1. 名谷教会
  2. 2013/11/17:聖日礼拝(旧音源)
2013-11-17 38:10

2013/11/17:聖日礼拝(旧音源)

2013/11/17 聖日礼拝(旧音源)




00:01
いつも、ポータル賛美のご保守をありがとうございます。
では、今日もメッセージに入る前に、隣の兄弟姉妹たちと挨拶しながら、挨拶の時を持ちたいと思います。
よくいらっしゃいました。
それでは、一言お祈りいたします。
愛する父の神様、感謝いたします。
こうして、愛する兄弟姉妹たちが、その御前に集まり、あなたに賛美を捧げ、祈りを捧げ、
また、今からあなたの御言葉に学びます。
どうぞ、主よ、神御自身が、我らにお語り下さい。
豊かな恵みを注いで下さいますように、お願いいたします。
感謝して、神様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
アーメン
今日は、首都心状のシリーズメッセージ13番目です。
あと1回、2回で終わりますけれども、
今日は、我は身体のよみがえりを信ずという、よみがえり突発のことについて、御言葉から教えていただき、
そして、着実な復活進行を、皆で思いたいと願っております。
はじめに、皆さんに一つお問いかけをしたいと思います。
人が死ぬと生き返るでしょうか。
これほど、あらゆる時代、あらゆる人に共通した問いかけはないかと思います。
普段、私たちは、人の死を見たり聞いたりするんですよね。
お葬式に参列したりします。
それが、友人や、あるいは父の葬儀もあります。
また、愛する家族、お父さんかお母さん、あるいは夫、あるいは妻、あるいは兄弟、あるいは子供の葬儀もあるんですね。
そのような時に、人が死んだら生き返るのだろうか、
人が死んだら全てが終わりなのだろうか、別の世界があるのだろうかと考えさせられるかと思います。
世の人々は、どう考えているのでしょうか。
03:00
人間の死をどのように捉えているのでしょうか。
仏教の影響が強い日本では、大体このような考えを持っている人が大多数のようです。
人は生きている間、真面目に良いことをたくさんすれば、死んだら良い世界に行く。
あるいは宗教を持っていない人たちの考えは、人は死んだら何にも残らない。
地に帰るだけだと捉えている人も多くいるそうです。
本当にそうなのでしょうか。
私が以前、幸いにローマに訪れたことがあります。
ローマの郊外にある地下のカタコンベというところを観光したことがあります。
ローマ周辺に多くの地下のカタコンベがあります。
こんなものです。
誰かが書いたみたいです。
こういう蟻の巣のように、地下に5階、6階のマンションがあります。
私が入ったところは、もう多くあちこちありますから、
地下5階、6階まであるんです。
地下の写真を見ると、このような廊下が繋がっています。
今、両壁に何か穴があります。
そこは何だと思いますか。
何でしょう。お墓です。
その中に全部、体が収めて葬るわけです。
地下にいっぱいあるわけです。
しかし不思議なことが一つあります。
私は準備できていないのですが、
そういうお墓があって、必ず一つある掃除というか施設があるんですね。
そのお墓があるところに、地上まで穴が開いているまるで煙突みたいなところがあるんですね。
そこから光が入ってくる。
なぜそれを作ったんですかと、あのときの外部科の僕先生でしたけれども、
その先生が教えてくれたのは、二つの目的があるんですね。
一つは空気の換気のためにある。
06:00
最も重要な目的がある。
それは、彼らは家様の御祭りに信仰を持っていて、
今ここで白海を見えて、ここで信仰を持って、
もう地上に葬ることもできず、ここでみんな亡くなったわけですが、
家様が再びお出になるときに光が照らされて、みんなよみがえるんだと。
それを確実信仰を持っていたので、地上に簡単に言えばみんな引き分けられるような穴が入っているんですね。
はい、ここまでいいです。
今さ、このように何を信じるかによって人の生き方は違ってきましたね。
私は人を信じるの中で、体のよみがえりを信じると告白しています。
信じるから告白しているわけなんですね。
ところが、私の周りはどうでしょうか。
人は死んだら全てが終わりだというふうな不信仰の世界なんですね。
このような不信仰の世界で歩んでいる私たちのこの体のよみがえりを信ずというこの告白は、
本当に驚くべきことだと改めて考えなければならないと思うんですね。
私たちは家様のよみがえりを信じます。
私たちの体のよみがえりも信じます。
みなさん、私たちの復活信仰は、家様の復活がその根拠です。
家様は十字架で死なれ、そして八神葬られ、それから三日目によみがえられました。
みなさん、これは神話ではありません。作り話でもありません。歴史の事実なんです。
今日の十五章が、長くて全部読んでなかったんですけどね。
ぜひみなさん、きょうおうちにおかけなくて、この十五章は、よみがえり、復活についてとっても重要で、
そしてとても詳しく書かれている記載書ですから、ぜひぜひ何度も何度も読んでいただければいいですか。
その中で四節から、五節、六節、八節のところを一緒に読みたいと思います。
第一コリント十五章の四節から八節までです。
09:02
では、少し一緒に読みましょう。
三、また葬られたこと、また聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、またケファにあらわれ、それから十二弟子にあらわれたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時にあらわれました。
その中の大多数の者は、いまなお一残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
その後、キリストは八個部にあらわれ、それから人たち全部にあらわれました。
そして最後に土さらずで生まれた者と同様な私にもあらわれて下さいました。
アーメン。皆さん信じますか?アーメン。
皆さん、パウルも歴史的事実です。歴史の人物です。
彼がこのコリントへの手紙を書いたときに、イエス様がよみがえられたことをそのイエス様にお会いした人が生きていたんです。
ですから、嘘をつくことはできないんですよね。
商人が生きているわけですから、イエス様はよみがえられて、いま生きておられます。
そのイエス様のよみがえりは、今日の十五書の中でもありますが、初穂です。初穂。
今秋になって、いろんな果物が実っていますけれども、秋になるとカツやあるいはナスや果物が実るんですね。
皆さんは何がお好きでしょうか?柿とかナシとかリンゴとか。私はナシが好きなんですけどね。
初穂とは、その年の収穫の最初の祈りなんですね。
ですから、初穂の後には、例えば、柿とかナシとかリンゴとかですね、たくさんの豊かな収穫が待っているんです。
同じく、イエス様が初穂となられて、よみがえられたという時、イエス様を信じている人たちが、その収穫となって、イエス様がよみがえられました。
そして次から次へイエス様についている私たちも、収穫のようによみがえらされることを、聖書は私たちに約束しています。
それを私たちが信じられます。しかも、その復活の霊の身体をもってよみがえるということです。
12:05
ですから皆さん、私たちが身体のよみがえりを信じると告白する時には、
それはですね、イエス様の復活に私たちが結び合わされて、イエス様がよみがえられたように、自分もよみがえることを信じるのです。これこそ復活信仰。
先ほどですね、パタコンベのことをお話ししましたけれども、あの時のクリサナチは、我々のよみがえり復活信仰をしっかりと信じていたんですね。
それをですね、ローマ皇帝ネロとか、そういった迫害者の彼らも知っていたんです。
信じてはいなかったでしょうけれども、知っていてですね、何が起きたのか、もうそのまま葬ったらよみがえるかもしれませんから、そうして奥には行けない。
それですね、もう溶けて殺したクリスタンの遺体を焼かれて、骨を粉々砕かれて、海に捨てたそうです。
よみがえることができないように、ローマ皇帝がそういうふうに迫害をしたそうですね。
しかし、当時のクリサナチは、自然として告白します。
土の塵から人をお作りになった作り主神様は、塵や灰からでもよみがえりの体を創造して与えてくださると。
彼らはですね、何の動揺もありませんでした。
体のよみがえりを固く信じていたんですね。
さて、この聖神像のことですが、我はよみがえりを信じ、ではなく皆さん、我は体のよみがえりを信じとあるんですね。
この体にこだわっているように見えますけれども、
体という言葉を付け足すのは、そこには明確な信仰があるわけなんですね。
聖書一箇所一緒にお開けしたいと思います。
ローマ人への手紙、8章11節です。
新約聖書301ページです。
それでは、ご一緒に読みたいと思います。
15:00
もし、イエスが死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなた方のうちに住んでおられるなら、
キリストイエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなた方のうちに住んでおられる御霊によって、あなた方の死ぬべき体をも生かしてくださるのです。
死者の中からイエス様をよみがえらせた方は、同じく私たちもよみがえらせてくださるのです。
今日の箇所、42節を一緒に読みたいと思います。
42節から44節まで一緒に読みましょうか。
今日の箇所です。第一コリント42節から44節。
では、ご一緒に3回。
死者の復活もこれと同じです。
朽ちる者でまかれ、朽ちない者によみがえらされ。
癒し者でまかれ、栄光ある者によみがえらされ。
弱い者でまかれ、強い者によみがえらされ。
血肉の体でまかれ、御霊に属する体によみがえらされるのです。
血肉の体があるのですから、御霊の体もあるのです。
アーメン。
皆さん、血肉の今のこの体があるわけですから、
霊の体も御霊の体もあるのです。
何を語っているのでしょうか。
今の体は、皆さん、私たちの体は朽ちるものです。
老いるものです。
いくら健康食を、あるいは何か薬を飲んでも、
捨てていきます。置いていきます。
仕方がないんですね。
罪のあるものです。
ごめんなさい。
病気にかかるものです。
すべての表現が変わりますと、
普通の器のように壊れやすいものです。
欲しいことはせず、
してはいけないことを時々してしまいます。
悩みがあります。
苦しみもあります。
痛みもあります。
弱いものなんですね。
18:00
しかし、皆さん、
これを考えますと、
このままでは、
聖なる神様の御前に立つことはできません。
ですから、私たちが神様の御前に立つために、
信仰の先輩たちに会うためには、
神様が聖なる方であるように、
私たちも清いものに変えなければならないのです。
そして、主が清くしてくださる。
それが聖火の恵みであり、
それが後の栄華の恵みなんです。
愛する皆さん、
イエス様を救い主と信じる人は、
必ず、朽ちることのない、
永遠の身体に蘇ります。
それは、身体のない霊の状態ではありません。
今の身体とは全く違う身体に変えられるのです。
どんな身体なのか分かりません。
しかし、確かに身体があるのです。
目に見える、触ることもできる、
朽ちることもなく、
病むこともなく、
悲しみもなく、
罪もなく、
栄の身体にみんな蘇るのです。
では、この身体の蘇りはどのようなものなんでしょうか。
今日の36節から38節のところを見てみたいと思うんですね。
では、36から38節を一緒に読みましょうか。
では、三杯。
貴な人だ。
貴方の蒔くものは、品なければ。
貴方が蒔くものは、持ちにできるからではなく、
麦やその他の穀物の種粒です。
しかし、神は御心に従って、
それに身体を与え、
各々の種にそれぞれの身体をお与えになります。
アーメン。
皆さん、普通ですね、皆さんが野菜とか花とかの種がありますよね。
それぞれの形を持って生きているんですね。
その種が地に巻かれたらですね、
種は土に埋もれて、
そして私たちの目には一瞬にしてですね、見えなくなるんですけれども、
しかし死んだわけではないですね。
その土の中で、その敵は失ってはいるんですけれども、
すなわち死んだわけですが、
しかしその種は芽生えさせて、
21:03
葉っぱが出て、
花が咲いて、
実がなるんです。
種とは全く違った別のものがそこから出てくるわけなんです。
それも神様の恵みなんですね。
神様の説明なんですね。
創造主の作り主の神様が、
その小さい種からですね、
あの大きな実や葉っぱや木を実らせてくださるんですね。
同じ原理が皆さん、
身体のよみがえに当てはまるということです。
私たちのこの血肉の今のこの身体は、
この身体をもって生きているわけですが、
やがて地に巻かれますね。
それがですね、埋葬するであろうが、
火葬するであろうが、
地に巻かれて、
地に落ちて死にます。
しかし、そこからよみがえて与えられるのは、
以前のくちっててなお血肉の身体とは全く違う、
素晴らしい御霊の身体としてよみがえるです。
どんなですね、どんな形でどんな身体でよみがえるんだろうか。
例えばですよ、何歳の自分に似ているんだろうかとですね、
自分の10歳のところだろうか、20歳のところだろうか。
皆さんは何歳の身体でよみがえったんですか?
20歳?30歳ですか?赤肌のようですか?
それはわかりません。
想像は自由ですけれども、
聖書にはそれについては触れていないんですね。書かれていないんです。
それはですね、血肉の身体の発想にしか過ぎません。
似たまの身体、よみがえりの身体は、
そのような私でも何歳の身体なんだろう、
そういう感覚ではありません。
我らの知識やあるいは想像力、
理解ではですね、理解できない似たまの身体、よみがえりの身体があるんです。
無理やりにですね、解釈していってしまうと、
間違いが起きやすいということなんですよね。
ここでですね、一つだけ渡された聖書を読むときに、
またいろんな本とか、さまざまなことを聞いたり、
情報を手にするときに注意していただきたいことがあります。
例えば、よみがえりの身体とか、
24:00
あるいは天に吹き上げられることとか、
あるいは天国とか地獄のこととか、
他の特に霊的なことについて、
まずは皆さん、理解するときに注意しなくてはならないことがあります。
それは、誰か人の経験とか、
あるいは誰か人の話とかに基づいて、
それを信仰にして信じたり、解釈したりしてはいけません。
私たちは、人の経験を信じるのではなく、
この神様の聖書の御言葉を信じるわけです。
ですから、私たちは皆さん、あくまでもですよ、
聖書の御言葉が語っているところまで行くんです。
それ以上、勝手な想像をしたり、
それを真理のように信じてはいけません。
神様は、特に霊の世界については、
沈黙される部分が多いんです。
神様は語っていません。沈黙されている。
ですから、神様が沈黙されている部分については、
私たちも沈黙すべきですに分かります。
聖書の言葉が何と語っているのかに注目すべきですし、
聖書が言っているところまで行き、
とどまっているところで、それがとどまればいいんです。
そういうところを皆さん、よくよく注意していただきたいです。
さて、よみがえりのことですけれども、
神聖神ですね。
今日の後から歌う賛美の467番の賛美ですが、
ちょっと開いて見てみましょうか。
467番です。
この賛美もいいですし、
465番も、私は日本に来て初めて歌った賛美ですけれども、
同じような歌詞ですが、467番を見てみましょう。
一節の歌詞はこのようにあっています。
世の終わりのラッパなり与える時、
世は常世のあさとなり、
救われて者は世物すみより、
すべて主のもとに呼ばれ、
その時我が名も、
その時我が名も、
その時我が名も、
呼ばれなば、
呼ばれなば、
必ずあら。
二節、その時眠れる生とよみがえり、
栄えの体にかわり、
我らも共にたずさえあげられ、
27:02
そらにて主にあいますら。
三節、世の業を終えて余す以来に、
招かるる日聞かければ、
なおも主の愛を呼びとに語り、
見栄えのために聞くさ。
とありました。
皆さん、この三節の歌詞は、
テサロニケ・ディトイの手紙第2の4章の見言葉なんですね。
その整著歌詞をお開けしたいと思います。
テサロニケ・ディトイの手紙第2の手紙です。
テサロニケ・第2の手紙。
テサロニケ、第2じゃなくて第1。
ごめんなさいね。
第1でした。ごめんなさい。
第1テサロニケでした。ごめんなさい。
第1のテサロニケ。
4章、16節、17節を一緒に読みたいと思います。
400ページですね。
新訳、整著、400ページ。
よろしいですか。
では、ご一緒に読みましょう。
3杯。
主は、御霊と御使いのかしらの声と、
神のラッパの響きのうちに、
御自身天から下って来られます。
それから、霧草にある使者が、
まず初めによみがえり、
次に生き残っている私たちが、
たしまき彼らと一緒に、
雲の中に一挙に引き上げられ、
空中で主と会うのです。
このようにして、
私たちはいつまでも、
主と共にいることになります。
アーメン。
皆さん、
ジェス様は必ず再びおいでください。
その時、ラッパが鳴り響きます。
すべての人々が聞きます。
世の終わりです。
その時、眠っている生徒が、
栄の体によみがえります。
それから、生きている生徒も、
栄の体によみがえります。
こうして、すべての生徒が携え上げられ、
空中で、空で一緒にお会いするのです。
この日が必ず来るのです。
ですから、復活信仰を持ちましょう。
ある方は、
先生、そしたら、
30:00
自分は太っていて、
引き上げられるのでしょうか?
大丈夫です。
神様の力は、
万有引力より強いです。
皆さん、この復活信仰は、
私たちの信仰の根幹なのです。
復活信仰が崩れてしまうと、
私たちの信仰自体も、
すべてが崩れてしまう、
無になってしまうわけです。
また、復活信仰が崩れてしまうと、
キリスト教は、
真にではなく、
一つの念にしそうに、
なってしまうわけです。
命を失うようになってしまうわけです。
イエス・キリストは、
必ずお出になります。
その時、私たちキリシャンは、
神様の体によみがえります。
それでは最後に、
この体のよみがえりを信じる私たちは、
どのように生涯を送ればいいでしょうか。
これはたった一つだけです。
この復活信仰を延べ、伝え続けることです。
この非常の生涯で終わりではない。
必ず裁きがあり、そしてよみがえりがあるんだと。
諦めず延べ、伝えなければ。
神様の真意を知る人は、
その真意を知らない人々に、
伝えるべき使命が与えられているのではないでしょうか。
皆さん、綿酒は、
第二のコリントに書かれていましたが、
神の国の使節です。
大使です。
イエス・キリストの手紙です。
イエス・キリストの香りなんです。
それを放つ。
そしてそれをお知らせする。
その祝福が、私たちに与えられているんですね。
ですから皆さん、
こんなに素晴らしいよみがえりの祝福を
いただいている生徒なんですから、
私たちは自分のゆえに、
自分のゆえに一人でも多くの人々が救われるように、
その救いの働きに励まなければなりません。
皆さん、神様が最も喜ばれる報酬は、
私のゆえに大勢の人が救われることです。
ですから生涯をかけて最も励むべき働きは、
人の救いなんです。
メッセージ終わります。
どうかこのよみがえりの祝福を与えてくださった神様に感謝し、
33:02
そしてこのよみがえりの祝福を伝えて伝えて参りましょう。
お祈りします。
今日の御言葉を覚えてですね、一緒にお祈りしたいと思いますが、
まずはよみがえりのこの復活の信仰に
預からせる方、めどみに感謝していただきましょう。
また周りのよみがえりの信仰、
まだまだ知らない方々にお知らせするのを伝えることができるように、
神様、助けてくださいと。
私のゆえに救える人々を起こしてくださいと、
祈っていきたいと思います。
では心をあけて御一緒にお祈りいたします。
ハローよ神様、あなたの御思いの中へ感謝します。
御言葉を与えてくださり、ありとして恵んでくださいますように、
お願いいたします。
どうぞ神様、我らは本当に祝い者です。
よみがえりの信仰を信じ、
あんなに引き上げられることができるように、
御仕事を豊かに祝し、豊かに恵んでくださいますように、
お願いを、我らの力で、本当に神にありますように、
仕事を豊かに祝して、恵んでくださいますように、
お願い、このよみがえりの信仰の下さえ、
お知らせをできますように、どうぞ見継いでください。
一言お祈りいたします。
血肉の体でまかれ、身玉に欲する体によぎがえらされたのです。
血肉の体があるのですから、身玉の体もあるのです。
神様御言葉を感謝いたします。
何の値もないものですが、
菩薩選んでくださり、恵んでくださって、救ってくださりました。
よみがえりの栄光の恵みに、
扱ってくださり、ありがとうございます。
どうぞ、主よ、
今日は必ず再びお入れになることを信じます。
その時、主を信じる我らは、その名を呼ばれて、
一共に、神の国に天国に永遠に朽ちることのない、
今のことのない、悩みのない、身玉の体でよみがえらされて、
共に、人共にいちわりをするものと、
帰らせてくれることを感謝、感謝いたします。
どうぞ、主は、この復活の進行を、
まだ知らない方々にお知らせする、
そして、述べ伝えることができますように、
自分の家に救われる人々が、次から次へ起こされますように、
どうぞ、我らの進行を生かし、持ち受け下さい。
36:03
神様、様々な課題を抱えている兄弟姉妹がおります。
家庭の問題、家族、親、あるいは経済的な問題、
体の病、心の病のない中で、悩んで苦しんでいる兄弟姉妹がいます。
どうぞ、主は、神様を覚えて、
あなたの身手をもってやってくださり、
対応としてくださり、
そのため、主の御前に諦めず、
粘り強く祈り続けることができますように、
応えられるまで、主の皆を信じて、
あなたの力を信じて、
祈って祝福されますように、
どうぞ、神様豊かに祝福して下さい。
また、この明蘭教会からも、
日から月へ、千年を受け、
神のものになる人々が起こされますように、
どうぞ、主よ、あなたの救いの箱舟として
用いて下さいますように、お願いをいたします。
どうぞ、主よ、豊かに祝福して下さい。
また、病気や様々な事情がありまして、
礼拝に一緒に参加できない兄弟姉妹たちを覚えます。
どうぞ、主よ、あなたが彼らの彼女たちの心を強めて下さり、
死の未満に立ち帰ることができますように、
神様から全く離れてしまうことが決してありませんように、
主よ、どうぞ、あなたが憐れんで下さいますように、お願いをいたします。
いつも、聖茶会、あるいは宗学、あるいは様々な報道をしてくれる兄弟姉妹たちの
その愛の労苦を覚え感謝いたします。
その愛の業を、本当に神様豊かに報いて、
神様に祝福して下さいますように、お願いをいたします。
また、来週は聖茶と感謝の礼拝です。
どうぞ、一年間の恵みを神様に測りない恵みに感謝し、
その感謝を表す感謝の礼拝でありますように、
どうぞ、主よ、一週間こまえて礼拝できますように、祝福して下さい。
感謝してイエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
38:10

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