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2025-04-13 29:54

#259 神を知り、神を見る〜信じると分かること 25/4/13

ヨハネ5:30-40からの礼拝説教2025年4月13日録音。(聖書朗読はまで。説教の導入はから)今日の箇所では独特な表現が3つあります。それぞれの特徴をもとに、最初はキリスト教に対する誤った期待について考えます。(1.エンターテイナーではない())次にイエス様の神性に関する相対する証言を取り上げます。(2.「神による証し」とは())最後はイエス様の神性を理解するために必要不可欠なことを取り上げます。(3.「信じる者が神を見る」とは())

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https://note.com/nsbc/n/ne803ca867286

サマリー

イエス様はヨハネの福音書の中で、自身の証しと父なる神の証しについて話しています。彼は人々が期待するメシア像とは異なり、受難のメシアとしての役割を強調し、信じる者が神を見る方法について考察しています。このエピソードでは、イエス様が神による証と人間による証を対比し、彼の教えが真理である理由について解説しています。また、信じる者が神を見ることの意味についても考察しています。このエピソードでは、イエス様が神であることやその存在から得られる豊かな命について話し、信仰の重要性が強調されています。

エンターテイナーではないイエス
ヨハネの福音書5章、30節から40節をお読みします。
私は自分からは何も行うことができません。ただ、聞いたとおりに裁きます。そして、私の裁きは正しいのです。
私は自分の意思ではなく、私を使わされた方の御心を求めるからです。
もし私自身について証しをするのが私だけなら、私の証言は真実ではありません。
私については他にも証しをする方がおられます。そして、その方が私について証しする証言が真実であることを私は知っています。
あなた方はヨハネのところに人を使わしました。そして彼は真理について証ししました。
私は人からの証しを受けませんが、あなた方が救われるためにこれらのことを言うのです。
ヨハネは燃えて輝く灯火であり、あなた方はしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。
しかし、私にはヨハネの証しよりも優れた証しがあります。
私が成し遂げるようにと父が与えてくださった技が、すなわち私が行っている技そのものが、私について父が私を使わされたことを証ししているのです。
また、私を使わされた父御自身が私について証しをしてくださいました。
あなた方はまだ一度もその見込みを聞いたことも、見姿を見たこともありません。
また、その御言葉を自分たちの内に留めてもいません。
父が使わされたものを信じないからです。
あなた方は聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。
その聖書は私について証ししているものです。
それなのにあなた方はいのちを得るために私のもとに来ようとはしません。
以上です。今日はこのところから神を知り、神を見ると題してお話をいたします。
みなさんおはようございます。
今日は4月13日ですね。先週金曜まで、昨日までですか、暖かい日が続いて過ごしやすかったんですけども、
今日新座市はね、一点雨が降って、少し肌寒い日となりました。
三寒四曜と言うべきでしょうかね。
さくらも、ソメイヨシノもね、まだ今週末ぐらいは見ごたえがあるというかね。
今年は長く卒業式も入学式もね、どっちもソメイヨシノが持ったと言って喜んでいる方も多いようですけども、
そんな中でヨハネの福音書を読み進めていきますが、
新しい学校に入るとですね、いろんなことを勉強して、新鮮さがあったり、わからないことがあったりしますが、
ヨハネの福音書もですね、実はわかったようでわからない言葉が多いんですね。
いろいろ出てくる、今日の言葉も特にそのような箇所で、
言葉一つ一つの意味はわかるけれども、全体で一体何を言いたいのかということがわからない。
これは聖書やヨハネの福音書の特徴です。
今日はこの中で特徴的な表現がいくつかありますが、それらを取り上げながら、
最初はですね、35節のヨハネが、燃えて輝く灯火でないというところからですね、エンターテイナーではないということ、
そして2番目はですね、証ということがいっぱい繰り返されているという特徴なので、
それらを見ながら、神による証とは何かということになります。
そして3番目ですけれども、3番目の特徴はですね、37、38節の父なる神様を見るとか、その言葉を聞くとかですね、
そういうことが特徴的なところなんですけれども、最後そのところから、信じる者が神を見るとは一体どういうことかということを取り上げていきます。
一番最初はですね、エンターテイナーではないというところですね。
35節、こう書いてありますね。ちょっと皆さん沈黙なかったので読めるか読んでみましょうか。
ヨハネは燃えて輝く灯火であり、あなた方はしばらくの間、その光の中で大いに喜ぼうとしました。
今日の歌唱で久しぶりにですね、このバブテスマのヨハネが取り上げられていますね。
ここで言う、ヨハネが燃える灯火であった、そしてしばらくの間あなた方はそれを喜んだとイエス様が言っている、それはどういうことかということなんです。
あなた方はというのは、大雑把に言うとイエス様を信じないユダヤ人ということです。
で、それはどういう意味かというとですね、ヨハネ、バブテスマのヨハネが来て人々は一瞬興奮した。
今でいうエキサイトメントですね。で、何かというとメシア的な興奮をヨハネによって一時期あなた方は体験しましたね、それを言っているんですね。
どういうことかというと、皆さんご存知のように当時のイスラエルはローマの圧勢の中にいましたね。
ですから、ダビデ王の再来のようなメシアが現れて、そしておそらく武力的にですね、イスラエルをローマから解放して、そして真の自由と力強い国家を築き分けてほしい。
そういう期待があって、まさにメシアの前に来るエリアとしてヨハネが現れた。
そしてそういう時が来るという興奮があったんですね。
今のですね、政治的な世界のリーダーに対する人々の極端な期待とかですね、興奮を彷彿させるような、そんな出来事のように思われるかもしれません。
で、そのように一時的に沸き立ったんですけども、しかしですね、彼らがそれが一時的な興奮であっただけであって、その期待が裏切られた。
で、それはイエス様への反発にもつながった。なぜかイエス様はダビデのような力強いメシアではなくて、受難のメシアだということが明らかになっていくからなんですね。期待外れだ。
今日の箇所で出てくるこの言葉もそれと関係しています。
5章の38、39節。
あなた方は聖書の中に永遠のいのちがあると思って聖書を調べています。その聖書は私、イエス様についてそのメシアであるということ、キリストであるということを証ししています。
それなのにあなた方はいのちを得るために私のもとに来ようとはしません。
そして、さらにイエス様は当時のバプティスマのヨハネに対する処遇についても別の聖書の箇所で触れています。
ヨハネに対する熱はやがて冷めてしまいました。そして彼は簡単にと投獄され、処刑されますね。
まあヘロデという僕によってですけど。
そのことをイエス様はマタイの福音書の中でエリアの再来であるヨハネを認めながら、この人々の気まぐれを伝えているわけですね。
マタイの17章12節前にもありますけども。
しかし私はあなた方に言います。
これは弟子たちがですね、エリアは来るんですかと言って、メシア到来の予兆としてエリアは来るんですかとイエス様が尋ねたときに、イエス様が答えたんですね。
イエス様がエリアはすでに来たのです。ところが人々はエリア、すなわちバプティスマのヨハネを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。
同じように人の子も人々から苦しみを受けることになります。
この好き勝手なことをしましたというところに、輝く等身としてのヨハネが一瞬光って、それを人々が一瞬楽しんだという気まぐれが見て取れるわけなんですね。
そしてイエス様は同じような仕打ちを私も受けるということで、人の子も人々から苦しみを受けることになりますと伝えているんです。
人の子というのは受難のメッシャーを指すイエス様の一人称なんですけどもね。
当時の多くの人々の期待はですね、エンターテイメントに寄せるような期待と変わらなかったんですね。
私これ否定するわけじゃなくて、よく今テレビ見ない方多いかもしれませんけど、テレビにね、お笑い芸人の方々がもう漫才とかを離れて司会をやったりですね、番組を進行することがあります。
まさに彼らはエンターテイナーですね。
そのエンターテイメントを期待するような関心を当時のユダヤの人々は、ヨハネにそしてメッシアに持っていた。
別の言い方をすると、それほどの関心しか、特にメッシアに対して、ヨハネに対して、イエス様に対して持っていなかったということなんです。
ヨハネもイエス様も自分たちの期待に応えて喜ばせてくれる存在としか考えていなかったようなんですね。
これらのことから、私たちもですね、イエス様がエンターテイナーになっていないか。
キリスト教や聖書の言葉、そして教会がエンターテイメントになっていないか、またそのような期待を持っていないかということですね。
神による証の重要性
これは賛否両論があると思うんですけども、はっきり言っちゃうと、アメリカの大統領選挙で福音派の教会が持つ態度ということがよく取り上げられます。
ちょっと長くなりますけど、日本でいう福音派とアメリカの福音派って厳密に違うんですね。
それはそれとしまして、批判的な取り上げ方をしている番組の中には、いわゆるアメリカの教会が本当に礼拝がエンターテイメントになっているということをよくするんですね。
コンサートホルムのような教会堂で、リクライニングシートのような椅子に座ってですね、コーヒー飲みながら礼拝に出て、そして豪華な音楽が出てきて、そしてエンターテイナーのような牧師が出てきて、人々を喜ばす。
そういうことを批判するようなテレビのレポートなんかもあるわけです。
本質が見えてないから簡単には批判できませんけれども、もし人々がですね、教会とかキリスト教にそういうものだけを期待するのであれば、当時のイエス様に対して間違った判断をすることと似通ってしまう。
私たちは警告の言葉として聞いておく必要があるのではないか。それが最初のポイントですね。
2番目、ではもう少し肯定的な面を見ていきましょう。神による証について見ていきます。
5章36節でイエス様はこう言いました。
しかし私にはバブテスマのヨハネの証よりも優れた証があります。私が成し遂げるようにと父が与えてくださった技が、すなわち私が行っている技そのものが、私について父が私を使わされたことを証しているのです。
今日の箇所で際立った言葉の2つ目、あるいは教え、それはこの証という言葉ですね。この中にも出てきます。
ポインターがどっか行っちゃったので、なかなかさせないんですけどもね。この証という言葉。
神と人間の証
またその証という言葉の背景にある思想が際立っています。それは神による証と人間による証が対比されているという点なんですね。
それはイエス様が神様によって証されているので、イエス様は誠の神様である。そしてイエス様の教えは真理であるということを、これらの神による証と人間による証ということを対比させながら、イエス様は教えているということなんですね。
34節から36節など、少し難しいような言葉のやりとりが書かれていますけれども、その背景にあるこの思想、理念ですね。神様による証と人間による証が対比されているという点。
そしてイエス様は神様による証、英語でディバインというんですけど、神的な証がイエス様についてなされているから、イエス様は真実だ、真理だという、そういう思想がこの背景にある。
それを理解して読むと、30節から34節の難しい表現も捉えていくことができるんですね。
では一体、人間の証とは何ですか?ということなんですけれども、人間の証の第一の点は、バブテスマのヨハネの証なんですね。
今日は詳しく触れませんが、以前バブテスマのヨハネのところからお話ししましたが、バブテスマのヨハネがイエス様を読む罪を取り除く神の子羊だという証言をしたりとか、いのちについて光について証するというところも触れたんですけれども、人間の証の代表はバブテスマのヨハネによる証だ。
もう一つ、これはある意味否定的な面なんですけど、多くの人々がイエス様に賛同しているというところが、イエス様の人間的な証という意味でイエス様を使っているんですね。
しかし、イエス様がここで言いたいことは、まずバブテスマのヨハネの証は大事ですけれども、それ以上に神様によって私は証されているということを言っています。
もう一つは、多くの人々によって私は賛同を得ていない。人々から良い証言が得られていなくても、私はまことの神であるし、私の言う言葉は真理だ、それを信じなさいとここで教えているんですね。
ではなぜイエス様は、たとえ多くの人から賛同を得ていなくても真実であるかというと、繰り返しになりますが、神様からイエス様自身の信証性が証されているからだと繰り返し述べているわけです。
例えばですね、32節にありますね。
私については他にも証しする方がおられます。そしてその方が私について証しする証言が真実であることを私は知っています。
ここで言うところのその方というのは、父なる神様、イエス様を使わせた神様です。なぜなら37節でこう言い換えられていますよね。
そして私を使わせた方、未知なる方が私について証ししてきました。
このようにイエス様は、父なる神様が私自身についてその信証性を証しているので、私が言っていることは菊に値する。私は誠の神であると言ったわけです。
なぜそのようなことをここで言っているかというと、ここの絵にもありますが、ここの中でイエス様がまるめ議論している。その議論は5章1節から始まっている、ベテスタの池での癒しの奇跡から始まっているんですね。
安息日誌に立って歩けと言った、床をたたんで歩けと言ったイエス様が、安息日誌を破った、本当に不届物でそんなものが神でないというところから、ユダヤの指導者たちがイエス様を批判していて、そのやりとりが今日のところに続いているわけですから、イエス様は、あなた方が批判しても、私は神によって証しされているので真実だと述べているわけです。
ちょっと今日の話は理屈的に難しいので、後でレジューンを読んでくださいね。音声で聞いている方はインターネットからも原稿を読めますので、読んでいただければと思いますけれども、とにかくもう一つとしてイエス様が言っているのは、私がしている技そのものが、自分が神様から使わされている証拠だと言っている。
信じる者の視点
どういうことかというと、この5章1節のベテスタの池での奇跡、光、そして2章のカナの婚礼での武道士の奇跡、光、奇跡をヨハネの福音書では、イエス様が神様から使わされたメシアナとしての証拠としての印として取り扱っている。
それらと含めてイエス様は、私がするその奇跡そのものが、父なる神様が私にしなさいと言ったことだと。そしてそれを私がして実行していることが、父なる神様によって私が使わされている他でもない証拠なんだ。別の言い方をすると、私が誠の神である証拠なんだと言っているわけなんですね。
まあその実はですね、今話してますけど、理屈や論点はですね、なんとなくわかってもすんなり入ってこないと思うんですね。
今風にわかりやすく言うとですね、100%一致しないんですけど、こんな例えができるかと思います。
今完全問題で世界が揺れてますよね。笑っちゃいけないんですけど。それで何をしようとしているかというと、国の代表同士が話し合おうとしてますね。
何かというと、その国の代表というのは大臣であれ補佐官であれ、簡単に言うと国家元首のいのち題として来ているわけです。
あるいは国民の代表として来てるわけです。ですからその国の代表として特使として来てます。その人の発言は国家元首の発言であり、本来は国民の発言と等しいという意味なんですね。
100%それが当てはまらないんですけども、似てるのは父なる神様から使わされたイエス様がこの地上で言うことは父なる神様の発言と同じだし、やれと言ってやっている奇跡は実は父なる神様があなた方の前でやっている奇跡と同じなんですよ、ということをイエス様はここで言っているわけですね。
繰り返しますがわかりにくい論点なんですけども、それがわかるにはどうしたらいいかということがこの最後の点に関わってきます。最後の点。信じる者が神を見るとはということですね。
今日の37節38節でイエス様はこのように言っています。
また私を使わされた父御自身が私について証しをしてくださいました。
じゃあここからちょっと難しいんですけども、あなた方から頑張って読んでみましょうか。
あなた方はまだ一度もその御声を聞いたことも見姿を見たこともありません。またその御言葉を自分たちのうちに留めてもいません。父が使わされたものを信じないからです。
ここの意味していることがわかると、いろんなことがわかってきます。
ヨハレの福音書は今まで話してきましたように、表現方法を変えながら、イエス様が誠の神様ですよ。イエス様の言う言葉は真理ですよ。イエス様を信じると永遠のいのちを与えられますよということを赤玉は教えてきています。
このイエス様の言葉もその豊かな表現の中の一つで、こういう意味があるんですね。
この言葉はイエス様が反対者たちを丸め批判して述べた言葉です。
つまり反対者たちがイエス様を否定している、受け入れないということは、神御自身をあなた方が信じているといった正確に言うと、旧約聖書が指し示すところの唯一真事の神様を拒絶していることと同じなんですよということをイエス様はこの表現を通して伝えているわけなんですね。
この豊かな表現を皇帝的な意味で言い換えると、信じている私たちの視点で言い換えると、こういう意味になりますし、もう少し理解できるんじゃないかと思うんですね。
イエス様が聖書の教える真理の神であるということを意味していますけれども、ここで何が言われているかというとですね。
ここで何が言われているかというと、皇帝的な表現で言い換えるとわかりますよ。多分わかります。
まずですね、イエス様の声を聞くということは、神の声を聞いていることですよと言っているんです。
それから、イエス様を今見ているということは、目に見えない真事の神を見ていることなんですよと言っているんです。
そしてイエス様の言葉を信じ受け入れるということは、真事の神の言葉を内に宿す、受け入れるということなんですよ。
そういう言い換えをするとわかるんじゃないかと思います。信じる私たちにとって、皇帝的に捉えられますしね。
実はこれらの言葉を解説して、ある学者がこのようなことを言っているんですね。
傍観者として眺めているだけでは、イエス様を信じるかどうかを決めることは難しい。
まず心を開き、信じることでその真理が見えてくるのだろう。
その上でこの学者はですね、今日のこの歌唱、ヨハネの福音書はですね、次のことを私たちに教えているというんですね。
イエスに宿る神の真理は、信じる者の愛美の中で自然とその真実性が明らかにされていく。しかしそれを言葉で証明する術はないんだ。
ヨハネが言葉で証明する術はないということをアンにここで教えていて、本当にわかるためには信じるしかないんですよ、とイエス様。
そして信じて、イエス様と共に愛美を進めていく中で、このイエス様が言わんとしていることはわかりますよ。
信仰の証明
つまりイエス様を信じるということは、ごとの神を信じることであるという一連のことが、信じる人にはわかると言っているんですね。
これ何度か話したことがあるんですけども、今から25年以上ぐらい前ですけどもね、私が当時通っていた教会にある男性が来たんですね。
その方は大学で神道を専攻して、看護師の資格を持って、看護師もしたことがあるのかな、あるきっかけで教会に来たんです。
すごくいろんなことを手伝ってくれるんですけども、キリスト教に関心があるんですね。
当時私は土曜日の夜、教会に泊まって手伝って、その方も教会に泊まって、いろいろ議論するんですけど、2、3ヶ月やったのかな。
別に喧嘩したわけじゃないんですよ。彼は真理を求めて。
ある夜、今でもはっきり覚えているんですけども、薄暗い食堂で彼と面と向かってキリスト教の話をしている時に、彼が涙を流して、もうわからない、気が狂いそうだって言うんですね。
だから、ああそうですか、とにかく素直にイエス様を信じましょうって言って、イエス様をその場で救い主として信じられたんですね。
結論が出ても、その方はその後バプテストを負けて進学に行かれた。
本当にそのことが私にとっては現体験になるんですけども、それが表しているように、また皆さんも体験しているように、思い切って飛び込んで信じたときに、分かって、それがさらに分かっていくということがあるわけです。
寝顔からそういう方が一人でも多く増えればということも思って、教会でもいろんなことをやっているわけです。
さておきまして、つまりですね、すでにイエス様を信じている人は、もうイエス様が神様であること、父なる神とイエス様が一つであるということ、そして今日イエス様が言っている難しいことがどういうことかということが分かっていらっしゃる。
それでそれがどんどん分かってくるし、体験と結びついていって、よく言うように、神様が本当にいるな、イエス様が本当に私を救ってくださったんだなということが分かってくるわけですね。
実はそれはクリスチャン生活の醍醐味であって、イエス様が言うところの永遠のいのちに生きるということなんですね。
神が与えてくださった豊かないのちに生きる、この世のエンターテイメントだけでは満たせない豊かないのちがそこにあるということが分かってくるわけなんです。
ピリポとイエスの対話
イエス様が十字架にかかる前にですね、弟子の一人のピリポがですね、たまらなくなってイエス様に言ったんですね。さっきの男性に似てるかもしれません。
イエス様、私に父なる神を見せてください。
そしたらイエス様はそれに答えて、こう言うんですね。
ピリポ、こんなに長い間、あなた方と一緒にいるのに、私は知らないのですか。
ここから読んでみましょうか。
私を見た人は父を見たのです。どうしてあなたは私たちに父を見せてください、というのですか。
ここにイエス様がおっしゃっている、ヨハネの十四章九節でおっしゃっている通りですね。
また同じヨハネがですね、後の教会に書いた手紙、第一ヨハネの手紙の五章の十節十一節で、これとおそらく関わることであろうこととして教えているんですね。
その言葉を最後に読んで終わりにしたいと思います。
神の御子を信じる者は、その証を自分のうちに持っています。
神を信じない者は、神を偽り者としています。
神が御子について、証された証言を信じていないからです。
最後のその証とは、からだけ読んでみましょうか。
証と永遠のいのち
その証とは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そしてそのいのちが御子のうちにあるということです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。イエス様は誠の神であり、あなたの御言葉は真理であるということを教えてくださりありがとうございます。
それは本当に深く広く、私たちの理解力では捉え切ることができません。
しかしイエス様を信じ歩むときに、私たちはその豊かないのちに生きることができる、その幸いを感謝いたします。
どうぞ私たちが日々の生活において、これからの生涯の歩みの中で、
このイエス様が誠の神であり、救い主であるということをさらに深く豊かに知ることができるように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは一分ほど黙祷しましょう。
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