ギリシャ人との出会い
お読みします。ヨハネの福音書12章20節から26節ですね。
26節、ちょっと修法にも誤植ありましたけど、26節までお読みします。 さて祭りで礼拝のために登ってきた人々の中にギリシャ人が何人かいた。
この人たちはガリア屋のベツタイダ出身のピリポのところに来て、 お願いします。イエスにお目にかかりたいのですと頼む。
ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポは行ってイエスに話した。 するとイエスは彼らに答えられた。
人の子が栄光を受ける時が来ました。 誠に誠にあなた方に言います。
一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままです。 しかし死ぬなら豊かな実を結びます。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、 この世で自分のいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至ります。
私に仕えるというのはその人は私についてきなさい。 私がいるところに私に仕える者もいることになります。
私に仕えるなら父はその人をお申じてくださいます。 以上です。今日はこのところから
身を結ぶ詩と題して御言葉を取り継ぎます。皆様おはようございます。 先週は北風が吹いたり寒い日がありましたが、今日は昨日今日と比較的暖かい日でありがたいですね。
また成人式、成人の日が明日となっていますが、 その中共に礼拝できる幸いを感謝しています。
さて、ヨハネの福音書をずっと続けて学んできました。 ヨハネの福音書の特徴はですね、他の3つのマタイ、マルコ、ルカの福音書と違った表現や出来事が描かれている。
似たような言葉、同じ言葉がですね、 共感福音書、マタイ、マルコ、ルカに書かれていても、ヨハネだけ特徴的な語り方をしている。
そんなところが、今日の箇所にも見られるわけです。 そこでですね、今日の箇所の出来事は、過越の祭りをですね、しばらく前からエルサレムで祝っていた。
先週はイエス様がロバに乗って入場したと見てきました。 そして今日はですね、そんなところにギリシャ人たちがやってきた。
ギリシャ人たちがやってきたことが発端になって、今日のイエス様の言葉が語られるわけです。
当時ですね、これは純粋なギリシャ人だったそうです。 いわゆるギリシャ地域に離散していたユダヤ人ではなくて、いわゆる違法人としてのギリシャ人で、そして
彼らは滑稽を受けてなくても、聖書が言う神様を信じてですね、そして過越の祭りを祝いに来ていた。いわゆる経験な
何でしょうかね、民だったわけです。でも違法人だったんです。 実はその違法人の代表として、ギリシャ人たちがイエス様のもとに行きたいということで、弟子のピリポにお話しし、
アンデルに相談して、そしてその二人がギリシャ人たちをイエス様のもとに連れて行った。 そのことを受けてイエス様が今日の言葉を語ったんですね。
こんな風景だったんじゃないか、英語ですけどね。 そのことを受けてですね、イエス様はいよいよ栄光を受ける時が来た。
人の子自分が栄光を受ける時が来たと言っています。 この人の子とはメシアであるイエス様ですけど、時が来た。
それまでですね、イエス様は神殿で教えていても、逮捕者が来ても捕らえられなかった。 なぜならまだ時が来ていなかったから。
いよいよ時が来た。それは人の子イエス様が栄光を受ける時だ。 詳しく言いませんが、それはまさにイエス様が十字架にかかる時が栄光の時。
そしてさらにそれは復活に至って、天の御座にイエス様が着座されるところまで至る。 まさに本当の栄光の座にイエス様が
使われる。ですから、それらの一連のことを指して、十字架の時がイエス様が栄光を受ける時だということで、いよいよその時が来たと
一粒の麦の教え
イエス様が言ったところから今日の話が始まります。 それでその中でですね、まず一つ目は一粒の麦ということを見ています。
読んでみますね。ちょっと読んでみましょうか。長いですけど。
人の子が栄光を受ける時が来ました。 誠に誠にあなた方に言います。一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままです。
しかし死ぬなら豊かな実を結びます。 ヨハネ12章の23,24節ですね。
この言葉は聖書の中でも非常に有名な言葉で、いろいろな芸術作品のモチーフにもなっています。
学生時代ですね、私の先輩がですね、ある留学生の家に遊びに行ったんですね。
下宿に。その留学生の方がその彼にですね、コーヒーを入れてあげるよって言ったんです。
楽しみにして待っててですね、出てきたコーヒーを見たらやたら薄いんですね。
おかしいなと思って飲んで薄くてかき混ぜたらですね、コーヒー豆がそのまま入ってたんですよ。
コーヒー豆っていうのは、ひかれないと粉々にならないと役に立たないですよね。
同じようにこのパンもですね、この麦の実が砕かれてこそパンになりますし、
そしてここでイエス様が言っているのは、種まきをですね、埋葬の死と重ね合わせて、
そしてその麦が地に落ちて死ぬというのはご存知のように、地の中に落ちて麦が芽を出す、それを死ぬという状態ですね。
よくイコジーという言葉がありますよね。イコジーというのはもうカタクナになってですね、自分を変えない。
種がイコジーになって、種のままでいいんだって言ったらですね、実を結ぶ。
でも種がイエス様が言うには、死んで壊されて芽が出て、それがやがて実を結ぶということをここで言っています。
皆さんお察しの通り、ここでですね、
種としての一粒の麦は人のために実を結ぶ。そのためにはですね、地に埋められなければいけない。
そのように人の子も多くの人を、ギリシャ人から始まる世界の全ての人を生かすために、自分が死ななければいけないんだということを、この麦の例えから教えているわけです。
そしてそれがですね、今度は、あえて言えば、私たちへの生き様や信じる人への招きの言葉になっていくんですね。
2番目、いのちを憎みいのちを得る。 イエス様はこの麦の例について、こう言いましたね。
25節、読めるか読んでみましょうか。
自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
これは他の福音書にも似たような言葉が出ていますが、
この言葉、いくつか抑えておかなければいけない大事な点があります。
特徴的な、目を引くインパクトのある言葉ですけれども。
ここでですね、まずイエス様は自分がいのちを投げ出して、犠牲になる生き方を、
ご自分を信じようとしている人たちに対しての生き様に当てはめていくわけなんですね。
ある意味一粒の麦になりなさいと。 その上で大事なことのまず一つ目はですね、この憎むという言葉です。
憎むというのはですね、よく聖書で使われている当時の言い回しです。
ヘブライ的表現と学者は言いますけれども、その表現の中で、それはですね、いのちを粗末にするという意味じゃないんです。
あるいは生活をないがしろにするという意味じゃないんですね。
それは何かというと、より少なく一方を愛するということです。
よく例に例えられるのが、ヤコブがですね、ラケルとレアを目取りましたね。
ラケルの方を愛していたわけです。妹の方。でもレアをないがしろしてなかったわけです。
その時にこの憎むというような言葉が使われているんですけれども、
ヤコブはラケルを愛し、ある面より少なくレアを愛した、そういうニュアンスなんです。
まずそれを捉えてください。より少なく愛するということが憎むという言葉で意味しています。
次に大事なことはですね、先ほども少し申し上げましたが、イエス様の場合は、ごめんなさい。
イエス様の場合はですね、
世界の人々を救うという意味でいのちを得ると言っているのに対して、この25節では、その人がイエス様の言葉を聞いている人自身が自分のいのちを得ることに関わった言い方だと言うんですね。
すなわちイエス様の死は他の人のいのちに関わっていましたけど、ここでのその人の死は自分のいのちに関わった教えだということです。
パウロの教え
それを踏まえて先ほどのですね、自分のいのちを愛することと憎むことを、その対比をもう少し考えていきます。
ちょっとね難しいかもしれません。微妙な点なのです。
で、ちょっとこれ先出てしまいましたけれども、時々ですね、この自分のいのちを憎むということでね、よく教会ではキリスト教会で
自分に死ぬっていうことを聞くじゃないですか。自分に死になさい。
でもですね、それだけだとある目片手落ちなんです。 そうじゃなくて、大事なことはですね、置き換えるということなんですね。
つまりですね、ある学者がこのように指摘しているんです。 置き換える。果てしなく恥知らずに自己へ向けられた性というのは、
イエス・キリストへと置き換えられなければならないということです。 自分のことばっかり、
自分をまあ、あと今日はちょっと用意したんですけど言いませんけどね。
まあ簡単に言うと、自分の欲望を満たすとかですね、欲求を達成するとか、そういうことにしか向かなかった関心を、
その焦点をですね、 イエス様や神様は何を望んでいるかというところに置き換えるということです。
自分に死ぬだけじゃなくて焦点を置き換えていく。それが違うんですね。 だから言い換えると、自分のいのちを愛することと憎むということは、
優先順位のことを言っている。 先ほど言った、より少なく愛するという形しましたよね。
繰り返しますけども、自分のいのちを粗末にしたり、生活をないがしろにするという意味で憎むということを言っているわけじゃなくて、
繰り返して申し訳ないんですけども、置き換えて、優先順位をイエス様、神様ならどう思われるかなというところに考えていくということですね。
先ほども繰り返しましたように、そちらの方に優先順位を置くことのゆえに、自分のいのちに関わる関心事が神に関わること、自分の生活に関わることがイエス様に関わることより、その関心が比べて少ないということを言っているわけですね。
皆さんも教会生活長いから分かっていらっしゃると思いますけども、そういう生き様は人から強要されてするべきものじゃないじゃないですか。
あるいは人にましてや強要するものではないですよね。それを強要するのが、いわゆるカルト、宗教ですね。
後で申し上げますが、成熟したいキリスト者というのは、私とイエス様との関係の中でどうするかということですよね。
人に言われたとか、あの人がどうしてるしてないとかじゃなくて、私と神様との関係の中で、私はこう生きるということを最優先にするということが、まず自分よりも神を愛するということだというわけなんです。
実はこのようなバランスが取れた人ですね。繰り返しますけども、神様に関わることを最優先しながら、自分の生活をないがしろにしたり、自分のいのちを粗末にしないというそのバランスを取っていくことが、クリスチャンの成熟だと私は考えます。
そして実はキリスト者の地上の旅人においては、そのような神を優先しながら、この世のことをないがしろにしないということの、ちょっと軽い言い回しかもしれませんけど、そういうバランス感覚を養っていくことが弟子としての成長や愛みなんではないかなと私は考えるわけです。
その実例として、使徒パウロが考えられるんじゃないかと思って、彼に偽算をちょっと、あ、ごめんなさい、これバランスね、フンドはここに置くやつか、ブンドキ、あ、じゃあブンドキではない、とにかく、わざわてんび、わざわてんびのようにバランス感覚を養っていくことが大事だったんです。
で、パウロの例を見てみますと、フィリピン人の手紙によく現れていると思って拒否をしますが、彼はまずですね、自分よりもイエス様を優先するということをこの中で書いていますが、フィリピン1-21でこう言っているんですね、読んでみましょうか、3、私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
これはね、衝撃的な言葉ですね。でも、今までイエス様が教えてきたことで、パウロはですね、この時ローマの獄中にいて、死ぬかもしれないという中でした。でも、自分が愛し育てた教会のフィリピンの人々にですね、私は死ぬことがあっても、ということで、フィリピンの人々にこのようなことを告げているわけです。
けれども、彼は続けてですね、フィリピンの人々のためには、自分が生き延びることが大事だと言って、自分のいのちを粗末にしていないんですね。2-22、続けてすぐにこう言っているんですね、読んでみましょうか、3、しかし肉体において生きることが続くなら、私の働きが身を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいか、私には分かりません。
続けて読むと、本当は私はイエス様のもとに行きたい。でも、あなた方のためには、生き延びてあなたのところに行くことがいいから、どっちを選んだらいいか、板挟みですよ。ここで繰り返しますけれども、彼はイエス様のために自分のいのちが失われてもいいと思いながらも、地上の生き方を粗末にしていないということですよね。
そしてさらに彼は、豊かさも肯定し、貧しさも受け入れているんです。豊かさが悪、貧しさが悪とも言っていない。豊かさが良い、貧しさが良いとも言っていないんですね。どちらも受け入れている。その態度が同じ4章の13節付近に書いてあるんですね。
イエス様の道を歩む
私はどんな境遇にあっても満足することを学びました。私は貧しくあることも知っており、富むことも知っています。ここから読んでみましょうか。
満ち足りることにも、飢えることにも、富むことにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強く知ってくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。
検証にいっぱいあるように、ピリピリとの手紙には、自分のいのちを健全に憎んで、キリストに身を捧げていのちを得るという生き様がよく書かれています。
ピリピリとの手紙は、その気になれば30分ぐらいでさらって読めちゃいますので、ちょっと1回読んでみると、そういう深みがわかると思いますので、一応、イエス様のメシ、自分のいのちを憎み、神にあって自分のいのちを得るという、そのような生き様について、この短言の最後にピリピから引用していました。
私たちも彼に倣ってですね、イエス様の道を歩んでいくことを目指していきますけれども、最後にですね、そのイエス様の言葉、イエス様へ歩んでいく言葉について取り上げていきたいと思います。
3番目、イエス様と共にいて、イエス様に仕えるということです。ちょっと今日読んでもらうことが多いんですけれども、読んでみましょうか。12章の2次6次3。
私に仕えるというのなら、その人は私についてきなさい。私がいるところに、私に仕える者もいることになります。私に仕えるなら、父はその人をお申じてくださいます。
この言葉はですね、他の福音書にもある弟子の証明の言い換えですね。そう言われています。有名な言葉はですね、これと言い換えたとされている有名な言葉、こんなのがですね、マルコの8章の34、35。
誰でも私に従ってきたければ、自分を捨て、自分の十字架を追って私に従ってきなさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、私と福音のためにいのちを失う者はそれを救うのです。という言葉ですね。
その上でですね、このヨハネの12章26節の言葉ではですね、自分のいのちを愛することだけしか考えなかった生き方からですね、その焦点や関心を神やイエス様に向けるという生き様について、これは言い換えているんですね。
それをですね、イエス様についていって、イエス様がいるところにイエス様に仕える人も一緒にいる。
イエス様がいるところにイエス様の弟子が行く。
自分を捨て、あるいはあえてこの御言葉に合わせて言えば、自分のいのちを憎んでいる人というのは、イエス様がいるところに共に行く人だという言い方なんですね。
でもですね、幸いのことは、イエス様が言う意味で自分のいのちをイエス様に従う中で失う、あるいは手放すということがあってもですね、素晴らしい約束が語られています。
それは、私に仕えるなら父はその人を御文字で下さいます。
ティマオと言ってですね、尊敬してくれるという。
父なる神様がそんな人を尊敬して下さいますというね、変わった言い方をしています。
そしてこれはですね、もっと言い換えると、イエス様と共に神から栄光を受けるという最後は、そういう意味になると学者は言うんですね。
先ほど申し上げましたけれども、実はイエス様が栄光を受けるというのはどういうことかというと、それは十字架の上で死ぬということも、後で来週以降見ますけれども、それ自体もイエス様の栄光なんですけれども、
そこから埋葬され、復活し、天に登り、神の御座に着くという、そこまでの一連の流れを指して、イエス様の受難がイエス様の栄光に至る、イエス様の栄光だという言い方をしています。
同じようにですね、もし私たちがイエス様の足跡についていくならば、前からお伝えしていますように、私たちはやがてですね、
イエス様と共に神の御座に着く、イエス様と共にイエス様の栄光の姿に変えられていくということをここで指しているわけですね。
イエス様に着いていくものは、イエス様の死だけではなくて、イエス様の受ける栄光も受けることができるという、そういう意味で父からお文字られる、父から尊敬されるとイエス様は言っておられるわけです。
このように十字架を背負って歩むこの生涯を通して、私たちはイエス様の栄光に預かっていくという約束がある。この間も話しましたが、その希望は失望に終わらないということですよね。
ただね、やっぱり私たちは死ぬような体験とかつらいことはしたくないですよね、できればね。そんなことがあったらなんでこんな目に遭うんだ。
でもそのような試練は残念ながら訪れてしまいますね。しかしその中にあっても私たちはイエス様の死を体験するわけですね、苦難を通して。
そしてそのような苦難を通して実は私たちとイエス様の絆がですね、より深まっていく。そんな体験が皆様もしているように私たちにも約束されているわけですね。
パウロの教え
試練を通して私たちもイエス様との絆が深まって、実はそれはですね、イエス様が私たちをご自身との交わりに招いておられる。
試練を通してイエス様は私たちをご自身との深い関わりに引き入れてください。そのような出来事として私たちはこの世で受ける試練というものを受け止めていくことができるわけですね。
そしてやがてイエス様と共に神の役を受けていく。
最後になりますが先ほどのパウロもですね、同じピリピリとの手紙の中でこう言っているんですね。
ピリピリとの手紙はね、喜びの手紙なんです。いつも喜んでいなさい。
で、その手紙の中でパウロはそう言いながらもこのようなことも言っているんですね。
1章29節、ピリピリ1章29節。
読んでみましょうか、最後3。
あなた方がキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。
極中からパウロがそのようなことを語っていましたけれども、私たちもそのような覚悟を持ちながら歩まざられない時がありますけれども、しかしその先にはですね、
神様の栄光が約束されており、その中を通して私たちはイエス様とより深い絆に結ばれていく。
そんなことを感謝しながら歩んでいくお互いであり、一念でありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、御名を賛美いたします。
一粒の麦のそのたとえから、イエス様の十字架の師の尊さ、そして私たちがイエス様の十字架の道行きへと招かれている、そのことを学びました。
私たちがどうか、その幸いの約束である神様と神様の義を求めていく、そのような歩みに進んでいくことができますようにどうか導いてください。
また様々な試練に遭う中でも、私たちがイエス様との交わりを深め、またあなたに約束された栄光の望みとして歩んでいくことができますようにどうか導いてください。
そのようなことを通してどうぞあなたが私たちを通しても豊かな身を結んでくださいますようどうかお願いいたします。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーム
それでは御言葉に応えて一分ほど黙祷する時間を持ちましょう。