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2025-03-30 29:58

#257いのちの神として~キリストの神性の3つの証拠25/3/30

ヨハネ-24からの礼拝説教。2025年3月30日録音。(聖書朗読はまで、メッセージ本論は2:40からです)ヨハネの福音書が書かれた第1の目的は「イエス様が人となられた神であることを証しすること」つまり「イエスの神性」を証ししているということです。今日の箇所では、そのことが父なる神とイエス様との関りの中で語られています。そのことを踏まえて1.自分を父なる神と等しくした()、2.父なる神との言動の一致()、3.永遠のいのちを与える()の3つの点を見ていきます。

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https://note.com/nsbc/n/n4010b28bcca3?sub_rt=share_pb

サマリー

このエピソードでは、イエス・キリストが父なる神と一体であることや、その神性を示す奇跡について語られています。また、安息日における行動がユダヤ人たちにどのように受け取られ、どのような問題を引き起こしたかに焦点が当てられています。さらに、イエス様の神性とその信仰がもたらす希望について探求されており、特に永遠のいのちを与える神としての実体について触れられています。キリスト教信仰の根本にある神の摂理や、イエスと父なる神との等しさについての教えが語られています。

イエスの神性とユダヤ人の反応
ヨハネノフクインショー、5章、17節から24節
イエスは彼らに答えられた。
私の父は、今に至るまで働いておられます。
それで私も働いているのです。
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。
イエスが安息日を破っていただけではなく、
神を御自分の父と呼び、御自分を神と等しくされたからである。
イエスは彼らに答えて言われた。
まことに、まことに、あなた方に言います。
子は父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。
すべて父がなさることを子も同様に行うのです。
それは子が父を愛し、御自分がすることをすべて子にお示しになるからです。
また、これよりも大きな技を子にお示しになるので、あなた方は驚くことになります。
父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた与えたいと思う者にいのちを与えます。
また、父は誰をも裁かず、すべての裁きを子に委ねられました。
それはすべての人が父を敬うのと同じように、子を敬うようになるためです。
子を敬わない者は、子を使わされた父をも敬いません。
まことに、まことに、あなた方に言います。
イエスと父なる神の関係
私の言葉を聞いて、私を使わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、裁きに遭うことがなく、死からいのちに移っています。
以上です。今日はこのところから、いのちの神としてと対して、聖書の言葉を取り付けます。
みなさん、おはようございます。
今日は3月30日、2024年の最後の礼拝となりました。
先週は初夏を思わせるような気候になりまして、大変だと思ったら、昨日は一挙に最高気温が中度に満たないような寒い日でした。
また、ミャンマーで大きな地震が起こって、タイにまで及んで、本当に衝撃的でしたけれども、
そんな中ですけれども、聖書の言葉に耳を傾けていきたいと思います。
さて、しばらく前から、ヨハネの一章一節から、礼拝では取り扱ってお話をしています。
繰り返しますが、ヨハネの福音書の大きなテーマは、今日のところで、
ミチチと言われている父は、いわゆる旧約聖書の父なる神様。
そして子というのは、御子イエス様ですね。
その御子イエス様が、旧約聖書が言うところの誠の神と等しく神である、
そしてその目に見えない神が人となってこられたのが、イエス・キリストだということ。
これが、ヨハネの福音書の一章一節からずっと解き明かされている。
今日の箇所は、その中でも学者に言わせれば、最もコンパクトに、
難しい言葉で言うと、ミチチと御子の一体性がコンパクトにしかし遠けたてて書かれている箇所だと言われています。
ちょっと難しい話になりますが、そんな中から、
イエス様の父なる神と一つだというような話を基に、3つの話をします。
自分と父なる神を等しくした後はどういうことかということが最初。
2番目は、イエス様と父なる神様との言動が一致しているという点。
そして最後は、その中でもイエス様が永遠のいのちを与えると言っている点。
その3つの点から簡単にお話ししていきます。
一番最初は、まず、自分を父なる神と等しくしたというイエス様の今日の言葉に注目したいと思います。
ちょっと読んでみますね。17節。
イエスは彼らに答えられた。
私の父は今に至るまで働いておられます。
それで私も働いているのです。
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。
最後のここだけ読んでみましょうか。
イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。
詳しく述べませんが、前半の部分のイエス様の答えは、先週見たですね。
安息日の癒しの問題からユダヤ人の指導者に批判された。
それに対して法的弁明をする。
その中から話が出たんですけども、そこは割愛します。
イエス様を殺そうと思ったユダヤ人の指導者たちの意図がありますが、
それの背景を理解するために、ある一つの例えと言いますかね、話をします。
この2人分かりますよね。福沢諭吉と渋沢栄一。
この2人の共通点は、ここにありますように、
共に一万円札に肖像画が用いられたという点です。
他にも共通点があるのをご存知ですか。
その中の一つは、この2人とも〇〇の父と呼ばれている点なんですね。
福沢諭吉は、近代における教育改革、日本近代教育の父と呼ばれています。
福沢諭吉は、ある大学の創始者でもありますね。
天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずと言っています。
福沢諭吉が言うのが面白いのはですね、
こうすれば誰でもわかるよ、こういう話し方をすればという中で、
彼が言ったのは、猿でもわかるように言い方で話しなさいと言ったのが面白かったです。
余談ですけれども、近代教育の父が福沢諭吉。
渋沢栄一は何か。深谷根木の父ではありません。
渋沢栄一は、日本資本主義の父、資本主義の父と呼ばれています。
この2人は、そのように教育改革や近代化に大きな影響を与えたがゆえに、丸々の父と呼ばれています。
渋沢で言えば、500以上の企業を作って、リスナー銀行なんかも創設に関わっていますね。
とにかくこの2人は、それぞれの分野で革新的な役割を果たして、大きな影響を与えているゆえに、何とかの父と呼ばれています。
そのことを踏まえて、今日のところでイエス様は、父なる神様のことに言及しています。
ここで言う、私の父というのは、旧約聖書のいうところの天地万物を作られた、創造主なる神様のことを指しています。
実はここで何が問題かというと、ユダヤ人は神様のことに威負の念が強くて、神という言葉を直接使わなかったりしたんですけれども、
でも、神様から自分たちは生まれたという信仰を持っていましたから、ユダヤ人たちは私たちの父という言い方をしたんです。私たちの父。
しかもその距離が近くなることを恐れて私たちと言ったんですけれども、もっと威負の念を込めて距離を遠くするために、
天におられる私たちの父という呼び方をしたんです。これが一般的な呼び方です。
実はその伝統が私たちの教会にも伝わっていますよね。思い出しました?
安息日と神の働き
主の祈りの一番最初に、天に増します我らの父よ。パテルヘモンホエントイスラノイスというギリシャ語ですね。
そうやって聖なる父なる神との距離をとって、天におられる私たちの父とわざわざ呼んでいるのに、イエス様はダイレクトに私の父という呼び方をしたんです。
で、そういう中で例えばですよ。
渋沢栄一は埼玉リスナー銀行の創設にも、前身人の創設にも関わっていますけれども、今のその銀行の銀行員がですね、渋沢栄一は私の父ですって言ったらおかしいわけですよね。
福沢幸知が作った大学の今の学生が、福沢は私の父ですって言ったらおかしいわけです。
それ以上にこのユダヤ人が聖なる方として私たちの父と呼んでいる神様をイエス様は私の父だって言って。
それはユダヤ人からしたら、冒涜以外での何者でもないと響いたわけです。
そしてそのことをですね、聞いた。このユダヤ人というのは先週も言いましたが一般のユダヤ人ではなくて、エルサレムから登ってきたサンヘドリンと言って、当時の国会議員やまた最高裁判所の裁判官を兼ねた、そしてユダヤ教の教師でもある宗教と政治のトップの人たちです。
そういう人たちから見て、イエス様のことを調べに来たんですけども、イエスが安息日を破るだけではなくて、自分の父なる神様を私の父と呼んで、しかもここで言うように、自分を神と等しくされた。
冒涜だから死罪に値すると考えて、ますます殺そうと思った。そういう経緯があるわけなんですね。
突然ですけども、前にも引用しましたが、この人ですね、イギリス人の知る人は知っている、探偵小説で有名な女性作家、ドロシー・セイアーズという方です。
いろんな本が日本語にも翻訳されていますけれども、実は彼女は熱心なキリスト教徒であって、キリスト教の神学の造形にもすごく深くてですね、彼女がキリスト教について言及した発言がですね、日本語の翻訳にもなっている
ドグマこそドラマという本の中でも紹介されています。その中で彼女はイエスキリストの言動についてこのような言い方をしているんですね。ちょっと書き覚えが1個しかありませんけれども、もしキリストがただの人間に過ぎなかったのであれば、その時彼は神についてどんな考えを述べようと全く不的確です。
もしキリストがただの人間に過ぎなかったのであれば、その時彼は神についてどんな考えを述べようと全く不的確です。
これは単刀直入にわかりやすく言うと、イエスキリストは神ご自身であったからこそ、このような神について真実な証言ができているんです。そういうことを彼女は言っているんですね。
そのイエス様が父なる神と一つだということにこのような背景や考えがあるということをまず知っておいてください。
2番目、イエス様はそのような中で踏み込んでこういうことを言及されました。
2番目、父なる神との言動が一致しているということを明かしされたんですね。
さらにイエス様はユダヤ人の反対を受けてこう語っているんです。
イエスは彼らに答えて言われた、まことにまことにあなた方に言います。
子は父がしておられることを見て行う以外には、自分からは何も行うことができません。すべて父がなさることを子も同様に行うのです。
先ほども少し触れましたが、ヨハネの福音書の1章1節からの重要なテーマ、それはイエス様が天地万物を作られた、旧約聖書が言うところの父なる神様が目に見える形でこの地に下って来られた、人となられたまことの神だということを明かしする。
難しい言葉で言うとイエスキリストの神性を明かしすることがヨハネの福音書の第1の書かれた目的であったわけですね。
その上でこの19節の言葉を指定関係、弟子と師匠の関係と関連して考えられるとある学者が言うんですね。
今も震災の後の傷跡が残っている野戸地方ですね。漆職人が出てきますが、そういう漆職人のような人間国宝と言われるような人たちが弟子を持つとき、弟子たちはまさに寝泊まりを一緒にして、身を見真似であるいは言葉で教えてもらってその師匠の伝統的な技を受け継ぐわけです。
そうして師匠について見て学んで聞いて学んで苦労してようやく国宝級の真似をできない技を身につける。それが指定関係なんですね。
そのことをイエス様の言葉に絡めて考えていくと、さらに父なる神と子なる神という関係に内容が進んでいるんですね。どういうことか、つまりここでイエス様はこのような言い方をして父なる神様と子なる神様の一体性ということを証しているんです。
つまりこの言葉はイエス様が地上でなさる奇跡あるいは地上で語る言葉、それは天におられる神様のなさることをそのまま行っていることであり、天におられる神様が語るべきことをそのまま語っているんだということをこの言葉は証言しているんですね。
別の言い方をしますと、ある学者はこういうこと言うんですね。父なる神様は目に見えない。その目に見えない神様の働きが目に見えるように人々に示すために子なる神様、受肉したイエスキリストがこの地上で父なる神の技を行っているって言うんですね。
またこの天におられる神様、私たちは関わりが持てないけれども、その天におられる神様が地上においてその神様ご自身の技を行い教えを教えている、それがイエスの言動だ、そのように学者も言っているわけなんですね。
こういう難しい言葉で学者は言い換えているんですけれども、
これは道と同じ性質を持っているがゆえに同じことをするのであると言うんですね。
先ほども少し述べましたが、この今日見ている箇所は先週見たベテスダの池でのこの奇跡の続きです。
安息日に徳を取り上げてはいけないのにですね、そこで寝たきりの男性の徳を取り上げて歩きなさいとイエスが言った。
そしてその男性が徳を取り上げたら病気が治った。寝たきりの人が歩いたという奇跡ですね。38年間も寝たきりの人が。
それの何が問題かというと、ユダヤの律法では安息日を聖なるものとしなさいと言われていて、一切働いてはいけないと言われていたんです。
ちなみにですね、今私行ったことないんですけども、あちらに行った人から聞いたんですがね、ユダヤの本当にですね、厳格に守っているホテルなんかではですね、夕方、あちらは夕方6時以降かな、日が変わるんですけども、土曜日の6時以降から安息日に入るとエレベーターが隔壁停車になるんですね。
なぜそうするかというと、行き先ボタンを押すと電気が点きますよね。それはユダヤ教の細かい律法の中で、安息日に火を焚いてはいけないという、その律法に違反するから火を焚かないようにですね、隔壁停車のエレベーターがあるという話もあるわけです。
そういう厳格の中で、イエスが安息日律法を破って徳を上げさせて病気を癒したということが、このユダヤ人の指導者からした律法違反であると考えたわけです。
なんでお前は安息日なのに働くんだという、そういうことで休談されたわけです。それに答えてイエス様はですね、さっき今日の冒頭で言った、こういうことを読んでみましょうか。
イエスは彼らに答えられた。私の父は今に至るまで働いておられます。それで私も働いているのです。
なぜ安息日にもかかわらずイエス様が徳を畳んで上げて歩けと言ったのか、病の癒しを行ったのか、その理屈がこれだ。
どういうことかというと、この天地万物を作られた神様は今も生きて働いておられる。つまり安息日であってもいのちの営みを支えているではないか。
イエス様の働きと神の摂理
その証拠に人間が休んでも天体は動いて、生きとし生ける者はいのちを備えているでしょう。だから私も安息日であっても人に豊かないのちを与えているのである。
そういう根拠でイエス様は語り、自分を父と等しくし、安息日でも人を生かすということを教えられたわけなんですね。
今日時間がなくて、あまりこの点を取り上げられなかったんですけれども、これは私が個人的に非常に励まされることなのでお話ししているんですけれどもね。
これ、神の摂理という教理なんです。節、底辺に耳かいているんですね。摂理。
それは天地創造の神様はそこで働き終えたのではなくて、今も生きて働いている。神は常に働いているというのがですね、キリスト教信学でいう摂理の意味なんですね。
脱線しないように簡単に言いますけど、それが旧約聖書のヨセフ物語にも関わっているんですけれども。
そこからね、クリスチャン信仰は何が言えるかというと、こういうことが言えるんですね。
私たちが生かされている、今生かされているということが、神であるイエス様が生きて働いてくださっているという、何よりも動かぬ証拠だということなんですね。
で、それがどういうふうに私たちの希望になるかというと、私たち何かをやろうとしても物語がうまくいっていないと思うことがあるかもしれない。
あるいは試練の中で解決されていない、されていかないという時にですね、神様は何やっているんだと思うかもしれない。
でも、たとえ私たちの周りで物語が進んでいないと思ったり、自分の問題を解決していないと思ったとしても、
実はこの目に見えない神様、イエス様は共にいてくださって働いてくださっているということなんです。
そして時が来たら、この節日の神様は良きものを私たちに授けてくださる。
あるいは目的があったといえば、救いの手を差し伸べてくださる。
それが一つ、キリスト教信仰の希望だということなんですね。
そのことを確認したくて言及しました。
最後ですね。
永遠のいのちを与える神
そのイエス様は永遠のいのちを与える。
3番目、イエス様は永遠のいのちを与える神だということなんですね。
5章の21節、24節でこう語っています。
父が死人をよみがえらせ、いのちを与えられるように、子もまた与えたいと思う者にいのちを与えます。
誠に誠にあなた方に言います。
私の言葉を聞いて、私を使わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、裁きに遭うことはなく、死からいのちに移っています。
これ何が言われているかというと、実は旧約聖書の信仰の中にはこういう教えがあるんですね。
父なる神様は死んだ人をよみがえらせていのちを与える方だという教えがあるんです。
いろいろその教えに関わる聖館ですけれども、一つだけ紹介しますと、
エゼケール書の37章の13節に、神が直接神に呼びかける形で、こういう言葉が記録されているんですね。
読めるかと読んでみましょうか。
私の神よ、私があなた方の墓を開き、あなた方を墓から引き上げる時、あなた方は私が主であることを知る。
このように旧約聖書では、私と呼んでいるところの父なる神様が死んだ人をよみがえらせていのちを授けるという教えがあります。
その上でイエス様は子もまた、私も同じようにまた与えたいと思う者にいのちを与えますと言っているんですね。
このところから、イエス様は父なる神と等しいいのちを与える神だということが明かしされていると言うんですね。
学者に言わせると、子もまたというまた、原始的な言葉でかいと言うんですけどね。
この英語でall soul、これがですね、父なる神とイエス様の一体性を明かししているって言うんですね。
父と等しく、子もまた与えたいと思う者にいのちを与えるということなんですね。
はい、そろそろ終わりに近づいてきましたけれども、このメッセージを聞いたユダヤ人の信仰者たちは、先ほどから述べているように、
イエスが父なる神と等しい神であるわけがないと断言してですね、そして神の冒涜としてイエスを殺そうとしたということなんですね。
イエス様はそういう中でですね、そのように
私を受け入れないということは、私を使わせた父なる神様を信じない。
そしてもうそのことのように既に神の裁きを受けているんだと厳しく言って、そして実は父なる神様は私にその裁きの権威を委ねているんだとさえ言っているわけなんですね。
反対に、イエス様をいのちを与える神様として信じるならば
イエス様はですね、その永遠のいのちを今その信じる人たちに授けると約束してくださっているんですね。
でご存知のようにこの後ですね、イエス様はユダヤ人たちに捕らえられて十字架にかけられるわけですね。
そして復活する。なぜ十字架にかけられるかというと、人々の罪をあがなって、そしてこの人々を神の裁きから免れるようにするために十字架の上でその罪を背負って死なれるわけです。
そして死んだだけじゃなくて3日目に蘇りますよね。
十字架と復活の予告
実はそのことをですね、イエス様はさらに続けてこのように言っているんですね。
ちょっとこちらのパーポに書いてないので、皆さんのレジュメの一番最後にその聖句を引用してあります。
イエス様は父なる神様の宮座奇跡をこの地上で行ってきた。そして最後にもっと驚くべきことを行うということで十字架と復活を予告してこのように言っています。
5章の19、20節の抜粋が皆さんのレジュメの最後の4行に書いてありますので、それを読んでいますね。
読み方は最後の2行を一緒に読んでみましょうか。
大きな技をここにお示しになるので、あなた方は驚くことになります。ちょっと遠距離的な読み方をしてわかりにくいんですが、最後の部分ですね。
これよりも今までしてきたよりも大きな技をここにお示しになるので、あなた方は驚くことになります。
これがやがてイエス様が向かっていく十字架と復活ということなんですね。
そして人々は驚いてですね、このイエス様を信じるだろうと言っているわけです。
そのイースターをお祝いするのがですね、今年は4月20日になって、私たちの教会でもそのことを覚えていきますので、祈りながらそれに備えていきましょう。お祈りします。
天の神様、皆を賛美いたします。
三密体の距離は私たちの頭では理解することができない、本当に広く深い教えであります。
その中から、父なる神様と子なる神様が等しく神であり、また神の御業をイエス様が私たちに証してくださったと、今日も学ぶことができました。
どうぞ、身は見えませんけども、私たちが日々の生活の中で共にいてくださり、共に働いておられるイエス様を信頼しながら、日々歩んでいくことができるように導いてください。
与えられているいのちの幸いをどうか、さらに深く知ることができるように、どうか導いてください。
年度がまもなく終わります。新しい年度が始まりますけども、どうかイエス様が共にいてくださり、我々を導き、支え、助け続けてくださりをお願いいたします。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それではその場で1分ほど、それぞれ黙祷する時間をとってください。1分だけ黙祷しましょう。
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