イエス様の神聖を探る
では、ヨハネ3章31節から36節をお読みします。
上から来られる方は、すべての者の上におられる。 地から出る者は、地に属し、地のことを話す。
天から来られる方は、すべての者の上におられる。 この方は見たこと、聞いたことを明かしされるが、誰もその明かしを受け入れない。
その明かしを受け入れた者は、神が真実であると認める因を推したのである。 神が使わした方は、神の言葉を語られる。
神が御霊を、限りなくお与えになるからである。 父は御子を愛しておられ、その手にすべてをお与えになった。
御子を信じる者は、永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
以上です。今日はこのところから、神の実因と題して読み方を取り付けます。
みなさんおはようございます。 西産ニュースでも言われていますが、この冬一番の寒波が日本に襲来しまして、
今日は山形県が大変だということで、先週1週間、九州にも、あるいは愛媛など四国にも雪が降ったり、
有名な関ヶ原ですね。そこでも、
岐阜ですけどもね、雪が多くて、東海道新幹線が除行運転したりと、いろいろな影響がありますけれども、
その中で共に礼拝を守れることを嬉しく思います。
さて、今日はですね、ヨハネの福音書から3つの点でお話しします。イエス様が天からの神ということ、神であるということが、また今日も豊かな表現で明かされている、それを最初に、そして2番目は、
最初はイエス様、2番目は信じる私たちですね。私たちが信じることによって何が起こっているのかということ、そして最後は、
信じるか信じないかということで、人間の尊厳などと関わるですね、ことをちょっと見ていきたいと思います。尊厳というと大げさですけれども、
まあ、永遠のいのちなどですね。はい、それではまず最初ですね、一番最初、イエス様について、イエス様は天からの神だということを見ていきます。
繰り返しますが、3章31節にこのようにあります。 上から来られる方はすべての者の上におられる。
地から出る者は地に属し、地のことを話す。 最後の天からだけ読んでみましょうか。3、はい、天から来られる方はすべての者の上におられる。
最初の部分はですね、少し難しく言うと神学的な内容になります。 なぜそういうことを話すかというと、
私たちの信仰が深く広く目指して確かなものになることを願って、また、 ヨハネの独特の書き方にですね、大変面白いというか興味深いものがあるので、最初はですね、
難しく言うとイエス様の神聖ということを取り上げていきます。 ヨハネはですね、
福音書を書いた目的を20章31節でこう書いているんですね。 もう終わりの部分です、ほぼ。
こう書いています。これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなた方が信じるためであり、
また、信じてイエスの名によっていのちを得るためである。 第一義的な目的はですね、
読んだ人がイエスが神の子キリストである、つまり神が人となられた救い主であるということを証明するためというか、明かしするために書いたということを言っています。
それをですね、言い換えますと、第一の目的は、専門的な用語ではイエス様の神聖、神という字にですね、
性格や性質の性と表す神聖、英語でDivinityという神学的用語なんですけれども、それを明かしすることだということなんですね。
それはどういうことかというと、またイエス様は、この図にもありますが、三位一体の御子なるお方ですけれども、
父なる神と同じ神性を有しておられる。 親なる神とイエス様は等しく神であるが、三位一体の父・御子・御霊として、
互いに父と御子の間には交わりがあるという、非常に難しくて微妙なことをヨハネは明かししているということなんですね。
で、繰り返しになりますが、この三位一体、
父と御子が別でありながら等しく神であるということ、それはですね、私たち人間の頭では理解尽くすことができないものだということを受けなければいけません。
ただ、もうこのヨハネの時代からずっとですね、そのことをめぐってイエス様の神性、そして人性というのですね、人という字に性格の性、
イエス様が完全に神であり、完全に人であられたということがどういうことか、もっと極端に言えば、それに関わる人間的な理屈をつけようとして、いわゆる異端が生まれてきたんですね。
有名なのは、グノーシス主義とかアリウス主義とか言いますけど、そのことに対して、
ヨハネは福音書の中でも一番最後、一世紀に折り返れたと言われていますから、そういう議論が激しくなり始めてこれだったんでしょうかね。
そのイエス様の神性と人性を明かしするために、ヨハネの福音書を書いたということなんですね。
その冒頭が一章一節から貫かれていて、初めに言葉があった、言葉は神であった、
そしてイエス様がこの天から下られた誠の神であり、創造主であられるということ、
そしてその神が人となられたお方がイエス様だということを礼拝でも繰り返し見てきましたし、ヨハネは一章一節からずっと明かししてきたわけです。
何でこんなことを言っているかというと、私たち皆さん何年ぐらい教会に通っておられるでしょうか。
なかなか教会に出入りして信仰を持っていると、当然イエス様が神であり、人であるということを信じていますよね。
ただ、そのように当たり前に信じていることを、聖書の言葉を通してその確証を得るということが必要だ、大事だということなんですね。
なぜなら、このヨハネの福音書に書かれた当時と同じように、今でもいろいろな考え方、
特にイエス様の神聖や人生を認めないということが、世間一般の考え方であって、
私たちが思わぬところでそういう価値観に出くわしたり、あるいはぶつかって信仰が揺れることがあるかもしれないからなんですね。
その反対に、聖書のここにこう書いてあるから、イエス様は完全に神であり、人なんだと言える。
そういう確証を持っていると、クリスチャンでない方には認めてもらえなかったとしても、
少なくとも私たちの信仰は揺らぐことなく、聖書に基づいた確証を得ることができるということなんですね。
この前置きがなくなりましたけれども、この今日の箇所でも、
ヨハネは芸術的な表現を用いて、そしてアカデミックな表現を用いて、
豊かなバリエーションを通して、またイエス様の神聖と人生を明かししているんですね。
私、皆さんにお話しするにあたって、いつも悩むのはですね、
本当にこの短い箇所に込められている、何て言うんでしょうかね、崇高さとか美しさとかが大きすぎて、
表現できないんですね。感動はするけれども、私の力不足で。
そんな中ですけれども、少しでも皆さんわかっていただければと思います。
さあ、そんな中でもう少し具体的に見ていきますけれども、
3章のこの31節ではですね、特に特徴的な言葉は、
上からという言葉、上という言葉と天という言葉なんですね。
この言葉を使って、イエス様が天地万物を作られた永遠の神であるということ、
そして上から永遠の神の存在であられたのにもかかわらず、
下ってこられた、完全に人となったお方だということを表現しているんですね。
一方、この地という言葉、地から出たもの、地という言葉は反対に、
イエス様以外の全人類のことを指している。
もう少し具体的に言うと、直前に出てきたバブティスマのヨハネ、
あるいは歴代の預言者たち、何が言いたいかというと、
彼らはたとえ神のことを語ったとしても、人間に過ぎないんだということを言っているんですね。
そして、イエス様は天から来られたお方ですから、
イエス様の言葉は本質的には違うんだということをヨハネは力説しているわけなんです。
どういうことか。
預言者たちの言葉は、たとえ神について語ったり、天について語っても、間接的なものに過ぎない。
一方、イエス様はそこで、ここでも言われているように、見たこと、聞いたことを証しているんだ。
まさに目撃証言としてイエス様は、天のこととか、神のこととか、救いのことを語っている。
神ご自身として語っている。
そういう意味で、人間、預言者をはじめとする人々の証言と、イエス様の証言は、本質的に違う、別格なんだ。
神ご自身の証言なんだということをヨハネは訴えているわけなんですね。
信じる者の証
見たこと、聞いたことを証している。
3章の11節や32節で、このヨハネは書いているわけです。
ちょっと後になりましたけれども、イエス様はヨハネからバブデス様を受けましたけれども、ヨハネとは本質的には違う。
先週見たヨハネが、あの方は盛んなり、私は衰えなければならないということも、そのことと関係しているわけなんですね。
実は、このことをある学者が、的確にイエス様がどれだけ神であるかということを言い当てているんですね。
少し長いんですけれども、引用してみました。
いくつかの文章を私なりにまとめたんですけれども、
イエスの語る言葉は、人間の言葉ではない。神の言葉である。
イエスの言葉と行動は、神ご自身の言葉と行動である。
なぜならイエスは、神が語り、行うことだけを、しかも完全に語り、行うからである。
それゆえにイエスの証を受け入れることは、神の言葉を受け入れることと同じである。
まさにイエスを信じることは、神を信じることなのである。
人は神のもとに来るように、キリストのもとに来ることができるのであるということなんですね。
これらのことから、私たちはイエス様を信じている。
それはつまり、誠の神を信じているということと同じだということができるわけなんですね。
そして実は、このことが様々な表現や例えによって、
そしてイエス様の口を通して、ヨハネの福音書の中でこれからも豊かに語られていくんですね。
そして私たちはその言葉を知るたびに、私たちの信仰の確信も揺るがないものになっていくわけです。
今日は一番最初が一番ボリュームが大きいですのでね。
まずそのこと、イエス様が誠の神である人であった。
イエス様の言葉は、そしてイエス様のなさることは、神ご自身の言葉であり、神ご自身のアクションであるということを覚えておきましょう。
二番目、信じる私たち、神の真実を証明するということをしているんですね。
では3章33節読める方は読んでみましょうか。
その証を受け得た者は、神が真実であると認める因を推したのである。
ちょっとクイズですね。皆さんこれ何かわかりますか?
この5っていう字みたいなね。
これはですね、徳川家康の顔です。
テレビでよく古文書が出てきてですね。
家康、信長、秀吉という三大有名人が出てきますけど、この手紙だ。
それが真実を証明するうちのものの一つとして、彼らが用いた顔ですね。
それが本物かどうかということが言われるわけです。
顔というのは今で言えば、私たちで言えば実因のようなものなんですね。
実はこの3章33節の言葉の中で鍵となる認める因というのが、この顔とか実因に相当する言葉なんです。
どういうことかというとですね。
当時ですね、イエス様について証しているこのヨハネ文書を書かれた当時ですね。
字が読めない人もたくさんいたんです。
そういう人が受け取った手紙なり、この文書がなぜ本物かということを立証するために、
刻印というものをしたんですね。
それが印鑑なのか、ローみたいなのを使って押されたものか。
その刻印を見て字が読めない人は、これは本当の公式な文書だ。
その人の文書だという真実がわかるという仕組みがあったんですね。
そこからこの3章33節、ヨハネの福音書はこの言葉で何を言おうとしているか。
実はですね、私たちがイエス様の真実を受け入れるということは、
イエス様の証明書に、イエス様の証言書に私たちが本物だという実因をしていることと同じだということなんです。
ある学者がですね、こういうふうに言っているんですね。
イエスの証言を受け入れることによって、信者はイエスが真実であるだけではなく、
神が真実であることを認めたのである。
また、神が真実であるという心からの確信を全ての人々に宣言するのである。
難しいことに感じるかもしれませんが、私たちがイエス様を信じるということによって、
神が真実であるということを認めているんですよ。
信仰の重要性
神の言葉が手紙としてこの地に下ってこられたのであれば、
その本物だというのを私たちが実因をして証明していることになるんですよ。
これはですね、考えてみれば大変恐れ多いことです。
また、迷惑なことじゃないでしょうかね。
私たちがたとえ小さな存在として自分を見成したとしても、
先週、このバブテスマネハレのところから、
クリスチャンとしてどんなに大きなことを知っているかということで、
優劣を比べる必要はないという話をしたんですけれども、
私たちが神の証人として、
こういう言い方は相応しくないかもしれませんが、
どんなに小さな存在だ、極端に言うとつまらない存在だと思えたとしても、
私たちの信仰というのは、神様の目から見たら、
神様の実因と同じほど尊いものなんだということなんですね。
時々話すんですけど、私は大学1年生の4月に、
イエス様を信じますという信仰告白をしてクリスチャンになったんですけれども、
高校時代にですね、クラスメイトであるクリスチャンの男子がいたんですね。
あえてわかりやすいように極端な言い方をすると、
まあいわゆる貧困法制な人じゃなかったんです。
でも仲良かったですよ。悪い人でもなかった。
彼はでもですね、よく言うんですよ。
俺クリスチャンなんだって。
俺クリスチャンなんだって言うんですよ。
私その時、意味もわかんないんですけど、
直感的になんかこう特別な存在とかですね、
なんか不思議な響きを持ってた人だなということで彼を見ていました。
一緒に遊んだりもちろんしてたんですけどね。
ですからちょっとこれ言葉に言えないんですけども、
まあ西洋人がですね、
私クリスチャンって言ってもまあまあって私たちは思うかもしれませんし、
私たちが他の日本人の方が私は仏教徒ですって言ってもまあまあって思うかもしれませんけども、
日本人が日本人に対して私はクリスチャンですって言った時にですね、
意外なインパクトがあると私はそういうことを経験したんですよね。
まあ小さな例ですけども、
私たちがイエス様を信じているということは、
神様の目から見てもそれほど重要なこと。
これは本物のことなんだということを身をもって明かししていることになるんだということなんですね。
神様がいるのか、イエス様が神であり救い主であるのか、
その何よりの証拠は私たち自身である。
それが神様の目から見た私たちの信仰の意味だ、
とても重要であるということを受け入れ知っていきたいと思うわけです。
神の裁きと人間の選択
それでは最後、人間の尊厳と信仰、永遠のいのちへの道ということを見ていきましょう。
3章36章でこうありますね。読める方読んでみましょうか。
三皇から三皇。
三皇を信じる者は永遠のいのちを持っているが、
三皇に従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
ここでは人間私たちの反応として、そのイエス様を信じるか信じないかということが比較して語られています。
いろんなことを言えるんですけれども、今日一つだけ取り上げたいのは、
なぜ愛の神が裁きを行うのか、怒りを下すのかという疑問があるんですけれども、
それについてこういう答え方ができるんですね。
実は神の怒りというのは、神様の清さや正しさという道徳的な問題と関わりがあるということなんですね。
もし神様が悪に対して怒らないのであれば、不正に対して裁かないようなさらないのであれば、
神様がそういう悪をそのまま見過ごすという存在で終わってしまうということなんですね。
別の言い方をすれば、この神様の清さがあらゆる悪に対して断固としてそれは悪だという、
そういう対立することがなくなってしまうという倫理的な問題が生じるんです。
もっと簡単に言うと、神様の清さと聖なる存在、清いということは、
悪に対して裁きを下さざるを得ないということですね。
そして一方、あえてこういう言い方をしますが、人間にとってどんなメリットがあるのかというのは、
道徳的な関わりがある。
一方、神様は人間の尊厳を尊重しているということにもなるんです。
どうして神がいるならば、強制的に人間が信じて救われるようにしないのか、
それは人間の尊厳を尊重しているからなんですね。
つまり、その人が意思を持って選択をして信じるということを尊重しているということなんです。
人間を自由意思と責任のある存在として、神は作られ尊重している。
ロボットではない。そういうことが、この信じるということに関わることなんですね。
そして繰り返しヨハネが言っていますように、人間の問題というのは、
分かっていながら光よりも闇を愛することにあるんだということ。
ただ、他の聖書の箇所にも書いてありますように、
憐れみ深い神は忍耐をして、人間が悔いを改めて、
ご自分の救いの道を信じることを待っておられるんだということも、
愛の神としてあるということも分かるわけなんですね。
イエス様の模範
救いを与えてくださる神様を信頼して、このイエス様を信じ、
永遠のいのちを今もてるように神様はいつも招いておられるということであります。
そして最後に、イエス様というのは、なぜ神でありながら人であられたのかということの一つは、
それは人として神に信頼して生きるということを、私たちに見せたということなんですね。
この地上を相模にあたって、父なる神に信頼して生きるということがどういうことなのかという、
その模範を示されたということが、イエスが人としてこの地を歩まれたことの意味でもあるわけなんですね。
神を信頼して、聖霊を受けて、そして聖霊の力によって生きる模範を私たちに示した、
それがイエス様のお姿である。
そのことを示した二言葉を最後に見ていきたいと思います。
3章の34から35節を最後にお読みしましょう。
神が使わした方は、神の言葉を語られる。神が御霊を限りなくお与えになるからである。
父は御子を愛しておられ、その手に全てをお与えになった。
父なる神は、神であるイエス様に無限に聖霊を与えてくださって、
その全てを与えられたがゆえに、私たちはイエス様を信頼することができます。
と同時に、御霊を与えられてこの地を歩んでいく模範として、イエス様は私たちの前にも現れてくださった。
そんなことを考えながら、イエス様を見上げ歩んでいくお互いになりたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様が誠の神であり、誠の人であり、私たちの救い主であるということ、その豊かさ、その偉大さは、私たちは知り尽くすことができませんし、語り尽くすことができません。
しかし、そのあなたを信じて私たちが生きるときに、私たちがそのあなたの証に確認の因を推すという、尊い存在とされることを感謝いたします。
どうかそのようなものとして、また、あなたの信頼して生きるものとして、私たちがこの地上をこれからも歩んでいくことができるように導いてください。
また、どうかあなたの愛にお応えして、イエス様の救いを信じて、永遠のいのちを得る方々がどうかまた導かれますよう、どうか主がお導きください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
それでは、御言葉に応えて一分ほど黙祷する時間を待ちましょう。