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2025-05-18 30:16

#264 いのちのパン〜心の飢え渇きを癒す救い主 25/5/18

ヨハネ-35からの礼拝説教。2025年5月18日録音。(聖書朗読は()まで、メッセージ本題は()からです)イエス様の有名な言葉の一つ、「わたしがいのちのパンです。」に関わるやり取りから次の3つの点について考えます。

1.信じるという「神のわざ()」、2.「しるし」本来の意図()、3.「いのちのパン」()

原稿を読む

https://note.com/nsbc/n/n3af84fac4d1f

サマリー

イエスは「いのちのパン」として自らの存在を示し、永遠の命に至る食べ物のために働くよう群衆に教えています。このエピソードでは、信じることが神の業であると強調され、群衆とイエスの認識のズレが浮き彫りにされています。また、イエスがいのちのパンであることや、彼の神からの使命が人間の心の飢え渇きをどのように満たすのかについて探求しています。5000人の給食の奇跡を通じて、イエスがもたらす真の供給についても説明されています。さらに、イエスがいのちのパンであることと、神によって満たされることの重要性について語られています。霊的な渇きを癒すというテーマを通じて、信じる者が体験できる平安と永遠のいのちについて考察しています。

群衆の探求
ヨハネの福音書6章22節
その翌日、湖の向こう岸に留まっていた群衆は、前にはそこに小舟が一艘しかなく、その舟にイエスは弟子たちと一緒には乗らずに、弟子たちが自分たちだけで立ち去ったことに気づいた。
すると主が感謝を捧げて、人々がパンを食べた場所の近くに、ヒベリヤから小舟が数隻やって来た。
群衆はイエスも弟子たちもそこにいないことを知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り込んで、イエスを探しにカペナウムに向かった。
そして湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。
「先生、いつここにおいでになったのですか?」
イエスは彼らに答えられた。
「誠に誠にあなた方に言います。あなた方が私を探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。
亡くなってしまう食べ物のためではなく、いつまでも亡くならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。
それは人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証しるしを押されたのです。」
すると彼らはイエスに言った。
「神の業を行うためには、何をすべきでしょうか?」
イエスは答えられた。
「神が使わしたものを、あなた方が信じること、それが神の業です。」
それで彼らはイエスに言った。
「それで私たちが見て、あなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか?何をしてくださいますか?」
私たちの先祖はアラノでマナを食べました。
神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられたと書いてあるとおりです。
それでイエスは彼らに言われた。
「誠に誠に、あなた方に言います。
モーセがあなた方に天からのパンを与えたのではありません。
私の父があなた方に天からの誠のパンを与えてくださるのです。
神のパンは天から下ってきて、世にいのちを与えるものなのです。」
そこで彼らはイエスに言った。
「主よ、そのパンをいつも私たちにお与えください。」
イエスは言われた。
「私がいのちのパンです。
私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者はどんな時にも決して渇くことがありません。」
以上です。
今日はこのところから、いのちのパンと題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
昨日までの1週間ですね。
ウクライナとロシアが首脳会談をするんじゃないか。
そしてそこにアメリカも含めた大統領が集まって平和が訪れるんではないか。
そんな期待もあったんですけども、
全く違った大統領たちは集まらないという形になりましたね。
そんなこともありましたし、
新座市で皆さん近辺いらっしゃると思いますけど、
暑い暑い1週間でしたね。
皆さんどうでしたか?大丈夫でした?
ちょっと私はくたびれた1週間だったんですけども、
なんとか今日は守られて共に礼拝できることを感謝しています。
さて、今日は先週の続きです。
イエス様がガリラやコハンで5000人に給食の奇跡をなさったというのが先々週見た箇所です。
そして先週、それが終わって人々がイエス様を王に祀りあげようとしたので、
イエス様はおそらく一人で祈っておられて、
弟子たちは弟子たちだけで船で反対側に渡っていった。
そんな記事がありました。
そして今日のところはその続きで、
一夜明けてですね、群衆がまたイエス様にパンを食べさせてもらいたいと探したんですね。
簡単にまとめますと、今日の前半のところでは、
この船が一艘しかなくて、イエス様はそこに乗っていない。
つまり弟子たちだけが反対側に行ったのではないかと思ったんですね。
でも別のところから船がやってきて、
何かしらのことでイエス様が反対側にいるということを聞きつけて、
テペリアから来た小舟、船に群衆、全員は無理だと思うんですけども、
イエス様を探した人々が乗ってですね、反対側のカペナウムというイエス様の故郷、
育った村にイエス様を追いかけてやってきた。
そこでのやりとりが今日のところです。
今日のところから、ヨハネの福音書でとても有名ないのちのパンという、
神の業と信仰
そのイエス様ご自身がありを表した、
そういうところが長く続きます。
どこで区切るかっていろんな学説があるんですけども、
今日は35説まとめて区切ってみていきたいと思います。
3つの鍵の言葉があってそれを見ていくんですが、
最初は神の業、2番目はしるしという言葉、
最後はイエス様がおっしゃるところのいのちのパンという意味について考えていきたいと思います。
最初はですね、信じるという神の業について見ていきましょう。
29説でイエス様はこのように言われましたね。
読めるか読んでみましょうか。
イエスは答えられた。神が使わしたものをあなた方が信じること、それが神の業です。
この群衆はイエス様を探し合って、
そしてその前に自分たちが飢えることがないように、
いつもそのパンをくださいというような願いをイエス様に訴えたんですね。
彼らは単純に腹を満たしてほしい。
満腹したってこの間のところにも書いてありましたけどね。
私、かつて東京に住んでたときにですね、
近所に満腹食堂っていうのがありましてね。
オリンピック選手なんかが来るようなとこだったんですね。
行くとサービスしてくれてですね。
私当時、長男が4、5歳、小学生だったかな。
行ったら長男のために出してくれたんですね、おまけ。
チキンライス。
長男ね、チキンライス戻したことがあって食べられないです。
だから満腹のそれを食べながら私もですね、
出されたチキンライスをいっぱい食べたって思えてますけども。
満腹してイエス様にしてもらいたいと言って、
群衆がイエス様に迫ってきている。
ずっと養ってくださいという思いで、
群衆がイエス様に迫っているんですけども、
お気づきのように、この群衆とイエス様の感覚というか、
ズレがですね、今日のところで浮き彫りになっている。
その中でイエス様は、
彼らの目を覚ますために、こう言ったわけですよね。
亡くなってしまう食べ物のためではなく、
いつまでも亡くならない、
永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。
それは人の子が与える食べ物です。
この人の子に神である父が承認をされたのです。
人の子というのは、イエス様が受難のメシアだということを
表すときに使う言葉ですね。
ちょっとだけ前後しますと、
先々週ですか、
イエス様を王というメシアに祭りあげるという危険があったわけですけど、
イエス様は人の子という言葉を使って、
私は受難のメシアだということをここで示唆しているわけです。
ちょっとそれは余談になりますけれども、
このようにイエス様はこういうことを言ったんですね。
まことの神様との関係に生きることによって満たされる。
そのような植え乾きについてイエス様は話しておられたんですね。
先ほど申し上げましたが、
群衆はそうじゃなくて、
毎日腹を食べ物で満たしてほしい。
それをイエス様に願い出たということなんです。
誤解してはいけないのは、
日々の過程をおろさかにしてはいけないということですね。
そういう話じゃないんですよね。
生活の過程を得るために働いてももちろんいいですし、
今は男性も女性も変わりなくお三頓ですが、
そういうのをします。
そういうものは大事です。
そういうことじゃなくて、
イエス様がこのことを通して教えたかったことと、
群衆の願いがずれているということなんですね。
聖書の別の箇所を見ると、
イエス様はですね、
そういう腹を満たすような必要は、
神様が全部与えてくださる。
だから、神様との正しい関係を求めていきなさいと、
有名なみことばで言ってますね。
マタイの6章の33節ですね。
知っている方も多いと思いますが、読んでみましょうか。
だから、神の国とその義徒をまず大事に求めなさい。
そうすれば、それに加えて、
これらのものは全て与えられます。
まあ、今日の言葉と関連しているんでしょうか。
こういうイエス様は、
本質を問うようなことも言っておられるわけです。
で、実は今日のところでイエス様は、
この神様の国とその義をまず大事に求めて生きるということを、
いのちのパンの教え
神の業を行うということで言い換えているとも言えなくもないんですね。
で、そしてイエス様は言い換えて、
こう言っているわけですね。
イエスは答えられた。
神が使わせたものを、あなた方が信じること、それが神の業です。
ちょっとですね、言語とかにないんですけども、
イエス様はですね、この
永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさいと言うんです。
で、この働くという言葉は、
あの技という、
エルゴンということと似てるんですね。
その働きなさいということに対して、
群衆はですね、
じゃあどういう働きをすれば、
永遠のいのちを、
永遠のいのちというか、永遠に腹が空かないように、
神様に養ってもらえるんですか。
私たちはどんな技を、
どんな働きをしたらいいんですかってことを、
イエス様に問った時に、
イエス様が神が使わせたものを、
あなた方が信じることが、それが神の技、
神の御心にかなった行いですよっていう、
そういうことで答えられたわけなんですね。
ちょっと今日の話はね、
盛りだくさんでいっぱいになっちゃうので、
端折りながら話さざるを得ないんですけども、
とにかく、
後で言いますが、
イエス様を信じることが神の技であり、
神の国と御心を求める生き方
神の国とその儀を第一に求める生き方と、
関わりがあるんだと教えているわけですね。
このように神の国とその儀を第一に求めて、
神の御心を求めて生きるということ。
それは、父なる神様が使わせてくださった、
イエス様を信じて、
イエス様を救い主として信じて、
信頼して生きるということなんですね。
繰り返しますが、
ここに来た人は、
イエス様から何かもらえると思って、
毎日腹を満たしてもらえると思って、
やってきたわけですね。
パンを毎日もらえるんじゃないか。
でも、また先ほども言いましたが、
イエス様がローマから解放してくれる、
王様、そういうメシアとして、
君臨してほしいという願いもあったのではないか。
そういう、あえて言えば、
イエス様のありようと違った期待を、
救い主イエス様に抱いて、
イエス様のもとにやってきたんですね。
しるしの意味と目的
じゃあ、そのイエス様が救い主としてやってきた、
神に使わされた本来の意図は何なのか、
そういうことを次に、
2番目に、しるしという言葉をきっかけに、
考えていきたいと思います。
イエス様がメシアでやってきた、
そのことの本来の意図を、
しるしという言葉から考えていきます。
2番目は、しるし本来の意図。
26節でイエス様はこう言ってますね。
イエスは彼らに答えられた、
まことに、まことに、あなた方に言います。
あなた方が私を探しているのは、
しるしを見たからではなく、
それを食べて満腹したからです。
ここで、しるしというのは、
神科薬聖書を持っている方ですと、
6章の2節の脚注にですね、
証拠としての奇跡って書いてあるんですね。
ギリシャ語で生いのち音って言うんです。
これは単なる奇跡と何が違うのか。
昨日ね、テレビ見てたら、
ミスターマリックが出てきてたんですけども、
ご存知ですか、ミスターマリック。
あの人はマジッシャンですね。
マジッシャンをする手品っていうのは、
エンターテインメントですね。
人々を面白がらせる。
そういうことが目的ですけども、
イエス様の奇跡っていうのは、
エンターテインメントでもないし、
単純に人の腹を満たすことでもないんですね。
その目的が。
そのしるしの意味は、
イエス様が神様から使わされた救い主であることを
証しすることがこのしるしの目的なんですね。
イエス様が神から使わされた救い主であることを
証しすることがこのしるしの目的なんです。
もう少し言うと、
そのなさった奇跡からですね、
イエス様がどのような救い主であるのかを
伝送できたり、人々にその真理を
差し示したりできるもの。
それが証拠としての奇跡なんですね。
復讐になりますけど、
2章のところでカナの婚礼の奇跡がありましたね。
諸説ありますけど、それは6つの水亀しかなかった。
6というのは完全数に1個足りない不完全なもの。
水亀というのはユダヤ人の清めの習慣であった。
それを武道手に変えた。
喜びの武道手に変えたというのは、
ユダヤ教の清めの儀式によっては人は清められないんだよ。
イエス様に言わなければ人は清められないし、
神との関係を回復して本当の喜びを得ることができないんだよ
ということを示していたとも言われています。
じゃあ今日のところのしるし。
何をイエス様はこの
いのちのパンの教え
5000人の給食のしるしによって
指し示そうとしたのか。
実はこのしるしね、私たち身近に体験しているの知ってます?
しるしに似たこと。
教会でやってるでしょ、毎月。
毎月教会でやってること。
生産式。
あれは要はパンと、
今宇宙教会とは違いますけど、
武道手が実はイエス様の贖いの技の真理を明らかにしたわけですよね。
パンはイエス様が
十字架で裂かれた体を表している。
そして武道手はイエス様の流された血なんですが、
それは罪を清める贖いの血を表しているのが生産式です。
どうですか、生産式の時にパンと杯で
お腹いっぱいになりたいって言って苦しくないでしょ。
もっとくださいって言いました。
そうしたら生産式の意味がないんですよね。
だからここでもこの5000人の給食に預かった人たちが
毎日私たちを満腹にしてくださいとイエス様のもとに来たとしたら
それはずれた要求だということがわかるわけですね。
じゃあもう少し次の3番目のポイントで
5000人の給食、このパンの奇跡が
イエス様の救いの品だということを
どういうことだと指し示しているのかということを
最後に見ていきたいと思います。
それがいのちのパンですね。
6章の32,33です。
それでイエスは彼らに言われた。
誠に誠にあなた方に言います。
私の父があなた方に天からのパンを与えたのではありません。
私の父があなた方に天からの真ことのパンを与えてくださるのです。
神のパンは天から下ってきて世にいのちを与えるものなのです。
ここで同じことを言い換えてますね。
天からのパン、それから天からの真ことのパン
神のパン。
このパンについて2つ3つの言い方で
イエス様は大切なことを教えている。
それはイエス様がこのようなことを教えたんですね。
モーセが与えたパンはその時は十分なものであった。
40年間民を荒野で養った。
しかし今それよりも勝るいのちのパンが
神によって与えられている。
それは天から下ってきたいのちのパンであるという言い方なんです。
ここで細かいことを言いますと
モーセが与えたパン
これは過去形なんです。
神が与えたというんですけど
とにかく与えたという過去形です。
ここで言う
天から下ってきて世にいのちを与えるものなのです。
天から誠のパンを与えてくださるのです。
ここは現在形です。
何かというと今
天から誠のパンがあなたのところに神様から与えられているんですよ。
今与えられているんですよ。
それは後でも出てきますが、すなわち私がそれです。
そういう意味があるんですね。
お気づきのように今答えてしまいましたけど
いのちのパンとはイエス様のことです。
今NHKの連続テレビ小説を見る方も見ない方もいると思いますけど
アンパンマンが話題になっていますね。
アンパンマンは出ないんですけども
アンパンマンは自分を人に食べさせてますけども
イエス様は自分がいのちのパンだ。
後でも出てきますが私を食べる。
食べるものは生きると言っているわけですね。
イエス様はこの自分がパンであって
またイエス様がパンを与えて
それが日々の糧となっていると。
モーセのマナが毎日人々を養った日々の糧になったように
イエス様はいのちのパンとして心の糧になると言っているんですね。
神様しか満たすことができない人の
飢え渇きを満たし渇きを癒すことができる
そのいのちのパンが私だとイエス様は言っているんですね。
もう一つ素晴らしいこと
この5000人の給食のパンの奇跡が示していることは
とにかくイエス様がいのちのパンであって
神様しか満たすことができない人の
飢え渇きを満たすことができるということが一つと
もう一つはこの言葉なんですね。
世にいのちを与えるものだ。
モーセのパンを食べたのは何人でしたか?
誰でしたか?
それは旧約聖書の神の民でイスラエルの人たちだけだった。
ここにいたのもおそらくイスラエルの人たちだけだった。
でも世にいのちを与えるというのは
全ての国の人が私を食べることができる。
イエス様を信じる人はどんな国の人であっても
いつの時代の人であっても
いのちを得ることができるよって
そういうこともこのパンの奇跡が
指し示しているわけなんですね。
こうやってですね
ユダヤ人当時のこの5000人の給食に預かった人たちは
イエス様に空腹を満たしてもらったから
イエス様のもとにやってきたわけですね。
このイエス様に空腹を満たしてくださったように
今イエス様を信じている私たちも
何か必要なことを
必要なものを神様から備えてもらえる
ということがあるかもしれません。
あるいは先週見たように
嵐の中ですね
船の中でイエス様が現れて
救われた弟子たちのように
試練の中でイエス様の救いを
私たちも体験するかもしれません。
あるいはよくあるのはですね
教会に縁がなかった人が
試練をきっかけに
教会に足を運んだり
聖書に触れることによって
イエス様を信じて
クリスチャーになるということが
あるかもしれないですよね。
でもそういうことばっかり求めていては
このウィダヤの民と同じような
鉄を踏んでしまうことに
なるかもしれないですね。
大事なことはですね
繰り返しますけども
そういう
肉の糧っていう言い方を
するんですけども
肉の糞を得ることだけを
求めていくことではないんですよ
って言うんです。
今日の箇所は実は
4章のサマリアの女性の
出来事と似ている点です。
あれは水を欲しい
霊の渇きと神の満たし
渇くことがないように
もう汲みにくることがないように
水をくださいって言ったら
イエス様を信じる人が
生きる水の川が溢れ出るようになるよって言って
やはりそれは
後で説明しますけど
霊の渇きを癒す
今日のところは
腹を満たすんじゃなくて
霊の上を
満たすことができる
実はこの霊的という言葉は
分かったようで分からないし
今スピリチャルという言葉が
いろんなところで使われて
理解できなかったり
悪く言うと
怪しげなことに使われますよね
だからちょっと
あえて私が言いたい
今日だけ言い換えているのは
神様だけが
満たすことができる
心の渇きですとか
あるいは心の上
それに神様が
満たしてくださるというのが
何か
霊的な糧を得ると
言い換えられるのではないかなと思うんですね
もしかしたら
神様を知ることによって
イエス様を信じて神様を知ることによって
体験する平安
それも
霊の糧と言えるかもしれません
ただ大事なことは
マニュアルのように
これだというものじゃないんですよね
皆さん
クリスチャン生活をそれぞれ送っていらっしゃいますけれども
それぞれの生活の経験の中で
神様が私を満たしてくださっている
神様だけが
私の心に平安をくださっている
私を救ってくださった
という
経験をするかもしれません
ちょっと考えてみてください
最近
イエス様が私を助けてくださったな
と思って
感謝したこととか
あったでしょう
あるいは本当に今生かされていること
与えられていることが
神様の恵みだな
そういうことに思い立って
自然な形で神様ありがとうございます
という言葉が出てきたことが
あったでしょう
そうやって
生きる神様と
体験すると言いますかね
実感して
心が満たされるとか
養われるということが
永遠のいのちに生きるということに
なるのかな
と思うわけなんですね
毎日の食事が
生活の糧になるように
イエス様が
私たちの心の糧を
満たしてくださるんですね
イエス様が
自分の糧を満たしてくださった
という経験を
積み重ねて生きること
それが
永遠のいのちに生きるという
幸いじゃないかと思うんですね
救い主イエス様は
人々の永遠のいのちの果てとなる
救い主だということを
今日のパンの奇跡では
明かりしているわけです
イエス様は
神様によってしか満たせない
私たちの糧を癒して
その上を満たすことができる
救い主であるということが
このパンの奇跡から
わかるわけですね
繰り返しになりますけれども
それは世界の人々に
及ぶいのちだ
ということなんですね
すみません私話に夢中になって
こっちのあれにお見せできること
できなかったんですけれども
このサンマリアの女性の
繰り返しになりますけれども
真言の神様を知ること
イエス様を信じて
真言の神様を知ることによってのみ
癒される
そういうことがですね
イエス様がいのちのパンである
ということと関係しているんじゃないか
永遠のいのちに生きる
イエス様が神様が
私の上かわきを
満たしてくださるということがどういうことかというのは
私たちが日々の生活の
中でこう体験していくということ
なんですね
そのような体験
そのような
思いをですね積み重ねていく
それがまたクリスチャン生活の
醍醐味でもありますよね
そういう
神に生きる平安
神が私のいのちの糧だと
感謝できる
喜び
そういうものを積み重ねていくですね
お互いであり
教会でありたいと思うわけです
最後にイエス様の
その素晴らしい
宣言の御言葉を読んで終わりにしましょう
ヨハネ6章35節ですね
イエスは言われた
ここから読みましょう
私がいのちのパンです
私に来る者は
決して飢えることがなく
私を信じる者は
どんな時にも
決して渇くことがありません
お祈りしましょう
私たちの救い主なる神様
あなたの名前を賛美いたします
あなたが
救い主なるイエス様を
誠のパンとして
いのちのパンとして
この世に使わせてくださったことを
感謝いたします
あなたはそのイエス様によって
永遠のいのちを授けてくださり
あなたにしか満たせない
あなたにしか癒せない渇きを
満たし
また癒してくださることを
感謝いたします
どうかそのような
永遠のいのちに生きる幸いを
私たちが日々の生活の中で
さらに深く知ることができるように
イエス様が私の救い主である
そのことが本当に
喜びであり感謝である
そのような実感や経験を
あなたによって
与えていただくことができますように
そしてあなたを褒めたたえ
またあなたに従うお互いであり
教会であることができるように
どうか導いてください
この感謝と願いを
私たちの救い主
主イエス様のお名前によって
信仰と体験
祈ります
アーメン
それでは1分ほど黙祷して
御言葉に応える時を持ちましょう
30:16

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