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2025-10-26 33:28

#297 大切な私たち、偉大な御父~誰も奪えない永遠のいのち 25/10/26

ヨハネ-30からの礼拝説教。2025年10月26日録音。(聖書朗読は()までです)ヨハネ12章29節には2通りの訳が存在します。それぞれの訳からクリスチャン生活を送るうえで大事なことを考えてみましょう。(1.すべてにまさって大切な存在としての私たち()、2.すべてにまさって偉大な父なる神様())。3番目にイエス様の「わたしと父とは一つです」の意味を考えます。(3.御父と御子が「1つ」であるということ) ))

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サマリー

このエピソードでは、ヨハネの福音書10章を基に、イエスの教えを通して神の存在と信仰の重要性について議論されます。特に、イエスが羊飼いであり、信者たちを守る存在であることが強調されています。また、神の羊としての彼らの大切さや、神であるイエスが彼らを守る偉大な存在であることについても語られます。さらに、教会が神の民として持つ重要性や、父なる神とイエスが一体であることについても考察されます。このエピソードでは、イエスが父なる神の意志を完全に実行する存在であり、それが彼らの救いにどのようにつながるのかも考察されます。加えて、父なる神との関係や神性についての理解を深めることの重要性が強調されています。

ユダヤ人たちの分裂
ヨハネの福音書10章19節から30節、新改訳聖書2017年版でお読みします。
これらの言葉のために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。
彼らのうちの多くの人が言った。
彼はアクレにつかれておかしくなっている。
どうしてあなた方は彼の言うことを聞くのか。
他の者たちは言った。
これはアクレにつかれた人の言葉ではない。
見えない人の目を開けることをアクレができるというのか。
その頃エルサレムでミヤ清の祭りがあった。
時は冬であった。
イエスはミヤの中でソロモンの回廊を歩いておられた。
ユダヤ人たちはイエスを取り囲んでいた。
あなたはいつまで私たちに気をもませるのですか。
あなた方がキリストならはっきりと言ってください。
イエスは彼らに答えられた。
私は話したのに、あなた方は信じません。
私が父の名によって行う技が私について証ししているのに、あなた方は信じません。
あなた方が私の羊の群れに属していないからです。
私の羊たちは私の声を聞き分けます。
私もその羊たちを知っており、彼らは私についてきます。
私は彼らに永遠のいのちを与えます。
彼らは永遠に決して滅びることがなく、また誰も彼らを私の手から奪い去りはしません。
私の父が私に与えてくださったものは全てに勝って大切です。
誰も彼らを父の手から奪い去ることはできません。
私と父とは一つです。
以上です。
神の救出劇と祭り
今日はこのところから、大切な私たち偉大な道地に出題して御言葉を取り継ぎます。
みなさんおはようございます。
先週の日曜日は夏日になって半袖でしたけれども、
今日は私は長袖でジャケットを着てここに立っております。
本当に季節が一変するような中ですけれども、
皆さん守られて共に礼拝できる幸いを感謝しています。
さて、ヨハネの10章のところ、イエス様の羊飼いと羊のたとえのところからしばらく学んでいます。
これまでの話に続いて、今日の箇所の舞台もエルサレムです。
背景を今日中で説明しないので最初にサッと言ってしまいますけれども、
そしてこのイエス様が語る羊飼いと羊のたとえ話を聞いた。
ユダヤ人たちの間で分裂が起こった。今までもそのようなことが起こりましたけれども。
おそらくパリサエ人たちを中心にユダヤ人たちが、
イエス様が本当に父から使わされた神性な、あえて言えば人物であるか、
預言者や神の人なのかという方に立つ人と、
今日の箇所では頭がおかしくなったとか、別のところでは悪霊につかれているという、
そのような意見が分かれて書いてありますね。
季節は冬で宮城嫁の祭りだという舞台が書かれています。
場所はエルサレムなんですけれども、宮城嫁の祭りは冬の季節に行われました。
ちょっとだけ背景を言いますと、今までお話ししたように、
ユダヤ人神の旅の偉大な過去の救出劇と言えば、最初が出エジプトでした。
2番目がバビロン保守からの帰還で、今ここに住んでいる。
そして3番目が、実は紀元前1世紀に出てくる、聖書に書かれていないんですけれども、
ギリシャに支配されていた時に、アンティオコスエピファネスという名だたる悪王がいて、
神殿に豚の生贄を捧げたりして怪我した。
その迫害から助けられたという紀元前1世紀の出来事を記念して、
民の3番目の救出劇を祝う祭りが、この宮城嫁の祭り。
別の訳では献身や封建の祭りと言われています。
そういう神の救出劇が祝われている最中に、イエス様はご自分によって救われるということを、
羊の話を通して民に語っているわけです。エルサレムという舞台。
しかしユダヤ人、これまで通りパリサイ人を中心とした指導者たちは、
私たちの重要性
危機迫る思いでイエス様を取り囲んで、いつまでじらせるんだと。
今の時代はすぐテレビ、そしてSNS、またAIを使えば情報が入る時代ですから、早く正しいことを知りたい。
そんな気持ちも血気盛んに、あんたが救い主なら早く言ってくれと迫ったわけですね。
そしてそこからイエス様がこれまで通り、これまで言ってきたけどあんたたちは信じませんよ。
イエス様がなさる身技が、証拠としての奇跡が証してるじゃないかということで、話が進んでいくのが今日の物語です。
そしてヨハネノフ勲章の特徴は、話がつながっていってどんどん深まったり、広められたりしていくということなんですね。
今日の箇所もそのような話の内容になっています。
先週、前回見た話は、父なる神様子なる神様の愛の交わりの中に、私たち神の民を入れてもらっているという、
そういう話をしましたね。愛の三重奏のような話をしました。
そこの関わりからさらにそれが深まって、私たちの信仰の拡張というところに話が進んでいくのが今日の出来事なんです。
結論から言うと、父なる神様と子なる神であるイエス様に守られているというのが今日の主題です。
実はここから本題に入るんですが、今日の箇所で難しいと言われているところが2箇所ある。
そのうちの最初の箇所から1番目、2番目を見ていきます。
それを説明する前に御言葉とポイントを読んでいきましょう。
まず最初、1番目は大切な存在としての私たちって言うんですね。
ちょっと長いかもしれませんが、10章29節読めるかで読んでみましょうか。
私の父が私に与えてくださったものは全てに勝って大切です。
誰も彼らを父の手から奪い去ることはできません。
この最初の全てに勝って大切ですという言葉をどう解釈するかということが、今日の最初の難しい箇所なんですね。
今読んでいるのは、私たちの今教会で使っている新海約聖書の最新版2017年版の約。
実は皆さんの聖書におそらく星しるしがついている29節。
そしてそこにはこういう約も書いてるんですね。
私に彼らを与えてくださった父は全てに勝って偉大です。
この大切で偉大なのは、羊である私たちなのか、守ってくれる父なる神様なのかということが議論されているというか、どっちを取るかという話なんですね。
今日まず最初は、私たちが今使っている新約聖書のところから説明していきます。
繰り返しになりますが、新海約聖書の直前の約と、日本語の聖書でもう一つ正当的な聖書で言われている共同約聖書では、
私に彼らを与えた父は全てに勝って偉大ですとなっているわけなんですね。
父なる神様なのか、羊である私たちなのかということを深めていきます。
ちょっとあえて難しい話をします。教養として聞いててください。
実は聖書というのは、新約聖書、ギリシャ語で書かれていますが、いわゆる原本はもうないんですね。
どうやってこれがわかるかというと、おびただしい数の写本があります。
難しい話を簡単に言うと、写本の数が多ければ多いほど、原文が何かがわかるので、その書物の信憑性が高いということで、
新約聖書はその当時のどの文章よりも写本の数が多くて、信憑性が高いと言われています。
忘れてもいいんですけどね。
その中で何が出てくるかというと、書き写していくわけですね。
昔はしるし刷機なんかないですから。
その時に書き間違いが起こったりするわけです。
そこで、今日のこの歌手は簡単に言うと、偉大なのは父なる神様なのか、それとも神の子羊である神の民なのかという解釈が分かれています。
おおよそ言われていることは、どっちも聖書本来の文脈にとって間違いでないから、どっちを取ってもいいんですという、そういうことが定説として通っているんですね。
だから両方あるわけです。
もうちょっと私個人の話をしますと、この教会はバプテスト教会連合ですね。
バプテスト教会連合の進学的な立場は、恩賢なカルバン主義という立場なんです。
恩賢、陰賢じゃなくてですね。恩賢なカルバン主義というのは、簡単に言うと、細かく詰めないで、あれかこれか、例えばこれだったらあれかこれかどっちかっていうよりは、むしろ私の先輩の牧師や学者がそうだったんですけども、
あれもこれもどっちも取っていこうという立場が恩賢な立場なんですね。
それに倣って、今日もあえて、あまりしないんですけども、2つの説から私たちの信仰に役立つというと、ちょっとあれですけども、意味があるということで学んでいくので、
まず最初は、新しい新改訳聖書の方の、偉大な大切なのは私たちだというところから学んでいきます。
さあ、そこでですね、今日まず、大切な存在としての私たちというところで最初のポイントが出てきましたけど、この前後の文脈で言われていることは、誰も羊飼いの手から羊たちを奪うことができないということが、そういう文脈で言われているわけですね。
すなわち、大雑把に言ってしまいますけど、誰も神様の手から、神の羊である神の旅を奪うことができないという、絶対的な神様の守りがありますよという、そういう文脈の中で語られている、信仰の革新に関わる約束が語られているんですね。
で、その上で、最初の一番目の立場を取ると、じゃあ、それほどまでに信じる私たちを守ってくださる、神様がそんなにして私たちを守ってくださる理由は何ですか?と言えば、それは私たちが全てに勝って大切な存在だからだというふうに考えられるわけです。
人は誰でも大切なものは守りますね。親子関係の中で皆さん生きているからお分かりになるかと思いますが、よくテレビなんかでも目にしますが、子供が不治の病に陥ったときに、親は変わってあげたいと思うわけです。
自分のいのちを捧げてまでも、自分の子供が救われてほしい、治ってほしいというのが、それが親の心情であり、人間の心情と言えますよね。
そのようなことから連想できるわけですけれども、イエス様は10章の中でこのようにおっしゃいました。
私は良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。誰も私からいのちを取りません。私が自分からいのちを捨てるのです。
これ映画になっているから言ってもいいと思うんですけどね。この教会でやっているガン哲学外来カフェ、その創設者の日野先生とガン哲学外来カフェをドキュメンタリーした映画があるんですね。
その中で一人の方が出てきます。先に言えばよかったんですけど、息子さんが水蔵がんになった。水蔵がんは英語でキラーカンサーと言われているように助かる率がすごく少ないんですよね。
そのお母様はその映画の中で、息子さんが嫁に何ヶ月と言われた中で、私ができれば代わってあげたいとおっしゃっていた。それがしるし象的なんですけれども、ここでイエス様は良い羊のためにいのちを捨てる。
私たちの大切さ
しかも十字架にかかるのは被害者としてではなくて、自分からいのちを捨てるんだと言ったとおり、自ら進んでいのちを捧げてくださったということです。
ここからもわかりますように、神の羊である私たちは、それほどまでに親が自分のいのちを捧げて守る、それ以上に神なるイエス様が自分のいのちを捨ててまでも救いたいと思った。そういう尊い存在だということがここからわかるわけなんですよね。
あり得なことを言えば、今の私たちの周りには私たちの価値観を決めつけるような出来事や情報が溢れているとも言えるかもしれないですね。わかりやすく言えば持ち物ですとか、社会的立場みたいなものがのしかかってきたり。
楽しみにやっているSNSでさえ、いいんですよ。私の好きなアーティストでSNSから有名になった人はいっぱいいますからね。でもそういう自分が趣味でやっているSNSを通してさえ、自分が惨めに感じたりとか、あるいはフォロワー数が何人かとか、いいねの数が何人かで上がったり下がったりしてしまう。ちょっと極端なアレかもしれません。
そのような中に私たちは漂うかもしれませんけれども、繰り返し言いますが、私たちは神様にとって何よりも大切な存在だと言われていることは忘れてはいけないわけですね。
実はですね、この全てに勝って偉大だということはですね、全てに勝って大切だという大切な存在は、私たち一人一人だけじゃなくて、神の民、教会もそこだって言うんですね。
あえて言えば、教会によっても大きさとかいろんなサイズがある。でもたとえ小さい教会でも、神の民の群れである教会は神様の目から見たら大切な存在だって言うんです。
皆さんご存知のように、歴史上多くの教会も存在してきましたし、亡くなったクリスチャンの人も言えば、見えざる教会という言い方で言えば、たくさんの見えない教会、神の民がいるわけです。
本当に文字通り多くの人が存在していて、その中に私たちも属している。数の話になってしまいますけど、私たちはそういう尊い存在であるということを忘れずにいる必要があるんですね。
もともとこの大切なという言葉は、ギリシャ語ではメガスというんです。メガマックという言葉がありますけど、本当に文字通り大きいって言うんです。
だから神様の目にとって、神の民は何人も勝って偉大だというのが直略であり、大切な存在だということが伝えられているわけなんですね。
ですから私たちは、何を自分の価値の拠り所にするのか、何を自分の教会の価値の拠り所にするのかと言えば、神にとって私たちは何よりも大切な存在であり、偉大な存在だということ。そこに自分たちの拠り所を置いていくということが、今の時代大切なのではないかと思うわけですね。それが一番最初のところです。
偉大な父なる神
2番目、全てに勝って偉大な父なる神様というところから考えていきましょう。
では、教会で今使っている前のバージョンの神科学聖書第3番から10章29節をもう一回読んでみますね。
私に彼らをお渡りになった父は全てに勝って偉大です。誰も私の父の見てから彼らを奪い去ることはできません。
実際、偉大なのが父なる神様だという採用している聖書が多いんです。
さっきも言いましたが、神科学教材学聖書もそうですし、英語の聖書も。定番と言えば定番なんですけれども。
これは皆さんがわかる通り、私たちを守ってくださる神様というのは何よりも偉大な方ですから、安心できるよという、そういうメッセージが伝わってくるわけですね。
それに似たイエス様の宣言が、ヨハネの6章37節でこのように言われているんですね。
父が私に与えてくださるものは御名、私のもとに来ます。
そしてイエス様ですけど、私のもとに来るものを私は決して外に追い出したりはしません。
羊飼いの羊の例で言えば、私の囲いに属する羊を私は決して追い出さないということになるんですね。
この10章には羊飼いの話と羊の話が出てきますけれども、羊を奪うですね、強盗が出てきたり、そしてその強盗は奪って殺す。
今日朝早く、私は遠くへ行きたいというテレビを見ているんですけど、山形の特集をやったんです。
山形と言えば米沢牛ですよね。
ああいうすき焼きお味噌を食べていましたけど、ほふって殺すんですよ、羊を。
そういう強盗の話とか、あと羊の皮をかぶった狼だって言いますけど、狼が来て襲われるっていう。
そういう羊がいのちの危機に晒されるということが例えて語られてきたわけですよね。
そんな中で、私たちに平安をもたらす約束がある。
それは羊飼いなるイエス様と共に、父なる神様が神の羊である私たちを守ってくださるという約束ですね。
実はある学者は、ここにですね、クリスチャン信仰を続けていく上で、大切なメッセージが込められていると言っているんです。
どんな大切なメッセージが込められているか、ほぼそのまま引用しますけども、
信じるものはあらゆる地上の災いから救われるということではなく、
どのような地上の災いが私たちに降りかかろうとも、私たちは救われるということに注目しなければならない。
皆さんね、人生も信仰生活の長さもそれにあるので、ご存知かと思いますけれども、
それがキリスト者の生活の現実、苦しみは避けられないけれども、その中で必ず守られていくということですね。
そしてそのことを使徒パウロは言い換えて、このように表現しているんですね。
とても有名な箇所を2番目の締めくくりとして紹介します。
私はここを確信しています。
ここら辺で言いましょうか。
死もいのちも、見つかりたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
高いところにあるものも、深いところにあるものも、その他のどんな被蔵物も、私たちの主キリストイエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。
私は学生時代にある宣教師の方として信仰を持ったんですね。
週に1回だったかな、聖書を勉強していて、この箇所が出てきたんです。
その男性のアメリカ人の方に、この言葉の中で、高いところにあるものも、その他のどんな被蔵物も、私たちの主キリストイエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。
高いところにあるものも、深いところにあるものもってどういう意味なんですかって言ったんです。
そしたら、なるほどと思った回答はですね、それは、この世界に存在するどんなものも、どんな被蔵物もということと関係してるんですけども、
この世界に存在し、この世界で起こるどんなものも、私たちを主イエス様にある神の愛から引き離すことができないんだということを強調してるんですよって聞いて、学生ながら、なるほどなぁと思ったわけですね。
2番目のよくある訳から私たちが言えること、父なれ神様、何よりも偉大な父なれ神様が私たちを守ってくださるので、私たち、永遠のいのちが与えられていますが、その永遠のいのちが奪われるということがない。
決して滅びることがないとイエス様が約束しておられる、そのことがさらにわかるわけですね。
父と子の一致
最後、みちちとみこが一つであるということ、三番目は、みちちとみこが一つであるということ、つまりそれはどういうことかということですね。
今日の一つのクライマックスの言葉、十章のクライマックスの言葉ですが、読めるかで読んでみましょう。
私と父とは一つです。十章三十節。
実は今日の箇所でもう一つ難しいというか、しっかり捉えるべきところというのは、この三十節の短い言葉なんです。
じゃあ、父なる神様とイエス様が一つであるって一体どういうことですか?ということですね。
実はまず最初に言えることは、一つというのは、その意思と行動において一つということなんです。
イエス様のご意思と父なる神様の御心が一つである。
そしてそのイエス様も父なる神様もなさること、私たちに対してしてくださることなんですけども、
そのイエス様と父なる神様の御心、すなわちその御意思と寸分違わずしかも同じことができるということなんです。
今日の箇所で言えば、二十八、二十九節で共に言われているように、
イエス様と父なる神様の手から誰もイエス様の羊を奪うことができない。
言い換えれば、父なる神様と同様イエス様も永遠のいのちを与えられた羊たちが決して滅びることがないように守ってくださる。
イエス様の守りは父なる神様に劣るということでもない。
そしてそれをやり抜こうという意思が、イエス様は父なる神様に劣っているということでもないんです。
ちょっと乱暴というかで変なんですけど、こんな例えができるのかなと思います。
今ね、この時間にあることが行われていますよね。
何を行われています?
ワールドシリーズ、気になっている方も3人ぐらいいるかもしれませんけども、
トロントブルジエースとロサンゼルスドジアス。
団体スポーツで勝つための条件は、勝利に対する強さとか意思が統一されていることですね。
絶対に勝つんだ。
もう一つは、それに向かっていく監督と選手の意思が統一されていることなんです。
昨日丸方と話したんですけど、弱いチームというのは何かというと、
その中に相手は勝利に対する向かっていこうという意思がない人がいると。
練習をサボったりとか、見えないところでサボったりする。
そういう人がいるとチームはなかなか勝ち上がれないということを言うんですね。
この間もサッカーが初めて日本代表がブラジルに勝ったなってありました。
とにかく選手同士の意思が一つであり、勝利に向かっての意思が一つであり、
そして監督と選手の意思が一つであるということが大事です。
スポーツならまだいいかもしれませんが、私たちクリシアンとして考えたときに、
じゃあイエス様にならって神の御心に沿って生きようと決心しますけれども、
それはどれくらいできるか。
寸分たかわずイエス様の御心、神様の御心に沿って私たちは生きることができるのか、
そしてその通りに成すべきことを成すことができるのか、
普通に考えたときにできないですよね、正直に。
言い換えれば、それが父なる神様がいて、
イエス様は人となってこの地に来られたお方ですから、人間ですよね。
その神様の意思を寸分たかわず悟ってそれを行い、
そして神の意思に100%完璧に従うことができるイエス様、
まさにそれは神様だからできることですよね。
当たり前のようにさらっと過ぎてしまいますけれども、
そういうことをイエス様はここで言っておられます。
イエス様の神性の理解
しかもそれは何を言っているかというと、繰り返しに言いますが、
神の民であるイエス様の羊である人たちを守り救うための神の意思を寸分たかわず悟って、
そしてそのために完璧に実行していくことができるのがイエス様だということです。
そしてその行くつく先は何だかというと十字架でしたよね。
そしてこの父なる神様とイエス様が一つであるということは、
こういうことではないんですね。
全く同じ人物であるということではないんです。
ちょっと言い方変ですけどね。
しかしこれまで述べたようにイエス様は人間でありながら神様の意思を完全に実行し得るので、
父なる神様と等しく神なら存在であるということが込められているわけです。
難しくて微妙なんですけども、ここを悟っていくことがプリシャンとして大事です。
話し続いて言うと、だからイエス様は父なる神様と一つじゃない。
全く同じでないから神でないというカルトもいたんです。
実はなぜこんなことを言っているかというと、
1章1節から父なる神様と言葉なる神様は共にいて、言葉は神であったと言われてますし、
1章の14節では言葉は人となって私たちの間に住まわれた。
私たちはその方の栄光を見たといって、難しい言葉で言うと、
言葉、露骨なるイエス様の神性、神なることが、ずっとヨハネの勲章の中で明かされてきたわけです。
そしてその一つの極みが、10章30節にあるイエス様の言葉、私と父なる神様は一つです。
本質において神として一つです、ということがここで言われているわけなんですね。
少し今日は難しい言葉で言うと聖書の解釈とか、
一つの御言葉からイエス様の神性という難しい言葉で言うと、
心学的な話をしたんですけれども、
でも私たちはこういう知的作業を通してもしっかり自分たちの信仰を固くしていくということが必要でもあるので、
あえて今日はこういうお話を紹介いたしました。
神の愛と救い
父なる神様と寸分違わず、私たちを救いたいという神の愛の御意思を悟って、
そしてそれを実行して十字架の道に至って、私たちのためにいのちを投げ出してくださって復活し、
私たちに永遠のいのちを与えてくださったイエス様はまさに
父なる神様と等しく神である、そのことが今日からお言葉から分かると思います。
それでは今日最後ですね。
6章37節を読んで終わりたいと思います。
父が私に与えてくださるものは御名、私のもとに来ます。
そして私のもとに来る者を、私は決して外に追い出したりはしません。
お祈りしましょう。
天の神様、あなたが御子イエス様をこの地に使わせて、私たちのために救いを成し遂げてくださったことを感謝いたします。
イエス様が人となられた神であり、その私たちの救いを成し遂げるために十字架でいのちを捧げてくださったこと、
そしてよみがえって私たちに永遠のいのちを与え、私たちがそれを失うことがないように最後まで全うしてくださること、
またその私たちを守るために、父なる神様も私たちと共に働いてくださることを信じて感謝いたします。
どうぞその御父と御子の守りの中に生かされ、またその御父と御子の御愛の中に生かされている、
その幸いを更に知り、歩んでいくお互いであり、教会でありますようどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは一分ほど御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
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