イエスの警告
聖書を持っている方は、新約聖書の、それでは、ヨハネ8章21節から30節を読みます。
イエスは再び彼らに言われた。私は去って行きます。あなた方は私を探しますが、自分の罪の中で死にます。私が行くところに、あなた方は来ることができません。
そこでユダヤ人たちは言った。私が行くところに、あなた方は来ることができません。と言うが、まさか、自殺するつもりではないだろう。
イエスは彼らに言われた。あなた方は下から来たものですが、私は上から来たものです。あなた方はこの世のものですが、私はこの世のものではありません。
それであなた方は自分の罪の中で死ぬと、あなた方に言ったのです。私はあるであることを信じなければ、あなた方は自分の罪の中で死ぬことになるからです。
そこで彼らはイエスに言った。あなたは誰なのですか?イエスは言われた。それこそはじめからあなた方に話していることではありませんか。
私にはあなた方について言うべきこと、裁くべきことがたくさんあります。しかし、私を使わされた方は真実であって、私はその方から聞いたことをそのまま世に対して語っているのです。
彼らはイエスが父について語っておられることを理解していなかった。そこでイエスは言われた。あなた方が人の子をあげたとき、そのとき私が私はあるであること、また私が自分からは何もせず、父が私に教えられたとおりにこれらのことを話していたことをあなた方は知るようになります。
私を遣わした方は私と共におられます。私を一人残されることはありません。私はその方が喜ばれることをいつも行うからです。イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。以上です。
今日はこのところから、罪の中で死なないと題して御言葉を取り継ぎます。御名さんおはようございます。
今日は8月の第2日曜日です。先週は、戦後80年の、しかも原爆が投下された時を覚えて、8月6日は広島で、9日土曜日は長崎で、それぞれ厳粛な式典が行われました。
いろんなことを、世界情勢なんかを考えまして、いろんな思いやメッセージが込められていたと思います。そんな中ですけれども、今日は罪の中で死なないということを見ていきます。
今日、イエス様が会話の冒頭、新しい会話が始まりますが、8章21節でこのように宣言しています。
私は去って行きます。あなた方は私を探しますが、自分の罪の中で死にます。私が行くところに、あなた方は来ることができません。
これは、この段落でなされる会話の主題が宣言されています。そこで、理解するコツは、イエス様がご自分と会話をしておられる、当時はユダヤ人の違いがはっきりしているということを明示している点なんですね。
それゆえに、死んだ後、それぞれの行く場所が違うということを言っています。
その中で、今日は3つの点から見ていきます。最初の点は、イエス様と人との決定的な違いは何か。
2番目は、イエス様が神であるという宣言を、旧約聖書に遡って見ていきます。そして最後は、イエス様が挙げられるという言葉、そこに何が込められているのか。
別の言い方をすると、救いの拠り所があるということを見ていきます。いつものように旧約聖書に行きつ戻りつして話します。
また、今日の箇所もわりと細かく分析します。なぜそういうことをするか。それはですね、草花と同じように深く根差す。
聖書の言葉に深く根差すと、私たちの信仰もしっかりするわけですね。
この間、プランターの花が枯れたんですね。私、ガラにもなく花を植えてみたんです。
暑さで枯れたんですけど、毎日水をやっていたらまた咲き始めたんです。根っこが残っているからピンクや紫の花が咲き始めた。
同じように、私たちもですね、聖書に深く根を張っていくとですね、私たちの信仰も、花開くとまで言いませんけども、
暑さや日照りにも耐える、そんなこともあると思いますので、一緒に学んでいきましょう。
それでは最初の点。イエス様と人との決定的な違いという点を見ていきます。一番目。
23、24節で、また彼らに対して言ったんですね。イエスは彼らに言われた。
あなた方は下から来たものですが、私は上から来たものです。あなた方はこの世のものですが、私はこの世のものではありません。
それであなた方は自分の罪の中で死ぬと、あなた方に言ったのです。
この時、ユダヤ人と会話していたイエス様は、御名さんご存知のように、
実際は人でありましたけども、神が人間となられたお姿だったわけですね。
そのことを信じられない。目の前にいるこのイエス様という人が神であるということを信じられなかったり、受け入れられない。
あるいは、分かっていても、あえてそれを拒んでいた人に対して、イエス様がこの言葉を述べました。
ところでですね、これ誰か分かりますか。江戸時代、徳川将軍といわゆる諸大名ですね。
各藩の諸大名は、藩ではナンバーワンだったんですけど、徳川将軍とは雲泥の差の扱いだったんです。
どういうことがあったかというと、例えば藩主でさえ、一国吉祥の主であっても、徳川将軍、初代はイエスですけども、15代までいました。
徳川将軍とは滅多に会えなかったんですね。会うことが許されなかった、ほとんど。
もし会うとしたら、接見するとしたらですね、おごそかな儀式をやって、初めてこの将軍と会えたんです。
しかも、よく今大河ドラマなんかもやってますけども、田沼起司は話せるのかな。将軍と大名が話しているところがドラマで出ますけど、そんなことは許されなかった。
直接言葉を交わすことさえも許されない。それぐらいですね、将軍と一般の大名とは差があったわけです。
それと同じように、もしかしたらそれ以上に、イエス様とイエス様と会話をしていた当時の人々は、神様と人間という大きな違いがありました。話をしていました。
ですから、このイエス様と話していた人々は、後でも出てきますけれども、自分をイエス様と等しい立場と置いているわけですね。
それは思い違いどころか、思い上がりだったわけですね。
神と自分を等しくする思い上がり、あるいはイエス様を神の立場から人の立場に下ろすという、身の程知らずの思い上がりだったということが、実はこの背景にあるわけです。
そしてイエス様は、その違いを際立たせるために、今日のこの言葉を述べています。
今振り言うと断地、断違いの断地、そういうことを際立たせるためにイエス様は語っているんですね。
あなた方は下から来たものですが、私は上から来たものです。あなた方はこの世のものですが、私はこの世のものではありません。
つまり上からというのは、ヨハネの1章からずっと読んでいるとわかると思いますが、天と言っていいでしょうかね、神のもとから下ってきたということです。
しかし会話をしている人々は、まさにこの地の神と関わりがない世界で生きている人だ。
そしてあなた方はこの世のものですが、私はこの世のものではない、あえてわかりやすく言えば、神の領域のものだということを言っています。
興味深いことに、ギリシャ語を見ていくと、ここの2つのあなた方と私はというのが明確に、綺麗に対比されているんですね。
しかも、ギリシャ語では主語を表す名詞、英語では私を表す代名詞は何ですか。
愛ですね。あなた方を表す代名詞、英語ではyouですよね。単数形も複数形も。
ギリシャ語では単数形の一人称はエゴーなんです。あなた方を表す二人称、複数形はヒュメイスなんです。
これを普通は書かないんですね。いつも言うようにB動詞が複数形になったり、単数形になったり。
B動詞を見ると私を言っているのか、あなた方を言っているのかってわかるので、普通は書かないんです。
でも強調するときだけこれを書くんです。
実はギリシャ語を見るとこの構文には、あなた方は下から来たものですけど、私は上から来たものです。
どっちにもヒュメイスとエゴーという言葉がはっきり書かれている。非常に珍しい表現です。
今日の歌唱にいっぱいこの主格、代名詞、代名詞の主格がいっぱい出てきます。
それほどイエス様と会話をしているあなた方は、神と人間という大きな違いがあるんですよ。
イエス様の言葉、あるいはヨハネの書き方によって強調されているわけなんですね。
そしてイエス様はここで言うように、人間には罪があるゆえに、イエス様と神様のもとに死んでしまった後に行くことができない。
イエス様は自分が死んだ後に蘇って父の身元に帰るということですね。去っていくってさっきも言っているし、この中でも言っていますが、
あなた方はそういうことができない。罪の中で死ぬよと述べているのがこの部分なんですね。
救いの可能性
イエス様が救い主であることを拒絶する人々は、この厳粛な事実、聖書の中にもあるこの事実を受け入れなければいけない。知らなければいけないんですね。
ここにも書いてあります。新約聖書のヘブルの9章の27節ですね。
そして人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。
罪から逃れられない人間にそのまま死を迎えるならば、神の裁きというものに向かうという厳粛なことが見て取れるわけです。
2番目、しかし救いがあるわけですね。
イエス様の神宣言、旧約聖書に遡るイエス様の神性の根拠ということを見ていきましょう。
8章24節でイエス様が言っています。
それであなた方は自分の罪の中で死ぬとあなた方に言ったのです。
ちょっと難しいんですが頑張ってみましょうか。
私はあるであることを信じなければ、あなた方は自分の罪の中で死ぬことになるからです。
実は、読んでいただくとわかるように、イエス様と話している人々は疑問をぶつけたんですね。
25節であなたは誰ですか。そんな大それたことを言うあなたは誰ですか。
実はこの言葉は元のギリシャ語を見ると、敬別が込められたような表現になっているんですね。
だからこんなニュアンスにも訳せるかと思います。
そんなことを言うとは、お前は一体何様のつもりだとイエス様に取り詰めたわけです。
そしてイエス様はここで何様なんだと言われたんですけれども、それにかぶせるようにですね。
あなたたちが、あるいは人が罪から救われるためには、イエス様が私はあるという存在であることを信じなければならないと言ったんですね。
これに対してこのユダヤ人は、お前は自分を私はあると言うけど、何様だと思っているんだと言ったわけです。
実はこの私はあるという言葉、また出てきますが、徳川家康、おそらく愛知の岡崎にある像かな。
家康のことをですね、庶民は当時大五書様って言ったんです。大五書様。
これ引退したと言ったそうですが、亡くなった後は御元様って言ったんですね。
ちょっとここで言っていいか分かるんですけど。
どうしてこんな言い方をするかというと、徳川家康は神格化されました。
あの偉大な幕を開いた大いなる将軍ですから、直接家康という名前を口にすることは庶民にとってはなおさら恐れ多いということで、
引退した後は大五書様、死んだ後は神格化されて御元様という言い方をされたわけです。
何が分かるかというと、当時の人はですね、大五書様といえば家康、御元様といえば家康だということがふっと分かったわけです。
このような損傷、故障があったわけですが、実は御名さんも気がついたように、聖書の神様についてもこのような損傷、直接言わない、あるいは言い方によって、
あんまことの神だと言われる故障や損傷があったわけです。それをイエス様が使ったんですね。
その当時の聖書に親しんだ人々がみんなしか知っている、神に対する故障や損傷、それが、私はあるという言葉なんですね。
その言葉をイエス様が自分にあてて使ったので、あんたたちは私があるというものであると信じなければいけない。
この私はあるというのは、ギリシャ語の聖書ではエゴエイミーという、さっき出てきた私という意味を表すエゴと、エイミーはbe動詞ですね。
I amと表記されています。それは旧約聖書の出エジプト記の3章14節で初めて出てきます。
御名さんよくご存知です。いつも言ってますね。何が起こったか。
モーセがこの燃えるシワの中から神様に声をかけられて、あなたがエジプトから民を救い出すんだという証明を受けているときに、私が民の元に帰って、あなたの名前を紹介するときに何と言ったらいいんでしょうか。
私は現役世代じゃないんですけど、あなたの名前なんていうのっていうね、そういうギャグがありましたけど。
救いの歴史
そのモーセが燃えるシワの中の神様に名を尋ねたときに言った言葉がこれですよね。
私は、私は意括弧の私はあるというものである。あなたはイスラエルの頃にこう言わなければならない。私はあるというお方が私をあなた方のところに使わされた。
これがエゴエイミーです。
そしてもう一つですね。第二の出エジプトと言われたイスラエルの出来事は何でしたか。
それは保守からの帰還でしたね。アシリア保守、特にバビロン保守からの帰還。
で、そのことがまあ預言されているとされる、イザヤ書の43章10節から11節のところでもこう言われているんですね。
これはちょっと引用してませんが前の言葉です。これはあなた方が知って私を信じ、私がそのものであることを悟るためだ。
私より前に作られた神はなく、私より後にもそれはいない。
私、この私が主であり、他に救い主はいない。
このですね、ちょっと河川がここで消えてしまいましたけれども、私がそのものであるという、この私がそのものであるという言葉がギリシャ語の聖書で見るとエゴエイミーになっているんです。
神の使者を呼び出してですね、神様は民にですね、私はあるという、神ご自身が救いを成し遂げるということを告げなさいという、そういう出来事です。
これは先ほども言いましたが、第二の出エジプトで、神の民、あえて言うとイスラエルの神の民の救いの歴史の中で2番目に大きな出来事でしたね。
気づいたと思いますけれども、出エジプトという第一回目の救出劇と、そしてこの保守からの帰還という2回目の救出劇の大事なエポックにですね、神様はご自分の名前を表した。それが私はあるということです。
先日ですね、ある経済ニュースを見ていたらですね、あえて名前は言いませんけれども、著名な経済、そして歴史評論家の方のインタビューがなされていました。
その方はですね、日本の近代史を3つに大きく分けることができると言ったんですね。ちょっと難しい話しますから、発詞休めに聞いてください。
江戸時代がまず第一です。その次の時代が明治維新以降の時代です。そしてその次が戦後ですという言い方をしたんです。
江戸時代、そして江戸時代が終わる明治維新から戦後まで、そして戦後の3つの時代にこれまで区切ることができますと言ったんです。
で、御名さんもご存知のように、江戸時代が終わった明治維新の時が日本人にとって大きなエポックメイキングの時でしたね。大転化の時。
そして今80年を迎えていますけれども、戦後がですね、日本人にとって大転換期にありましたよね。
で、そのように歴史の大転換期に神様はイスラエルの民にご自分を表して、私はあるというものだという名前をですね、こう、なんて言うんでしょうかね、名前を持ってご自分を表して、あなた方を救うよと言った。
で、これはイスラエルの民にとっていつも立ち返る救いの物語であり、民族のアイデンティティになりました。
で、あえて言えば今度は私たちにとってですね、この江戸明治維新戦後がアイデンティティになってますけれども、クリシャンというのはもう一つですね、新しい自分の拠り所をする物語があって、実はそれがこの出エジプト期。
そして保守からの退出、その神の民の救出劇に実は私たちも連なった民なんだというところで、私たちのアイデンティティとなる物語なんですね、この2つ。
そして前置きが長くなりましたけれども、3番目の大救出劇は何かというと、イエス様の来臨です。
神の救い主としてのイエス様
そしてイエス様がその来臨の時に、今日の箇所ではこう言われましたね。
ごめんなさい。
私が、私はあるであることを信じなければ、あなた方は自分の罪の中で死ぬことになるからですと言って、
そして、第3の全人類の救いのエポックの時にですね、エポックメイキングの時期に、イエス様ご自身が実はその神であったということを正体を明らかにしたという、そういう厳粛さがこの宣言にあるわけなんです。
私たちは気軽にイエス様は神であり救い主であって信じますけれども、実はそれほどの思い歴史と深い聖書の根拠に基づいた上での救いを私たちは得ているし、
そういう救い主を信じているという意味では、自信と確信を持っていくことができるし、深いところに寄りどころを置くことができるわけなんですね。
そしてまあそのような、実は長くなりましたがイエス様は私はあるという言葉を使って、目の前にいる当時のユダヤ人に自分が彼らが信じている誠の神だということを宣言して、
それと同時にですね、8章29節ではですね、私を使わせた方は私と共におられます。私はその方が喜ばれることをいつも行うからですと言って、
まあその私はあるという聖書の父なる神様と私が一つであるということをこれまでのヨハネの福音書のように宣言しているわけです。
しかも人間ではない、罪がない神であるからこそ、いつも神様の喜ぶことを私はできるんだと言っているわけですね。
人間は自分の罪の上に自分を救うことができません。ですから罪のない神なるイエス様。
いつも父を喜ばせることができる、御心を行うことができる誠の神なる救い主イエス様が、その罪ある人々、私たちを救うことができる。
そういう話にこのイエス様の言葉が繋がっていくということを覚えておきましょう。
そして最後ですね、それと関係する3番目、イエス様があげられるときにという言葉を見ていきましょう。28節ですね。
最初のちょっと前半だけ読んでみましょうか。
あなた方が人の子をあげたとき、そのとき私が私はあるであること。
また私が自分からは何もせず、父が私に教えられた通りにこれらのことを話していたことをあなた方は知るようになります。
イエスの十字架と信仰
今日はですね、ちょっとボリュームが多くなるので、イエス様と父の親密な関係はあえて触れませんでしたけれども、そのことをやはり今までと同じようにイエス様はここで語っています。
ここで一つ取り上げる大事なことはですね、あがる、あげられるという言葉です。
これはちょっと先ほどのエゴイミと似てますけれども、十字架を示唆する言葉です。
あなた方が人の子、つまり受難のメシアであるイエス様を十字架の上にあげたとき、そのときあなた方はようやくイエス様が私はあるという誠の神であるということを知るんですよと、こういうことをですね、ここで言ってたわけです。
そして実は、イエス様が罪の許しと救いを成し遂げるその根拠は何ですかというと、ここに続きがあって、十字架の上にあげられて罪の贖いをするがゆえに、イエス様を神であると信じる人々が罪の中に死ぬことがない、そういういわゆる福音がこの言葉にも示唆されているということなんですね。
今日のところの結論、素晴らしいのは、これを聞いた多くの人々がイエスを信じたということなんです。
ヨハネはそのような書き方をしてと言っていいと思いますけれども、この時点でもですね、イエス様を誠の神であり救い主である、十字架の上で上がらないよう成し遂げる神であるということを信じませんかと招いていますし、私たちはそのところでその確信をあなたにするわけです。
それでは最後にですね、このイエス様の十字架の上がらないように触れた見事を読んでみましょう。先ほどのヘブルの9章27節の続きを含めて、9の27、28を読んでいきましょう。ちょっと長いんですがね、最後だけ頑張って読んでみましょう。
人間には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも多くの人の罪を負うために一度ご自分を捧げ、二度目には罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
まさにイエス様こそ神ご自身の現れであり、今、天におられますけども、やがて私たちを救うためにもう一度現れてくださる事の神であり、救いの人である。そのようにですね、信じて歩んでいくお互いでありましょう。お祈りします。
天の神様、御名を賛美いたします。
今日は少し暑さが和らぎましたけれども、このように共にあなたを礼拝する機会を与えてくださりありがとうございます。
歴史の大きな転換期を様々な国や民族が体験するように、神の民も大きな救出の出来事を体験してきました。
私たちはその出世述と、また、補修からの脱出、そしてイエス様の救いに預かる神の民に属しています。
今、色々な転換期に私たちは置かれていますけれども、どうかその世の中にあっても、確かな導きを持って私たちを導き、また十字架の上がりによって私たちを救ってくださった。
そのイエス様を神であり、救い主と信じて歩んでいく。お互いであり、教会でありますよう、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは一分ほどその場で黙祷する時間を持ちましょう。