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2018-04-15 37:48

2018/04/15:ヨハネの福音書講解説教(24)私たちの光なるイエス・キリスト

2018/04/15 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 ~20

00:00
一言、祈りさせていただきます。
イエスはまた、彼らに語って言われた。
私は、世の光です。
私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、
命の光を持つのです。アーメン。
主よ、イエス様が、
私たちの光であられること、
イエス様にこそ、
希望があること、
主よ、今日、この御言葉を通して語っていただきたくと、
切に願っている、この群れの上に、
一人一人の魂の中に、主よどうぞ、
あなたが、語ってくださいますように、
悟らせてくださいますように、
そして、なおなお、あなたを愛し、
あなたを見分け、
あなたの真理によって生きるものとしてくださいますように、
主よどうぞ、祝してください。
感謝して、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
ヨハネの福祉書、公開説教が24回目で、
タイトルは、
私たちの光なるイエス・キリスト
私たちの光なるイエス・キリストです。
皆さん、普段、新聞とか、
あるいはニュースとかよく見られますよね。
いかがですか。
ニュースとか新聞を見たりして、
良いニュースがたくさんありますか。
実際にニュースや新聞の記事を、
読んだり見たりして、
良いニュースより、
悪いニュースがずいぶん多いんですよね。
もちろん、そうだからといって、
良い話がこの世の中には、
全くないわけではありませんけれども、
ところが皆さん、
今日であろうが、
百年前であろうが、
私たちが生きているこの世と、
この社会を覗いてみたら、
皆さん、神様が最初に作られた、
あのエデンの園のように、
この世が今のね、
今の社会がこの世が美しいと、
感じられるでしょう。
この世と社会を覗いてみると、
神様が最初に作られた世界とは、
もう全く違っていると思うんですね。
思うだけなく、
実際に私は感じていますし、
見てますし、
それに触れているんです。
そうなって欲しく、
思うわけではありませんが、
そう思っていませんが、
03:01
新聞やニュースや、
ネットや様々なものですね、
見ますと、
戦争、
あるいはテロ、
あるいは暴力、
様々な犯罪が本当に、
また一方では、
飢餓や、
あるいは貧乏、
あるいは病気の中の故にですね、
苦しんでうめいている人々が、
この世の中にたくさんいます。
日本にいる我々は、
周りにそんなにですね、
飢餓や、
あるいは貧しさ、
もうすごい病気ですね、
苦しんでうめいている人が、
それほどいないかもしれません。
ところが、
ちょっとした東南アジアの国とか、
アフリカに行ったらですね、
ちょっとした目薬がなくて、
日本だったら、
どこかのドラッグストアに行ったらですね、
いつでも買える、
そんなビタミン、
醸剤がなくて、
簡単な薬がなくてですね、
もう治らない人々が、
アフリカや東南アジアは、
数え切れないほどたくさんいます。
その面だけ見るならば、
いや本当にこの人類には、
この地球には、
希望がないんじゃないかと、
そういうふうに感じられるかもしれません。
戦争はいつ起こるかもしれない。
どこでですね、
いつテロが起こるかもしれない。
最近のニュースを見たら、
大型のトラックがですね、
いろんな犯罪やテロにですね、
使われるニュースが、
あちらこちら飛んできているのではないでしょうか。
金持ちも不安であって、
貧しい人もまた不安である。
ところが皆さん、
2000年前、
いや2000年前だけなく、
今の私たちに、
もしも何らかのゆえで、
希望を失っている人がいるならば、
あるいは、
絶望の中に苦しみの中に、
うめいている人がいるならば、
その私たちに、
その人々に、
唯一の希望をお与えになる方がおられる。
その方は誰でしょうか。
イエス・キリストです。
イエス・キリストです。
今日の12節を、
一緒に読みませんか、
皆さん12節、
一緒に読みましょう。
3、イエスはまた彼らに語って言われた、
私は世の光です。
私に従う者は、
決して闇の中を歩むことがなく、
命の光を持つのです。
アーメン、アーメン。
もう一度ですね、
イエス様が語られた言葉を私から読みますね。
私は世の光です。
私に従う者は、
決して闇の中を歩むことがなく、
命の光を持つのです。
06:04
罪による堕落、絶望、闇は、
今日にあるだけではないですね。
このイエス様が言っておられた、
このおおよそ2000年前の、
あのパレスチン、
イスラエルはどうだったんでしょうか。
大帝国と言われるローマがですね、
もう巨大な政治、社会、軍事の勢力を持って、
北アフリカ、今もイスラエル、シリア、
今も戦争がですね、起きているシリア、
レバノン、あるいはギリシア、トルコ、ローマ、
すべての地中海の演變を支配していた、
あのローマがいた。
そこには貪欲がある、野望がある、
もっと大きい土地を、
もっと広い植民地を得ようと。
そして向こうでは、
その非支配によってですね、
のゆえに苦しんでいる、苦しんでいる、
イスラエルの人々がいました。
だから皆さん、世界史の歴史を見てもですね、
あるいは日本史を読んでもですね、
ただ年度が違うだけで、
人間は実は変わらないんです。
例えば皆さん、古代の人は今の我々より、
もっと心は清くて、純粋で、
堕落していないと思いますか。
そうではないんです。
古代の人であろうが、現代の我々であろうが、
皆、人は堕落していて、罪人であるということ。
しかし、そういう堕落していたとしても、
その絶望の中にあっても、
イエス様は、私は世の光ですと、
私は世の光です、
私はあなたの光ですと叫んでおられます。
そして私に従う者は、
決して闇の中を歩むことがなく、
命の光を持つと語ってくださいました。
イエス様に従う者は、
闇の中を歩むことがありません。
命の中を歩むように変えられます。
闇の中を歩むとどうなるのでしょうか。
その人生は闇の奴隷となります。
罪の奴隷になります。
闇に、罪に囚われてしまいます。
09:01
そしていろんな闇が我々の内側にも、
忍び込んで入ってきてしまいます。
今日のですね、読んではいませんが、
ヨハネの福音書の8章のところをちょっとご覧ください。
8章の前後しますけれども、34節ご覧ください。
イエス様がこう語られました。
ヨハネ8章34節、私は読みますね。
イエスは彼らに答えられた。
誠に誠にあなた方に告げます。
罪を行っている者は皆罪の奴隷です。
とイエス様が語られました。
罪は、自分が我々人間が犯す、人が罪を犯すというのです。
しかし、自分が罪をコントロールしていて、
自分が罪を犯していると思うんですけれども、
イエス様は全く根本的な観点から語られました。
いや違う、それはあなたはその罪の奴隷なんだ。
罪に捕らえられているなんだ。
罪の捕らわれ人なんだと語ってくださいました。
実際皆さんそうなんです。
私たちの人間関係とか、あるいは夫婦関係、
様々な社会の関係を見ますとですね、
そこに色々な失敗があったり、
あるいは何かの本当にもうひどいことが起きてですね、
それがもうトラウマになったり、
あるいは昔の何か自分が知ってはいけない大きな罪を犯したとしましょう。
そしたらそれがまた自分の心の中に大きなショックや、
あるいは何かの心の傷があったり、
あるいは何か大きな事故があったり、
そういったことがあってですね、
そのことのゆえに、その闇というもの、
あるいは罪というもの、あるいは傷というものに捕らえられやすい、
捕らわれやすいものである。
そしてそれらに奴隷になりやすいという弱さが我々にあるんです。
そしてサタンがそれを道具として使ってしまう、捕らえてしまう、
奴隷にしてしまうということを我々は見抜いていなければならないんです。
あるいはまたね、こういうこともあるかもしれません。
何かの罪のゆえにですね、その罪の奴隷になってしまう。
例えば今の社会ですね、もう昔も、
12:00
古代もそうですけれども、本当に性的にも堕落している。
若者であろうがね、もうその快楽を楽しんでいる。
自分が楽しんでいると思う。
でも実はあのサタンにですね、操り人形みたいにですね、縛られているだけなんです。
心の傷、あるいは絶望、そういったもののですね、
そこから自由になるはずなのに、
イエス様を見上げてですね、イエス様のゆえにすべての捕らわれ人が自由の身になるはずなのに、
縛られていて、縛られていて、そういう場合が実は私たちの周りに少なくないということであります。
そういう場合に何が必要なんでしょうか、皆さん。
薬が必要なんでしょうか。
カウンセリングが必要なんでしょうか。
もちろん多少役に立つかもしれませんが、
根本的な解決策は薬にありません。カウンセリングにありません。
イエス、キリスト、他には答えはないのです。
だから、弱音の訓書8章32節読みましょう。
先はね、34を先に読みましたけれども、32節を一緒に読みたいと思います。
そして、あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。
アーメン。
皆さん、これが私たちが掴むべき、握りしめるべき御言葉であります。
あなた方は真理を知り、その真理があなた方を自由にする。
私の周りには目には見えませんが、こっちには言っていませんが、
多くの人々が様々なものに奴隷になっているのです。
心の昔の傷、何かのトラウマ、何かの罪、人間関係がギクシャクしていて、
そこから来る痛み、そういったものに縛られている。
そこから本当の解放をね、不利を与えてくさる方は誰でしょうか。
イエス、キリスト、他にはないのです。
ところがここでですね、真理があなた方を自由にしますと言いました。
この真理とは何でしょうか。
真理。
同じ、ヨハネの福音書14章6節に行きましょう。
ヨハネの福音書14章6節。
14の6節。
ヨハネの福音書14章6節。
15:04
一緒に読みたいと思います。
イエスは彼に言われた、私が道であり、真理であり、命なのです。
私を通してでなければ、誰一人父の身元に来ることはありません。
アーメン。
イエス様はこう語られました。
誰が道ですか、皆さん。
誰が道ですか、答えてください。
別の話ですけどね、私、学生の時にキャンパスクルセドの2年ほど活動しておりましたけれども、
夏にキャンプをするビーチのところにキャンプをする。
夏の日がたくさんある。
ここでも1000人以上の学生さんが集まって、その先生が亡くなられましたけれども、
その先生がですね、誰が道ですか、みんなイエス、キリスト、大きな声で叫ぶんです。
恥ずかしいなと思うんですけれども、皆さん、誰が道ですか、イエス、キリスト、誰が真理ですか、イエス、キリスト、誰が命ですか、イエス、キリストなんです。
イエス、キリストこそ、私たちをすべての痛み、トラウマ、病気、罪の鎖から自由にしてくださる。
だから私はイエス、キリストのもとに行かなければならないんです。
そうしますと解放されます。
鎖が闇と傷と絶望と傲慢とすべての罪が消え去る。
そして道が見えてくる。
真理が自由にしてくださる。
そして命と光が注がれるんです。
皆さん、私たちは闇の中にあるとですね、光が嫌なんですよ。
闇は、罪は、光が嫌なんです。
だから逃げたくなる。
目を逸らしたくなる。
しかしそうしてはいけない。
逃げてはいけませんし、顔を逸らしてはいけない。
イエス様は決して私たちを裁かれる方ではありません。
弱さを知っておられる。
トラウマを、傷を、闇の中を歩んでいる私たちのことを、堕落した本性を、
私たちが何に縛られているのか、イエス様はよく知っておられる。
そして、もしも私たちがその根縛られていて、囚われていて、苦しんでいるならば、
涙をしているならば、うめいているならば、
精霊様がイエス様が側で、いや、内側で一緒にうめいてくださる、泣いてくださる。
そしてイエス様が今日の御言葉を思って、その人に、いや、私たちにそう叫んでおられる。
18:05
私が光である。私が光だ。
私があなたの人生の光だ。私があなたの家庭の光だ。
私があなたの夫婦の間の光だ。
あなたの将来の道の光だと、イエス様が語ってあられます。
だから私は、このイエス様の宣言の御言葉を聞くときに、生きられますよ、皆さん、生きられます。
他には方法がないんです。道はありません。
ところがイエス様が、私は光であると語られたときには、こういう意味があります。
一つ、この世は闇である。私たちはそれを認めなければならないです。
いくら文化が最先端の技術が、科学が発達していたとしても、この世は闇である。
アダムとエヴァ、その堕落以降、人間は罪のゆえにどんどん堕落してしまいました。
その堕落した役、ノアの時代の洪水の神様の裁きがありました。
あの洪水のあれは神話ではありません。歴史的事実である。
そしてそれは一つ、私たちに教えてくれるメッセージがある。
あの時は水、洪水で神様が世界を裁かれましたけれども、
また人間が堕落して神の前に立ちかえて来ないならば、また裁きが来る。
その時は神様は火を持って、火で最後の裁きが来るということであります。
ところがどうでしょうか。今の時代もノアの時代もですね、ああいう終わりが来ますよ。
終末があるよ。神の裁きがあるよと言ったらですね、ふざけるなって。
アホか。うそ野郎。信じられないと言うんです。
ノアの時代の人々もそうでした。
ノアはですね、長い間ですね、何十年も山の上にね、箱舟を作っていました。
神の裁きをね、洪水が来る。
みんなノアの時代の人々は食べて飲んで遊んで楽しんで堕落している。
誰もノアの話を聞いていませんでした。
今日も同じなんです。
闇の中を歩んでいる現代の人々は、未来に騒ぎがある、審判がある、終わりがある、気持ち悪い。
だから信じたくないんです。聞きたくないんです。
21:01
いや、あったとしても認めたくないんです。向き合いたくないんです。
ところがどうでしょうか。
我々一人一人人生を見ても、人生には終わりがあるんです。
終わりがありますよね、みなさん。終わりがあります。
同じく、この世界に人類に終わりは必ずある。
ただ、神を信じない世の人々は、その終末を認めたくないだけです。
天国と地獄を認めたくないだけなんです。
罪のことを考えたら、もう心が苦しくなるんですね。思いたくなる。
そういう苦しいことを考えたくないんです。向き合いたくないんです。それだけなんです。
なぜでしょうか。この世は闇だから。
みなさん、今日準備できなかったんですけど、黒い紙があります。
そこに何かを書いてみたら、見えませんね。
しかし真っ白な紙に何かを書いたら、すぐ見えます。
この世の中は、もう真っ黒のような闇の世界なんだから、普通にですね、
こういう隅、ああいう隅でもですね、それがわからない、感じられない、自覚がない、気づいていない。
しかし、もしも我々の心が、この世が、この世界が本当にですね、きれいな清い状態であるならば、
ちょっとしたシミのような罪があったら、すぐ分かるわけです。気づくわけなんです。
闇は闇を知りません。罪は罪に気づきません。
なぜでしょうか。闇は闇の中にいるのが楽なんです。
罪は闇の中にあるのが楽なんです。
その中で私たちは、本当にクリスマスとして、常に光なるイエス・キリストのところに行かなければならない。
いつも主を見上げて、祈って、御言葉に徹して、礼拝して、主愛して、歩まなければならない。
なぜなら、我々は心の中に、もう例の中に、罪の本性が、そういう性質がみんなにあるんです。
だから、光の方に行くよりは、闇の方に行ってしまいやすいのが、正直我々なんです。
24:01
ここにほとんどの方が大人ですけれども、大人だけでなく、
皆さん特に私たちの子供かお孫さんの世代の、特に若い人々のために、本当に私たちは祈らなければならないんです。
特に今の時代をどれだけ性的に堕落しているのか知りません。
高校生、大学生、20代、若者にも考えられない性的な堕落が、清く生きるということは、決してそんなに簡単にできるものではないんです。
だから私は目を覚ましていて、祈ることは清く生きることを選ぶ道です。
しかし逆に言いますと、祈らないことは清く生きる人生を諦める罪であります。
もう一度申しますね。祈らないことは清く生きるその人生を諦める罪であります。
祈らなくてもいいほど、大丈夫な人は誰もいないわけです。
イエス様が私は光であると語ったことには、この世が闇であるということが一番です。
二番は、イエス様ご自身が光であるということであります。
つまりイエス様と光が別であって、イエス様がこれが光ですよ、光について説明する、教えてくれる方じゃない。
イエス様ご自身が光であるということであります。
これを特に四通の福音書の中で、このヨハネの福音書は、イエス様は光であることをたくさん語っているんですね。
その中でちょっと聖書を開きましょうか。ヨハネの福音書第一章、四節を開きたいと思います。
ヨハネの福音書第一章、四節です。一緒に読みたいと思います。
この方に命があった。この命は人の光であった。アーメン。
この命はイエス様のことです。光はイエス様のことです。
もう一箇所、同じヨハネの福音書三章十九節、開いていただきましょう。
27:00
ヨハネの福音書第三章十九節です。
ご一緒に読みましょう。
その裁きというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。
その行いが悪かったからである。アーメン。
先ほど申しましたとの通り、聖書のお話なんですよ。私の主張ではない。
昔も今も、人々は光よりもイエスキリストよりも闇を愛しているんですよ、この世の中は。
なぜでしょうか。その行いが悪いからなんです。
まず私たちはそれを直視して認めなければならない。
そして悔やめて、そして祈って、清められて、そして。
イエス様はヨハネの福音書を読みますと、たくさんの御言葉の中で、私は何々であるという御言葉がたくさんありますよね。
私は羊のもんである。私は良い羊飼いである。私は命であり、よみがえりである。
さっきの御言葉のように、道であり、真理であり、命である。
私は葡萄の木であると語られました。
さあ、イエス様はなぜ自分は光であると語られたのでしょうか。
光をもたらす方ではない。
あるいは光があっちにありますよ、こっちにありますよと指す人ではない。
今まで起きてきた全ての宗教の教祖と言いましょうか、そういった人は、
皆、これが光ですよ、これが真理ですよ、これが道ですよと、それを教えてくれる人に過ぎないんです。
それが釈迦であるが、孔子であるが、マンモイトであるが。
彼らは道を指し示す人に過ぎない。
しかしイエス様は私が真理である、私が光であると語られたのでしょうか。
イエス様自身が神様だからなんです。
そして三番目として、イエス様が私は光であると語られたのは、
この世の中が失望があり、絶望があり、闇がありますけれども、
必ず光があると、希望があるというメッセージであります。
このメッセージを皆さん、この朝私たちに語ってくださるんですね。
このメッセージを心の中に受け止めていただきたい。
そしてああそうだ、いろいろ失敗があり、絶望があり、闇があり、
前が見えないような本当に苦しいことが起きたとしても、
でもイエス・キリストが光なんだから、そこに希望があるんだとね。
30:02
そういうふうに信じるではありませんか、皆さん。
そのイエス様の心を皆さん掴み取ろうではありませんか、皆さん。
確かに審判があり、終末がある。しかし希望がそこにあります。
私たちは皆罪人であり、よく罪の世にこけたり、滑ったり、倒れたりするところがあるでしょう。
でもその中でもイエス様のもとに行けば、そこに希望があります。
自由があり、解放があります。
またこの世にもこの社会にもイエス・キリストによる希望がある。
希望がある。
皆さん、光を隠すことができますか?
あるいは避けることができますか?
できないですね。光を隠すこともできないです。
針先ぐらいの穴があってもそこから光が出てくるんじゃないでしょうか。
イエス様が光であること、本当の命であること。
全ての人々がもしそれを隠そうとしても、避けようとしても、隠すことはできない。
避けることはできない。
否定しようとしても、否定することはできない。
イエス様は光であって、私の人生にその光を与えようとしておられる。
いやもう既に与えて下さいました。
命を与えて下さいました。
そのキリストにあって生きること。
それ以上闇の中を歩むことをやめて、
命の光を持って命の中を歩む道を我々が選ばなければならない。
イエス様の存在、神の存在も同じでしょう。
神の存在を否定したとしても、神様がいなくなるわけではありません。
ただ自分の心にないだけなんですよね。
イエス様は私たちの心の中に入ってくださる、人生の中に入ってくださって、
その時に闇であった我々の人生が、苦しみであった我々の人生が、
全てがイエス・キリストの光によって、それが清められて明るくされて、
そして行くべき道を主から教えていただけるんです。
33:05
イエスはまた彼らに語って言われた。
私は世の光です。
私に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、命の光を持つのです。
皆さん、このようにイエス様に従う者には二つの主曲が約束されています。
一つは闇の中を歩むことがありません。
罪の多い世の中にありますけれども、その罪から自由にしてくださるのです。
呪いのような現実の中にいますけれども、それが呪いであろうが何であろうが、
イエス・キリストに従う者には全てからその呪いから、鎖から解き放たれて自由にしてくださるのです。
皆さん、私はこのイエス様の御言葉通りに、命の中を歩んでください。
イエス・キリストの中を歩んでください。
闇ではなく光を選んでください。
罪ではなく真理を選んでください。
この世ではなくキリストを選んでください。
イエス様が本当に我々自分自身の中に入っていただかないと、
夫婦の間に親子の間に家庭の中にイエス様が入っていただかないと、
何をいくら努力しても本当の自由は本当の命は本当の恵みはなかなか得られないのです。
しかしイエス様が我々の人生の中に入ってくださいますと、
夫婦の間に親子の間に家庭の中にこの社会にイエス様が光として入ってくださいますと、
全ての闇が消え去る。
呪いが消え去る。
そして、うるわしい美しい人生が、社会がそこから始まるのです。
二番目の主曲としては、それはイエス様が光であるというのは命の光なんですね。
今日の順二説もイエス様がね、命の光を持つであると。
もう簡単に言いましょう。
イエス様は命であります。イエス様は光であります。
だからもう命と光は一緒同じであります。
だからイエス様によって救われた人には光がある。
いや持っている。
そしてその人は命を持っていることであります。
闇は死であります。
罪は死であります。
だから皆さん、決して闇の中を歩むのではなく、
命の光を持って命の光の中を歩んでまいりましょう。
36:06
メッセージを終わりたいと思いますけれども、
覚えていただきたいです。
みんなに救われた者であろうが、
まだ救われていない、いやこれから救われる方々であっても、
闇の中を歩むこと、光の中を、命の中を歩んでまいりましょう。
そして光なるイエス・キリストが私たちに入ってきてくださって、
そうしますと、その魂には命がある、喜びがある、希望がある、明るみがある、
変えられるんです、変えられる。
どうか皆さん、イエス・キリストに希望があります。
何が誰が希望であって光なんでしょうか。
イエス・キリストです。
その方々を皆さん愛してください。
そして本当に親密な関係を持っていてください。
よくよく祈ってください。
よくよく聖書を読んでください。
よくよく集まってください。
神を愛する道を努力して選ばなければならない。
そのことを覚えてですね、歩むときに、
主が我々を全ての呪いから鎖から自由にしてくださいます。
この素晴らしい曲が皆さんの上に豊かにあります。
心からお祈り申し上げます。
お祈りしましょう。
37:48

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