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本日、新年正会に西本浩一先生をお迎えして、この正会が開かれていますことを感謝いたします先生のことを紹介させていただきたいと思います。
まず、プロフィールからいきますと、石川さんでお生まれになって、高校生の時、バイブルキャンプに参加されて、そこで神様を受け入れられて救いを体験されました。
そして、その年だと思いますけれども、クリスマスに洗礼を受けられました。
1976年にはイギリスに留学に行かれまして、その留学中に牧師になる証明が与えられて、イギリスのオールネイションズ新学校で学ばれました。
そして、結局の後は関西製車新学校で新学の勉強をされました。
1984年には山口県の開拓電路に使わされて、光福井教会を設立なさって、その後は教団本部主事、徳島県の浜浦キリスト教会で放置をなされました。
2008年から現在の梶原教会に使わされて、現在に至っておられます。
教団では教団新当局職長、それから関西製車新学校、日本福井学校大阪校で講師として放置されておられます。
私は、個人的に先生のメッセージは、多分千代田政界どこかで一回聞いた記憶がありますし、
以前、釜山のG&Gセミナーにもお見えになって、梶原で走っていただいたことがあります。
今日、実際の政界の本格的なメッセージは、私自身も初めてですので、祈りを持ってますのであります。
それでは先生、よろしくお願いいたします。
みなさん、おはようございます。
この度は、御教会の新年政界にお招きいただきまして、本当に心から感謝いたします。
今、ユン先生からご紹介いただきましたけれども、ユン先生と最初にお出会いしたのは、
韓国の富山市、梶原教会で先生がセミナーを開かれたときに、通訳としてご放置してくださり、
また私たちのいろんな生活の面でも助けていただいて、素晴らしいセミナーを体験させていただきました。
03:01
そういうお陰もあったり、また今、私は教団の新督局長ということで、その働きをしているわけなんですが、
その中に教会教育室というのがあります。
それはまた、貧困の傾向、また子どもたちに福音を伝えていくという、そういう働きを担わせていただいているわけなんですけれども、
韓国で行われているシモセミナー、それもまた親が子どもに福音を伝えていくという大切な働きであるわけなんですけれども、
ユン先生にも協力いただきまして、テキストを翻訳をしていただいたり、またセミナーで通訳をしていただくような、そういうご放置もしていただいているわけです。
ですからユン先生から電話があって、頼まれたら、私は断るわけにはいかない。
もう断ったら韓国に入れなくなってしまうんじゃないかなと、そういう思いもなくにしてもあらずなんですけれども、
そういうような交わりをいただきまして、そしてまた五神さんも新学校で放送してくださっておられる。
そしてまた斎藤先生も両団に来てくださっておられる。斎藤先生も私は両団の放置や、また大阪教育でもお世話になったということがありまして、
この放置を断るわけにはいかない。二つ返事ですぐに放置させていただきますと返事をさせていただきました。
また何より私には一つのポリシーがあるんですけれども、それは二言葉の放置と食事の招待は断らない。
そのポリシーがありまして、二言葉の放置はもう喜んでさせていただく。それはもう本当に神様に対する私の働きであると、そのように思って放置をさせていただいています。
今朝は皆さんとともに、特にこの新年正解ということで、朝の礼拝、また午後の正解ということでご放置させていただきますけれども、しかし何よりも私たちを愛し、
そしてまた私たちを導いてくださる主御自身が私たちの心に臨んでくださって、この新しい年、また素晴らしい宮座をなってくださる、私はそのことに誓いをかけております。
また皆さんとともに、この豊かな主の恵み、そしてまた二言葉によるところのこの信仰の確信をますますうちに与えていただきたい、まずそのことを願っております。
06:07
お祈りをさせていただきます。
どうぞ主よ、またその御計画をお言葉を通して私たちのうちに表してくださるようにお願いいたします。また何よりも真理の御霊様が私たちの心の中に、そしてまた思いのうちに働いてくださり、どうぞ主よ、あなたのお言葉を通して主の御思いを知るものとさせてくださるようにお願いいたします。
この小さきものがこの宮谷教会に使わされましたけれども、語るものはこのものではなくて、すが私たち一人一人に二言葉を持って語らせてくださるようによろしくお願いいたします。
どうぞこのいやすき小さきものを御手に握り詰め、また隠してくださって、どこかまた尊き御自身がお一人お一人の心の中に現れてくださるようによろしくお願いいたします。今からの時を二手に委ね、尊き救い主、イエス・キリストの皆によってお祈りいたします。
今朝は、ヨハネの手紙第一章の5節から9節を開かせていただいています。このヨハネの手紙というのは、この台にあるようにヨハネという人が手紙を書き記したわけです。
聖書にはヨハネという人が何人か出てくるわけなんですけれども、この手紙を書いたのはイエス様の愛する弟子、ヨハネであった。彼はガリラ屋で漁師をしていたわけなんですけれども、そこにイエス様がやって来られた弟子を選ばれるということをされたわけです。
彼はガリラ屋子の漁夫、おそらくは裕福な網元の家の子供であっただろうと言われています。父に呼べた。そしてまた船を持っていたというのが福音書の中に記されているわけですけれども。
言うなれば彼は割と裕福な家に生まれ育って、別に何不自由するということもなかったわけです。ですから普通に考えれば田舎で、そしてまた豊かに彼は一生過ごそうと思えば過ごすことができたわけです。
09:15
ところがなんと全く身もつらないイエスキリストがやって来られて、そして網を作っていた彼に私について来なさい。人間を取る漁師にしてあげようと。
たった一言、言われたその言葉でなんと彼は網も、そしてまた網元であったお父さんジェルダイも船も全部置いてイエスキリストに従う。彼は全くこの世とは別の生き方に彼は召されたということであるわけです。
私たちもそれぞれいろんな生活をしてきているわけなんですけれども、私たちが今ここに集まっている、まさにそれは同じイエスキリストが私たちを埋めてくださった、集めてくださった。
このところには教会という名前がついているわけです。しかし聖徳に出てきている教会というのは決して置いている会というのではなくて、ギリシャ語ではエクレフィア、召された者の集まりという意味があるわけです。
どうして日本語で教会となったのか、それはまた意味があるんですけれども、しかしもともと私たちはそのイエスキリストに声をかけられて、そして召し集められたその集まりであるということが言えるわけです。
もちろんいろいろ教会に来るというきっかけはあったと思うんです。友達に誘われた時とか、また家がプリスチャンだからしょうがないから親についていたという人もいるわけです。
中には私たちの教会はお昼にうどんをやっているんですけれども、初めて来る方は一回ただなんですね。中にはうどん屋でに来たという人もいましたけれども、それでもやはりイエスキリストのことを聞いて救いに預かった。
いろんな形があるんですが、私たちはイエスキリストによって言うなれば召されて、そしてこのところに集まっている。かといって私たちは完全なものかというとそうではないわけです。
どちらかというと不完全で竹だらか、また弱さも思い知らされるというような存在であろうと思います。そしてこの愛の手紙、このヨハネの手紙は別名愛の手紙と言われています。なぜかというともうあちこちにこの愛という言葉がいっぱい出てくるわけなんです。
12:22
例えば四教八説のところにも神は愛であると出ています。文語訳では神は愛ない。今私が報道している柿原教会は今こそ教会としての街道は立っているんですけれども、私はその柿原教会で宣言を受けました。
その当時はなんと酒蔵を改造した街道であったわけです。だから私は最初に教会に行くときに電話をかけてですね、街を確認したんですけれども、全然その教会はない。
で、この道ですよと言われてですね、三奥してもわからない。で駅から電話をしました。もう駅から出て二分のところなんですけれども、いやこっそりそこにありますよ。もう赤いレンガで、そしてそこには神は愛なりと白天気で書いてあります。
で私が通ってですね、目を凝らせてみたら、確かにもうレンガの建物で神は愛なりと書いてある。あ、ここだ。でも、ええ、これが教会。なぜわからなかったかというと、私は教会というイメージが、もうそれこそ白い白暗のですね、建物で赤い屋根で、上にもう十字架が立っている。
もう自分のそういう潜入感があったわけなんです。まさかそんな蔵を改造したところがですね、教会とは思っても見ていなかった。もう一体どんなところなんだろうか。入ってですね、礼拝があったんですけれども、もちろん話はもう全然わかりませんでした。
ところも、礼拝終わった後に神社の皆さんがですね、声をかけてください。私は高校生だったんですけれども、もう自分とは全然世代に違うような、また女性の人もですね、声をかけてくださって、よくいらっしゃいました。もう一人や二人やなくて、もう本当にいろんな人がですね、挨拶してくださり。
だから私は教会って温かいところなんだな、それがもう私の最初の教会としての印象であったんです。
ゴビス先生は一生懸命メッセージを言ってくださったんですけれども、全然メッセージを覚えていません。でも教会に来てですね、そうやって温かく迎えていただいた。もうそのことは本当に忘れることはできないわけなんです。教会というのはやっぱりそういう愛がある。そしてその源はどこなのか。神は愛である。そこから来てやる。
15:12
私たち自身は完全なものでありません。この手紙を書いたヨハネ自身も実は性であったということなんです。彼は12人の弟子の一人でありました。
しかし家様から一つのあだ名が作られたわけです。ボアネルギア。雷のコーチングですね。もうちょっとしたことでパーっと回ってしまう。そういう方もこの教会にも2、3人いらっしゃるかもしれませんけれども。もうちょっとしたことでイライラしたりですね。もう怒ってしまうというのをヨハネは雷のコーチング。
この彼はこの手紙を書いた時に愛の使徒と。彼は呼ばれる人間に変えられたということなんです。でもそれは彼が努力して愛の使徒に変わったんだろうか。何か特別なことがあったんだろう。実は彼は愛の使徒となった。
もう言うなればその原因というかその根本が私はこの手紙の第一章に記されてある。そのように思います。
ここにはですね。今読んでいただいたところに繰り返し出てくる言葉があります。それは光という言葉とですね。またこの炭という言葉が出てくるんです。その光とまた炭と。それがどうして愛になっていくんだろう。非常に不思議なものであるわけなんですが。
しかしそのことは大いに実は愛に関連のあるまた大切な言葉であるということをですね思います。
そして不思議にも彼はもう一つ副印象を変えているわけです。ヨハネの副印象。
そしてヨハネの副印象を見るとですね。やはりそこにも光という言葉が出てくるわけなんです。神は光となって私のところに変わる。真っ赤になるキリスト。
18:12
私たちもどうだったでしょうか。キリストが救い主だ。あなたを救ってくれますと言われてもですね。はいそうですとすぐに素直に信じて受け入れたでしょうか。なかなかそういう人はいないと思います。私もすごく反発したわけです。
なんであんなイプライルのナゼルの田舎に住んでいる大夫の息子が救い主なんだ。そんなはずはないと私は信じられなかったわけなんです。私たちはなかなかイエスキリストを素直に受け入れるというのが難しいというところがあります。
そしてまた一つの問題があるわけなんです。それは私たちがクリスチャンとしてイエスキリストを信じた。そしてこの中を歩いている。であるのに暗い部分があると。そのことを感じたことはないでしょうか。私はあります。
救われた当初本当に心はですね喜びでいっぱいだったわけなんです。もちろん最初から全部救いのことをわかったというわけではないわけです。いやむちろん私は洗礼を受けてからですねイエスキリストの十字架の意味がわかった。本当にその罪の許しということがわかって感謝だと。
その感謝の思いは今も変わることはありません。変わることはないんですけれども矛盾を感じるということがあったわけなんです。神は光である。神のうちには暗いところは少しもない。確実にともそうかもしれない。でも自分自身はどうなんだろうか。そんなに喜びに輝いて毎日生活しているだろうか。
それは嬉しい時もあるけれどもやっぱり辛い、悲しい、もう心が暗闇で支配されてしまうという時もある。心に感じたわけです。
なんでこんな矛盾していることが起こるんだろう。実はそのことがこの聖書の中にはっきりと出てくるんです。それは六説のところを見るとその姿がはっきりと表されています。
21:12
もし私たちが神と交わりがあると言っていながらしかも闇の中を歩んでいるなら私たちは偽りを言っているのであって信じを行ってはいません。神と交わりがあると言いながらも闇の中を歩んでいるなら私たちは偽りを言っている。
ヨハナはそう言いました。そしてまた私たちもそのことを感じる時があるんじゃないでしょうか。確かに神様ご自身は光である。それは否定することはできないけれども、でも現実の自分には心の闇があるんだ。
そしてここに偽りを言っていると聖書に出ているんです。実はこの偽りを言っているというのはもっと別の言葉で言うと偽善という言葉になるわけなんです。
私は昔のある有名な説教者のメッセージの題を見てびっくりしたことがありました。教会は偽善者を生むところである。一体それの意味を語られるのだろうかと。
教会に来たら救われて、もう光輝く神の子が生み出されるところじゃないのか。なんで教会は偽善者を作るところなのか。驚きましたけれども。でも実際の自分の姿、心の内を見るならばそれを否定することはできなかったわけです。
神様は確かにあれの方でもう光輝いて笑える。でも現実の自分にはその暗い部分がある。そのことを私たちは気がつくことがあるわけなんです。でも実はそれは間違いではないということなんです。そのことを気がつくということが非常に重要なことである。
教会は偽善者を生むところ。なぜか。教会に来たら、善悪というわけではないんですけれども、皆さんがよく見える、私もどう見られているかわからないんですけれども、大概私たちは自分よりも人の方に目が行ってしまって、
24:04
特にニコニコしている人とか元気にやっている人というのは、すごい素晴らしい恵まれた人だなと思うことがあるんじゃないでしょうか。でも自分のことを考えたらいつもそんなに元気でやっているわけではないし、時にはつらくなったり落ち込んでしまうというようなところがある。
そういう自分を考えて、元気にハツラツとやっている人を見たら羨ましく思ったり、またネタましく思うような心が自分の心の中に出てくる。私たちは人と自分を比較してしまうという弱さがあるわけなんです。
というのは、この世自体がもう完全な世界ではないわけです。私たちが今こうして生まれている世界自身が、実はもう神様から離れていってしまった。そういう中に私たちは生まれて、そして当然この世と一緒に滅んでいくものであったということなんです。
ところが私たちは神様の愛がわかった。そしてその救いに預かった。神のものとなった。でも現実に私たちの心の中にはその暗さがある。
でも神様と交わりながらも、自分の心が闇の中に歩いているようなものだったら、それは本当の本来の生き方ではない。ヨハネはそう言っているんです。おそらくヨハネ自身がそのことを体験したでしょう。
彼はイエス様に愛されていました。そして最後の晩餐の時に他の弟子たちと一緒に、「もうどんなことがあっても最後までついてきます。」と言いながら彼らは誰一人としてイエス様についていくことはできなかった。
もうイエス様を見つけて去っていってしまったんです。
そうなれば彼らはイエス様に背を向けて反対方向に行ってしまった。
実は心の暗さは何から出てくるのかというと、その神様から背を向けるということによって、実は暗さに行ってしまう。
私は小学生の時に、転学の時に、学校で休み時間に友達と遊ぶ。
亀踏みという遊びをやりました。
たぶん皆さんもしたことがあるんじゃないでしょうか。
昼の日中、校庭で遊んでいたら亀ができるわけです。
27:00
そして相手の亀を踏んだ。踏んだらパチっているんですね。
何で亀ができるかというと、やっぱり太陽の反対側に亀ができるわけなんです。
亀踏みの遊びというのは、他の人の亀を踏む。
そしてその人は会う。私たちの信仰生活で。
実はその光であるイエス様に背を向けたらどうなのか。
自分の前には亀ができる。
イエス様に背を向けてしまうと、実は私たちは自分の前にあるのは何か。
自分の影が出てくるということなんです。
そこには悲しみがあるでしょうし、無気力があるでしょうし、自分はダメだというですね、規制的な思いがある。
だから私たちは光であるイエス様に背を向けて、そしてそこを進んできたらどうなのかというと、
もうずっと自分の影を踏みながら自分自身が歩んでいってしまうということなんです。
じゃあそれはどうやったら解決できるのか。
それから離れるということはできないんです。
離れてしまったらもう死んでいるんじゃないかなと思うんですけれど。
じゃあ一生懸命私たちは影を踏み続けないといけないのか。
いや、私たちはそうしなくてもいい。
どうするのか。
それは私たちは方向転換するということなんです。
向きを変える。
背を向けていたら前には自分の影しか見えてこない。
自分は十分できていない。ダメだ。
もう私は神のことを言われるような資格も価値もない。
踏み続けていってしまいます。
しかし向きを変えて、光であるイエス様に向かっていったらどうなのか。
進んでいく前には光はないんです。
当然です。
影はないんですね。
影は自分の後ろにある。
それは実際はできていないかもしれません。
不完全であり不十分であってですね。
ダメな人間かもしれない。
でも明らかに言えることは、自分はその光の中に歩む。
光に進んで自分は向かっているんだ。
それはもう確かなものです。
30:01
だからたとえ自分はダメでも、光であるイエス様に向いて進んでいくならば、
影を踏む生き方をしなくて大丈夫であるということなんです。
だからその向きを変えるという言葉が聖書に出てきます。
悔い改めという言葉なんです。
だから悔い改めというのはですね、方向転換。
向きを変える。
もう180度変えていくということなんです。
中にはですね、私はもうたくさん罪を犯し失敗してますから、
もう180度では足りません。360度ですという人がいるんですけれども。
でも360度変えてやっぱり元の方向に行ってしまうので、360度はダメなんですね。
180度、もう方向転換をして、私たちは神様の方に向きを変えていかなければいけない。
そして重要なことはもう一つあるんです。
私たちはその罪を認めるということなんです。
そのことは8節を見ますと、
もし罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。
罪は自分にはない。
もしそう言うならばですね、それはもう偽善どころではなくなってしまう。
自分自身を欺くというのは、もう自分を失ってしまうということなんです。
だから自分の罪を認めないということは、非常に恐ろしいことである。
だから実は罪にはいろんな罪があるんですけれども、
この8節で言われている罪というのは、もう単数形で表されています。
ただもう唯一の罪。それは神様を認めない。
信じない。私には救い主は必要ない。
もう否定してしまったら、それはもう救われようはないということです。
私たちはまず、そのことを第一に認めなければいけない。
自分は神様の前に罪人である。
私は救われなければいけない。
許されなければいけないんだ。
そのことを私たちは分からないといけないということなんです。
罪はよく癌で例えられるというところがあります。
癌の恐ろしさは何か。
痛みを感じないということなんです。
33:03
もう普通に生活できている。
実は、今日私は午後の正会があったら、一人で帰らないといけないんです。
一人の方がお召されになって、前役をしないといけない。
その方も実は、その癌であるということが事前に気がついていなかった。
もちろん感触も分かってはいなかったんです。
あることでもって、病院に行かれて、精密検査を受けたら、
もうそれが体全部に回っていたと。
でももう手の保障はない。分からない。
というのが、本当に悔いにはならないと思います。
むしろ私たちは知らなきゃいけない。
そしてまたその手当をもらわないと。
助かる命も助からない。
もう今は医学はかなり進歩していますから、
早期発見できれば、正しい治療を受けて、
パンツというのが可能になってきている時代であるわけなんです。
幕反であっても早期発見、助かるんです。
実は永遠の命、その罪というのもですね、
早く分かれば早く分かるほど、実は簡単な措置で、
治り、また神様との素晴らしい交わりに預かることができる。
だから私たちは知らなきゃいけないのは何なんだろうか。
神様に対して私はどんな存在であるのかということがですね、分かるということです。
不思議なんですけれども、教会に来られた方、
もう救われてですね、喜びいっぱい。
でもその喜びがだんだんと失せてきて、
自分はそんな十分なクリスタルじゃない、ダメだと思ってくる。
私はやっぱりもうダメなんでしょうか、と言われる方が結構あります。
もう私も含めてそうです。
でも私ははっきり言ってます。
もうそれが正常なんです。
そのことによってあなたは自分の弱さが分かってきて、
あなたはかつてはどういう姿で評価行きましたか、と。
もう偉そうに踏んぞり返ってですね、来てた人もあるわけなんです。
でもイエス・キリストの十字架が分かったときに、
もう心砕かれて、自分は罪人です。
36:02
分かってですね、洗礼を受けられた。
でも私たちの心の中にはやっぱり高慢な思いがですね、出てくるわけです。
この世に生きてますから。
そしてまたこの世で成功していたら、自由主義というのがあって、自分はできるものなんだ。
そういう思いがついつい出てきています。
でも私たちは気をつけなければいけないのは何か。
イエス様が私たちを熱心に集めてくださった。
イエス様の家に私たちは今ここにいるということです。
そしてその罪の解決は誰が与えてくださったのか。
イエス・キリストが私にその罪の解決をあの十字架の上で与えてくださった。
私たちはそれをやはり忘れてはならない。
ともすれば私たちの弱さというのは、その罪を忘れてしまうというところにあるのではないでしょうか。
こうして新しい時代が始まったんですけれども、
しかし一番重要なことは、まず自分自身が神様の前にあってどういう存在であるのかということを、
しっかりと教えていただいて、もうその原点から出発していただく。
もうそのところを私たちを明確にしていただき、
どれほど神様が私を愛して、そしてまた恵みを与えてくださっているのかということを知ることが
非常に大切なことであると思います。
しかしこの発説にあるところの罪はない。
一体この罪はないということはどこから始まってきたでしょう。
実はこの罪の始まりというのは、聖書を見ますと、創世紀の参照に出てくるんです。
あの創世紀というのは始まりという意味があるんです。
もうすべてのものの作られた始まり、この世の始まりがあり、人間の始まりがある。
そして創世紀の参照には、実は罪の始まりがあるということです。
別の言葉で言うならば、原罪という言葉がある。
初めに作られたアダムとやら、カエラの死にその原因があったわけです。
もうエイデンの奥の家にはたくさんの木があり、どんな木の実を摂って食べてもいいと許しをいただきました。
しかし主なる神様は、その中央にある木の実だけは摂って食べてはいけない。
死んでしまうと、ぱっきり言われたのです。
でもカエラには弱さがあった。
39:01
どんな弱さかというと、自分たちも神のようになりたい。
その思いというのは悪いとは言えないと思います。
神様のように立派になりたい。
好調値も悪くないのです。
でもその思いの中に隙が出てしまった。
神様からシャタンがやってきて、神のようになりたいと思うアダムとエバに巧妙に忍び込んできて、
その日の中央にある木の実を摂って食べたら、神のようになれる。
囁いたわけです。
カエラはその誘惑に負けてしまって、木の実を摂って食べてしまった。
カエラは何が分かったのか。神のようになれたのだろうか。
残念ながら神のようにはなれなかった。
でもカエラは目が開かれた。
自分がどんなものか分かった。
どんなに裸であり、みずめであるか。
だからカエラは自分の裸を隠すようにして、自分たち全一力の歯を作ろうとして、
もう服を作って、
そしてカエラは神様から隠れた。
それが罪の姿であるということなんだ。
だから私たちはその誠実を受け継いでやる。
やっぱり悪いことをしたらですね、隠れるんですね。
もう隠そうとする。
そういう誠実が私たちに実はあるということなんだよ。
私たちはそれを認めなきゃいけない。
去年ある政界に出まして、アメリカからコーチの先生が来られてですね、
面白い話をされて、私印象に残っているんですけれども、
その先生はニワトリを愛顔のように飼っておられる。
今も飼っておられるんですけれども、
あるとき外から帰ってきてですね、家に帰ってきたときに、
そのニワトリはいつも帰ってきたら、
ココココって言って近づいてくるそうです。
そのとき先生を見たらですね、
トトトトッと逃げていったそうなんですね。
裏庭の方に行って、保守者が住んでいるところに、
首突っ込んだそうです。
もちろん首突っ込んでも、首から下、もう体全部ですね、出てる。
まるわかりなんですね。
なんでこんなことをするのかなって不思議に思ってですね、
キラッと横を向いたら、
そのニワトリの餌用に袋を入れて置いてあった。
その袋がですね、つっかれて破られていた。
ああ、彼のきわざらく、もうまるわかりだったそうです。
ヘンリーって名前ついて、つけたニワトリなんです。
42:00
変なニワトリなんですが、
自分が首突っ込んでですね、
隠れたと思っても、もうまるわかり。
そして置いておいた餌の袋を破ってですね、もう出ていた。
まあ、その人はそのニワトリを保守者さんとから引っ張り出してですね、
なんでお前はこんなことをしたのかってですね、怒らなかったそうです。
やっぱり正体のメッセージをするぐらいの先生ですから、
心も清められていたと思うんですけれども、
もう本当に愛を持ってですね、そのニワトリを抱きしめた。
まあニワトリもククーって言ったのか、みんななんかわかんないんですけれども、
暴れないでですね、じっとおとなしくしていた。
でもその先生は、まさにこのニワトリこそ、自分たちの姿ではないだろうか。
本当に自分の横に割られてですね、失敗をして、
そしてそれを隠そうとして、自分は隠れるけれども、
自分は神様の目からは隠れてはいない。
でも神様はこんな哀れな私をも、
イエス・キリストの十字架によって、
その罪を許し、そしてまた清めてくださる。
と話をしてくださったわけなんですが、
私たちに必要なことは何か。
神様の前で、私は罪人です。
認めることであるわけなんです。
決して私は暗いけれども光の中に歩いてますって、
偽善で生活していたらですね、
自分の心の中にはおそらくは、
愛の光は届かないでしょう。
むしろ私たちは、私は、
あなたの前には罪人にしか住みません。
と言って出ていくことであるわけです。
そしてその次にどうするのか。
旧説を見ると、
もし私たちが自分の罪を言い表すなら、
ここに自分の罪を言い表す、という言葉が出てきます。
この言い表すというのは、
同じ言葉を言う、というですね、
神社語の意味があるんです。
同じ言葉を言う。
で、実はこのことが、
ルカの福音書の十五章に出てきているんです。
ルカの十五章というとですね、
有名な宝刀息子の話があります。
実は彼はそのことを知っているんです。
彼は家から財産をあげてもらって、
45:01
自分の力で筑波とあげる、
やっていたんですけれども、
全部使い果たして、
一本なしになり、
しかも毛皮になって、
豚かいになり、
しかもその豆を盗んで食べようと思うぐらいのですね、
未知名な人間になってしまった。
でも彼は、
自分のお父さんのところには有り余ったものがある。
もう奴隷でさえ、
今の自分よりももっといい暮らしをしている。
もう一度お父さんのところに帰って、
私は天に対しても、
お父さんに対しても、
罪を犯しました。
言おう。
彼は結婚しているんです。
そして実際にお父さんに会った時に、
彼はそのことをはっきり言っています。
私は天に対しても、
お父さんに対しても、
罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。
彼は心に思ったことをですね、
はっきりと口に出して、
言い表した。
だからここに、
私たちは自分の罪を言い表すな。
だから私たちはそれをはっきりと認めて、
言わなければいけないということなんだ。
ただ心の中に思ったというだけでは、
十分ではない。
実はそのことは、
ローマ人の手紙の中にも出てきます。
人は心で信じて義と認められ、
罪を告白して救われる。
私たちは心の中で、
信じたらさすがに義と認められる。
でも口で告白して、
実際に救われる。
そのことを私たちは体験できる。
もしあの放送息子が、
お父さんと会ってもですね、
何にも言わなかったらどうだったでしょうか。
私は祝福を受けられるということは、
多分できなかったのではないだろうか、
と思いました。
子供ですから、
入れないというわけにはいけないでしょう。
でも本当に祝福に預かったのか。
だから私たちも、
考えなければいけないのは、
永遠の命だ。
また神様からいただく祝福というのはですね、
同一できない。
永遠の命は、
もうイエス・キリストを信じて、
どんな人でも与えられることはできる。
でも神様の祝福というのは、
そうではない。
私たちはちゃんとまた神様に向き合って、
自分の罪を告白し、
自分の愚かさを、
神様にはっきりと申し上げた。
そして自分が許されるならば、
愛されるならば、
それに勝ったところの祝福、
また恵みに私たちは、
48:01
それに侮ったということができるということなんです。
たくさんそれは本当に私たちにとっては、
凄いことだと思います。
自分が、
罪を犯しました、
いうことはですね、
なかなか難しいです。
特にもう成功しているというか、
人からよく見られて、
素晴らしい人だと言われているならですね、
そうしたら、
神様の前に本当に減り下がっていくということほど、
難しいものはない。
祝福神様は、
私たちに求めているものは、
本当に自分の罪を許してほしい、
強めてほしい、
そして何よりも、
神様に愛してほしい、
というですね、
そのことではないでしょうか。
いくら私たちがこの世の、
いろんな素晴らしいものでもって、
自分の生活が豊かになったりですね、
また家族が健康で幸せに暮らしていても、
自分の心が真っ暗だったら、
決してそれは、
本当に幸せとは言えないだろうと思います。
そうしたら闇の中をそのまま歩んでいってしまうならば、
本当にそれは勝利のある、
喜びのある人物であるでしょうか。
私たちはもう一度、
死の御前に出させていただく必要があるんだ。
そして私たちの心の奥底から、
もう本当に神様を喜び、
感謝しですね、
もう恵みにあふれるという生活を、
私たちは与えていただきたい。
いや、そのように生きるために、
神様は私たちをロボットじゃなくて、
自由な生きを持っている人として、
作ってくださった。
そしてお詫びすれば絶対に許してくださる。
そしてもっともっと愛してくださるということをですね、
私たちに決めておられると思います。
なぜならば、神の愛は何であらされたのか。
イエス・キリストの十字架です。
必ず神様は私たちを裁かれなかった。
逆に私たちを憐れみ、
そしてその罪を許し、
私たちのことを受け入れてくださった。
しかしそのためには、
大きな代価が払われたということなんです。
私たち求めないで、
なんとご自身の独り言、
あの十字架にかけて、
狂罪にあわせて、
私たちの実は支払われなければいけない、
そしてその罪を独り言にあわせて、
私たちを許してくださった。
これほどの大きな愛は他にはない。
そして自分が許されたのは、
51:00
あのイエス様が、
私の身代となって、
十字架について、
人に罵らせ、
恥ずかしみを受け、
打ち打たれて、
十字架の上で垂らし者になってくださった。
そのことのように、
今まで自分の犯してきた一切の罪は、
許されたんだ。
これより大きな愛はないです。
本当にその十字架の愛を見て、
私には罪はありませんと、
本当に言えるでしょうか。
本当に私たちは、
神様は愛してくださり、
そしてその愛を、
私たちの心の中に与えたい。
本当にこのイエス様のその光を、
私たちに与えたい。
そのことを願っております。
一つの話をして終わりたいと思いますけれども、
去年7月にですね、
私の報酬している教会で、
教頭会の9日ブロック大会が、
開かれるということになりました。
教頭会というのは朝、
いろんな教会の人たちが集まって、
二言葉をいただきともに、
お祈りをつけてですね、
そしてその後、
食事をいただくというような、
そんな集まりなんですけれども、
ぜひさせてほしいということで、
行ってみたら、
空いていますからどうぞやってくださいと、
言ったんですけれども、
その時に、
先生メッセージお願いできますかと、
頼まれて、
私もポリシーは、
二言葉の御用と、
食事は断りませんから、
食事は断りますと言われて、
じゃあやりましょうと。
その代わりには、
実は一つお願いしたいところがあるんですと言われて、
何ですかと聞いたらですね、
題はもう決まっているんです。
そう言われたんです。
普通はだいたいメッセージ頼まれた、
講師の先生が、
題をですね、
祈りの中に示されて、
考えるというのは普通だと思うんですけれども、
もう題は決まっています。
大喜利みたいに、
題は決まっているんですねと話してくれたんですけれども、
じゃあその題は何ですかと言うと、
ともよあすかまやこ。
これで早く言ってください。
ともよあすかまやこ。
私はもう、
はっきり分かりました。
もう今から30年以上前に、
教会でゴスペルホープというのがですね、
流行っていた。
その中に、
ともよあすかまやこというですね、
曲があるわけなんです。
で、実はそれを釈出された、
豊田立彦という先生は、
実は柏教会に来られていました。
日本一の伝道者で。
そしてその当時、
柏の隣には、
もう今も病院に変わったんですけれども、
結核療養所があったんです。
で、そこに先生はもう毎日行かれてですね、
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生徒研究機構から開かれた。
たくさんの人たちが集まってきたそうです。
で、行動があるんですけれども、
200名ぐらいあったらいっぱい。
なんともう立体の余地がないぐらいに、
もう初期のその通路のところにも
配物並べてですね、
もう後ろにも立ち寝ができるぐらいに、
いっぱいに集まった。
なんでか。
その先生は普通、
あの結核療養所に行ったら、
まあ白いガンを着てですね、
マスクして、
完全防備で行くわけなんです。
ところがその先生は何にも着けない。
マスクも着けない。
そうやって患者さんに連れてですね、
握手をされたそうです。
時にはもうハグをしてですね、
イエス様、あなたは煽ってくれますよって、
もう本当に肩を抱いてですね、
言われる。
だからそのもうハグ、
握手を受けた人たちは、
ああ本当にイエスキリストはあの人なんだ。
もうそのことを知りたい。
生徒研究機構会の特別協会にも
いっぱい人が集まった。
まあ柏教会に紹介されて、
何人の方が来られました。
まあ一人の方、
もうお手伝いの方なんですけども、
私は寄附がなかった。
なぜならばその季節にですね、
実は災場、
焼き場があった頃で、
それは結核の人は
普通の災場では受け入れてくれない。
だからその方も、
私はここから出ていくのはもう
煙になるか灰になるかして、
出られない。
もう絶望だったそうです。
でもそんな自分をも
イエス様愛して下さい。
そのことが分かってですね、
受け入れられて、
なんとその方は癒されて、
元気になって、
まあ今も柏教会に来られてますけれども、
そういう方々が起こされた。
でもその働きをしていた
豊田先生は、
柏に山があるんですけれども、
犬の家に、
33歳の若者で
思い去りになったんですけれども、
まあ肥料もですね、
今残ってます。
まあお母さんが
クリスチャンだった。
もう涙の祈りをですね、
していたそうです。
なぜかというと、
実はそのお母さんは
若い時に、
最初にある
男性と過ちを犯して
身を持ってしまった。
生まれてくる子供、
十が結婚してない。
お兄さんに預ける。
あそこも家がまずし、
もう
てんてんとしていったそうです。
小学校の時、
中学校の時、
もうまずく。
ある時、
中学生の時に、
クラスで、
給食袋が、
お金を入れていた服がなくなった。
なんと、
その三人の先生は、
豊田お前だろう。
もうひょくだったそうです。
もう悲しみでいっぱい。
父親はいない。
家はまずく。
だから泥棒って思われるんだ。
もうほんとに涙流してですね。
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もう高校行くのはやめて。
東京行って、
自分はもう俳優になりたい。
ところが、
給食ではなかなか
いいとこに給食できない。
もう映画館に行く。
入り口がない。
もちろんお金もなくなってくる。
人に、
おねがいしたら、
お金貸してくれるんだ。
おお、
おねがいしたら、
人はみんなお金くれるんだ。
まあ、
実はもう、
ほんとに、
そういう悪いことを、
日に重ねてやっていた。
大阪にいたお母さんが、
これは自分の罪の結果なんだ。
もう涙流しながらですね、
教会で祈っていたそうです。
で、大阪で特別の集会があるから、
来てほしい。
もう手紙を返せですね。
豊田先生は、
もう何もすることない。
もうどうしたらいいのかも、
自分でもわからない。
大阪に帰ってこられた。
ところが、
まあ、
その特別集会は終わっていたそうです。
しかし、
その終わった後で、
教会、
講壇の前に出た時に、
一人の神徒の方が、
もう、
豊田さん、
あなたの心の中に、
罪があるということ、
わかりますか?
と言われてですね、
反送直に言われた。
それはもちろんわからない。
でも、
自分には思い当たる節がある。
自分が東京でやっていた、
言葉ですね。
そしてその言葉が、
そのままだったら、
もう永遠に、
滅びにしてしまう。
自分が救われた。
そのために、
イエス様は、
十字紙を使って、
手を流してくださったんですよ。
その言葉を聞いた時に、
もう涙を流しながら、
そして今まで自分が犯してきた、
その罪を一つ二つ、
もう講壇の前で、
もう鼻と涙で、
食い荒らさめてですね、
そしてそのところで、
ニホイエスの全ての罪より、
我らを清める。
そのお言葉を頂いた。
私のあの一切の罪は、
十字架でイエス様は追ってくださり、
そして私の心も清めてくださった。
もう本気で信じたそうです。
どうしたのか。
もうその足ですぐに、
大阪梅田の
少年座の人に見受かれた。
そして自分は東京で、
どういうことをやってきたのか、
警察官に全部話をしたそうです。
そして償うべきは償い、
お詫びすべきはお詫びをして、
もう一切の罪の清算をされた。
そしてもちろん、
刑務庭にも報わなかった。
でもその時にははっきりと、
イエス様が私を許してくださった。
そしてその代わりに、
身代わりにイエス様、
十字架に張り付けになって、
手を流して、
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一切の罪を許してくださった。
もう本当に高台の前に崩れちゃうですね。
涙を流して、
もうイエス様に私は身を捧げていきます。
決心されて、
その後に、
シアンの新学校で学ばれて、
日本ミッションの病院伝道のですね、
働きをされていかれました。
私も実際に高校生の時に、
お会いし励ましをいただいたものであったわけなんです。
本当にイエス様を信じるならば、
罪が許されるんだ。
そして心が変えられるんだ。
そして本当にその許されるってことは、
心が明るくなって、
もう喜びでいっぱいになることなんだ、
ということをですね、
私は高校生でできたけれども、
実感して、
そしてまた私も救いの巡り、
そして宣伝に預かることができたわけです。
こうして新しい年が始まりましたけれども、
まず私たちは、
神様の前に、
一体どういうものであるのか。
確かに信念のですね、希望はありますし、
こういうこともやってみたいし、
こういうことにもチャレンジしてみたい、
思いはありますけれども、
しかしもう一度、
神様が私たちになってくださった、
その罪の許し、
愛の御業、
イエスキリストが身前になって死んでくださった、
これなくしたい。
私が今言っているっていうのは、
ないということです。
このことをしっかり心の中に、
刻み込んでいただいて、
そしてまた、
それに勝るところの大きな恵みと祝福を、
与えていただくものと、
させていただきたいと思います。
それではお祈りいたします。