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2025-08-03 28:17

#275 闇といのちの光〜光に導かれいのちの光を持つとは 25/8/3

ヨハネ2-20からの礼拝説教。2025年8月3日録音。(聖書朗読は()まで、導入は()まで)「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」:イエス様のこの言葉が、信じる人たち(の日常生活等)に、どのような意義があるのか、旧約聖書や詩編や学者の言葉も引用しながら考えます。その上で・・・

今日の箇所には際立った点が少なくとも2つあります。まずイエス様とパリサイ人のやり取りです。理解するのに難しいと思えますが、背景にあるパリサイ人の動機とそれに関わる根本的な落ち度を知ると見えてくることがあります(1.闇の中を歩む())。そしてのイエス様の言葉です。そこから、イエス様を信じて生きることについて考えるために2つの点を取り上げます(2.光に導かれて歩む()、3.いのちの光を持つ())。

原稿を読む

https://note.com/nsbc/n/n626010f5eb62?sub_rt=share_pb

サマリー

このエピソードでは、イエスが「私は世の光です」と宣言し、パリサイ人との対話を通じて彼らの信仰の欠如や光の象徴的な意味について考察します。また、イエスの持ついのちの光についても語られます。さらに、イエスが私たちの光であり、いのちの光を持つことの意味についても触れられ、信仰やより良く生きるための神との関係の重要性が語られています。

イエスとパリサイ人の対話
それでは朗読します。
ヨハネの福音書8章12節から20節
イエスは再び人々に語られた。
私は世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。
するとパリサイ人はイエスに言った。
あなたは自分で自分のことを証しています。
だからあなたの証は真実ではありません。
イエスは彼らに答えられた。
たとえ私が自分自身について証をしても、私の証は真実です。
私は自分がどこから来たのか、またどこへ行くのかを知っているのですから。
しかし、あなた方は私がどこから来て、どこへ行くのかを知りません。
あなた方は肉によって裁きますが、私は誰も裁きません。
たとえ私が裁くとしても、私の裁きは真実です。
私は一人ではなく、私と私を使わした父が裁くからです。
あなた方の律法にも、二人の人による証は真実であると書かれています。
私は自分について証するものです。
また、私を使わした父が私について証しておられます。
すると彼らはイエスに言った。
あなたの父はどこにいるのですか。
イエスは答えられた。
あなた方は私も私の父も知りません。
もし私を知っていたら、私の父をも知っていたでしょう。
イエスは宮で教えていた時、献金箱の近くでこのことを話された。
しかし誰もイエスを捉えなかった。
イエスの時がまた来ていなかったからである。
以上です。
今日はこのところから、闇といのちの光と題して二言葉を取り継ぎます。
御名さんおはようございます。
毎週毎週暑いですね。
始まりで8月に入りました。
先週は台風が小笠原諸島に接近したり、
埼玉の方にも来るのかどうか心配したり、
金曜日にちょっと雨が強く降りました。
全国的には40度を超える最高気温を観測した地点がいくつもあったと思う。
何日も報道されるぐらい、本当に暑い日が続いております。
そんな8月ですけれども、
ともにみことばから、なりまだ礼拝できる幸いを感謝していきます。
さて、今日のところはですね、先週お話ししたところが、
実は挿入の部分であるということで、
直接的には7章の52節からつながっているわけです。
それで今日の箇所は、7章の最後の方でありますように、
カリイオの祭りの時にイエス様がエルサレムに密かに登って行って話したところですね。
先週はですね、先々週はですね、
いける水の川が流れ出るようになるといって、
カリイオの祭りの一つのテーマである水、
モーセがあらので神によって水を出したということにちなんだ、
イエス様の神性といいますか、私たちへの生いのちの付与ということが語られました。
今日の箇所は、実は2つの点で際立っている、少なくともそういう箇所です。
一つはイエス様とパリサイ人のやり取り、
その意味がどういう意味があるのか、実はパリサイ人の動機とかですね、
心根がわかってくると、この会話の本質が理解できて、複雑なやり取りが理解できるようになります。
2番目の特徴はですね、8章12節の、私は世の光ですというイエス様の宣言ですね。
ですからその2点、パリサイ人とイエス様のやり取りを最初に見まして、
そしてイエス様が言うところの、私は世の光ですというところを、後半の2点を取り上げて、3つの点からですね、考えていきたいと思います。
まず最初はですね、闇の中を歩んでいる、闇の中を歩むということで、
闇の中を歩んでいる人たちの実例として、このパリサイ人たちが出ているという点を取り上げたいと思います。
今日の19節でイエス様は、パリサイ人たちにこう言ったんですね。
あなたの父とは誰ですか?というイエス様に問うたことに対して、イエス様が答えました。
イエスは答えられた。ちょっと長いですが、あなた方はから読めるかと読んでみましょうか。
あなた方は私も私の父も知りません。
もし私を知っていたら、私の父をも知っていたでしょう。
実はここのところがですね、パリサイ人が闇の中を歩んでいる大きな原因であるということをまず掴んでいきたいと思うんですね。
まさに実はイエス様を信じてないゆえに、彼らが父なる神様のことさえわからなくなっていたという、このパリサイ人、イエスの敵対者の現実がここで見て取れるわけなんですね。
実は繰り返しますが、この8章19節の言葉は、このパリサイ人たちの問題の本質をついている。
後で見ますけれども、なぜ彼らがイエス様の証言を信じられない、そしてイエス様をお前の証言は信じられないと問い詰めたのかという、その本質がこの8章19節のイエス様の指摘の中にあるわけなんですね。
夏になるとキャンプがよく話題になって、私も何年か前に言ったことがありますけど、キャンプでキャンプファイヤーをやりますね。
光に導かれて歩む
このキャンプファイヤー、このイエス様が自分を光だと言ったように、このキャンプファイヤーの炎をですね、これを例えば現場で見た時に、その見た人がですね、ここは光なんか灯ってないよ、真っ暗じゃないかっていうことはおかしいですよね。
目の前に光がある、それはですね、そんな否定することは到底できないけれども、そうするとなると心固くなりしてですね、いや見えてない、そんな光なんかないって言い切るしかないわけなんです。
実は、このキャンプファイヤーで光り輝く灯火のように、イエス様が世の光である。イエス様が光であるということは、誰の目からも明らかだっていうことが今日の箇所のポイントなんですね。
イエス様の存在そのものが光であって言い換えれば、イエス様の言動によって、この目に見えない神様のことがわかるということが、イエス様が世の光である。
火を見るよりも明らかである。それが何かというと、実はイエス様の語る言葉が、知事なる神様の言葉であるという事実がそうなんですね。
また、イエス様の存在そのものが目に見えない神様そのものだ。それも火を見るより明らかだっていうことが、私は世の光ですって言葉から見て取れることなんですね。
実は御名さんも気が付いたと思いますが、ヨハネの福音書の冒頭1章の中で、そのことをヨハネがこう解説していますね。
引用するのをここで忘れてしまいましたけれども、御名さんのレジュメの中段あたりに1章18節というのが書かれていますね。
オンラインの方はちょっとわからないので聞いていただければいいんですが、1章18節でイエス様が世の光である、目に見えない神を証しするということがこう宣言されています。
いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる独り子の神が神を解き明かされたのである。
もう一回読みますね。1章18節、レジュメの真ん中辺。いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられる独り子の神が神を解き明かされたのである。
これがイエス様が世の光であって、目に見えない神を証ししている。父なる神様の存在を表している神であるということなんですね。
繰り返しますが、この目の前にある光を、そんなものないと否定するように、イエスは神ではないし救い主ではないと否定し続けたのがこのパリサイ人の問題なんですね。
しかも、病気を放っておくと症状が悪化してしまいますね。
同じように、しばらく前からパリサイ人たちがイエス様を信じないという症状が悪化していくことが、ヨハネンの福音書を読み進めていくとわかります。
今日の箇所の問題は、実はパリサイ人たちがイエス様を問い詰める問い詰め方というのは、単なる言い訳でしかないんですね。
イエス様の言うことを信じたくはないが故に、お前は自分のことを証言しているから、自分に有利なことを言っているから、お前の証言は真実でないと言いちゃうものをつけたりですね。
あるいは、イエス様は実はそうではないということを言いながら、自分の証は律法にあるように二人の人の証言だ。
つまり私と父なる神様が二人で証言しているし、前も五書のところで話しましたが、人間ではなくて神が私について証しているから真実だということをイエス様は言っているんですね。
実は、今日取り上げない歌詞なんですけども、8章14節のところでイエス様が指摘しているんですね。
パリスアイ人の固くなさというのは、イエス様が父なる神様から使わされて、そのもとにまた帰るということを知らないし悟らないというところが問題なんですよ。
もう一つは、今言いましたように8章18節では、イエス様について父なる神様が証言しているという厳粛な事実を受け入れない。
だからあなた方は私のことも信じられないし、あなた方が信じていると言っている父なる神様のことさえもわからないんですよ、と。
彼らが闇の中に歩んでいるということをイエス様がこうやって指摘しているわけなんです。
このように、8章の13節から19節のイエス様とパリスアイ人のやり取り、議論の本質には、彼らがとにかくイエス様のことを信じたくない。
イエス様の言うことをまともに受け取りたくないが故にイチャモをつけている。
そういうことをわかると理解できると思うわけなんですね。
それがまず最初の点です。
2番目からもう少し積極的なところを見ていきましょう。
2番目、光に導かれて歩むということです。
今日の2つ目の特徴、大事な点は8章12節ですね。
イエスは再び人々に語られた。
ここから読んでみましょうか。
私は世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩むことはなく、いのちの光を持ちます。
この光の中を歩む、光に導かれて歩むということを見ていきましょう。
実は前々回から見ていますように、イエス様は仮庵の祭りの時にエルサレム神殿の中で語られました。
この絵にあるのはその時の場所なんですが、ここに女性の庭というのがあって、
当時、今もかな、女性はさらに奥まで入れないということで、
イスラエルの民は全員ここまでは入れたんです。
だからここの女性の庭というところが一番イスラエル人が、あるいは外国からやってきた礼拝者が入れる、一番人が集まる場所だったんです。
ここで何が起こっていたかというと、この光のモチーフに関しては、松明が灯されていたんですね。
おそらく少なくとも4本で、夜中中光が灯っていたわけです。
一説によると、それが消えた最後の日にイエス様が現れて、私は世の光ですと言われた。
あるいはこの松明がついている時に、イエス様はその松明の前で、私こそ世の光ですと宣言されたという場面なんです。
なぜこの仮庵の祭りをお祝いしたか、御名さん起源を覚えていますか。
その起源は、一説エジプトの荒野の旅路を、40年の旅路を記念して行っていた。
そのイスラエルの民を砂漠の中、40年神様が導いたということを記念して仮庵に住んだ。
そして神の導きを象徴するのがこの光だったということですね。
実はそのことが、出世エジプト記の13章21-22に書いてあります。
祭りの由来となった火の柱について書いてあります。
この当時、主は昼は土上の彼らを導くため雲の柱の中に、
また夜は彼らを照らすため火の柱の中にいて彼らの前を進まれた。
彼らが昼も夜も進んでいくためであった。
最後の部分だけ読んでみましょうか。
昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。
この40年間続いた神様の臨済と導きを記念して、
火を灯して光の祭りということで行われていたわけです。
ここで見てわかりますように、夜に火の柱が灯っていた理由をこう説明していますね。
昼も夜も進んでいくためであった。
ちょっと脱線しますけど、この歌詞を読むとですね、
夜は寝たんですけども、でも夜でも火の柱が昇ると民は進んでいったって記述があります。
夜も進むため、暗闇の中を進むために火の柱があった。
その中に主がご臨済しておられたということを覚えておいてください。
その後にこの神の民は突き従っていったわけですね。
実はそのような信仰から、このような詩篇の言葉が生まれた、祈りが生まれたとも考えられています。
ちょっと今日読むこと多いんですけど読んでみましょうか。
主は私の光、私の救い、誰を私は恐れよう。主は私のいのちの砦、誰を私は怖がろう。
まさにですね、夜の砂漠の旅路です。
毒蛇がいるかもしれない。あるいは盗賊がいるかもしれない。
そんな中であっても、神様が私の光であるから、誰も私は怖がらないという、そういう祈りなんですね。
実はある学者が、この詩篇の信仰を解説して、こういうことを言っているんですね。
主は私の光、救い、いのちの砦と信じ抜く信仰の勇気こそが、どのような敵の脅威にあっても全てを耐え抜く力となる。
今日の箇所と関係して言えば、主は私の光である。
そう信じ抜く信仰の勇気こそが、どのような敵の脅威にあっても全てを耐え抜く力となる。
信仰の勇気
この詩篇は、敵に襲われた作者が祈っているという文脈から書いてあるんですけれども、
敵でなくても、試練とか、私たちの不安とか、そういうものが私たちに臨んで、まさに暗闇を歩むような経験をするかもしれません。
将来どうなるのだろうか、これから先どうなるのだろうかという、夜旅するような不安が湧いてくるかもしれません。
しかし、そんな中であっても、光であるイエス様が私たちを導いてくださる。
主が私の光である、そう信じてイエス様の導きに心を預けて歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思います。
これが二番目です。最後では三番目。
いのちの光を持つとはどういうことか。
今日のカギの聖句、最も有名な聖句の一つ。
私は世の光です。私に従う者は決して、闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちますの。
いのちの光を持つとはどういうことか、それを最後に考えていきましょう。
実は、この8章12節の言葉は、ヨハネナ福音書の冒頭の厳粛な宣言と関係しています。
1章3節から5節、その部分を抜粋していましたが、こんな言葉があったのを覚えてますよね。
はじめに言葉があった、言葉は神であった、言葉は神と共にあったというところの続きで、
作られたもので、この方は神であられたと言ってロゴス、
種明かりするとロゴスなるイエス様のことを言っていますが、
作られたものでこの方によらずにできたものは一つもなかった。
この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
このことの確証なり実例が、今日の8章12節からの出来事なんですね。
ここでは、ヨハネの特徴は、いろんな哲学的とか信仰的なモチーフを絡め合わせてですね、文学的芸術的に表現しているんですけれども、
ここではですね、天地万物を創造されたロゴスなる御言葉イエス様について、
そのイエス様こそ天地万物を創造したいのちであり、また光であり、
そしてそのいのちと光が不可分の関係であるということが語られているわけですね。
ですから、この私に従う者はいのちの光を持つという言葉にも広くて深い意味があるわけです。
じゃあそのイエス様に従う人、イエス様についていく人が、私たちがいのちの光を持つとはどういうことなのかな。
実はこれも広くて深いですから、今夏休みですから宿題ですね。
夏休みの宿題のように私たちの人生の宿題です。
イエス様を信じて従ってついていくときに、いのちの光を私たちが持つというのはどういうことなんだろうかと、
この生涯かけて知ることが宿題のようなもの。
夏休みの宿題って本当に心が重いですけども、ワクワク日記でありますけどね、楽しい宿題。
答えが分かると本当にですね、喜びが湧き上がるような宿題が与えられています。
ちなみにですね、詩編にはこのイエス様がいのちの光である、
神様を信じるものにいのちの光が与えられるということを言い表した祈りがいっぱいあるんですね。
例えば、光と導きとかですね、光といのちってことが詩編にいっぱい出てきます。
一つ挙げると43編の3節なんですね。ちょっと読めるかで読んでみましょうか。
どうかあなたの光と誠を送り、それらが私を導くようにしてください。
これ、42編との続きで有名な42編の、
鹿が谷川の水を従い喘ぐように、私の魂は種を従い求めます。
というその詩編と一続きの中で語られているそうです。
で、実はここの箇所を解説して、ある学者がですね、旧約聖書の魂ということを話してるんですね。
魂とはどんなものかって、ちょっと難しいんですけども、その学者はこんな風に言ってるんですね、この箇所から。
魂とは、よりよく生きようとする故人の根源的な意思の働きである。
難しいんですけどもね。
で、実はこの解説がですね、イエス様が私たちの光であって、イエス様に信頼して導かれていのちの光を持つということと関係あるんじゃないかなと思ったので、
ちょっとこの解説を少しわかりやすく言い換えて、長く引用していますね。
この解説が、繰り返しますけど、イエス様に導かれていのちの光を持つということと関係しているように思えるので、その解説をちょっと、魂についての解説をですね、紹介しますね。
魂とは、よりよく生きたいと願う、それぞれの人の心の奥にある強い気持ちのことです。
そういった側面から見ると、魂は人間そのものの在り方を表していると言えます。
人は神と共にあって初めて、その魂に新鮮な息吹を与えられ、より良きいのちを全うできるのです。
とにかく魂、人間の本質、それは何かというと、より良く生きたいと願っている。
それは宗教的にもそうですよね。
批判にならないように言いますけど、先ほどのパリサイビでも実はより良く生きたいと願って、ああいうイエス様と問答したわけです。
聖書に出てくる、心渇いたと言われている女性も、より良く生きたいと思って、人間関係をあれこれ、とかひっかえしてみたり。
そして、もちろん病を癒された人も出てきますけど、より良く生きたいと思って、健康をイエス様に回復してほしいと思って、ベテスナの池でイエス様に声をかけたりしてきているわけですよね。
もちろん御名さん、気が付いたと思いますけれども、私たちもいろんなものを目指すその根本は、より良く生きたい。
もしかしたらそれは、前にお話しした魂の渇きかもしれません。
でも、そのより良く生きたいという心の奥にある強い気持ち、それは神と共にあって初めて、その魂に神性な息吹を与えられ、より良きいのちを全うできる。
つまり、まことの神に出会ったときに、私たちは本当により良く生きることができると確信することができるわけです。
じゃあその神様は誰ですか?どうやったらその見えない神様を知れますか?それは光なるイエス様ですよね。
ですから、より良く生きたいという私たちの願いを本当の意味で満たしてくださる方が、神なる救い主、光なるイエス様であると、私たちは信じることができるのではないかと思うわけですね。
神への導きと祈り
そしてそのいのちの光であるイエス様が、より良く生きたいという心の本当の願いをあらゆるところで満たしてくださるいのちの光であり、まことの神であり、救い主であるということを信じて歩んでいくお互いであり、教会でありたいと思うわけです。
最後にちょっと上の部分が、余計な部分が入りましたけれども、そのような神への気持ちをですね、表して、光やいのちと関連して祈っている地編の36編の7節から9節に触れて終わりにしたいと思います。
神よ、あなたの恵みは何と尊いことでしょう。神の民はあなたの家の豊かさに満たされ、あなたは楽しみの流れで潤してくださいます。最後のここから読んでみましょうか。
いのちの泉はあなたと共にあり、あなたの光のうちに私たちは光を見るからです。
天の神様、御名を賛美いたします。あなたは信じる私たちに、いのちの生ける水をもたらすだけではなく、光として私たちを導き、私たちに豊かないのちを与えてくださるまことの神であり、救い主であることを覚えて、あなたを賛美いたします。
どうぞ私たちの日々の歩み、人生の歩みにおいて、あなたが光となって私たちを導いてください。私たちがあなたに付き従っていくということを学び知ることができますように。また、あなたに会ってまことのいのちに生きるというその幸いを知ることができますように。どうか導いてください。
この願いと感謝をいのちの光である私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
それでは1分ほど、御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
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