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2020-03-15 33:44

2020/03/15:わたしたちが信じて、告白すること(5)よみがえらえたイエス

2020/03/15 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 -26

00:01
みなさん、おはようございます。
今日も世の中はいろいろありますけれども、この世に共に集まって、
出会いできますことを感謝いたします。
3月に入りまして、教区や教団の先生方も、この礼拝をどうすればいいのかね、
もっと大きい地方のサイズの部会は、もっと悩むのかなんですけれども、
その中で昨日、教区長の森秀樹先生から、教区の国師先生方にメールが1つきまして、
そこで森先生自身もかなり悩んで、礼拝を休むべきなのか、あるいは行うべきなのか、その悩みにあって、
河原崎先生、神戸書道協会の先生に相談したところ、この河原崎先生が、
キリスト教新聞に緊急提言という記事があって、これが参考になりますかよ、と。
それで森先生はそれを回してくださって、
掲示板に大きな英字がありますが、その中で一部だけ読ませていただいて、
今のこんな時期に私は、特に聖事礼拝をどういう姿勢を信仰を持つべきなのか、
気がつくところが大きなと思って、ちょっと紹介させていただきます。
全部長いので、一部だけお話ししたい、読ませていただきます。
神の招きは単なる故象体ではなく、終末論的な意味を持つ。
神の招きを受け、それに応答し、神の国の到来、神の国の宿縁を、
今ここにおいて宣言し、経験し、喜び、その希望を共有するのが礼拝である。
そこに神の国の先取りがある。
教会とは、神の招きに応え、東から西から北から南から集まってくる、礼拝共同体である。
礼拝なくして教会はありえないし、教会なくして礼拝もありえない。
省略しまして、今インターネットを通じて不安が拡散している。
教会も不安を募らせる情報は拡散しないでほしい。
私が担当した母国の教会の礼拝、3月1日には、普段の礼拝よりも多くの人が集まってきた。
それぞれが不安と情報と目に見えない恐怖に傷ついた魂を持って、礼拝に集まってきた。
03:02
私は今不安、ウイルスに感染している。この傷ついた魂の配慮こそ、教会の使命である。
色々と黙らされている社会で意思として叫びたい。今こそ礼拝を。
という記事ですけれども、これは関西学院大学新学部教授の中道本夫という先生が、
意思の叫び、今こそ礼拝という題で新聞の記事なんですけれども、全文は皆さん掲示板にありますので参考にしてみてください。
今こそ本当に礼拝を行うべきではないでしょうか。
一言お祈りします。神様感謝します。本当にそうです。
今こそ礼拝を守っている教会、つまり大人の方から起こるまで、一人一人主が喜んでおられることを信じて感謝いたします。
今日の私たちの礼拝を主が喜んで受け入れてくださって、私たちの信仰がさらに強められ、
なおイエス・キリストの神聖まで強められる、変えられるものでありますように、
今日も礼拝に祝福してください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
今日は今シリーズで続いている、私たちが信じて告白すること、5回目です。
今日のタイトルは、よみがえられたイエス、よみがえられたイエスです。
まずその部分の真の告白を見てみたいと思います。
この後に引き続きますけれども、その部分は聖典に関わる部分なので、この部分だけね。
教団の真の告白の中では、イエス様の復活の部分はこのように記されていますね。
その復活は永遠の命の保障です。これが今日の部分ですけれども。
イエス様は私たち一人一人を救うために、私たちの罪とその罪の結果であるし、
それを身代わりとしてイエス様は重火でかけられて死なれました。
そして確かに葬られました。そして確かに三日が経ち、三日後によみがえられました。
私たちはこれを歴史的事実として信じて告白をしています。
06:00
今日大きく復活進行について三つお話をしたいと思います。
まず第一点は、イエス様の復活は既に集約時代、特に集約聖典に予言されていることということであります。
まず葬式のその次三章十五節にこういう御言葉があります。
私はお前と女との間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵を置く。
彼はお前の頭を踏み砕き、お前は彼の踵に噛みつく。
これは原始福音と言いまして、ここの彼はイエス様を予言しているわけです。
イエス様がサタンの頭を踏み砕くということは、完全に打ち破って勝利されることが予言されているわけです。
それはサタン、そしてその死、その呪いを完全に打ち砕いて勝利されること、つまりイエス様の復活の予言の御言葉であります。
その次、もう一箇所見てみます。
四編の十六編の十節十一節にこういう御言葉があります。
ダビデの歌なんだけれども、これがダビデの口を通してイエス様のことが予言された御言葉なんですね。
あなたは私の魂を黄泉に渡すことなく、あなたの慈しみに生きるものに墓穴を見させず、命の道を教えて下さい。
私は三日を仰いで道去り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びを行く。
私の魂を黄泉に渡すことなくということは、つまりイエス様のことなんですね。
イエス様の魂が黄泉に渡されることはないという、イエス様の復活の予言の御言葉であります。
はい、大丈夫です。
このように他にもたくさんありますけれども、
なんと旧約聖書には既にイエス様がサタンとその現世、そしてその死、呪いを打ち破って復活をもって勝利されることが予言されているんです。
09:05
そしてその通りにイエス様は私のために十字架にかかり、たしかに死なれました。
そしてさすがに葬られました。
そしてたしかに三日目によみがえられました。
それはそのサタンの力を打ち破った、頭を砕いたとさっきありますけれども、
そのサタンが支配していたその死、罪の結果は死であるとね、選挙が始まりました。
その死の力を打ち破ってイエス様がよみがえられたことが予言されているということであります。
神様の説理の中にあって、私たちの罪を許すため、救うために信じる者に永遠の命が与えられることが既に神の中に定められていたということであります。
そして神の時になり、神なるイエス様が人間としてこの地にお生まれになりました。
そしてそのイエス様が私たちの罪の代わりに十字架で死んでくださいました。
そして三日目によみがえられたことを私たちは信じて告白するわけです。
ですからこのイエス様の復活、よみがえりを信じないならば、それはシリスト教信仰は成立しないのです。
一部の神学ではありますけれども、そこではこういうふうに教えるのです。
イエス様の体が復活したわけではない。
イエス様が教えられた、イエス様の教えが後の弟子たちとか、今の私たちの中にその教えが生きているから、それが復活ですよ、よみがえりですよと教えて、
実際のキリスト教の講壇でそういうふうに説教する教会が世界中に日本中にもたくさんあるわけです。
しかしそれは違います。
イエス様は確かに新しい体を持ってよみがえられました。
私たちはこれを信じて告白するわけです。
ヨハネの福祉を見ていきましょう。
ヨハネはイエス様の復活のことをこのように書いています。
12:03
イエスは来てファームを掘り彼らにお渡りになった。
またサカノも同じようにされた。
イエスが死人の中からよみがえってから弟子たちに自分をあらわされたのは既にこれで3度目であるわけです。
イエス様は実際にファームを掘る体を手を持ってペテロとしゃべったわけです。
3回あるいは弟子たちが集まっている部屋にもイエス様が現れて一緒に話されたわけです。
イエス様は私たちと体的には同じ罪を犯さない新しい体でありますが
体を持って肉体を持ってよみがえられました。
私たちはそれを信じて告白するわけです。
2番目のポイントはイエス様の復活、よみがえりは
今日の新復活にあるように私たちの永遠の命の保障であるということであります。
コリンドビテの手紙を見ていきましょう。
第1コリンド、15の22世紀にコングルートが書かれています。
しかし今やキリストは目持ったものを発放として死者の中からよみがえられました。
つまり皆さん、私たちがイエス様の再臨の時にイエス様がよみがえられたあの体のように
全く新しい体、罪を犯さない、悩まない、涙もない、死もない、苦しみもない、恐怖もない、
全く新しい、永遠化された体としてよみがえることの発放としてイエス様が先によみがえられたという話です。
次に21世紀です。
というのは、死が一人の人を通してきたように、
つまりアダムですね、この一人は。
アダムを通して死が来たように、死者も復活も一人の人、これはここの一人の人、イエス様ですね。
復活もイエス様を通して来たからです。
すなわちアダムにあって全ての人が死んでいるように、キリストによって全ての人が生かされるからです。
イエスに人を信じる者が生かされるということである。
今日のヨハネの訓書の11・25・26節には、イエス様がご自身のことをこのように語られました。
15:04
イエスは言われた、私はよみがえるです。
命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。
また生きていて私を信じる者は決して死ぬことがありません。
永遠の命のことですね。このことを信じますかと弟子たちに言われました。
イエス様はサタンとその死を引き破ってよみがえられました。
人が死ぬということ、死というものは人間にとっては最も大きな恐怖、恐れかもしれません。
でもその死というもの、死ぬというものは罪の結果であるということを私たちは信じるわけです。
イエス様がよみがえられたこと、イエス様の復活というものは、その罪も罪の結果の死もサタンの力もイエス様を支配することはできない。
イエス様との支配を打ち破って、死を打ち破ってよみがえられたということなんです。
そしてこれはイエス様を救い主として信じて救われた人々にも同じくそれが適用されて、どんな死も私たちを直せることはできない。
私たちもやがては死を打ち破ってよみがえるんだという信仰を私たちは信じて告白するわけです。
今の身体はいくらきれいにして、いくら健康にして、いいものだけ食べていても、いずれか亡くなる時が来るんですよね。
そうすると食ってすぐに帰るわけなんです。
しかし私たちはイエス様が身体を持ってよみがえられたように、私たちも新しい身体でよみがえること、
それをイエス様が発想として先によみがえてくださって、皆さんも私を信じる者はこのようになりますよとね。
そしてそのイエス様を信じる者には、今生きているうちに私たちに永遠の命がすでに与えられているということであります。
だからイエス様の復活は、そのイエス様を信じる者、それはイエス様が私が死を打ち破ってよみがえたように、
18:15
あなた方もそうなりますよという完全な保証である。
つまりそれは永遠の命が与えられていますよという保証である。
3つ目、復活信仰は死を恐れないで、死を恐れないクリスチャンとして生きる力になります。
世の人々とイエス様の復活を信じる私たちにとって一番大きな期待は何でしょうか?
それは死ぬこと、死を恐れるか恐れないかということではないでしょう。
その人々は死ぬことを恐れます。死にたくない。
なぜならその死の後に何が来るか何があるかわからないからです。
いくら人は死んでも無になるんですよという人も死ぬことを恐れます。
しかしイエス様の復活を信じてその復活信仰に生きる私たち、
永遠の命が与えられている私たちは死を恐れない。
セブ人への手紙にこういう言葉があります。
これらの人々は皆信仰の人々として死にます。
約束のものを手に入れることはありませんでしたが、
遥かにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり知る者であることを告白していただく。
つまりあの1世紀のクリスチャンたちは様々な迫害の中にあって
殉居された大勢の人々がいたわけですね。貧困のゆえに。
彼らは死ぬことを恐れなかった。むしろ喜び迎えて
自分たちはこの地上ではただの旅人にすぎない。
昼寝にすぎないんだと。
しかし事実、彼らはさらに優れた国境、すなわち天皇国境の故郷に憧れていたのです。
21:09
それゆえ神は彼らの神と呼ばれることを恥と考えませんでした。
事実、神は彼らのために魅力を用意しておられました。
つまりあの1世紀のクリスチャンたちはローマやいろいろな発売があったのではないでしょうか。
実際に復元されて亡くなったクリスチャンが大勢いたわけなんです。
そんな中にあっても彼らは死ぬことを恐れなかった。
なぜでしょうか。
ここの地上での人生、それが90であろうも100であろうも、それはただの旅である旅にしない。
ここが本当の故郷ではないんだから。
この地上では我々は旅人である、巡礼者である、記録者である、やがて帰るべきすどれた故郷だ。
だから恐れなかったんです。
キリスト教2000年の歴史の中で、なぜクリスチャンたちは死を恐れなかったのでしょうか。
信仰のゆえに死ぬこと、つまり今は殉教ですね。
殉教を恐れるよりは、それを誇らずく思う。
神の前に卑しな者になるよりは、労働と殉教を選択できたんです。
それはこの復活信仰を持って生きていたからなんです。
この地上での我々の体は、歳をとって死なれても、事故で死なれても、病気で死なれても、みんなはこの地上の境界が終わる時が来るんです。
しかし、神を信じる者は、よみがえれたイエス・キリストを信じる者は、この地上での境界は旅人にすぎない、自由者にすぎない。
私たちは帰るべき故郷があるんだと。
永遠のあの神の国で、神を礼拝してそこで生きることを待ち望んでいるんだから、この地上で、もしも信仰のゆえに殉教されても、それを喜びと光栄と思うということで。
24:26
ところが皆さん、我々の現実を見ればですね、こういう復活信仰を持って本当に神があえて従って歩んでいるんですけれども、
世の中には、悪や悪人や本当にそういう人々が大勢います。
世界中にね、昔も今もこれからも、あのイエス様の再臨の時までには、サタンは生きていて、激しく働いてですね、昔も今もこれからも、
もうその悪をまき散らして、今もまき散らして、惑わして、そのね、サタンの奴隷である者たちが、戦争や作戦や犯罪や様々な悪が起きているわけなんです。
その中で、神様を信じて、信仰を持って、精霊の九つの実のように、愛と喜び、そういう実を結びたい、強く生きたいと願っている私たちは、この地上で時には本当に苦しい、辛い時があります。
よく見たら、何らか悪人がうまくいっているようで、善人が苦しんでいる、苦しめられているようなことを時々見たり、あるいは私たちが経験するからです。
ところが、復活することを告白して生きている私たちは、忘れてはいけないことがあります。
それは、神様は生きておられ、私たちのために働いてくださる、そして悪人を裁かれるということを信じるわけです。
そして、イエス様の再臨の時には、私たちの全ての悩みも、悲しみも、苦しみも、全てを永遠の喜びと幸せに変えてくださることを待ち望むわけです。
27:09
このような悩みは、今日の私たちだけに持っているわけではありません。
あのラビでも、このような悩みの中で、このように四辺で歌っていました。
四辺の三十七辺にこういう言葉があります。
正しい者の救いは主が、苦難の時の彼らの鳥では主である。
主は彼らを助け、彼らを解き放たれ、主は悪者どもから彼らを解き放し、彼らを救え、彼らが主に身を避けるからだ。
ラビでも、なんで我々はあんな棒々と悪いことをし続けているのだろうか。なんでそれが終わらないのだろうか。なんでますます強くなっていくのだろうか。
そして私と弱い人は、なんでいつまでも苦しめられるばかりでいなければならないのだろうか。
そんな悩みの中にあったでしょう。
しかしラビでは言っています。
正しい者の救いは主から来る。神様から来る。
そして神様が正しい者たちを助けて、その正しい者たちをその悪者のあの手からね、解放してくださると信じていた。
皆さん、復活信仰は私たちに、イエス様と共に復活して蘇ること、そしてこの信仰によって生きることへの保障である約束です。
やがてイエス様が、この人類の歴史が終わる時点、イエス様が再現される、わたるあの時には、神を信じて、イエス様の悔いを信じる者がイエス様のように蘇る。
そして新しい天と新しい地で、神を併配する者へと私たちは招いて導き入れられるということです。
その時には涙も消え、悲しみも叫びもすべて消えて、神様とその方を礼拝する喜びだけがある。
30:10
ここでちょっと皆さん、一箇所セットと開きましょう。字幕ないんですけれども。
目史録、ヨハネの目史録、第21章の1節からですけどね、500ページです。新約聖書の500ページ。
私が読みますのでご覧ください。
1節、また私は新しい天と新しい地と見た。
以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
ポンで3節、その時私はミジャから出る大きな声が、こう言うのを聞いた。
見よ、神の幕屋が一つと共にある。神は彼らと共に過ぎ、彼らはその民となる。
また神ご自身が彼らと共におられて、彼らの目の涙をすっかり拭いとって下さい。
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
なぜなら、以前のものがもはや尽き去ったからである。
5節すると、ミジャについておられる方が言われた。
見よ、私はすべてを新しくする。
また言われた、書きしるせ。
これらの言葉は、信ずべきものであり、真実である。
アメン。
皆さんいかがでしょうか。
復活信仰は、私たちに、この死所でたとい悲しみがあっても、苦しみがあっても、
やがてイエス様が現れるその日には、
新しい天と新しい日で、そしてすべての悪はさばかれて、すべてが新しくされて、
死もなく、悲しみも、涙も、叫びも、苦しみもない。
もはやすべては過ぎ去ったとね。
復活信仰は、これを待ち望むものへと日々とおられる。
先生と会いたいと思います。
この死所での苦労と涙は、永遠に続くわけではありません。
33:02
終わる日が必ず来ます。
イエス様の復活は、その約束であり保証であります。
だから私は、このイエス様の復活を待望して、
イエス様の再臨を待ち望みずつ、歩んでいけるのです。
イエス様は、よみがえられて生きておられます。
今は、神の右の座にすいておられ、
私たちのために取り成していて下さい。
このよみがえられたイエスを信じて、告白して、死に従って。
では、お祈りいたします。
33:44

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