骨折ってお金を儲けて、手順にそこでみかんの裁きをして仕事をした。
で、みんな引っ越していきました。3人の家族が。その中、お父さんお母さんは不明で、6歳の娘だけ救出されたんですね。
全く想定外の死というものが襲ってくるんです。迫ってくるんです。
死状においては、愛する人と思い分けない、逆を戻りできない、別れとなるゆえに、無精につらく悲しいことなんですよね。
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けれども、全能なる神様は、実はあなた方は、良い意味で今ある体を失うんですよ、と教えているんです。
永遠に朽ちることない完璧なものをいただくためにこそ、やがて朽ちてしまうものを脱ぎ捨てるだけなんだ、と聖人は教えているんです。
そして、永遠の完璧な、完璧な、パーフェクトな命と体を神様から与えていただくこと、それが復活なんです。
わかりやすく、セミの抜け殻を例えに話をしたいと思います。みなさん見たことがあるかと思うんですね。セミの抜け殻。
数年間、セミが土の中にいるんですよ。幼虫が夏になったら、土の中から出てきて、それをサナギと言うんですか、サナギになって、ときになったら、殻をぬみ捨てて生殖になる。
そのとき、夏になったら、大空に飛び立っていったセミが、地上に残していったものがセミの抜け殻。
このセミの抜け殻を見ていると、私たちの死んだ後にぬみ捨てる体を思い浮かべますね。形はあるけど、中身が空っぽなんです。
全然動かないんです。一方、抜け殻をぬいで飛び立ったセミは、まるで地上の体をぬみ捨てた復活の体に少し似ているんじゃないでしょうか。
私たちが復活を知らなかったなら、地上の体に、この今の体にも命にこだわってしまいますね。実はそれは抜け殻なんです。やがてぬみ捨てられるものなんです。
私の大好きだったあのセミはどこにいたんだと言って、抜け殻を持って、それを大切にする人はいないんですよ。しかし、私たち人間は、残念ながらぬみ捨てた体を前にして、涙を流し、手を合わせたりします。
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それは抜け殻に、聖父なる神様は、永遠の復活と、永遠の滅びがあると語っておられます。
ですから、イエス様も十字架と復活を信じるならば、やがて私たちは、復活されたイエス様のように、永遠に取り戻される時がやってくる。その命を今、預かることができる結論を申し上げたいと思います。
日本は地震や津波の災害が多い国です。311、あの日海からやってきた津波は、すべてを飲み込んでいきました。私も何度も行きましたけれども、何にも残っていなかったんですね。大切なものや大切な人をあっという間に飲み込められました。
まさに、この世の命あるものを、すべて飲み込んでしまう、死の力にそっくりだと思います。でも、津波に勝る力で、すべてを飲み込むものがあるんです。しかも、津波とは反対、滅ぼし尽くすためではなく、生かすために、生かすために飲み込むんです。
それは他でもなく、復活しないんです。
その御言葉54節に、こうあります。
しかし、朽ちる者が朽ちない者を斬り、死の者が不死を斬るとき、死は勝利に飲まれたと記されている御言葉が実現します。
皆さん、死も呪いも涙も苦しみもすべては、よみがえり復活によって飲まれる血が来るんです。
朽ちる者が朽ちない者を斬る、死の者が不死を斬るとは、すなわち復活なんですね。
復活が起こるとき、死は勝利に飲まれると言われます。死はこの世のあらゆるものを飲み込んで滅ぼす暴行なんです。
しかし、復活は逆に、その死をさえも飲み込んでしまう。
そして、死から誰も抵抗できない力を奪い取り、死が永遠に奪い去ったと思っていたもの、その命を永遠に完璧に取り戻してくれるんですね。
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これほど大きな希望が他にどこにあるのでしょうか。
神様は何て大きな希望を与えてくださったのでしょうか。
イエス・キリストが復活されたこの生き方を精一杯の喜びと感謝をもってお祝いさせていただきたいと願います。
イエス・キリストはこう言われました。
私はよみがえりです。命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。
ただ、生きていた私を信じる者は決して死ぬことはありません。
このことを信じますか、という言葉があります。
よみがえりであり、命だらゆるイエス・キリストを信じて、復活のこの祝福に預かる神の恵みが皆様の上に豊かにありまして、心からお祈り申し上げます。
お祈りします。一言私がお祈りします。
愛する天皇神様、今はね、心から感謝いたします。
地上の身体、地上の命は抜け殻でありまして、やがて脱ぎ捨てて、永遠に朽ちることのない、永遠の命と身体を生きるその日がやがて来ることを今日も教えてくださりありがとうございます。
どうぞしよう、キリストになって死んだ者、キリストの復活を信じる信仰を持つ者には、永遠の命が与えられることを感謝いたします。
どうぞしよう、その恵みと祝福が一人でも漏れなく、ここに座っている全ての方々の上に、その復活信仰をお与えくださいまして、
イエス・キリストの復活を信じる信仰が与えられますよ。
どうぞしよう、豊かに祝福してください。
御言葉を感謝し、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。