光と闇の関係
二つの箇所からお読みします。
まず、8章12節、そしてその後、1章4節5節をお読みします。
イエスは再び人々に語られた。
私は世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。
もう一つ、ヨハネの福音書、冒頭1章4節5節をお読みします。
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
以上です。
今日はこのところから、闇に輝く光と題して、御言葉からメッセージをいたします。
御名さん、おはようございます。
今日は8月17日です。
先週の金曜日は終戦から80年目ということで、さまざまなことが話題になりましたね。
またその同じ日、日本時間だと翌明けですけれども、アラスカ州でプーチン大統領とトランプ大統領が会談したと。
お方の予想通り、何も前向きなものが生まれなかったわけですけれども、そんな揺れるというかですね、いろいろ考えさせられる世の中です。
本当に不安を感じるような世の中ですけれども、今日はですね、それに関係するかわかりませんが、闇に輝く光ということで御言葉から見ていきます。
実はですね、私たちはずっとヨハネの福音書1章1節から順番に見ていきますが、時々このようにですね、時を持ちます。
どういうというかと言いますと、ヨハネの福音書にはですね、特徴があります。
それはですね、1章の1節から18節までが序文になっているわけです。
映画の予告編のようになっていて、終わりまでですね、取り上げられる大事なトピックがそこに詰まっています。
そして実はですね、それを私が毎週説教しながら振り返ってお話しするとよりよくわかるんですけれども、そういうわけにはいかないので、折に触れて、その序文のところに振り返っていくことをしています。
そしてもう1つはですね、ヨハネの特徴と言ってもいいと思うんですが、1つの言葉や文章に多義的な要素を組み込んでいるんですね。
で、それがですね、おそらく読者に広い、そしてよく言う豊かな意味を汲み取ってほしいと思って、ヨハネはどういう意味だろうかと2つぐらい少なくとも解釈できるような言葉を使ったり書き方をしています。
それを知ることによってまた、私いつも話すのはキリストを救い主と信じている方々、クリスチャンと言っていいでしょうか、そういう方向けに話しているんですが、そういう豊かな言葉を理解することによって、私たちのあえて言うと信仰生活とか、あるいは人生が豊かになるわけですよね。
そういうので、折に触れて、そのような短いところを深掘りする機会を持っていきたいので、今日はですね、3つの点から考えていきます。
1章5節4節のですね、光は闇に打ち勝たなかったというところが最初の2点です。
闇の理解不足
最後はですね、今日朗読した、闇の中を歩まない、光の中を歩む、この間それ解説しましたけど、それが日常生活にどういう関わりがあるのかということを見ていく、その3点から話していきたいと思います。
それでは一番最初の点ですね、闇は光に打ち勝たなかったということです。
ちょっと読める方は1章5節を一緒にお読みください。
3、光は闇の中に輝いている、闇はこれに打ち勝たなかった。
実はですね、ご存知の方も多いと思いますが、朗読した8章12節でイエス様は、私は世の光ですと言っています。
そしてそれはですね、冒頭のこれらの箇所と共鳴しあっていて、そこにはですね、1章4節でこういう言葉があるんです。
この方、ロゴスなる神なるイエス様のことですけども、この方にはいのちがあった、このいのちは人の光であった。
そこを受けてイエス様が、私は世の光ですとおっしゃっているんですね。
そして実は、この4節5節は、この時にも解説したんですが、旧約聖書のですね、冒頭創世記の1章のところと共鳴しあっています。
そこをイメージして読むようにと、おそらくヨハネは意図をしているんですね。
そこの部分を引用していますけども、1章1節から4節でこう書かれています。
「はじめに神が天と地を創造された。地は防爆として何もなく、闇が大水の上にあり、神の霊がその水の表を動いていた。」
神話から読めるか読みましょうか。3、はい。
神は大せられた。光あれ。すると光があった。
ここのですね、闇の中に神の言葉が響き渡ったわけですね。
光をあれ。そうすると光がエゲネとなったと書かれています。
それが創造の始まりであり、いのちの始まりだったというイメージですね。
で、創世記の中1章の2節に難しい言葉で、これは防爆という言葉があります。
で、何回するとですね、AIに防爆って何ですかって聞いたんですね。
するとですね、防爆はですね、空虚とか無限とか曖昧という意味があります。
もっと深い意味があるんですけど、ちょっと簡単に言いますね。
そして、実は役に難しい言葉である聖書とか、2つ前の深海約聖書にはこれを混沌という役になっています。
それは混乱や無秩序という意味があるんですね。
だから、創造の始めは何もなかったんですけども、まず闇があった。
そこは混沌として、防爆としていた空虚で、無限で、曖昧な掴みどころがない世界。
混乱し、無秩序があったというふうにも理解できるわけです。
そのようなことを踏まえて、ある学者はですね、闇は光に打ち勝たなかったの意味をこう解説しているんですね。
暗闇の時ですけども、そして創造した時に、その創造の時には光が勝利した。
闇とそれがもたらす混乱や防爆が勝利したのではなかったのであるということなんです。
で、ある学者はですね、こういうことを言うんですね。
御名さん、今朝何時に起きましたか?
人によりますけどね、今日私5時に起きましたけども。
私たちはですね、寝ている間に何が起こっているか。
寝ている間に御名さんね、体力が回復するんですね。
私もこれまで応援してもらいましたけど、まもなく歓歴なんですけど、趣味は何ですか?って言うとね、寝ることなんですね。
もう9時すぎると眠たくなるんです。
でも本当にですね、眠ると幸せなんですね。
頭がぼーっとしてて体も重いんですけども、朝起きるとスッキリするわけですね。
で、寝ている間に何が起こるかというと、私たちの体の機能が回復します。
そしてこの闇夜の中にですね、この野の獣たちが活動するわけですね。
夜行性のムササビですとか、コウモリですとか、何をしているか。
餌を食べている。
そしてそのようにいのちの営みを行っているわけです。
で、それから何が分かるかというと、実はこの闇の中でも、暗闇の中でも、夜でも、神の創造の宮座が続いているということがそこに証されているって言うんです。
で、実は私たち毎日夜を体験しますね。
そして夜が怖かったり、不安になったり、混乱したり、なんか秩序がないと不安になるかもしれません。
しかしそのような夜はですね、私たちの人生にも時々訪れるわけです。
しかし福音はですね、必ず朝日が昇ってくるわけです。夜が明けるわけですね。
そして夜だと思っている中にも神様が働いていてくださっている。
そして私たちが知らない時に、神の時に朝日が昇るように、神のいのちの光が私たちの中に、私たちの人生に輝き昇ってくるんですね。
そしてそのいのちの光が何か。いのちの光である神は誰か、それは人となって現れたイエス・キリストだ。
そのことがですね、ヨハネの1章ですとか8章の先ほどの言葉を通してもわかるわけです。
それが最初の点です。
さあ2番目。
闇は光を理解しなかった。
実は御名さんが持っている神科学聖書だとあると思うんですけども、1章の5節のところに客注がありましてですね。
そこに別の仕方なかったという言葉の別訳として、闇はこれを理解しなかったって書いてあるんです。
アスタリス・クカナンが書いてあって、1章5節の下に闇はこれを理解しなかったって書いてある。
解説書を読むとですね、学者さんが議論しています。
簡単に言うと、どちらの解釈も概然性が高い。
そしてヨハネはその両方を組んで書いた。
読者に汲み取ってほしいと思っているって言うんですね。
この実はわざと難しいことを入れたんですが、ギリシャ語はカタランバノーという。
カタっていうのはアゲインストとかビサイトじゃないですか。
いい意味でランバノーっていうのは取るっていう意味なんですね。
とにかくこのカタランバノーには打ち勝たないと合わせて理解する。
打ち勝つと同じように、理解するという言葉も意味もあるわけです。
ですから闇は光を理解しなかったという解釈もできるわけです。
今その豊かな部分を今日はあえて取り上げているわけですね。
するとどうなるかと言いますと、闇は光を理解しなかった。
どういうことかというと、実は1章の続きを読むとですね、10節11節にこう書いてあるんですね。
世はこのカタによって作られたのに、世はこのカタを知らなかった。
つまりイエスですね。
人となった神イエスがこの世を作ったのに、作られた世はこのカタを知らなかった。
このカタはご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこのカタを受け入れなかったと書いてあるんです。
ここからですね、闇が光に打ち勝たなかったというのをですね、闇は光を理解しなかったと捉えることができるわけなんですね。
実は御名さんも気がつきましたよね。
毎週聞いている方、あえて言うと敗塞人が反対者の旧戦法として描かれていますけれども、
イエス様を神である救い主として認めない。
そして素直にイエス様の言葉を受け入れないから、ヘリクツばっかり言ってイエス様のことを拒絶しているというのが、先週も先々週も見て取れます。
そしてその結果はどうなるかというと、
パリサエビドを中心とするその民はイエスを理解しなかった。
神として受け入れなかった。
そして最後は十字架につけるわけですよね。
そのことが実はここに示唆されているわけなんです。
しかし大事なことは、その十字架は何であったか。
実はその十字架こそまさに人の罪を許す贖いの宮座だったんですね。
そして十字架なおとイエスはどうされたか。復活しました。
復活してご自分が永遠のいのちであるとともに、信じる人に永遠のいのちを授けるという、そのような希望をもたらしてくださったわけですね。
このようなイエス様の十字架と復活について、ある学者はこのように述べているんですね。
先ほどの光と闇の関係と合わせてこう書いています。
イエス様が十字架にかかったゴルゴタあるいはカルバリーの丘では、光と闇が激しく決定的な争いをし、闇は光に打ち勝てなかったのである。
十字架は光が闇に勝利した決定的な証であったわけです。
そしてイエス様は先週、先々週見た箇所では、イエス様に反対する人たちにこう言いましたよね。
あなた方は罪ゆえに私と父の身元に来ることができない。
罪ゆえに神様とイエス様のもとに最終的にたどり着けない。
というのが、あえて言えば人間の差がでしたけれども、
このイエス様の十字架の贖いと復活によって信じる人は神様に行けるようになった。
そのような道を開いてくださったいのちなる光がイエス様である。
そのいのちの光がまさに理解しない闇によって掲げられた十字架でしたけれども、
その十字架からいのちの光が輝いて闇に打ち勝っているということもわかるわけですね。
それが2番目です。
日常生活における光
最後、それでは日々光の中を歩むとはどういうことかと考えていきます。
今日ボードで読んだ八章十二節を繰り返し読みますね。
読めれば読んでみましょうか。何のこともすいませんね。
私は世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。
闇の中を歩まない、光の中を歩むということを派生して見ていきたいと思います。
私たちの日常生活と関わることだからです。
十字架の上で決定的な罪の勝利が与えられた。
しかしイエス様を信じたクリシャーの方々は、正直であれば、それでも私たちには罪という問題が残るわけです。
もっと極端に言うと、罪を犯さずに生涯過ごすことができないという現実に直面するわけですね。
そんな中でちょっと考えていきたいんですけれども、この同じヨハネが当時の教会にあてて書いた手紙があります。
3通書きましたが、1通目のヨハネの手紙第1からちょっと見ていきたいと思うんですが、
1章7節でこんな約束があるんですね。
もし私たちが神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、
御子イエスの血が全ての罪から私たちを清めてくださいます。
光の中を歩むこと、イエス様の血が全ての罪から私たちを清めること、または互いの交わり、教会でしょうか、神様でしょうか、そのような交わりを保つ。
そのように光の中を歩むことと罪の許しということがここで書かれているんですね。
ちょっとそのことを頭に留めておいてください。
そこで、ヨハネはこうも言っているんですね。
ネガティブな指摘なんですが、
もし私たちが神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理をおこなっていません。
もし自分には罪がないというなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。
ちょっとここから読んでみましょうか。
もし罪を犯したことがないというなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神の言葉はありません。
あえてちょっと長いんですけども、また繰り返しや重なる意味もあるんですが、ちょっと引用してみました。
ここで言うことは、罪がないというならば、そういう問題が指摘されています。
そうするならば、自分を欺いているんですよ、そして神さんを偽り者とするんですよ、また闇の中を歩んでいるんですよと言い換えることができるんじゃないかと思うわけですね。
実はこのような態度が、先週まで見た、ヨハネが書いていますので書いていますが、パリサイ人の態度ですね。
イエス様を目の前にして、イエス様の言葉を聞いて、ありありとしたイエス様の証言を聞きながら、イエス様を神なら救いの人を認めないという態度。
それが反映されています。
そういう自分には罪がないということは、自分と神について、偽の証言をしていて、闇の中を歩んでいるということが、これらのことからわかるわけです。
では、光の中を歩むことのヒントは何かあるのかということで、この同じ文脈の中の9節にこういう言葉があるんですね。
読んでみましょう。
ちょっと長いですけどね。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を許し、私たちをすべての国から清めてくださいます。
ちょっと今、サブミニナル効果みたいなケーキが出てきましたけども、これ何か。これですね。
おはぎケーキだそうですよね。
おはぎとケーキで検索したら出てきたんですけど。
今ね、夏休みで太郎くんがですね、おばあちゃんの家に帰省したんですね。
親戚が集まりますから、おばあちゃんがですね、ケーキとおはぎを用意した。
そしてこれから食べようという時ですね、太郎くんは、私みたいに我慢できなくなってですね、ケーキをちょっとつまみ食いしてしまったんです。
そしたらですね、お母さんが出てきて、太郎、ケーキつまみ食いしたんじゃないか。
食べてません。これしっかりクリームがついてるわけですね。食べてません。
明らかに嘘ついてることがわかります。
食べなしたらごめんなさいって言ったら、いいのよ、あなたの分だからケーキ食べなさいって言われたわけです。
本当にレベルが低い例えで申し訳ないんですけども、これと同じでですね。
神様がこれは罪です。あなたは罪を犯しましたと聖書の言葉や、クリスチャーが言う聖霊の促しとかですね、いろいろな中で示されたら、
はい、その通りですということをですね、聖書で告白するって言うんですね、罪を。
実は告白するという言葉はギリシャ語でホモロゲオ。ホモというのは同じです。
ロゲオというのは言うってことなんです。
同じことを言うことが告白で、神様がそれは罪だよ、あなたは罪を犯していますよという時に、はい、そうですって素直に言うことが罪を告白することです。
実はキリスト者はですね、そういう心に罪責があるときにですね、神様、このような私を許してください。私はあなたの前に罪を犯しましたという告白の祈りをします。
その根拠はですね、十字架にかかったイエス様の先ほど言ったあがないです。
ちなみに脱線しますけど、カトリックではですね、国会っていうのかな、この懺悔室に入ってこの罪を言い表すんですけども、それはですね、意味があります。
人はですね、人格に触れてですね、自分の罪を言い表してあなたは許されてますっていう時に許しを体験するんですね。
ですから、神父さんなりあるいは牧師なりしたし、クリスチャンの間柄でそういう罪がありますと言って、許されてますよというやり取りはまだ健全なことであるとも知っておいてください。
はい、そのようにですね、心に罪責があるときに、罪と認めてそれを神に告白して、そしてイエス様の十字架の上にその罪が許されているということを感謝する。
それが罪の告白であり、実はそれが光の中を歩むということなんです。
ですから光の中を歩む人っていうのは、全く罪を犯さない人ではないって言うんです。
それは自分に正直になって、神様の光で示された罪をですね、はい、その通りですと認めて、それで自分が責められるんではなくて、もう一つの真理。
イエス様の十字架によってこの罪も神の前で明かされて私が許されている。
そしてイエス様の十字架の流された血によって私の罪ももう許され清められていることを感謝しますと歩む。
それが光の中を歩むことであって、私たちを余計な罪責感から解放する。
まさに自由の歩みである。
罪の告白と許し
そのことを覚えていただきたいと思います。
そのように今日三つの点からは見ましたけれども、光の中を歩むということ、そして光は闇に輝いて、闇は光に打ち勝たなかったということをまた捉えながらですね、日々の生活、そしてヨハネの福音書を読み進んでいただきたいと思います。
最後にもう一度大中華の一書九説を読んで終わりにしましょう。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を許し、私たちを全ての不義から清めてくださいます。
お祈りしましょう。
天の神様、御名お賛美いたします。
イエス様が誠の光としてこの世に来られました。
私たちいのちを与え、自然の中で夜明けを与えてくださる光であり、また私たちを罪から救い、解放してくださるいのちの光であることを覚えて感謝いたします。
どうかあなたの十字架、またあなたが共におられるあなたのいのちの導きを光の導きと信じて日々歩んでいくお互いであり、教会でありますように。
あなたの御言葉、また許しの約束を感謝して、イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それで一分ほど黙祷する時間を持ちましょう。