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2025-10-05 25:37

#294見えない人、見える人〜クリスチャンの視力 25/10/5

ヨハネ-41からの礼拝説教。2025年10月5日録音。(聖書朗読は()まで、メッセージの導入は()からです)

今日の箇所はこれまで見て来たヨハネ9章のクライマックスです。そこで語られたイエス様のこの言葉、「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』」()の意味を知るために、1.目える者が盲目となる()、2.盲目の人が見えるようになる()、3.目は開かれ続ける()、の3つの点を取り上げます。

原稿を読む見えない人、見える人:ヨハネの福音書9章36—41節|Kishio

サマリー

このエピソードでは、イエスが生まれつき盲目の人を癒し、その過程で信仰の重要性について説いています。さらに、パリサイ人たちの霊的盲目にも触れ、真の理解とは何かを探求しています。また、盲目の人がイエスによって目を開かれ、彼の信仰がどのように成長していったかが描かれています。加えて、聖書を通じて神について新たに学び続ける必要性についても語られています。

イエスの教えと盲目の人の癒し
一書、九書、三十五節から四十一節をお読みします。
イエスはユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われています。
あなたは人の子を信じますか?
その人は答えた。
主よ、私が信じることができるように教えてください。
その人はどなたですか?
イエスは彼に言う。
あなたはその人を見ています。
あなたと話しているのがその人です。
彼は主よ、信じますと言ってイエスを礼拝した。
そこでイエスは言われた。
私は裁きのためにこの世に来ました。
目の見えないものが見えるようになり、見えるものが盲目となるためです。
ハリサイ人の中でイエスと共にいた者たちが、このことを聞いてイエスに言った。
私たちも盲目なのですか?
イエスは彼らに言われた。
もしもあなた方が盲目であったなら、あなた方に罪はなかったでしょう。
しかし今、私たちは見えると言っているのですから、あなた方の罪は残ります。
以上です。
パリサイ人の反応
今日はこのところから、見えない人、見える人と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
10月に入りましてですね、だいぶ涼しくなりましたですね。
夏の疲れが出ている方もいるかもしれませんけれども、
今日このようにして御言葉からずっと感謝しています。
ヨハネノ福音書の9章を分けて学んできて、
今日が最後の部分、クライマックスですね。
クライマックスシリーズ、野球でもこれから始まりますけどね。
今思いついただけですけども。
9章は皆さんご存知のように、生まれつき目の見えない人がイエス様によって癒された出来事です。
そのことから発した物語、今日がある意味でクライマックスなんですね。
そして、この目を開いた日が安息日であったということで、
パリサイトたちから、この男の人は簡単に言うと尋問に遭うんですね。
イエスをめぐって。
そして、今日最後なんでちょっと復習してるんですけれども、
彼のことを信じられなかったパリサイトたちはですね、彼の両親をも呼び出してですね、
この人は本当にあなたの息子ですか?
そして生まれながら目が見えなかったんですか?どうして見えるんですか?と聞いたわけですね。
すると両親はですね、本当に私の息子で目が見えなかったのが見えるなんてことは分かります。
けれども、ユダヤ人たちを恐れてですね、イエスを告白することを拒んで、
あれがどうやって目が見えるようになったかは大人になったあれに聞いてください。
霊的な目の開かれ方
彼はですね、そうやってある目両親からも見放されてしまったわけですね。
そして先週見たところは、もう一度ですね、パリサイトたちは拉致が開かないということで、
どうしてもイエス様を罪と扱いした。
この男の人を呼び出して、どうやって目が開いたのか。
本当にお笑いのようなですね、彼がキレるほど同じ質問を繰り返したわけですね。
あなた方信じてくれなかったじゃないですか。
あなた達も弟子になりたいんですか?と言ったら、言うところ逆切れですよね。
お前は全く罪の中で生まれていながら、俺たち教えようとしているのか?と言って街道から追放した。
そういうところが先週までのお話で、今日はその続きです。
3つの点から話すんですけども、後で出てくるイエス様の言葉をめぐってですね。
最初はですね、見えない人とはどんな人か。
見えるものが盲目になるとはどういうことか。
2番目は、盲目の人が見えるになるとはどういうことか。
そして最後は、私たちとも関係ある目が開かれ続けていく。
そういうことについて見ていきます。
それでは一番最初ですね。まず、見えるものが盲目となる。
41節でこうあります。
イエスは彼らに言われた、パリ西人たちに言ったんですね。
もしあなたが盲目であったなら、あなた方に罪はなかったでしょう。
しかし今、私たちは見えると言っているのですから、あなた方の罪は残ります。
今日の締めくくりの見込みです。
そういうことを言った背景にはですね、
パリ西人たちが私たちも目が見えないんですかと聞いたわけです。
そのきっかけとなった言葉は、今日の一つの鍵の成果でもある
9章39節の言葉ですね。
盲目の人にご自身の正体を表した後で、イエスは言われたと。
この鍵括弧から読めるかで読んでみましょうか。
私は裁きのためにこの世に来ました。
目の見えないものが見えるようになり、見えるものが盲目となるためです。
ここのがですね、今日の一つの鍵の成果ですけれども、
ヨハリム9章のテーマは目が見えるかどうかということなんです。
それは皆さんもお察しのようにある比喩なんですね。
学者なんかも言ってるし、皆さんもわかってると思いますけど、
霊的に目が見えればどうか。
ちょっと霊的に言うと今誤解が生じるので、もうちょっと分かりやすく言うと、
神様が意図した通りに聖書について、神様ご自身について理解しているのか。
そしてそれは自分たちの思い込みではない聖書理解、神理解であって、
引いてはそれはイエス様が誰かについてきちんと知っているということが、
目に見えるか見えないかということと関係しているんですね。
そこでですね、パリサイビットの問題が出てくるんですけども、
パリサイビットの問題はですね、目が見えていると思っていても実際は見えていない。
あまり霊的な目が閉ざされていたということですね。
彼らはですね、繰り返し言いますけども、
お前は住みの中に生まれていながら、俺たちを教えるのかと豪語した通りですね、
自分たちこそモーセの弟子であって、九百聖書や律法を正しく知っている、
という豪語をして自負していたわけですね。
しかし、本当に神様のことを悟っていなかったがゆえにですね、
イエス様が救いにしてあるということを受け入れます。
そして世の光であるイエス様のことが本当の意味で見えていなかったわけです。
それをイエス様は盲目だと指摘しているんですね。
で、丁寧に見ていきますけれども、
これ、さっきの繰り返しですね。
イエス様がなぜ盲目と指摘しているかというところですけども、
彼らが盲目であるしるしということ、見えているつもりが見えてないということが、
九章の彼らの発言を見るとよくわかります。
最後なので、あえて今日その発言を言いますけど、16節ではですね、
こう言ってるんですね。
パリサイ人のうちのある者たちは、その人イエスは
安息日を守らないのだから、神のもとから来たものではないと言う。
断言している。
そして目の見えない人に対してですね、神に栄光祈しなさい。
それは神様が見ているから本当のことを言いなさいと言うんですけども、
私たちはあの人イエスが、
罪人であることを知っているのだと断言しているわけですね。
そしてさらに29節では、
神がモーセに語られたということを私たちは知っている。
しかし、あの者イエス様については、どこから来たのかを知らない。
まあ余談ですが、ここで言っているイエス様について、
あの者っていう言葉ですね。
まあ元のことを見ると、あいつが、あの野郎が、
そういう詐欺すんだ言葉です。
そしてまあ今日のところに関係あるんですけども、
最後とても詰まりがですね34節で、
この盲目の人に対して言いましたね。
お前は全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。
そして彼を外に送り出し。
これ先週もお話ししましたが、
イエス様と正反対の見立てでしたよね。
イエス様はこの人も両親も罪を犯したんじゃないよ。
罪じゃなくて、神の栄光が現れるためだと言った。
このようにして、イエス様に敵対するパリサイブルたちが、
盲目であるってことが明らかと繰り返しますが、
彼らはイエス様について、神について本当のことを知っていると思い込んでいたけれども、
実際何も見えていなかった。
こういう怪しい人いますけどね。
サングラスをかけて、部屋に入る。
なんだ、この部屋暗いじゃないか。
怒ったら、その人、岡田ちがいですよね。電気がついている。電気つけろ。
サングラスを取れば、電気がついていることがわかります。
このパリサイブルたちが、サングラスをかけている人のように、
偏見というサングラスをかけて、イエス様のことを見ているから。
もう完全にイエスは罪人だ。
あの人の位置を汚った。
俺たちの決まりを守らない。
こいつは罪人だというサングラスをずっとかけているので、
イエス様の光が見えずに、イエス様を罪人扱いした。
それが、今日最初皆さんにお伝えしたかったポイントです。
彼らは見えていると思っていたけれども、見えなかった。
見えるものが盲目だというのは、そういうことです。
そして、もう一つ指摘したかったのは、
実は、この誤ったサングラスをかけていたから、
イエス様のことを彼らは拒み続けました。
そして、実は彼らは自ら選んで、
神の裁きを見に追っていることになるわけですね。
イエス様が裁きのために世に来たというのはどういうことか。
それは、イエス様の姿が明らかになって、
イエス様が神の使いである、使わされたものであるということが
明らかに宣言されたことによって、それを拒んだ人はですね、
神様の裁きをその身に追う。
そして結果として、彼らは神の裁きに自ら追うことになるので、
イエス様は自分が来ることによって、
神の裁きが実現するという意味。
そこでですね、私は裁きのためにこの世に来ましたという
イエス様の言葉につながってくるわけです。
それが最初の点です。
2番目、良い点を見ていきますが、
盲目の人が見えるようになるところを見ていきましょう。
イエスはユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、
彼を見つけて言われた。
あなたは人の子を信じますか?
その人は答えた。
じゃあここだけ読んでみましょうか。
主よ、私が信じることができるように教えてください。
その人はどなたですか?
このようにですね、彼は、
皆さんよく考えていただきたいのは、
目が見えるようになってからずっとイエス様のことはずっと見てこなかったんですね。
追い出されて、初めてイエス様と対面して、
イエス様の姿を見たわけです。
何がわかるかというと、
実際にイエス様を見て、
イエス様とのインタビューを通して、
イエス様を神から使わされた救い主、
神ご自身だと認めて、
イエス様を礼拝したということがあるわけですね。
何が言えるかというと、実は、
彼はですね、実際に目が開かれました。
けれども、彼の霊的な目の開かれ方というのは、
だんだんと開かれていったということが、
今日の救主までのところを見てわかるんですね。
どういうことか。
実は、今まで見てきたように、
彼はですね、一番最初は、
目を洗って、そして目が見えるようになって、
隣人たちにどうしたんだって聞かれたときに、
最初に答えたのは、
イエスという人が開けてくれたという、
イエスという名前しか知らなかったんです。
前にも言ったんですけど、
イエスという人間が、
名前しか知らなかった。
そして、2番目、
パリサイビートにですね、
お前はあの男をどう思うんだって言ったら、
彼は、あの方は預言者ですと言ったんです。
これはですね、後でも説明しますけども、
イエス様を見下げてるんじゃなくて、
モーセとかエリアのように、
偉大な奇跡をする方、
言ってしまえば、神様に最も近い、
最も親しいイスラエルが尊敬してきた、
神の人預言者だという意味なんです。
ここでまだ人間なんですね。
そして、先週見た、
ちょっと難しい言葉なんですけども、
彼がですね、パリサイビートたちに、
あなたもあの人の弟子になりたいんですか?
と言って、パリサイビートが逆切れした時ですね、
パリサイビートは、モーセは神の言葉を語ったけども、
あのイエスという男がどこから来たか、
俺たちは知らないから、
あんな奴は罪人だと見下げた。
それについて、この目の見えなかった人はですね、
この律法の教師であるパリサイビートもですね、
たじろぐような、利路整然と、
しかも大胆に、両親たちは怖がってきましたけども、
大胆に、明朗快活にですね、
盲目の癒しと信仰の成長
イエス様のことを告白したんですね。
ちょっと長いですけど、読んでいますけども、
趣旨はですね、
あの方は神から使わされた方に違いない。
私たちは知っています。
神は罪人たちの言うことを気になりませんが、
神を敬い、神の御心を行う者がいれば、
その人の言うことはお聞きくださいます。
盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、
昔から聞いたことがありません。
この結論だけ読んでみましょうか。
あの方が神から出ておられるのでなかったら、
何もできなかったはずです。
繰り返しますが、ここではまだ、
この癒された人はですね、
イエス様が人間である。
でも尊敬に値する人で、
あなたたちが否定するような人じゃなくて、
確かに神から使わされた人だと、
このように言っている。
それを覚えておいてください。
だんだんとですね、とにかく、
この男の人の目が開かれていくように、
イエス様についての理解、
そして、完全な信仰告白へと導かれていく。
そういうことが進歩していくありさまが、
彼の言葉から分かってくるわけですね。
そして皆さんご存知のように、
この彼の大胆で迷路解剖な証の上にですね、
ユダヤ人のカイドウから追放されました。
そしてそれは、ユダヤ人のカイドウは当時ね、
ネリマ国民センターとかですね、
ネザー福祉の里みたいな地域のコミュニティセンターだったんです。
そこから追い出されることになりますから、
その村から、地域から阻害されてしまう。
どんな福祉も受け入れられない。
厳しく言うと、そういう立場になってしまったわけですね。
そしてついには、その前には、
彼はある意味、両親からさえも
見放されてしまったわけですね。
そんな彼にですね、感動的なことが訪れるわけですね。
イエス様が、わざわざ彼を追い出したことを聞いて、
彼を見つけ出してきてくるんです。
イエス様の方から彼の元に駆けつけてください。
そして人の子、簡単に言うと、
終わりの日にやってくる受難の救い主を信じますか?
誰か信じられるようにしてくださいと言ったらですね、
イエス様は、こう言ったわけですね。
あなたはその人を見ています。
あなたと話しているのがその人です。
ここから行きましょうか。
彼は主を信じますと言って、イエスを願いました。
このイエス様との感動的なやり取り、
イエス様がご自分の正体をですね、
神のある救い主だと表したと言ってみております。
そしてその時に彼はですね、
実際の目が見えるようになってイエス様を見ましたけれども、
まさに霊的な目も開かれて、
神に対する心理の目も開かれてですね、
イエス様の本当の神の子としての姿を見て、
あなたを信じますと言って、イエスを礼拝した。
これは本当に神を礼拝したという言葉で、
人行伝なんかを見ると、
天使を礼拝したという、
この同じ言葉を使われているのを見るとですね、
天使さえですね、私は神でないから、
私を拝んだらいけませんで拒んだ。
つまりこれはイエス様が本当に神であるということを、
この男の人が悟って、そして神として、
跪いて口づけしたという元々の意味ですね。
そのように彼は全くイエス様のお姿を悟って、
イエス様を救い主として告白したわけですね。
このような今日の話のクライマックスが、
悪影響と孤立
感動的な話になりました。
では最後に3番目、私たちが学んだことを
皆さんにも知ってほしいと思うことを最後に分かち合います。
目は開かれ続ける。3問目は目は開かれ続けるということですね。
イエス様が言ったことをもう一度書きます。
引用しますが、9の39節。
私は裁きのためにこの世に来ました。
目の見えないものが見えるようになり、
見えるものが盲目となるためです。
これはですね、私たちはこのパリサイオ人たちのように、
イエス様を信じたからといって、
いつも目が見えるようになったと自負してはいけないんですね。
徐々にイエス様について知ることができたこの癒された人のように、
私たちは聖書、あるいはイエス様が救い主だということについて、
新たに目が開かれ続けていく。
そんな必要があるということなんですね。
実はこの目が開かれるってことは、
戒心、イエス様を救い主として信じて出会っていく、
食い改めとか、とにかく回るって事でこうですね、
戒心、英語のコンバージョンっていうことをできることと、
入れ替えると言いますかね、ことができるんですね。
先ほど言いましたが、パウロのイエス様との出会い、
その時も光が灯って、まさに目に鱗がついてですね、
目から鱗が取れて、イエス様の救い主だと分かった。
その戒心と目が開かれて光に照らされるってことが、
オーバーラップするんですけれども、
実はですね、大事なことを知っていただきたいんですけれども、
この学者がこう言ってるんですけれども、
私たちはこの目が開かれた人に、
一番最初にイエス様を救い主だと信じます、
洗礼を受ける、バクテスマを受けて福祉者になります。
でも戒心というのは、その一回で終わりでないって言うんですね。
この戒心というのは、一度かびりの経験ではなくて、
神様は私たちを生涯かけて新しく作り変えていきたいと思います。
その神が新しく私たちを作り変えていく、
逆に言うと私たちが作り変えられ続けてもらうためには、
生涯にわたって戒心し続ける他にない。
クリスチャンの生活は、熟達して経験を積みすぎる、
卒業するってことは決してない。
更に戒心し続けて、変えられ続ける必要から、
クリスチャンは逃れられないんだって言うんですね。
皆さんも経験あると思いますけども、
生活の中で様々なピンチを経験したり、
自分について失望したり、状況について失望する中で、
イエス様が私を助けてください。
イエス様は罪を許したってことは、こういうことだってことがお分かりになると思うんですね。
あるいは聖書の言葉が、
なるほど、これが私のためだったんだっていう時があると思います。
パターン化できないんですけども、
そのような新たな救いの体験というか、
戒心、経験を通して、私たちは見栗に帰るまで、
イエス様の身姿へと変えられ続けていく。
全て見えたっていうんじゃなくて、
見えない時がある、見えないものでもあるということを受け継いで、
戒心し続ける。
イエス様の目を開いていただき続けていく。
継続的な戒心
そういうことが必要だということを、最後に覚えていただきたいと思います。
最後にこのパウロがですね、
イエス様の光と、私たちの神を知るってことを表した言葉を読んで、
終わりしたいと思うんですね。
コリン特集の手紙、第2の4章6節の読み言葉です。
ちょっと難しいんですけど、最後ですから、全部読んでみましょうか。
3、はい。
闇の中から誰よりも輝き出よと言われた神が、
キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、
私たちの心を照らしてくださったのです。
第2コリンと4章6節。
イエス様にですね、心を照らし続けていただいて、
目が開かれ続けて、新しく変えられていく、
お互いでありたいと思うし、またそういう境界でありたいと思います。
祈りましましょう。
救いの品はイエス様、御名を賛美いたします。
あなたは私たちが見捨てられたと思うときに近づいてきてくださり、
ご自身を表してくださいます。
そしてあなたの家族として、
あなたの兄弟姉妹との交わりへと導いてくださることを感謝いたします。
どうか神様、私たちがイエス様に目を開かれ続けていただいて、
そしてあなたのことをいつも新しく知り続けることができるように、
そしてあなたの身姿へと変えられ続けることができるように、
どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど、御言葉に応えて黙祷する時間を持ちましょう。
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