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2025-11-16 29:49

#300 死んでも生きる~死を越えて与えられる永遠のいのち 25/11/16

ヨハネ-27からの礼拝メッセージ。2025年11月16日録音。(聖書朗読は()まで、導入は()までです)「死んでも生きる」とは何とも奇妙な言い回しですが、これはイエス様が宣言された言葉です。ヨハネの福音書の特徴は、イエス様の「わたしは○○である」との宣言でが、今回取り上げるのは、その最後であり頂点とも言える言葉です。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」(-26 抜粋)この言葉から次の3つのことを取り上げます。

1.「わたしはよみがえりです。いのちです」()2.死んでも生きる()、3.永遠に決して死なない()

原稿を読む 死んでも生きる~死を越えて与えられる永遠のいのち:ヨハネの福音書11章17—27節 |Kishio

文字起こしが不正確なので原稿を↑からお読みください。

サマリー

このエピソードでは、イエス・キリストがラザロの死を通じて、人々に死の向こうにある永遠のいのちについて語ります。特に「私を信じる者は死んでも生きる」というメッセージが強調され、信仰の重要性と復活の希望が伝えられています。死を越えて与えられる永遠のいのちや、緩和ケアにおける医療従事者の思い、聖書における復活の希望が取り上げられています。また、イエスの宣言を通じて、信じる者が決して死なないことが示され、永遠のいのちの概念が深く探求されています。イエスを信じることで得られる永遠のいのちについても語られ、肉体の死を越えて神との交わりが続くことが強調され、信者が永遠に生きることができる希望が示されています。

ラザロの死とイエスの到着
ヨハネの福音書十一章十七節から二十七節。
イエスが仰いでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日経っていた。
ベタニアはエルサレムに近く十五スタディオンほど離れたところにあった。
マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと大勢のユダヤ人が来ていた。
マルタはイエスが来られたと聞いて出迎えに行った。
マリアは家で座っていた。
マルタはイエスに言った。
主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう。
しかし、あなたが神におもとになることは何でも、神があなたにお話題になることを私は今でも知っています。
イエスは彼女に言われた。
あなたの兄弟はよみがえります。
マルタはイエスに言った。
終わりの日のよみがえりのときに、私の兄弟がよみがえることは知っています。
イエスは彼女に言われた。
私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。
また、生きていて私を信じる者は御名、永遠に決して死ぬことがありません。
あなたはこのことを信じますか?
彼女はイエスに言った。
はい、主よ。私はあなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。
以上です。
イエスの宣言と信仰
今日はこのところから、死んでも生きると題して、御言葉からお聞きいたします。
皆さん、おはようございます。
今日はですね、ちょっと所要で礼拝に席を外している方が多いようですけれども、
暖かいですね、天気の中。先週本当に寒かったですよね。
今日はやっと、秋晴れで少しポカポカしているような陽気の中、一緒に礼拝できることを嬉しく思います。
さて、先週から純一書を学んでいます。
今日はあまりですね、場面描写については触れません。
そして、今日の出来事の背景については、先週のお話などですね、それぞれ振り返っていただいたり、思い出していただければと思います。
簡単に申し上げますと、マルタとマリアの兄弟ラザロが死んでですね、その死者、使いをですね、イエス様の元に使わせて、
そしてイエス様はそれを受けてですね、いよいよマルタ、マリア、そして亡くなったラザロのところに来たというところが、今日の出来事です。
そして先週も言いましたが、死後4日経っているということで、この時完全にラザロは死んでいた。
ちょっと先週1日、2日と言ったんですけども、正確に言うとですね、当時の冥神というか信仰ではですね、3日経ったらもう死者の魂は戻らないと。
ちょっとおぞましいんですけども、その理由がですね、魂が、死者が腐敗しているその顔を見て、もう戻ることはしないという、そういう言い伝えがあるようです。
そんな中で、今日はですね、とても有名な言葉から見ていきます。
イエス様がですね、ヨハネの福音書の中で、私は世の光であるとか、何々である、エイミーという言葉がですね、ヨハネの福音書の特徴的な物言いです。
それによってイエス様が神様である本質をですね、表していますが、今日はその最後の7つ目の宣言の言葉。
私はよみがえりです。いのちです。失礼しました。
私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。
私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて、私を信じる者は御名、永遠に決して死ぬことがありません。という25、26節のある面。
とても有名な言葉からですね、3つのところを見ていきます。
この言葉を一つ一つ見ていくのですが、最初は、私はよみがえりですという言葉。いのちですという宣言が第一番目。
二番目はですね、死んでも生きるという言葉。そして最後はですね、生きていて信じる者は御名、永遠に決して死なないということを見ていきます。
それでは一番最初ですね、失礼しました。
まず第一のポイント、私はよみがえりでありいのちですということを見ていきます。
繰り返しますが、ちょっとせっかくだから読んでみましょう。
イエスは言われた。私はよみがえりです。いのちです。11章25節ですね。
ご存知の通り、長島重穂さん。
先週、野球の沢村賞に続いて、そして勝利期賞に続いて、長島重穂賞というのがですね、来年から日本のプロ野球に導入されると。
謙虚な働きをした野手に与えられる。
そして長島さんといえば、繰り返しますが、ミスタージャイアンツだけではなくて、ミスタープロ野球といわれている。
なぜかというとですね、昭和40年、少し前から活躍して、彼の成績もそうですし、スター性、そして社会的影響力、この3拍子揃った日本野球をですね、国民的なスポーツや娯楽にした立役者だということで、長島さんをミスタープロ野球と呼んでいます。
原稿にないんですけどね、もう一つ長島さんとプロ野球人気が高まった理由はですね、ちょうどテレビ、カラーテレビが普及した頃にですね、この長島さんが出てきたということも大きかったようですね。
とにかくこのミスタープロ野球という呼び名には、長島さんそのものの存在がプロ野球であるという、そういう象徴的なことが意図されているわけですね。
そして実はこのイエス様が言う、私は蘇りです、いのちですという言葉ですね。この言葉もですね、イエス様そのものがまさに蘇りでありいのちであるという、そういう宣言そのものが大事だということなんですね。
どういうことかというとですね、このミスタープロ野球と似た意味と言うんですけども、実は本来ならですね、イエス様はこう言ったはずなんです。私は信じる人を蘇らせることができます。そして信じる人に永遠のいのちを与えることができますと言っても差し支えがないわけですよね。
でもあえてそのものだ、私は蘇りそのものでありいのちそのものだという宣言に意味があるわけなんですね。
なぜかその意味はですね、他でもない、イエス様ご自身がまず死から蘇られた。そしてイエス様ご自身が一生から見ているようにいのちそのものであるからこのような断言して、ミスタープロ野球ではないけど、私は蘇りでありいのちだと力強く宣言しているということに意味があるわけなんですね。
つまり繰り返しますがそれはこういうことで、ヨハニノ福音書の頭から言われているようにですね、イエス様ご自身が初めに言葉があった。言葉は神と共におられた。言葉は神であった。この方によらずにできたものは何もなかったと言われているように、まさにイエス様ご自身が天地創造の時に共におられた創造主なる神だということ。
そしてこの方にいのちがあった。このいのちは人の光であったと言われているように、まさに天地万物を創られたいのちそのものであるお方がイエス様だ。そういうまあ難しく言うとイエス様の神性という言葉があって、この私はいのちだということが関わっているわけなんですね。
そしていのちの光であるからこそ、自分がよみがえるだけではなく、信じる者に永遠のいのちを与える、よみがえらせることができる、そういうことがここに意図されているわけなんですね。
そのことを別の言い方をすると、イエス様が復活してくださったからこそ、私たち信じる者をその復活に預かるという言い方をしますよね。
そして実はそのことをですね、イエス様の復活の初歩、この間お米の取れ高ということで話題になりましたけれども、お米が取れるその初歩、イエス様こそ復活の初歩だということ、そのことをですね、新約聖書でパウルがこう言い換えているんですね。
「キリストがよみがえらなかったとしたら、あなた方の信仰もむなしいものとなります。もし私たちがこの地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱えているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れなものです。」
しかし、今やキリストは眠った者の初王として死者の中からよみがえられました。第一コリント15章の14から20の発生です。
この最後の言葉、その前の心を打つ言葉としてですね、イエス様がよみがえられなかったとしたら、信仰もむなしいし、信じている私たちはこの世で一番哀れなものだという逆説的な言い方をしているわけです。
けれども、イエス様はまさに眠った者、亡くなった者の初王として死者の中からよみがえられた、まさにイエス様こそよみがえりだと宣言するにふさわしいお方だということがわかるわけです。
信じる者の希望
一番最初、イエス様のこの力強い宣言から学んでみました。
二番目、死んでも生きるということを見ていきましょう。11章25節ですね。
イエスは言われた。ここら辺で見ましょうか。
私はよみがえりです。いのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。
ちょっとご存知かもしれませんが、私が今から30年近く前ですか、新学校に行って、牧師になるために勉強していました。
そしてそこの牧師教会では、時々礼拝の説教当番があたるんですね。
そこは規模が大きい教会で、教会学校があって、教会学校の礼拝の当番にあたって、この箇所だったんです。
そしてその時もですね、死んでも生きるという、当時は説教台ということで掲げていたんですね。
礼に漏れずその教会でもですね、この外の看板に、そこは筆でしたけども、説教台、死んでも生きるって書いてあったんです。
それがですね、すごい小学校に続く道にですね、この看板があってですね、その前を通った小学校の男の子2、3人がですね、
それを見て、もう本当におかしなことを書いてあると言わんがばかりにですね、大きな声で、
えー死んでも生きるだって、変なの、ははーとか言ってですね、通り過ぎていったんですね。
まあ私たちクリスチャンからしたら当然かもしれませんけど、確かに死んでも生きるっていうのはね、なんか不思議な響きですよね。
まあそういう、じゃあ死んでも生きるとはどういうことかということを2番目に取り上げたいと思います。
これはですね、皆さんお察しの通り、信じる者が、信じる私たちが、たとえ肉体的ないのちを負えても、
よみがえることができるという意味ですね。
実はこの死んでも生きるという言葉はですね、イエス様の2つの宣言のうちの最初の部分、
私はよみがえりですという言葉に交互しているんです。
イエス様がよみがえりであるからこそ、信じる者も死んでも生きるのですという、そういうことがここにあるわけなんですね。
医療従事者の思い
で、皆さんご存知のように私たちの教会、先週もありましたが、ガン哲学外来カフェをしていますね。
創設者の日野教先生主要姦淫がね、よく言うんですけど、すごくやっぱり嫌なことがあるんですって。
それだけ巧妙な先生でも嫌なこと言われたり。
そうするとどうなるかというとですね、先生は病理学者だからいっぱい死体の解剖とかされてるんですね。
そうすると嫌なこと言われると、どうせ死ぬんだよって。
だから諦める。だからみんな死んじゃうんだから、嫌なこと言われてもそれまでだって諦めるそうなんですね。
そういう中で私たちの教会も、緩和ケアネットワーク、ガン哲学外来カフェも緩和ケアネットワークに入れてもらうとですね、
本当にですね、医療従事者、看護師、医師、あるいは介護福祉従事者のですね、話を聞きます。
緩和ケアというと、許容としてお話しますが、広く言うとですね、別に死にゆく人たちのためじゃなくて、
一般的に例えば抗がん剤で苦しい、その時だけ痛みや苦しみを緩和するという意味があって、
緩和ケアイコール死に向かうターミナルケアではないんですけれども、
私たち関わっているこの在宅緩和ケアネットワークは家で見とるということですので、
ここでの意味はまさに死を考えた上でのネットワークなんですね。
そこでいろんな症例をですね、検討して、検査をする機会があるんですが、
まさにですね、医療者の方々や介護従事者、薬剤師の方なんかもですね、現場の状況を報告してくださいます。
そしてこういうことを学んで、こういうことを生かしたいということを本人も話しますし、
グループの中でこう話し合うわけなんですね。
本当にですね、それらの医療・介護従事者の方々のですね、真摯な思いが伝わってきます。
本当に人のためにですね、向き合う姿に頭が下がる思いなんですね。
よく言われてますけども、今はなかなか自宅で見とることが少なくて、
特に若いお子さんとか方がですね、いわゆる死を現実に間近に見る機会がないということがよく言われています。
私たちもそうだと思うんですね。
まあそんな中で、これらの私にとってはですね、
そういうところの医療現場で格闘しておられる方々のお話を聞いたりですね、
自分もそこに身を置くことによって、改めて死の現実ということも知るわけですし、
また緩和・ケアというのはですね、死をありのまま受け入れることができるようにできるだけ苦しみをですね、
和らげて安らかに旅立ってほしいという意味もあるんですけれども、
やはり死というのはできれば避けたい現実であるということには香りがない、
そういうことも伝わってくるわけなんですね。
復活の希望
実はそのようなできれば無理だとわかっていても、避けたい現実としての死をですね、聖書は最後の敵と表現していますね。
その滅ぼされるべき最後の敵と死を称しながらも、復活の希望をですね、
パウロはこういう言葉で復活の希望をですね、語っているんですね。
第一コリント15章の22-26ですけれども、
アダブにあって全ての人が死んでいるように、ピーストにあって全ての人が生かされるのです。
まさに発想であるわけです。
そして、じゃあここから読んでみましょうか。
最後の敵として滅ぼされるのは死です。
死は最後の敵と言われるほど避けがたいもの。
しかし、よみがえであるイエス様によってこの最後の敵である死さえも滅ぼされている。
そこの勝利にですね、私たちは預かれるということですね。
そして、繰り返しますが、よみがえそのものであるイエス様は、
この人類の最後の敵の死をも滅ぼすことができると、パウロは強く宣言しているんです。
繰り返します。なぜなら、イエス様ご自身がよみがえそのものであられ、
それゆえにですね、よみがえそのものであられるイエス様、神なるイエス様であればゆえに、死を滅ぼすことができるわけです。
そして、そのイエス様を信じるものは、たとえ肉体的な死をむかえたとしても、
永遠のいのちへとよみがえらせてくださる。
よく言いますが、どういう形態かわからないんです。
でも、言われていること信じられることは、何らかしらの肉体をもって、
私たちはどこかでよみがえることができる。
それが希望なんですね。
ここのところから、たとえ私たちは肉体的な死をむかえたのえない時が来ても、
やがてよみがえのイエス様、発音のイエス様によって、
肉体のよみがえにも預かることができる。
その希望について、あらためて知ることができればと思います。
3番目、永遠に決して死なないということを見ていきましょう。
11章の25から26節のパッセリですね。
私はよみがえです。いのちです。
ここから読んでみましょうか。
生きていて私を信じる者は御名、永遠に決して死ぬことがありません。
生きていて私を信じる者は御名、永遠に決して死ぬことがありません。
永遠のいのち
ここは元の原写語で見ると、う・め・えということが、
非常に強い否定形で、
決して、絶対に死なないと言っています。
これも不思議なことで、
生きていて信じる人は絶対に死なない。
永遠に死なない。
さっきは、肉体が死んでもよみがえると言っています。
死んでも生きると言っているのに、
生きていて信じる者は絶対に死なない。
冷静に言うと変なんですけれども、不思議な言い回しなんですね。
実はこれは先ほど見た言葉、イエス様の宣言の後ろの部分。
私はよみがえです。いのちですのいのちに、こうしてですね。
生きていて私を信じる者は御名、永遠に決して死ぬことがありませんという。
イエス様がいのちであるがゆえに信じる者は、
永遠に死なない、永遠のいのちを持つという、
そういう関係にあるわけなんですね。
イエス様について、ヨハネの福音書は、これまでずっと証ししてきました。
イエス様は神に使わされた神なら救い主であること。
実は今日の箇所で詳しく見ませんでしたけれども、
マルタの信仰にそれが現れています。
マルタは一見今日の箇所を見た感じでは、
イエス様を疑っているように思いますけれども、
彼はですね、イエス様は悲しみを癒すお方であり、
死者を生かすお方だということは信じていたんですね。
このイエス様の宣言の後に、
あなたはそのことを信じますかって言われた時に、
ここにはないですけど27節でこう言ってるんですよね。
彼女はイエスに言った。
はい主よ、私はあなたが、
世に懲られる神の子、キリストであると信じております。
これはまさに立派な深刻画で、
目の前にいるイエス様が、
世に懲られる神の子、キリスト救い主だ、
メシアだと信じていると言っているんですね。
このようにですね、ヨハネの福音書は、
いろいろな表現を通して、
手を替え品を替え、イエス様の神性を証ししてきました。
なぜかそれは、イエス様の神であるという部分が多面的である。
広くて深くて豊かであるがゆえに、
一つの言葉や一つの例えや一つの表現では、
表現し尽くせないから、いろいろな言い方をして、
イエス様の神性を証ししているんですね。
実は永遠のいのちについても同じです。
一つのことだけでは言い切れない。
だから先ほど見たように、よみがえりという言葉が使われている。
そしてここでは、永遠のいのちについては、
生きていても信じる者は決して死なないという表現が使われているんです。
では、その意図は何か。
それと同時にですね、
永遠のいのちの側面の一つにはですね、
しばらく前の10章の後ろの方で見たこともあるんです。
それは、父なる神様とイエス様が相互に親密な関係にある。
お互いがお互いの内にあるという言い方をしているんですけれども、
同じようにイエス様を信じる人はイエス様の内に生き、
そしてイエス様もその信じる人や信じる人の中に生きるという。
この道と御子の交わりの中にあるように、
イエス様を信じる者も御子イエス様と、
そして引いては父なる神様との交わりの中に生きることができる。
実はそれがですね、永遠のいのちの一つの部分なんです。
神と交わる、神と共に生きるということですね。
まあ、そのことをさて頭に置きながら一つの例えを話します。
皆さんね、夏休み、長野県はわかりませんけど、
埼玉県はですね、夏休みになると小学校の低学年の子供たちがですね、
朝顔の鉢植えを持って家に帰るんです。
夏休み中育てるため。
一学期の間に朝顔の種を植えてですね、そして芽生えて花が咲くわけです。
それを夏休みの間に家に持って帰って宿題をして観察しながらですね、
さらに花が多くなって種を摂る。
そういうことが課題というか宿題になっているんですね。
皆さんね、朝顔の種を蒔くと双葉が出て、本葉が出てという観察しましたけど、
やがて茎が伸びて蔓が出て花を咲かして、そして実を結びますけれども、
もうご存知のようにこの種の中にそこまで至る、
次の種を生むまで、花を咲かすまでのすべてが詰まっているわけですよね。
種の中に。
種の中に言い換えればすべてのいのちが入っている。
同じようにイエスサムを信じる私たちは、
イエスサムを信じたその時から延々のいのちの種を持っているんです。
だから100%ではないですけども、
イエスサムを信じた瞬間に私たちの中には朝顔の種のように延々のいのちが授けられる。
それがイエスサムの約束です。
だから私たちはこの地上で生きている間に、
延々のいのちの交わりの中に生きることができるわけです。
その証拠に聖書を読めば心に響いてきますね。
永遠のいのちの体験
祈れば神とつながっていると実感する方もいるかもしれませんが、
祈れば神に聴かれていると思えるわけですし、
礼拝に出れば、礼拝の中で神を賛美できますし、
聖餐式の中にイエスサムがお供にいて、
そのように礼拝を通して、聖餐式を通して、
私たちは神と交わることができている。
実はそれはもうすでに始まっている、
永遠のいのちをこの地上で体験していることになるんですね。
しかし皆さんがご存知のように、
私たちこの肉体にある間は肉の性質と言いますかね、
罪の性質が宿っているがゆえに、
完全に永遠のいのちを享受できない。
何の障害もなく神との交わりに生きることができないわけですから、
疑ったり悩んだりするわけですよね。
しかし、私たちはまさに終わりの時に、
完全に何の罪の障害や妨げもなく、
神との完全な交わりの中に生きる、
永遠のいのちに生きることができるわけですよね。
この全ての終わりの時に、完成の時に、
永遠のいのちをフルに体験できるという時を待たねばなりません。
しかしこの世に生きている間に私たちは、
永遠のいのちを持っており、
よく言う用語にその前味に預かれることができるわけなんですね。
そういう意味で、神との交わりに今も生き、
たとえ死んでもその神との交わりが終わらないという意味で、
私たち生きているものは、イエス様を信じて生きているものは、
死んでも生きるし、生きた後も、
たとえ死んでもこの永遠に決して死ぬことがないということができるわけです。
この地上の永遠のいのちがいつまでも続くが故に、
信じる私たちは、永遠に神との交わりの中では決して死ぬことがない、
というのがこの言葉の意味なんですね。
そういう神様との交わりに生きるという意味で、
私たちは決して死ぬことがないと言われているのですけれども、
イオハネの福音書の中で、
この永遠のいのちを今から受けることができるということを、
イエス様は約束してくださいました。
その言葉を最後に振り返って終わりにしたいと思います。
まず6章の51節ですね。
ちょっと長いですけど読んでみましょうか。
私は天から下ってきた生けるパンです。
誰でもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
8章51節を読んでみましょう。
まことにまことにあなた方に言います。
誰でも私の言葉を守るなら、
この人はいつまでも決して死を見ることがありません。
このように、今私たちは永遠のいのちの幸いに預かっていますけれども、
それを享受しながら、やがて迎える死がありながらも、
その死を越えていく、
よみがえるということを味わっていくお互いであり、
教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
復活の約束
天の神様、御名を賛美いたします。
あなたがイエス様を使わせてくださり、
私たちの罪のあがないを成し遂げてくださいました。
それだけではなく、イエス様が復活の発祥としてよみがえられ、
いのちそのものであるお方としてよみがえり、
また天の御座に射しておられることを覚えて感謝し賛美いたします。
そのイエス様を信じる私たちは、
イエス様とともに、やがて肉体の復活に預かり、
また今与えられている永遠のいのちに、
これからも生き続けることができるその幸いをありがとうございます。
この広くて深い幸いを、
どうぞ私たちがこの地にいるときに、
さらによく知り、味わうことができますように、
どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一分ほど御言葉に応えて、
私たちのいのちによる目的をするときを持ちましょう。
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