1. 牧師のバイブルメッセージ
  2. #266 イエス様の肉とパン〜出..
2025-06-01 29:56

#266 イエス様の肉とパン〜出エジプト記、預言書、聖餐式との関わり 25/6/1

ヨハネの福音書-51からの礼拝説教。2025年6月1日録音。(聖書朗読はまですぐ導入に入ります)最初は、これまでとは違った観点から旧約の出エジプトの出来事との結びつきを、ギリシャ語にも触れながら見ていきます(1.「小言で不平を言う」の背景())。次に独特な表現でありながら、神を信じる人に確信を与えるイエス様の言葉ことばについて解説します(2.「神に教えられる人」とは())。最後に、いのちのパンとイエス様の肉との関りを見ていきます(3.「イエス様のパン、イエス様の肉」とは())

原稿を読む

https://note.com/nsbc/n/n05c7848a0289?sub_rt=share_pb

サマリー

このエピソードでは、イエス様が「私は天から下ってきたパンである」と述べたことに対するユダヤ人たちの反応と、彼らの信仰の姿勢が掘り下げられています。また、イエス様が信じる者には永遠のいのちが与えられると教え、神に教えられる人々の重要性についても解説されています。さらに、イエス様が神によって教えられる存在であることが強調され、信じる者に与えられる永遠のいのちについても詳しく解説されています。特に、イエス様の肉が命の糧であり、彼を信じることで永遠に生きることができるという重要なメッセージが述べられています。最後に、イエス様の体と血が聖餐式を通じて私たちの永遠のいのちとどのように結びついているかについて語られています。

イエス様の宣言とユダヤ人の反応
ヨハネの福音書、六章四十一節から五十一節を読みします。
ユダヤ人たちは、イエスが、私は天から下ってきたパンですと言われたので、イエスについて小言で文句を言い始めた。
彼らは言った、あれはヨセフの子イエスではないか。
私たちは父親と母親を知っている。
どうして今、私は天から下ってきたと言ったりするのか。
イエスは彼らに答えられた。
自分たちの間で、小声で文句を言うのはやめなさい。
私を使わせられた父が引き寄せて下さらなければ、誰も私のもとに来ることはできません。
私はその人を終わりの日によみがえらせます。
預言者たちの書に、彼らを皆、神によって教えられると書かれています。
父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来ます。
父を見た者は誰もいません。
ただ、神から出た者だけが父を見たのです。
まことにまことにあなた方に言います。
信じる者は永遠のいのちを持っています。
私はいのちのパンです。
あなた方の先祖たちは、荒野でマナを食べたが死にました。
しかしこれは、天から下ってきたパンで、それを食べると死ぬことがありません。
私は天から下ってきた生けるパンです。
誰でもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。
そして、私が与えるパンは、世のいのちのための私の肉です。
以上です。
信じる者の永遠のいのち
今日はこのところから、イエス様の肉とパンについての説明を取り付けます。
皆さん、おはようございます。
今日も、ヨハネの福音書からずっと続きで学んでおります。
先週は、イエス様が、5章のところから、この絵にありますように、
5000人の給食の出来事、そしてそれから、湖を行ったり来たりしながら、
イエス様の大事なメッセージ、私はいのちのパンです、という言葉をめぐって、
ユダヤ人とされる人たちと、特にその宗教的なリーダーとの、
おそらくカペナームという場所の街道で行われた議論のところから、続けて見ています。
今日はその中でも、3つのことを取り上げていくんですけれども、
今日もよく見ると、非常に興味深い言葉が並んでいて、そこから取り上げていきたいと思います。
最初は、小言で不平を言うという、そこのところです。
2番目は、神に教えられる人とは、というところですね。
それも今日の箇所では特徴的な言葉です。
最後は、イエス様が、私の与えるパンと私の肉です、という言葉を、
聖餐式もありますから、それとの関わりも含めて、お話ししていきたいと思います。
今日最初の点は、小言で不平を言う、という言葉の背景を見ていきます。
落語ではありませんけれども、そういうことを見ていきます。
その箇所は、今日のところの冒頭の41、43節でありますね。
ユダヤ人たちはイエスが、私は天から下ってきたパンですと言われたので、イエスについて小声で文句を言い始めた。
ここから読めるかと読んでみましょうか。
イエスは彼らに答えられた。自分たちの間で、小言で文句を言うのはやめなさい。
突然ですけどね、私は今から30年ほど前、1992年から4年間名古屋市で働いていたんですね。学生連動の働き。
ある時、三重県との境の辺りの老人ホームに行ったんです。
そこで入居者の方と働きをしたんですね。教会活動に行った。
その時に、今から32年前、1993年の頃ですけれども、皆さんがですね、いろんな思い出話をしてくださる中で、必ず出てきた話が、伊勢湾台風の話です。
伊勢湾台風の時はね、と皆さん言うんですよ。で、ある方は
大潮と重なったんでしょうかね。長良川なんかも氾濫してですね。
私は一晩、下半身を水に浸かったまま過ごしました。そしていのちからから助けられましたって言ったんですね。
で、そんなに伊勢湾台風のことをみんな気にしてるんだなと思いましたけど、皆さんご存知のように、その後神戸の震災、阪神淡路大震災があって、
東北大震災ありましたよね。そこから本当にですね、いのちの危機に晒されるような大災害、そしてそこから生き延びた話というのは、その人の人生の転機になったり、忘れられないストーリーになる。
そしてそれは人にとってだけじゃなくて、町とか国にとってもですね、この忘れられないターニングポイントになったり、そのアイデンティティと関わりのある出来事になって語り伝えられていくということを実感したんですね。
なんでこんな話をしたかというと、実は出エジプトの旧約聖書の出来事、それは神の民にとってこの伊勢湾台風や震災のような忘れられない出来事で、何度も何度も特に聖書の中では繰り返し語られているわけです。
それがイスラエルから始まって、私たちキリスト者もそうですけれども、神の民のアイデンティティとかですね、救いに関わる大事な出来事として繰り返し出てくるんですね。
実は皆さんもご存知のように、この5,000人の給食は、モーセの荒野のマナの奇跡と重ね合わされて話が出てくるわけです。
実は今日の箇所も丁寧に見ると、その荒野での出来事とリンクするというか、それを思わせる出来事、言葉が登場しているんです。気がつきました?皆さん。気がつきました?
小言で不平を言う。その言葉、それは小言で文句を言った。これは難しいことで言うと、ギリシャ語の言擬像という言葉なんですね。
前の神科学聖書とか、他の教道学聖書とか教会学聖書では、つぶやくと英語でグランブル、つぶやくと訳されている言葉です。
それは何かというと、お気づきの方と思いますけれども、出エジプトの出来事で、せっかくエジプトから出てきたのに、荒野で民がつぶやいたという出来事の時に使われる。厳密に言うと、旧約聖書がギリシャ語になった時に使われた同じ言葉なんです。
だからその言葉が出てくると、あの出来事を言っているんだなということを聖書を読んだ人、旧約聖書を書いた人はリンクするんですね。
その中の一つで、聖書箇所を2つ書きましたけれども、特に民数記14章2節で書かれているんですね。神科学聖書の最新版では。
そしてエジプトから救い出された神の、あ、そっかそっか。これですね。民数記14章2節。イスラエルの子らは皆、モーセとアロンに不平を言った。この不平を言ったがそうですね。
前回週は彼らに言った。我々はエジプトの地で死んでいたらよかったのに。あるいはこの荒野で死んでいたらよかったのだ。せっかく救われたのに、こうやって食べ物がない。飲み物がない。
エジプトの方が肉もニンニクも好きなだけ食べられた。今の焼肉のあれみたいに。だからつぶやいた。不平を言ったということが、このつぶやく、ゴンギュゾウという言葉から連想されるんです。
何が一体かというと、イエス様に対してお前は救い主なんかでないよと言った人々の小言、つぶやきが、この荒野のイスラエルの民、神の民の不信仰とリンクされているという点なんですね。
まあいつも言ってますが、ヨハネの福音書にもですね、旧約聖書の豊かなこのベースというかね、バックグラウンドがあって、それを知ると私たちの信仰も新鮮になって豊かになるわけです。
実はパウロもその荒野の民のつぶやきと、パウロにとっては今のクリスチャンの人たちのつぶやきをリンクさせて、こうやって言ってるんですね。第一コリントンの10章の1節から10節。
私たちの先祖はみんな雲の下にいて、みんな海を通って行きました。そしてみんな雲の中と海の中で猛瀬につくバブテスマを受け、みんな同じ霊的な食べ物を食べました。これはマナですよね。
彼らのうちのある人たちがしたように不平を言ってはいけません。彼らは滅ぼす者によって滅ぼされました。この不平を言うというのがゴンギュソウということ。パウロはここからコリントンのクリスチャンの不平不満を言う人たちに警告を発しているわけなんですね。
実はですね、ちょっと今日のレジュメで抜けてしまいましたけれども、彼らが何を不平不満を言ったかというと、つぶやいたかというと、イエス様が私は天から下ってきたパンだということに対してなんです。
なぜかというと彼らは父親であるヨセフも知っていたし、母親であるマリアも知っていたわけです。だからどうしてそんな俺たちが出世を知っているこの男が天から下ってきたなんて言えるんですかと。
神に教えられる人々
ましてや神の御子救い主だなんて言えるはずがないだろうと言っているんです。もうちょっとある別の福音書から解説する学者が言うのはですね、実はマリアがヨセフと一緒になる前に身こもったということから、あれは不平の子供だという悪い噂もあったわけです。
そういうところからこのイエス様が天から下ってきたパンということは信じられずに、そんなわけがないと言ってつぶやいた文句を言ったということが今日の箇所なんですね。
皆さんもお気づきになったと思いますけれども、イエス様がそうではない天地創造をされた誠の神であって、その神が人となられたということをヨハネは一章一節から丁寧に解き証してきているわけなんですね。
皆さんはないと思いますけれども、私も次回を込めて言うと、信仰生活が長いとイエス様が親しいということをいつも礼拝で言っていますけれども、その親しさが慣れ慣れしたになってしまって、イエス様の神性、まさに天地万物を創られた誠の神であるという偉大さを忘れてしまう。そういうことがないように気をつけていきたいというのが最初のポイントです。
2番目。次の特徴的な言葉。神に教えられる人とは?ということを見ていきましょう。ちょっと読んでみましょうか。6章45節、皆さんで、預言者たちから読めるかで読んでみましょう。3文。
預言者たちの書に、彼らは皆、神によって教えられると書かれています。知事から聞いて学んだものは皆、私のもとに来ます。
実はイエス様、前後の箇所で先週見た、神によってイエス様に与えられた人という特徴的な言葉がありましたね。
誰も、私は父によって与えられたものを皆、終わりの日によみがえらせる。そこから、私たちが信じる前に神様は私たちを選んで、イエス様に授けてくださった。
簡単に言うと、私たちは神様によって信仰に導かれたから安心ですよって話したんですけども、実はそのことをイエス様は言い換えて、御父がイエスに引き寄せてくださるという言い方を44節で言っているんですね。
それは前提として話すだけです。私を救わされた父が引き寄せてくださらなければ、誰も私のもとに来ることはできませんと呟く人たちに言っているんですけども、そういう父が引き寄せるという言い方をして、神様の救いの確かさを確認しながら次のことを言っています。
ちょっと端休めで。 2013年の流行語大賞。
今でしょって言った。もう12年前。 12年前というとね、一回り前ですが、前回の蛇年の時ですね。
そのことでね、今でしょって言うと馬鹿にされますけどね。とにかくこの林治さんの本業というかね、プロフィール見ると一番最初に書いてあるのは予備校講師。先生ですね。
予備校の講師、名講師というのはわかりやすく教えて、記憶に留めるようにですね、教えるのが名講師です。
しかしですね、イエス様に寄せれば神様が一番素晴らしい教師だということを今日の御言葉で言っているんですね。ちょっと何でかって思うかもしれませんけど。
神様こそ誠の教師。なぜか神様はですね、私たちがよくわかるように教えてくださり、しかも絶対に忘れないように教えてくださるというのが神様なんだということ。
信仰の確かさ
そのことがイエス様の今日の言葉からわかるわけです。どんな言葉かというとですね、失礼しました。
今日の箇所で、6章45節にイエス様が引用している言葉が出てますけども、彼らは皆、父が引き寄せてくださる人は、神によって教えられる。
父から聞いて学んだ人だ。預言者たちの書に書いてある。この預言者たちの書というのは、いつも言ってますが、旧約聖書の預言書なんです。
2つだけ見ていますけども、1つはこれですね。あなたの子たちは皆、主によって教えられる。あなたの子たちには豊かな平安があるという。
詳しくは言いませんけども、この言葉が念頭にあると言われてるんですね。
あなたの子たちは、神の民はと書いております。主によって、神によって教えられる。豊かな平安がある。
そしてもう一つ、おそらくエレミーアの31の33、34のところにも言及しているというか、連想してるんじゃないかと言われてるんですね。読んでいますけども、神様の言葉としてエレミーアが宣言しています。
私は、というのは神様ですね。私は、私の律法を彼らの、神の民のただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。
ちょっと長いんですが、読める方は読んでみましょうか。
彼らはもはやそれぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、主を知れと言って教えることはない。
彼らが皆、身分の低い者から高い者まで、私を知るようになるからだ。
こう書いてるんですね。これを読むと、神様は律法というのは神様の御言葉、教えを、神の民のただ中に置き、すなわち彼らの心にこれを書き記すと言っています。
そして、親密な神様との関わりを言いながらですね、隣人に、主を知れって教えてもらう必要がない。
極端な言い方をすると、誰から教えられるでもなく、その人は真実の神を知るって言ってる。
皆さんね、すぐ忘れちゃうとか、覚えられないとか、あるいは自分がその教えに留まり続けられるだろうか、
信仰をいつも言ってますけど、信仰の旅中は全うできるだろうかっていう不安になるかもしれませんけども、
私たちが忘れないように神様は心に御言葉を刻みつけてください。
そして私たちが思う以上に、今日のところで言えば、イエス様が誠の神であるということを私たちの心に記してくださって、
私たちがそれを忘れないようにですね、教え続けてください。保ち続けてくださる。
ここにも先週見ました、私たちよりも神様が先にじて私たちを救って教え導いてくださるという素晴らしいメッセージを読み取ることができるんですね。
このようなところからですね、イエス様が死んだとき、先週も言いましたが不思議な決心ができたということだけじゃなくて、
クリスチャン生活を送っていくと、何かわからないけど聖書の言葉が響いてくると迫ってくる。
まさによく言う、絶望の隣には希望があると言いますけどね、そういうときこそ聖書の言葉が心に書き示されることがあると思います。
そのような信仰生活を歩み続ける上でですね、これは幸いな約束ですね。
そして繰り返しになりますが、私たちの信仰の確かさというのは、私たちの人間性とか努力、それも必要かもしれません。
それ以上に、この真実な教え導いてくださる神様にあるんだということを知って、心安らかにされていきたいものですね。
永遠のいのちのパン
3番目、最後のポイント。イエス様のパン、イエス様の肉とは、ということを見ていきましょう。
今日の箇所では最後になりますが、大事な宣言の御言葉ですね。
私は天から下ってきた生けるパンです。誰もこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして私が与えるパンは、世のいのちのための私の肉です。
イエス様の、ヨハネの福音書にある描写の特徴というのは、似たような表現が繰り返されていて、しかも広げられて深められて豊かになっていくというところです。
今日のところでは、先週見た、永遠のいのちというのは、終わりの日のよみがえりだということが確認できましたね。
そして、永遠のいのちを得るためには、イエス様を食べる。それはイエス様を信じることだ。しかもイエス様は、それは私の肉だと言っているんですね。
この、私の肉だと。ここがですね、非常に特徴的な表現なんです。
繰り返しになりますけれども、ここで強調されていることで大事なことはですね、永遠のいのちについて、永遠に生きると断言しているんです。
先週の特徴的なところは、死んだ後でもよみがえるということが断言されていましたね。
今日のところでは、永遠に生き続ける。体がたとえ死んでも、永遠に生きると断言されているところが、永遠のいのちについて、特徴的で素晴らしい宣言になっているんです。
そしてイエス様を信じるということを、イエス様を食べる、肉を食べるという衝撃的な言葉で言い表しているところが、今日の箇所から始まるところの特徴的な表現なんですね。
なぜそういう言い方をしているかというと、今日の箇所でもイエス様が言っているように、モーセンの荒野の奇跡と関連させながら話していくときに、天から下ってきたマナをモーセンによって与えられて、あなたの先祖はそれを食べましたと言っています。
でもその天から降ってきたマナを食べた人は、荒野で死に絶えましたと言っているんです。
一方で、天からの誠のパンであるイエス様を食べた人は、永遠に生きると言っている。その対比があるんですね。
なぜ、荒野で滅んだ人の原因の一つは、不平を言ったからですよね。死んだ方がマシだと。
神様の救いの技を否定して呟いた。だから死んでしまって約束の地に入れなかったわけでしょ。
でも素晴らしいことは、私たちはたとえこの地上の生涯の中で呟くことがあったり、信仰に疑いを持ったり、何で神様はこんなことをするんですかと言ったり思ったり、人に言ったりしても、永遠に生きるんです。
死なないんですよ。なぜか。それは、永遠の生いのちのパンであるイエス様を食べているからだと言うんです。
その永遠の生いのちのパンとは何かと言うと、イエス様を解き証しているのは、私の肉だと言っているんですね。
何がここで面白いのかと言うと、私の肉こそいのちの糧だと言っているのは何かと言うと、それは十字架でこの肉体が裂かれると言っているんです。
そして実際に体が裂かれて血が流されて何がなされるかと言うと、何がなされているんですか。
あがないですよね。それは罪が完全に許されるから、だからイエス様を食べる人、イエス様を信じる人は、たとえ呟くことがあっても滅びることはなくて、永遠に生きるという約束に通じていくんですね。
実は、この肉という言葉が大事なんですね。それは、いつも難しい話をしてしまうんですけども、1章14節でも使われて、そこでは人と訳されている言葉で、ギリシャ語ではサルクスと言うんです。
まさにこれは肉体なんですね。生々しい言葉なんですね。
1章14節では、1章1節から始めに言葉があった。言葉は神であった。言葉は神ともにあった。
ロゴスという言葉を使って天地万物を作った、まことの永遠の神様はロゴスであって、それがいのちの源であって、それはすなわちイエスキリストだというところに繋がっていくんです。
そこがイエス様に繋がっていくつなぎ目のところで、あたかもロゴスが地に降りてくるというところで、1章14節でこう言われてるんですね。
言葉は人となって私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父の身元から来られた。独り子としての栄光である。
ここの言葉は人となってっていうことが、言葉がさっき言ったロゴスです。
そして人となってっていうのは実はこれはサルクスなんです。だからここをもっとダイナミックに訳すと、ロゴスは肉となった。
イエス様の肉と血の象徴
言葉は肉になってこの地に下ってきて私たちの間に住んだという、なんて言うんでしょうかね、そういう全宇宙的な神の物語からまさに肉肉しいこの世の現実にですね、話が映っていく。
そういうことがこの1章14節から見て取れるんです。実はその肉となった。サルクスとなったっていうことからずっと話が続いてきて、今日のところに至ってですね、イエスが私が与えるパン、それはすなわちこのサルクス肉だ。
人となった、肉となった、言葉は肉となったところの私自身の体なんですよって言っているところが、今日の箇所のなんて言うんでしょうかね、ダイナミックさであり面白さなんですね。
もうちょっとうまく言えませんでしたけど、その生々しさと心理の深淵さっていうことの、何でしょうかね、合わさったっていうところをわかっていただければと思います。
とにかく実はイエス様がこうやって、私の肉体が裂かれてこそ、そして流された血があってこそ、信じるあなた方が永遠のいのちを生きるんですって、これから話が展開していきます。
そこで実はそれを読んだ人とか、それを知った人がこの聖餐式を連想するんですね。
まさにパンが配られて、杯が配られます。このパンは何か、それはイエス様の体を象徴していますね。
私たちの信仰ではこのパンを食べてもですね、死んでしまいますね。
でもパンを食べても死ぬけども、このパンが体に入って私たちの栄養になるように、私たちをイエス様を信じるとイエス様が私たちの中に宿ってくださって、パンのように私たちのいのちになって、そして永遠のいのちとして私たちの中で生きてくださるという、
そのことをですね、聖餐式のパンを食べて砕きながらですね、それが体の中に入っていくのを実感しながら、まさにイエス様がいのちとして私の中に宿ってくださっているんだなということを実感する。
実感というか覚える。聖餐式にはそういう意味もあるわけですね。
慣れ下がって死んでいるからパンを食べて飲んで終わりということだけじゃなくてですね、そういうイエス様の救いということをですね、体ということを覚えながら聖餐式に預かる幸いということもあるかと思います。
そんなところでイエス様の体が十字架で裂かれた故に私たちはそれを信じて罪許されて癒されています。
そしてそれが今日なされる聖餐式で実際のパンと杯という手に取って食べ飲めるもので表されている。
そういう幸いを感謝して聖餐に預かるお互いでありたいと思います。お祈りしましょう。
感謝の祈り
天の神様皆を賛美いたします。イエス様が誠のパンであり、その身体を裂かれたが故に私たちの罪が贖われている幸いを感謝いたします。
私たちは不完全なものでありますけれども、あらので呟く民と似たところがありますけれども、そのイエス様の贖いを信じているが故に罪許され永遠に生きるものとされている幸いを感謝いたします。
どうかその幸いを日々の歩みの中で御言葉を通してまた聖餐を通してあなたから教えていただくことができますようどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主シューイエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それでは一分ほどその場で御言葉に応える黙祷の時間を持ちましょう。
29:56

コメント

スクロール