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2019-04-21 26:45

2019/04/21 :イエスの復活こそ、私たちの希望

 2019/04/21 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ルカの福音書 24:1-9

00:00
皆さん、あらためておはようございます。
名谷教会のイースタ礼拝にようこそいらっしゃいました、
神父の皆さん、あるいは家族の皆さん、
また初めての、あるいは久しぶりの救助者の皆さんも、
今日のイースタ礼拝を通じて、
甦えられたイエス・キリストにお出会いする、
恵みの時、礼拝の時がありますように、
お祈り申し上げます。
それでは今日は、もう満席になっていますけれども、
お座りのままで結構ですから、
左右の方、前後の方と挨拶を交わしましょうか。
ありがとうございます。
それでは一言お祈りいたします。
あなた方は、なぜ生きている方を死人の中で探すのですか。
不幸にはおられません。
よみがえられたのです。
神様、感謝します。
非常に大勢の方々を、
イエス様の復活を、
私たちのためによみがえられた死に、
お会いしたくて、ここに集まっております。
どうか、主よ、豊かな恵みと、また永遠の命を、
一人も漏れなく、全ての人々に、
主がお与えくださいますように。
賛美をしているうちに、
祈りをしているうちに、
あるいはメッセージを聞いているうちに、
主の霊が、全ての方々の上にとどまりますように、
主を祝福してください。
イエス様の御名によって、お祈りいたします。
アーメン。
それでは早速、今日のインスタに関する、
短い動画を一つ、一緒に見てみたいと思います。
04:49
はい、いずれになります。
それでは電球を消して、
消していただけますか。
ありがとうございました。
そうです、イエス・キリストは生きておられます。
その方は、墓にはおられません。
今、天におられて、
私たちを愛してくださり、
また、見させてくださる方であられます。
イエス・キリストは、唯一の神です。
その方は、私たちを愛しておられ、
そして、人間となられて、
この地に来てくださりました。
その方は、私たちを愛して、
そして、すべての人々の罪を背負ってくださって、
身代わりとなってくださって、
十字架で死なれました。
そして、その方は、私たちを愛して、
葬られた三日目に、
よみがえられました。
06:00
このすべては、私たちを愛するからです。
どんな言葉でも言い表せないパワー、
それは主の愛です。
聖書はこのように私たちに語っています。
私たちが弱かった時、
私たちが愚かな者だった時、
神を知らなかった時、
いや、神を拒否していた時、
主は私たちを愛して、
また、救うことをお定めになりました。
それは、すべての人々に永遠の命を与えるためであり、
将来と希望を与えるためであります。
まことの神様、
そのまことの独り子イエス・キリストは、
二千年前、私たちと全く同じ人間として、
あのイスラエルの別霊もというところに
御生まれになりました。
そして、その方は何の罪もないのに、
罪人とされて、
十字架刑で処刑されました。
そして、本当に死なれて、
本当に墓に葬られました。
ところが、聖書が語るストーリーがですね、
ここで終わったならば、
キリスト教の真理がここでね、
もうイエス様がもう死んだんだって、
で、終わったならば、
国人では私たち信者たちは、
いや、二千年、
この世界中に何十億人もイエス様を信じて
亡くなった人も、今生きている人もいるわけですから、
その人々はみんな虚しい歩みをついているのでしょうか。
そうではない。
もしもイエス様が死んで葬られて、
それで終わりだとするならば、
ね、イエス様は、
ただ二千年前にあのイスラエルに
いた、
まあ素晴らしい聖人みたいな人がいたんですって、とか、
あるいはルゲン社の一人かもしれないとか、
あるいはすごいいい話をしたから、
なんか有名な哲学者みたいな人が
いい話をしたんだけど、
なんか悪事したみたいで殺されたんですって、
09:03
で、終わるかもしれません。
イエス様も仕方がないね。
もう死んだら終わりだね。
私たちと何の変わりもないじゃないかと、
そういうふうに、
世の中の人々はそういうふうに考えています。
あるいはここに今日来られた方々の中で、
何かもそういうふうに考えていらっしゃるかもしれない。
しかしそれはここで終わっていません。
イエスは本当の唯一の誠の神様であられまして、
全能なる神様であられますから、
その死んだ者たちから、
イエス・キリストをよみがらせてくださいました。
だから今日も聖書に、
あなた方はなぜ生きている方を死人の中で探すのですか。
ここにはおられません。
もういないんですよ。
よみがえられたんだからと、
聖書は私たちに宣言をしています。
イエス様はよみがえられましたと、聖書は宣言をしています。
この事実をある人は信じて受け入れています。
でもある人は信じていません。
当然我々人間の頭では、
常識的に考えても、
信じていないこともある意味で当然かもしれない。
死んだ人がどうやってよみがえるの?
そんなことはあり得ないでしょう。
と思われるでしょう。
死んだ人が生き返られたことを、
この人類歴史上見たことがないからでしょう。
そんな記録も残っていないと思います。
しかしなぜそう思うのでしょうか。
そこには実は私たち人間が持っている最大の、
絶対誰も乗り越えることができない壁があるからです。
限界があるからです。
それは死というものです。
人はどんな希望を持っていても、
どんな権力を持っていても、
どんな富を持っていても、
あるいは最高の医療の恵みを受けられる金があっても、
死ぬことを乗り越えることができる人は誰もいません。
12:01
だからみんな人は死の前に自然と謙遜にされます。
その死というものを誰もそれに勝つことができないんです。
避けることができないんです。
先日、韓国のコリアンの会長さんが亡くなりました。
家族の方々には大きな悲しみでしょう。
でもね、大企業の大手企業の会長さんだとしても、
あの死というものを避けることはできない。
裏地上にいればですね、アメリカの最高の病院で
もう1日何百万円くらいの治療を受けたんですって噂からわかりますけどね。
でも残念ながら、死というものを乗り越えることはできなかった。
本当に人というものは、私たちは死というものの前には本当に無力な存在である。
しかし、イエス・キリストの復活は、その方を信じる者にぶっては、
死ぬことはもう全ての終わりではない。
終わりと思わない。そういう風に言っていない。
何ででしょうか。
イエス・キリストの復活を、呼びかえりを信じる者たちには、
死ぬことは終わりではなく、復活のための始めである。
本当の人生の本番であるという風に、私たちは信じているわけです。
また神様は願っておられないことがあります。
神様は決してそれを望まれないことがあります。
それは、私たちが死であろうが、病気であろうが、何かの力であろうが、何かに縛られて、
そういう風に生きることを神様は望まれません。
だから神様はイエス・キリストを初歩として、地球を打ち破ることができるようにしてくださった。
そしてイエス・キリストをよみがえらせてくださったということであります。
それは他ではない。神の子イエス・キリスト。
その方が私を愛してくださる。
私を救うために十字架で死んでくださったこと。
そして私たちに皆さんに永遠の命をおはたになるために死を打ち破ってよみがえられたということであります。
15:08
今からだいたい二千年前、一世紀のイエス・キリスト様の弟子たちを使徒と呼ばれていました。
彼らはイエス・キリスト様が復活なさって、そして天に引き上げられた後、彼らは地上に残されました。
彼らはその当時の多くの人々に、もう簡単明瞭にイエス・キリスト様の復活について彼らは伝えていました。教えていました。
それは、キリストは聖書の示す通りに私たちの罪のために死なれたこと、また葬られたこと、また聖書の示す通りに三日目によみがえられたことを伝えたと聖書は表現をしていました。
確かに復活というものは、人間の理性では理解できない、もう次元を超えた神の御業なんですね。神様のお働きなんです。
ですから、それを信仰によって受け入れるときに、それがわかってくる、信じられるようになる不思議な恵みがあるんです。
より大事なことは、イエス・キリストの復活が歴史の中で実際に起きたということであります。
皆さん、ミシンジャであろうが、他の宗教の人であろうが、あの一世紀のイエス・ハマの弟子たち、ペテーロとかパオロとか、彼らが実際の実在人物であることを、それを拒否するは誰もいないんです。
実際のペテーロとかパオロとかアンデレとかヨハメは、実際に彼らは生きていた実際の人々です。皆さんが今生きていらっしゃるように、彼らも2000年前にあのイスラエルに生きていた人々でした。
ただ、私たちが見ていないだけなんですね。それは一般の力士家たちもそれを認めている事実なんです。
調べてみたら、誰でも分かります。シト・パオロ、ヨハネ、彼ら。
その時に、あのパオロ、英語ではポールですね。アメリカ人の名前で結構多くの、P-A-U-Lでしょうか、ポールという名前、パオロと言いますけど、彼がコリントンにある教会に手紙を書いて送る時に、こういう話をしていました。
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イエス様は本当に蘇られて、そして蘇られたイエス様をペテロもあるいはアンデレもイエス様の弟子たちも見ました。
そして同時に500人以上の人々が蘇られたイエス様を自分の目で見た、触りました。そして最後には自分もイエス様を自分の目で見ましたよ、確認しましたよと聖書は教えています。
イエス様は生きておられます。今も生きておられます。だからイエス様の墓がね、まあ見つかっていないんですけれども、墓は開いています。
それはただのすごいな、すごい奇跡があったね、それを話すためではありません。それは私たちにイエス様のように私たちを死から蘇らせてくださる、その発報として主がもらったことであります。
イエス様の復活を信じる者にその復活がどういう意味があるのか、今から三つ簡単にお話をしたいと思います。
まず一つ目、イエス様の復活は私たちが新しく生まれた先生と言いますけれども、新しく生まれたことを確証します。その次の聖書箇所をお読みいたします。
神はご自分の大きな憐れみのゆえにイエス・キリストが死者の中から蘇られたことによって、私たちを新しく生まれさせて生ける望みを持つようにして下さいました。
どういう意味ですか、皆さん。イエス様が蘇られたということは、私たちにもう確かな不動の保証をしてくれます。
それは、私たちがイエス様を信じる者は新しく生まれて永遠の命が与えられているんだ。これが真実ですよとね。そしてイエス様は復活を通してイエス様が因果を教えて下さった。誰も耐えることはできない確実な保証であります。
2番目、イエス様の復活は私たちが神の前に偽人であることを確証します。
3番目、イエス様は私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために蘇られたからです。
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皆さん、人は皆神の前に罪人です。罪人は神の前に近づくことはできない。永遠の命を得ることができない。救われない。
しかし、神様はその罪の穢れを清くして下さった。きれいにして下さった。そのためにイエス様が代わりに忠実化で死んで下さって、私たちが義という言葉は正しさ、正しいという意味ですけれども、あなたは正しい人ですよと認めて宣言して下さる。
それが事実ですよという確認、不動の確証がイエス様の復活であるということです。
3つ目、イエス様の復活は私たちも蘇ることを確証します。
神は主を蘇らせましたが、その身力によって私たちを蘇らせて下さい。アーメン。
神は主を蘇らせましたが、その身力によって、全知全能の身力によって私たちを蘇らせて下さいと聖書は宣言して私たちに教えています。
この復活を信じて、そして復活の信仰を復活の信仰にするということは、もはや何にも誰にも縛られない、支配されないということであります。
それが死であろうが、恐れであろうが、何であろうが、何にも縛られない。
だから皆さん、復活信仰を持っている人には希望があります。希望がある程度ではなくて、希望にもいっぱいです。満たされています。
たまにクリスタンの皆さんはこういう話を聞くときがあります。
私は悲しいのに、何であなたはいつも幸せそうに見えるんですか?いつも何であなたは微笑んでいるんですか?ニコニコしているんですか?とね、聞かれるんです。
しんどい中にいても、みんな悲しい顔をしていても、みんなつらそうな顔をしていても、固い顔をしていても、世の中のあらゆる悩みや心配を抱えているような顔をして生きていても、
24:11
イエスに人を信じる者は、希望があります。それは、今日死んでも天国に行くからです。だから私たちは幸せなんです。
皆さん、人は死ぬと身体は治理に変わりますね。いくらおいしいもの、サプリメント、薬、飲んで食べて、健康維持、管理をして、百二十歳まで長生きしても、その身体は必ず治理に変わります。
しかし、それで終わりではありません。人には霊があります。霊魂とも言いますね。霊と魂があります。皆さんに、私に、みんなにあります。
その魂は、神に変えるか、滅びに変えるか、どっちかであります。しかし、神様、みんな私たちが、神のもとに帰ることを願っておられるから、イエス・ギリストを贈ってくださって、信じる者には、甦りの祝福をお与えになるのです。
メッセージを終わりにしたいと思います。イエス様の復活を信じる者は、この地においても、あの世においても、希望に満たされて、恵みのうちに歩むことができるのでしょう。
皆さん、いかがでしょうか。この復活の信仰を信じようではないでしょうか。私たちと一緒にイエス様を信じて、死んで終わりではない、死んで滅びに行くのではない、死んで永遠の命を預かって、民と共に生きていこうではないでしょうか。
その差し伸ばされている、余命がやられたイエス様のその救いのみてを、皆さんどうぞお知らせして、死と共に、その地においても、天国にいても、恵みのうちに歩んで生きていこうではないでしょうか。
そういう信仰が、祝福が、ゼラ様の上にありますように、心からお祈り申し上げます。アーメン。
26:45

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