アドベントの光の季節
それでは、お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、尊い皆を心から感謝をいたします。
アドベントの第一聖日を迎えています。
改めてこれからの季節、光として御抗嘆なさるイエス様を待ち望みながら、この季節を過ごしていきます。
主よ、あなたは、この暗闇の世界に光をもたらして下さいました。
それは今どれほどの暗闇が目の前にあろうとも、確かに光は来たのだと、その宣言が聖書を通して私たちになされていることを覚えて感謝をいたします。
あなたは私たちの暗闇を照らし、私たちを罪から救い、御子イエスキリストの十字架の父よによって、その罪を許し、復活の命、永遠の命を与え、今や神に結ばれて、神の命をいただいて生きるものとなして下さいました。
あなたが今私の家に住み、あなたの命が私たちを生かして下さっている。それ上に、暗闇にとらわれずに、光を覚えて光に歩むことができる栽培を感謝をいたします。
主よ、そのようなあなたの豊かな恵みを今朝ももう一度覚えたいと思います。
御言葉を開いて下さい。あなたの御言葉を開き、聖霊様が私たち一人一人に悟りを与え、そして本当にあなたに救われて、あなたと共に生きていることの豊かさを知ることができますように導いて下さい。
祈られたように、世界においては争いが絶えません。そしてその中に私たちは、この暗闇の深さはどこまでなのかと絶望をいたします。しかし私たちは、この世界を治め、今も天におられる主御自身を知っていますから、希望を失わずに祈っていきます。
どうか主がこの世界をなおも愛し、この世界を正しく治めて下さいますようにお願いいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人、ご自宅におられる方、心痛んでおられる方、心が闇に覆われて来ることがしんどい方もいらっしゃることを知っています。
どうかお一人一人を主が憐れんで下さい。慰めて下さい。もう一度光の内に主が招き入れて下さいますようにお願いいたします。
あなたに期待をします。これからの時も主が御言葉を開き、私たちに教えて下さいますように。
皆様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
イエス・キリストの誕生
今週から教会は、主の御高譚を待ち望むアドベントという季節を迎えてまいります。
今年もアドベントクランツには一本ずつロウソクが灯っていきまして、これがクリスマスの時には全部が灯って、一番光り輝く時に私たちはイエス様の御高譚を覚えるというそのような時を迎えます。
ただ最初から少し夢を砕くような話をいたしますが、イエス様がお生まれになったのはそもそも本当に12月25日なのでしょうか。
実はイエス様が12月25日にお生まれになったかは正直分かりません。
というか全ての月にイエスはこの時に生まれたという仮説があります。
実は12月25日にクリスマスが定められたのは、4世紀前半の頃の古代ローマ時代でありました。
ご存知の通り、時のローマ皇帝がキリスト教に改修をして、ローマという国はキリスト教が国教になります。
その時にそれまでローマで信奉されていた太陽神信仰ですね。
その太陽神の誕生日が実は12月25日なんです。
それがキリスト教に変わった時に、実は救い主の誕生日は12月25日にしようということで、この時が定められました。
なんかそう聞くとすごくがっかりするような気がいたしますけれども、ただがっかりするだけの理由ではないのです。
この時期にやはりイエス様の誕生を祝うことには意味があると思います。
なぜ12月25日がそもそも太陽神の誕生日であったかというと、実は12月25日の直前に当時があるからです。
一年の中で一番闇が長い時ですね。日が一番短くなる時です。
しかしそれを超えた後、徐々に日が長くなっていくのを覚えて、ああ、太陽神の誕生日だと祝ったわけですけれども、
ただ、古代のキリスト社たちはその感性において、ああ、これがイエスキリストの誕生にふさわしいと思ったんです。
なぜなら、一年で最も闇が深い時ですよ。一番闇が深い季節。
しかし、この闇が深い時だからこそ、私たちは本当の光を祝おうじゃないかとなったんです。
闇が深い時だからこそ、光を祝おう。なぜなら、光は確かにこの世界に灯ったからだと、彼らはそう受け止めたのだと思います。
イエスキリストの御降誕は12月25日、それに祝おうとその時代から定められました。
ヨハネの福音書の視点
確かにイエス様の御降誕を祝うのにふさわしい季節であると思います。
今も、いいえ、もしかしたら私たちの中では、今だからこそ、闇が深いと感じることは、それぞれに終わりなのではないかなと思います。
しかし今朝、ご一緒に開いた聖書の言葉で受け止めたい約束は、5節の言葉なのです。
昨年もよくこの言葉を開きましたが、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」という御言葉の約束です。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
アドベントの季節というのは、この光の約束をしっかりと受け止めるそのような季節でもあります。
今朝からご一緒に、おそらく3月あたりまで、ヨハネの福音詩を一緒に見ていきたいと思っています。
この書簡は、「イエスは光である。」と語る書簡です。
この方がどのような光であるのかを、今朝はご一緒に覚えていきたいと思います。
ただ、先に言っておきます。1章の1節から5節は実に内容が豊かです。
なので全部は話し切りませんが、2つのポイントに絞って少しお話をしたいと思います。
ただ2つと言いながら、最初に少しヨハネの福音書の著論をお話しして、2つの話をさせていただきたいと思います。
新約聖書には4つの福音書があります。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネですね。
その福音書はどれも、イエス・キリストはどういうお方であるかを語るための書簡です。
イエス・キリストはどういうお方であるか。
一番素朴な、おそらくマルコの福音書は、神の子イエス・キリストの福音の始めと1章1節に書いてある通り、
この神の良き知らせ福音というのは、イエス・キリストを見たらよくわかるんですよというところから書き始めていきます。
だから、マルコの福音書においては、イエス・キリストというのは福音そのものなんです。
神の良き知らせは、イエスを見たらよくわかりますよという話ですね。
一方、ルカによる福音書は素朴ではありませんで、実に丁寧にイエス様の御口談を描きますね。
バクテスマのヨハネと対にしながら、イエス様の御口談を語る。
しかし、ルカが語るのは、イエス・キリストというお方は、低きものを上げて高きものを砕くのだというような、
そういう社会をひっくり返すような救い主としてお生まれになるんだということをルカは語ります。
そして昨年見ましたマタイの福音書の最初はご存知でしょう。長い経図でした。
しかし、その長い経図が物語ることは、イエス・キリストはあの旧約聖書の成就者であり、誠の王として来られたんだということをマタイは語りました。
イエスは誠の王であり、旧約の成就者であると。
マタイ、マルコ、ルカにはそれぞれこのテーマが全部重なり合ってあるんですが、そういうふうに彼らは語るわけですね。
そして、これら三つの福音書は、話の流れが実は一緒なんです。
イエス様がお生まれになった、ガリダヤで宣教をなさった、そしてガリダヤからユダヤ地方エルサレムに下っていって、
エルサレムで十字架と復活をなさるという、いわばガリダヤからエルサレムへの一直線の話なんですね。
これはマタイ、マルコ、ルカそうなんです。
ですから、よく言われますのは、このマタイ、マルコ、ルカというのは、同じような資料を見て書かれたんでしょうということで、
共感福音書とよく一般的に言われます。共感福音書ですね。
ただですね、ヨハネはこの共感福音書に含まれないんです。
なぜなら、ヨハネというのは実に独自の視点でイエス様を描いているからです。
単純に違いますのは、ヨハネの福音書では実はイエス様がエルサレムに行くのは、少なくとも三回は行っているんですよ。
だから杉越の祭りが三回描かれますから、少なくとも三年は経っているだろうということで、
イエス様の交渉外は三年ぐらいでしょうという根拠になされますが、そのような違いがあります。
加えて、今朝読んでいただいたこの冒頭の言葉も、おそらく他の福音書とはだいぶ趣が違うんですね。
この冒頭の1章の1節から5節もまた、イエス様はどういうお方かについて語っているのですけれども、実に独特の視点です。
ちょっとそこに入りますけれども、誤解がないようにまず言っておきますが、福音書が違うイエス様像を語っているのは、矛盾ではないとしっかり覚えておいてください。
これは矛盾ではないんです。
加藤光という人間を一人語るにしても、ある人は優しい先生ですねと言ったら、ある人は意外ときついですねということを言われるかもしれません。
でもどっちも私なんですよ。
同じようにイエス様が様々な側面で描かれているというのは矛盾ではなくて、その豊かさ、その立体感をちゃんと福音書は語っているんだということを覚えておいていただきたいと思います。
さて、本論に入りますが、この1章の1節から5節になります。
1つ目のポイントは、イエスは言葉であるとヨハネは語ります。
イエスは言葉、ロゴスであると語ります。
ヨハネはイエス様をどのように描いているでしょうか。
1章の1節から3節を読みますと、こういう言葉です。
はじめに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
この方ははじめに神と共におられた。
すべてのものはこの方によって作られた。
作られたもので、この方によらずにできたものは1つもなかったというのです。
はじめに言葉があったとヨハネは書き出しますが、この言葉を聞いたときに私たちの中でピンと結びつく旧約聖書の箇所が終わりかと思います。
それは創世紀の創造の箇所ですね。
はじめに神が天と地を創造されたというあの言葉が思い浮かびます。
おそらくヨハネはそれと重ねて書いています。
あの創造の出来事を思い返しなさいと私たちを招くんです。
そしてあの創造の出来事において、神の言葉というのは実に重要な役割を果たしていたことを私たちは知っているでしょう。
なぜなら神の創造の身業というのはすべて、神は仰せられた、するとそのようになったというように、世界の創造というのは神様の言葉によって成立していったからです。
神は言葉によって無から有を生じさせ、神様は言葉によって、
忘博と最初に書かれますけれども、まさに無秩序な混沌とした、ごちゃごちゃとしたこの世界に神様は秩序を生み出していかれました。
創造の身業のすべては神の言葉によるのだというのが聖書の創造理解です。
そして、ヨハネの福音書でヨハネが語ることは、先日めて言うならば、この創造の業における言葉こそがイエス・キリストなんだと彼は語るんです。
この言葉こそがイエス・キリストなのだ。
神様と共に、あの創造の身業を担った言葉、それがイエス・キリストだとヨハネは語る。
だから、一章一節にありますが、言葉は神と共にあったのです。
言葉は神と共にあった。
しかしながら即座にヨハネが語ることは、言葉は神であったともここで語ります。
言葉というのは単なる神様の道具ではなくて、特にそういう異端がありましたが、言葉であるイエス・キリストは神の最初の秘蔵物なんだと語る。
そうではない。イエス・キリスト言葉この方は神なんだとヨハネははっきりと宣言をなさるのです。
それはまさに共に働くのですね。
いわば父と子は確かに違う、分離しているわけですが、しかし同時に共に働く一つの神であると語られる。
これはいわゆる三味一帯の根拠になされる箇所なんですね。神は三味一帯の神であると。
いつでも神様の創造の御業、それは今も続く創造の御業ですけれども、神の創造の御業は三味一帯の神、一つの神が共に複合的に働きながら私たちの内になされていく御業なんですね。
だからヨハネは語りました。作られたものでこの方によらずできたものは一つもなかった。
創造主である父なる神が子なるイエス様、言葉と共にその言葉を媒介としてこの宇宙を創造なさったし、私たちを創造したのだと語るんですね。
そしてもうちょっと難しい話にお付き合いいただきたいんですが、言葉というのはこれはギリシャ語ではロゴスというギリシャ語です。
ロゴスという言葉は、これはいろんな意味があります。一つは単なる言葉なんですが、もう一ついくつかあるのは、例えばロゴスというのは計画ということを意味します。計画という言葉です。
もしくはロゴスというのは秩序という言葉でもあります。そしてロゴスというのは論理、原理、論理とも訳されるそのような言葉です。
実は言葉という言葉の中にはいろいろな意味がイメージとして含まれているんですね。ロゴスというのはまさに創世紀の神の知恵の言葉なのですけれども、
神様の創造の計画でもあり、混沌の中に生み出された秩序そのものであり、創造された世界のあるべき論理である。
それらすべてを実行し、維持する力そのものであるお方がイエス・キリストなんだとヨハネは語っているんです。
実にスケールの大きい話ですね。そこまで言うんですかと思いますが、しかしこれはヨハネだけが言っている言葉ではありませんので、ちょっとだけお読みするので聞いていただけたらと思います。
コロサイショの1章の16節から17節というところでは、タウロも同じことを語ります。コロサイショの1章の16節から17節というところ。
イエス・キリストの光
ちょっとお読みしますけれども、コロサイビテへの手紙1章の16節から、ページは402ページの上の段になりますが、お読みしますと、
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ支配であれ権威であれ、巫女にあって作られたからです。
万物は巫女によって作られ、巫女のために作られました。巫女は万物に先立って存在し、万物は巫女にあって成り立っていますということをタウロは語りました。
スケールが大きいですね。イエス・キリストはそのような言葉そのものなのだとヨハネは語るのです。
ただ、私たちはこのスケールの大きさをスケールダウンしないことが大事なんですね。信仰において大事なことは、見言葉のスケールの大きさを私たちの中でスケールダウンしないということです。
クリスマスの時になぜこの世界を創造した言葉であるお方がこの世界におおまりになったのでしょうか。なぜクリスマスにそういうことが起きたのでしょうか。その目的はただ一つです。
この暗闇の世界に再び光を再創造するために来られたのです。イエス・キリストは新たな創造を始めるためにこの世界に来られた。そして神の創造の御業というのは、昔々あったことではないというのです。
そうではない。神の創造の御業は今なお終わってはいない。それはこの世界の中にそして私たちの中に神の創造の力、神の言葉は今なお働いている。それは私たちが信じるイエス・キリストロゴスによってです。
この言葉によって今この世界に新たな創造が始まり、それは今なお及んでいる。その及び方をこれから語りますよというのがヨハネの福音書です。なんかワクワクしませんか。ごめんなさいね。でもそうだと思いますよ。そのようなすごいことが起きたんだとヨハネは受け止めている。
そして三つ目の話ですけれども、イエスは言葉でしたが、もう一つここで確かに語られることは、イエスは光であるということです。光なんですね。そうであるならば、この光、イエス・キリストは光であるとはどういうことなのでしょうか。改めて四節五節を読みしますと、こういう言葉です。
この方には命があった。この命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかったというのですね。この方には命があったと語ります。
私たちはここで改めて、創世紀二章の文脈を思い返さなければなりません。神は命を持っているというのはどういうことか。それは泥人形であるアダムに命の息を吹きかけると、生きるものとなったというあの話ですね。創世紀の二章の七節に書いてあります。
神である種は、その大地の塵で人に形づくり、その花に命の息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなったと聖書は語ります。人が創造され生きるようになったのは、泥人形に神の命の息が吹きかけられたから命を得たのです。
神様は命そのものだと語るのです。神は命そのもの。命の源泉。人間の中に人間が命を生み出せるのではありません。いつでも私たちは全ての人がおしなべて、神からの命の息吹によって命が与えられているのです。
だからこそ後にイエス様は言われますね。また開きますが、ヨハネの四章というところでは、私が与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがありませんと言いますね。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命への水が湧き出ますとイエス様は語りましたね。命の源泉なんですよ。神ご自身が。そしてイエスキリストがそうなのだと語るのですね。
そして私たちはちょっと話が逸れますけれども、この命の息は枯れた骨をも生き返らせるという旧約聖書の話を覚えているでしょう。ゼキエル書の37章にあります。
枯れた骨をも神が命の息を吹きかけると生きるものとなった。枯れた骨というのは死んで久しい骨ですよ。死んでもう久しく時が経ってカラカラに乾いてしまって、その中にどんな命というかどんないいものが私の中にあるのだろうかと思うようなそのような骨ですよ。
しかしそこに神が命を吹きかけるならば、それは生きるものとなったとゼキエル書は語りますね。命そのものであるお方によって生かせない人などいないのです。そして再び人に命を引き込むこのお方は、人の光としてこの世界にいらっしゃったということをヨハネは語るのですね。
すごいことです。この方の命の光というのは、どのような闇をも照らし、どんなに死んでいたとしてもそれを生き返させる命そのものであり、そしてどんな混沌でぐちゃぐちゃしたところにも新たな秩序を生み出し得る、そのような神の言葉、力であるお方であるというのですね。
ヨハネはしっかりとこの世界は闇に覆われているという現実をよくわかっています。1章のちょっと飛びますが、10節11節にはこういうことが書いてありますね。
神の創造の御業
この方はもとから世におられ、世はこの方によって作られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかったというのですね。
誰も光を知らないのです。 闇の中で方向を見失い、的外れな歩みをして、まさにイザヤショが羊のようにさまよい、それぞれが自分勝手な道に向かっていったと語るように、それは私たちの今の現代にも当てはまる事柄でありましょう。みんなどこ向いていいかわからない。
これはもしかしたら、今なお私たちの心にある現実なのかもしれません。ただ、今朝の中心成果は5節です。もう終わりますが、光は闇の中に輝いている、闇はこれに打ち勝たなかったという言葉です。光は闇の中に輝いている、闇はこれに打ち勝たなかった。
アドベントの季節に私たちが共に心に備えていきたいことは、第一に、既に私たちにはこの光が灯っているという事実を覚えなければならないということです。
私たちは救われ神のことをされているという事の、いかにすごいことか、いかにスケールの大きい御業が私の中に起きているかという事を、私たちは今一度その豊かさを思い返さなければならないように思います。そして、スケールの大きい石の御業をスケールダウンしないように受け止めなければならないと思います。
神の創造の御業は今なお終わっていないのですね。アドベントクランツの光は希望の光であるとともに、私たちの現実なんです。光が灯っていきます。でもこの光が灯っていく中で私たちは確信を深めなければなりませんよ。
ああそうだ、確かに闇じゃない光は私の内にあるんだという事を、私たちは御一緒に受け止めていきたい。聖書はそう約束するからですね。そして、そうであってなお、私たちはそうであってなお、どこを見ても闇が覆っているかのように見えるかもしれない現実というのにはいつでも覆われうるお互いです。
しかし、今のこの時だからこそ、闇が深いと感じるこの時だからこそ、この季節に改めて、その暗闇を照らす希望は確かにあるんだということを受け止めていただきたいと思うんです。確かにあるのです。それは聖書が宣言する通りです。光は来ましたなんです。
光はこれから私たちはクリスマスに向けて待ち望んでいくんだけども、聖書の約束は光は来ましたなんですよ。それはあなたの中に今灯っていますなんですよ。そしてそれは、私たちの中でいかに死んだ者をも生かし得る光が来ているということです。
まあ、私がそんなことを言っても大して力がないかもしれませんが、大丈夫ですと言いましょう。大丈夫です。大丈夫なんですよ。救い主キリストの光はどのような闇をも照らす絶大な光、絶大な力です。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかったと聖書は語ります。
私たちの持てる力だとか、私たちの何かできるできないかではなくて、このお方は私の中に確かにいるんだということ。そのことから私たちは静かな確信をこの季節にまさしていただきたいと願っております。一言お祈りをしてメッセージを終わります。