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2025-05-25 29:02

#265 永遠のいのちの確かさ 〜救いの確かさと蘇り25/5/25

ヨハネ-40からの礼拝説。2025年5月25日録音。(聖書朗読はまで,導入はからです)

今日の箇所にもヨハネの福音書に特徴的な点が見られます。それは大事なことを繰り返したり、言い換えたりしている点です。これらの言葉をもとに、私たちに与えられている永遠のいのちの確かさについて3つの点から考えてみましょう。1.決して追い出さない(),2.神が与えた人(),3.「終わりの日のよみがえり」としての永遠のいのち()

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https://note.com/nsbc/n/nf221ab89b19d

サマリー

このエピソードでは、イエス様が群衆に向けて掲げた「決して追い出さない」という約束を中心に、永遠のいのちの確かさについて探求しています。特に、信じる者が神の国に入る確証と、神が与えた人々の存在意義に焦点を当てています。また、イエス様が与える救いの確かさや、父なる神様の意志とその働きについても深く掘り下げています。さらに、永遠のいのちや終わりの日のよみがえりに関する重要な教えが紹介されています。イエス様の神性と永遠のいのちの確かさを通じて、彼らは終わりの日に身体の蘇りを経験する希望を持つことができます。

イエス様の約束
では、お読みします。 ヨハネの福音書6章36節から。
「しかし、あなた方に言ったように、あなた方は私を見たのに信じません。 父が私に与えてくださるものは皆、私のもとに来ます。
そして、私のもとに来るものを、私は決して外に追い出したりはしません。 私が天から下ってきたのは、自分の思いを行うためではなく、
私を使わされた方の御心を行うためです。 私を使わされた方の御心は、私に与えてくださった全てのものを、私が一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
私の父の御心は、こう見て信じるものが皆、永遠のいのちを持ち、私がその人を、終わりの日によみがえらせることなのです。」
以上です。今日はこのところから、
永遠のいのちの確かさと題して見事を取り継ぎます。少々お待ちください。 録音を、今日忘れてしまったので、ここから録音いたします。
はい。 改めましておはようございます。今日5月最後の日曜日ですけれども、
先週はね、ちょっと暑い日が続いて、昨日はね、 涼しい日になりました。先週、金曜日ですかね、山手線が
止まったというね、私たち日本人というか、東京近郊から住んでいる人間からしたら、割と大きなですね、
出来事がありましてね、混乱は多少あったようですけれども、まあそんな中ですけれども、共に見事ばかり学べること、
礼拝できることを感謝しています。さて今日は、また先週の箇所からの続きです。
ちょっと待ってくださいね。
あまり調子が良くない。
あ、ちょっと待ってください。
はい、すいません。先週、しばらく前からですね、5000人の給食の奇跡のところからイエス様と群衆のやりとりを見てきました。
先週はいのちのパンということでですね、心の渇き、クリスチャンの方から言ったら、霊の渇きを癒すイエス様がいのちの源だということを学びました。
そしてそこからもう少し深い話にイエス様は進めていきます。で、実は今日の箇所にですね、このヨハネノ福音書に特徴的な
ことが見られます。それは繰り返しとか言い換えです。で、たった短い
5節の間ですけれども、中身の濃いですね、ところなので、ちょっと取り上げてみることにしました。
その中でまず3つの点で話しますけれども、前提として一つの言葉の言い換えや繰り返しをちょっと知っておいていただきたいんですけれども、イエス様がですね、
群衆に対してあなた方が不信仰だということで、そのまま言い直しでですね、
私のもとに来るという言葉を使っています。で、それは実はどういう意味かというと、イエス様を救い主として信じるという意味なんです。
そのことがなぜわかるかというと、今日の最後の40節で、こう見て信じる者が皆、永遠のいのちを持つと言い換えられているからなんですね。
皆さんも自分で聖書を読むときに、そういう言い換えを見つけると、ご自分でですね、真理に出会った、みたいなそういう喜びありますので、覚えておきましょう。
そういうことで、自分のもとに来るというのは、イエス様のもとに来る、イエス様を救い主として信じる、そういう前提だということを覚えておいてください。
その中からですね、3つの点、私たちのキリスト者の信仰生活において大事な点を見ていきますが、最初は、決して追い出さないというイエス様の約束から、
2番目は、神が与えた人、神が与えたものという特徴的な言葉から、最後は、終わりの日のよみがえりという、この3点を見ていきたいと思います。
まず最初の点ですけれども、決して追い出さないというイエス様の約束です。6章の37節。
父が私にお与えになるものは皆、私のところに来ます。 そしてから読める方は読んでみましょうか。
そして私のところに来るものを、私は決して捨てません。
この不信仰な群衆に対して語ったお言葉なんですけど、
別の話になりますけれども、昨年3月時点でですね、全国の書店不足ということで、
すさまじいと言っていいかわかりませんけど、データが出てるんですね。市町村、自治体が全国487あるんですけれども、その27%の自治体で、
本屋さんがないんですね。二座市はありますけど、二座市に一つもないとかですね。隣の三好町に一つもない。
そういうところが全体の4分の1以上にわたる、そういう書店が危機に瀕しているということがデータでもわかります。
ここにいる方はほとんど昭和世代ですけれども、よくある描写にですね、
書店のですね、減っているいろんな原因の中の一つが、雑誌の売り上げが減っていると。雑誌も配管のあるとか併合されるのが多いですけれども、
書店で漫画本を立ち読みしている人がいてね、それを店主がですね、畑を持って追い出すっていう、そういう絵を昭和の方はよく思い浮かぶかもしれません。
この立ち読みが追い払われる、悪い客を追い払うということなんですけれども、実はこの37節の
捨てませんという言葉は元のギリシャ語では、追い出すという言葉なんです。 捨てませんは元の言葉では追い出すという言葉でちょっと難しいんですけれども、
わかりやすいかもしれないで言うのは、元々のギリシャ語ではエッグバローという言葉なんですね。
これは字を書くんですけど、それはエッグというのは英語のfromです。 バローというのはですね、投げるという意味なんです。だからあるところから投げ出すという意味がこの
エッグバローという意味で、捨てません、追い出しませんという言葉なんですね。 だからよくアクレを追い出すという言葉がありますよね。
その時にこのエッグバローという言葉が使われる。そういう強い言葉がイエス様によって用いられているんですね。
その強い響きのある言葉をイエス様は否定する形で用いていて、私たちに力強い約束を語っているということが注目できるんですね。
それがどんな約束かというとですね、 私たち信じる者にとって
核証となる言葉なんですね。
実はですね、さっきヨハネナ福音書の特徴の言い換えというのがあるんですけども、 三章のところを覚えてますか。イエス様とニコデモが語り合ったところで、
神の国に入るということが大きな話題になりました。 実はこの神の国に入るということは、永遠のいのちを持つということと、
その救いの広い意味を表す言葉です。 だからある面、イエス様のもとに来て、イエス様を信じる人は、
永遠のいのちを持ち、神の国に入っている。 そういうことがわかるわけですね。
その上でこの37節のイエス様の約束を思い出すとですね、
私のところに来るものは、私は決して追い出さないということを思い変えますと、こういうことが言えるんです。
イエス様のもとに来て、神の国に導き入られた人、すなわち、
ちょっと字が間違いましたけど、神様を信じて、イエス様を信じて、神の国に導き入られた人を、イエス様は決して神の国から追い出すことはしないということなんです。
イエス様を信じて、神の国に導き入れられた人を、イエス様は決して追い出さないという、そういう力強い約束になるんですね。
私たちはイエス様を信じて、永遠のいのちを持ちました。すなわち、神の国に入れてもらいましたね。
ただ、まあ、あえてこういう言い方してるんですけど、日本人の方は真面目なのでね、自分がこれにふさわしくないんじゃないか。
あの時々話すんですけど、私、大学1年生の時にイエス様を信じて、洗礼を受けたんですね。
アルバイト先に、オー君という男の人がいて、
ああ、何?クリスチャンになったの?って言ったの。ああ、あんたクリスチャンになったんだ。
彼が言ったのは、俺がクリスチャンになったら地獄に行くよ。わけのわからないことを言ってるんですね。
どういうことかというと、自分は悪い人間だから、イエス様、クリスチャンになったら確実に地獄に行くんだっていう、
そういう彼なりの考えなんですけども、私たちは自分を見た時にですね、神の国にふさわしい、あるいはそういうふさわしさを保ち続けることができるのかと、イエス様を信じた後、神の国に入る確証を得た後も、迷うことがあるかもしれないんですね。
そんな私たちが迷う時に、あるいは信仰の信念の中で、自分の信仰が揺らぐ時にですね、
このイエス様の約束、イエス様の誠実さ、真実さというのが、この言葉が私たちの確証になるんです。
自分の良さ、人間性の良さゆえに私は神の国に入ると確証して言えるっていうんじゃなくて、イエス様のこの誠実な約束のゆえに、私は神の国に入り続ける、追い出されないという確証を持てるということができるんですね。
神が与えた者たち
まあ、この約束を言い換えていると言われている別の御言葉は、ちょっとこの最初のポイントの点で見ていきたいんですが、ヘブルの13章5節のよく有名な言葉ですね、最後の文ですけども、
主御自身がこう言われるのです。じゃあここだけ読んでみましょう。私はから3回、私は決してあなたを離れず、またあなたを捨てない。
このイエス様の誠実さを私たちの救いの確証とする、そういうことを読み取っていければと思います。
2番目、神が与えた人という特徴的な言葉を見ていきましょう。イエス様は続けてこのようにおっしゃっていました。
私を使わせた方の御心が、私に与えてくださった全てのものを私が一人も失うことなく、一人一人を終わりの日に蘇らせることです。
まあ、皆さん簡単ですから、なるほどと思うかもしれませんが、少し深く見ていきましょう。
ここで37節に続いて大事な言葉が繰り返されていることにお気づきになったでしょうか。
大事な言葉はですね、一つ目はですね、
言い換えて繰り返しているんですけども、イエス様は先ほど一人も追い出さないと言ったんですけど、ここは私が一人も失うことがないと言い換えています。
失うことがない。
そうやって言い換えている、確信を与える言葉が最初の点と連続性があるわけです。
2番目の大事な繰り返しや言い換え、それはですね、
私を使わせた方というのは、皆さんこれまで慣れてご存知のように、父なる神様ですね。
父なる神様が私にイエス様に与えてくださった全てのものという言葉です。
この 父なる神様がイエス様に与えてくださったものという言葉は
先ほどの37節にも 繰り返されていますね。
父が私にお与えになるものって繰り返されているでしょ。で、この37、39節の
言葉はですね、 今日ちょっと難しいのがいっぱい出てきますから、家帰ってレジュメ見てください。
父なる神様がイエス様に与えてくださったものという言葉はですね、元のギリシャ語では時勢が現在と環状形で変わっているんですけども、
全く同じ言い方をしているんです。
リドシンモイ、英語で言うと Whom Father Gives Me って言うんですけども
父が私に与えた人という全く同じ言葉が2回使われているんです。それだけこの意味が大事だってことがありますね。
お勉強ね、最高で学校の先生言うじゃないですか。これ2回繰り返されているから絶対試験に出るよみたいな、そういう感じで2回全く時勢は違っても同じ言葉が使われていて
イエス様に父なる神様が与えてくれた人、人たちという言葉なんですね。
で、そこで何が私たちに分かるか。 実はそれが先ほどと同じ私たちの救いの確証になる。
救いの確かさの根拠となる言葉なんですね。なぜならこの
こう言います。ある人がイエス様を信じることができたのは神様がその人をイエス様に与えてくださったからだということなんです。
まあちょっとわかりやすいかわかりませんけども、皆さん良い人間関係を神様からのギフトだ、みたいに思うことかもしれません。
家族であれ、友達であれ。ちょっとそれと違くもわかりませんが、
人がイエス様のもとに来れた、人がイエス様を信じたというのが、それはすなわちその人のことを神様がイエス様に差し上げたからだという不思議な言葉を使っているんですね。
で、これは実は私たちには計り知れない不思議なことなんです。どういうことかというと、4月13日のですね、あの説教の中で
こういうことを言ったんですね。ヨハネの5章の30から40、皆さん後でいろんなところで繰り返してほしいんですけども、こういうことを言いました。
私たちはまず信じてこそ神様のことがわかるというようなことを言いましたよね。まあイエス様が私を見たものは父を見たみたいなことを言った。
そういうことを学者が言ってますよ。信じたからこそ見えない神様のことがよくわかりますよって話をしました。
でもそれは私たちが信じるという行動が強調されてますけど、ここの箇所では一方で、そうじゃないよ、人が救われるのは神様がその人をイエス様にあげたからだよという、神様主体の救いなんですね。
で、まあよく皆さんご存知かもしれません。学者の中で議論されているのは卵が先かニワトリが先かみたいですね。
人が信じるという行為が先であるのか優先されているのか、それとも神様が選んだ人だからその人は信じるという、神の選びが先なのかという、どっちが先であるか、優先かという議論があります。
まあそういう難しいことは学者さんに任せておいてですね。 私たちはこの救いの確証というところから、それを信仰的にこう捉えたらいいんですね。
それは、実は、私たちがイエス様を救い主として信じることができたのは、神様が私たちをイエス様に与えてくださったからである。
もうちょっとわかりやすい言い方をすると、私たちがイエス様を信じることができたのは他でもない、神様のおかげです。
私は自分で信じたように思うけども、別の箇所で言えば、神様が私を選んで、イエス様を信じるように導いてくださったからだという言い方ができるんですね。
神様の一方的な働きのように私たちは救い主としてイエス様を信じることができたと言えるわけです。
もう少し私たちの核証と名乗ってを見ていきたいんですけども、皆さんね、自分が初めて教会に行ったきっかけとか、イエス様を信じるという決心をしたきっかけのことをよく考えてみてください。
そうすると、確かに自分がそう決断したんだけれども、やっぱり神様が私を召してくださったから、
神様が私に働いてくださったから、私はイエス様を信じますということができたんだなという、そういう不思議さを実感することがあると思うんですよね。
今週いっぱいそういうことを考えてみてもいいかもしれません。
まあそのように自分の入信のきっかけは神様が私に信仰を授けてくださったからだという、
そのことに気づく、父さんの神様によって与えられたからこそ私は信仰を得たんだと気づく、そのような気づきが与えられるときにですね、
私たちはですね、たとえ自分自身が信仰者として頼りないと思えることがあったとしても、
あるいはこの試練の中で信仰が揺さぶられるようなことがあったとしても、
いやこの信仰は神によって与えられたものなんだという事実に至って信仰の確証を得ることができる、
そのような信仰の確かさということを、この神が与えた人というところから学び取っていけたら幸いではないかと思います。
神様の意志
では最後、 終わりの日のよみがえりとしての永遠のいのちということを見ていきましょう。
6章40節でイエス様はこのように言っています。 事実、私の父の御心は、
こう信じて、こう見て信じる者たちが皆、永遠のいのちを持つことです。 では最後だけ読んでみましょうか。
私はその人たちを一人一人終わりの日によみがえらせます。 6章40節ですね。
ここではとても大事な言い換えがなされていることにお気づきでしょうか。
それは、 永遠のいのちを持つということは、すなわち
終わりの日によみがえるということだということが、ここでよくわかるわけです。 で、実はこの終わりの日のよみがえりも
さっき見た 39節にもですね、
終わりの日によみがえるということで、繰り返されているわけです。 さらに大事なことはですね、他でもない、
この両方においてですね、イエス様が私たちをよみがえらせてくださるという断言している点、
これ後で詳しく見ます。その点と、そしてそれこそ父なる神様の御心であり、 そのためにこそ父なる神様によってこの地にイエス様が下り、
使わされたということが、38節から40節まで繰り返されています。
ちょっとそのことをね、意識しながら、私上手に読めるかわかりませんけれども、 この読んでみるんですね、聖書。
38節から40節読んでいますね。 皆さんもちょっとチャレンジしてみましょうか。
ここに出して、合うかどうかわかりませんけど、これらの点を。
いきますよ。 私が天から下ってきたのは、自分の思いを行うためではなく、
私を使わされた方の御心を行うためです。 私を使わされた方の御心は、私に与えてくださった全てのものを、
私が一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。 私の父の御心は、こう見て信じるものが皆、永遠のいのちを持ち、
私がその人を終わりの日によみがえらせることなのです。 ちょっとうまくいったかどうかは言いませんけれども、
後、ゆっくりお家でやっていただきたいのですが、このように、大事なことが3つ4つ繰り返され、言葉を言い換えて、イエス様は
語っておられるのです。
今のところからも、最初の2つの点で見た、私たちの救いの確かさ、 それはイエス様によって
保たれている、追い出されないということか、神によって信仰が与えられているということもそうですし、 ここにある
事実と言っているのですが、これは元のギリシャ語で言うと、 私の父の御心はまさにという強い言葉があるのです。
私の父の御心はまさにこれです。それはこう見て信じるものが、 永遠のいのちを持つということで、やはり父なる神様が私たちの救い
よみがえりの約束
の権威を持って救ってくださったということがわかります。 そしてここ実は、
私はイエス様がその人たちを蘇らせると言っているのですが、 あえて難しいことを言いますと、ギリシャ語では私という
代名詞ですね。主格代名詞。 英語で言うと愛ですね。 愛という言葉を省略するのです。
あの アムという言葉の変化形で、何人で誰かってわかるから。でも強調するときは
私という言葉が入るのです。 私という言葉はエゴです。エゴイズムのエゴ。
だから ここでイエス様は他でもない、私がその人を蘇らせるのですって
大きい声で言っておられるんですね。 そこから今まで皆さん見てきたようにイエス様の神性もわかりますね。
イエス様はどんな救い主であり誠の神か、それはイエス様信じた人を蘇らせることができる方だ。
そこからもイエス様の神性がわかるわけです。
森たくさんでちょっと広くて深いから 言い尽くせないのでまたお家帰ってですね、神性を見ながら復習していただきたいんですけども
まあ このようなところから
3番目の点でわかることが 永遠のいのちを持つということは終わりの日に身体の蘇りがある。
イエス様がその人を蘇らせるということがわかるわけですね。 まあ今まで繰り返してきましたが
今永遠のいのちを持つってヨハネの中で言われているのは神様との 相手を交わりの中に生きる聖書を読んだり祈ったりして神様の息吹を覚えたりとかですね
本当に日々の生活の中で本当にイエス様が私を救ってくださったんだと思うような経験をする。
そういうことで 神様と生きる環境をもって永遠のいのちを今体験できますけれども
まさに終わりの日というのはすべての神の正義と支配が完成する日 その日にですね私たちは蘇るつまりたとえ体がですね
この地上の生涯を終えたとしても この神がすべてを完成する日に私たちはその
体を持ってですね イエス様に蘇らせていただく
そういう希望がある そのことがこのところからわかるわけです
永遠のいのちには私たちがたとえこの地上の生涯を終えてもやがて蘇る そのことも含まれているとやはりこの御言葉から私たちは確証を得ることができるわけなんですね
その時が 永遠のいのちの完成の日だということを覚えておきましょう
それでは今日最後になりますがまあその体による体の復活をですね ハウロが第一ポリントの15章の5152で教えていますからそれを最後に
委員をして終わりたいと思います 聞きなさい私はあなた方に奥義を告げましょう私たちは皆眠ることになるのではなく
変えられるのです 終わりのラッパとともにたちまし一瞬のうちにです
国連でましょうかさんはいラッパがなると死者は朽ちないものによみがえり 私たちは変えられるのです
その希望を持って励まし合いこの地を歩むお互いであり教会でありたいと思います お祈りしましょう
天の神様皆を賛美いたします イエス様は繰り返しご自身の御言葉を持って私たちに永遠のいのち
救いの確証を与えてくださったことを感謝いたします それは私たちには計り知れない深く広い
誠でありますけれどもどうか私たちがこの地上の生涯を歩む中で その永遠のいのちに預かっている幸いをさらに深く知ることができますよう導いてください
また私たちはたとえこの体がこの地上で朽ちてもやがてあなたによって 蘇りを与えられることをそのことも感謝いたします
どうかそのことをあなたにある希望として確信としてこの地上を歩むお互いであり 教会でありますようどうか導いてください
この願いと感謝を私たちの救い主主宗イエス様のお名前によってお祈りします アーメン
それでは1分ほど目と思って神様にお答えする時間を持ちましょう
29:02

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