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2025-08-24 29:23

#288 自由とは~本当の弟子、自由を得るとは 25/8/24

ヨハネ-38からの礼拝説教。2025年8月24日録音。(聖書朗読h()まで、導入は()からです)イエス様が教える「本当の弟子」の条件について最初に取り上げます。(1.イエス様のことばにとどまる())。その次に世界名言集などに掲載される程よく知られている「真理はあなたがたを自由にする」のイエス様のことばが私たちにとってどのような意味があるのかを、最初は罪との関りから見ていきます。(2.罪からの自由())次に「居場所」という観点から考えていきます。(3.自由人のすみか())

原稿を読む

https://note.com/nsbc/n/n46a7704d3ffb?sub_rt=share_pb

サマリー

このエピソードでは、イエスの言葉にとどまることが真理を知るための自由への道であると語られています。特に、罪からの解放とイエスを信じることの重要性が深く掘り下げられています。イエスの言葉に留まることで罪から解放され、真の自由を得ることができるというメッセージが強調されています。罪の許しやそれに伴う行動の変化、神の子供としての特権についても説明されています。また、自由という観点から新座市と平林寺の魅力を探求し、御言葉にとどまることの大切さが述べられています。

イエスの言葉にとどまる
文章、ヨハネ8章31節からお読みします。
イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた、
あなた方は、私の言葉にとどまるなら、本当に私の弟子です。
あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。
彼らはイエスに答え、私たちはアブラハムの子孫であって、
今まで誰の奴隷になったこともありません。
どうしてあなた方は自由になると言われるのですか。
イエスは彼らに答えられた、まことにまことにあなた方に言います、
罪を行っている者は御名、罪の奴隷です。
奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。
ですから、子があなた方を自由にするなら、あなた方は本当に自由になるのです。
私はあなた方がアブラハムの子孫であることを知っています。
しかし、あなた方は私を殺そうとしています。
私の言葉があなた方の家に入っていないからです。
私は父の下で見たことを話しています。
あなた方はあなた方の父から聞いたことを行っています。
以上です。
自由の理解
今日はこのところから、自由とはと題して言葉から見ておきます。
皆さん、おはようございます。
8月の第4週になりました。
ニュースでも言っておりましたが、東京地方は先週は月曜日から連続少なくとも5日間猛暑日が続いたということで、
気象情報なんかでも、この2、3年は異常なほど猛暑日が増えて、地球の温暖化なんてことも言われていますけれども、
そんな中、御名さんお互い守られまして、共に今日、礼拝ができますことを感謝しています。
さて、今日は8章の32節が非常に有名な言葉です。
あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。
よく受験参考書の世界名言集なんかにも載っているような言葉です。
その言葉を中心とまで言わないんですけれども、その前後から学んでいきます。
今日の箇所の鍵は、とどまるという言葉と、あと自由という言葉の理解にあります。
そして、私たちの信仰生活の糧となるように、まず最初にイエス様の言葉にとどまるとはどういうことか。
そして2番目は、自由という点を2つ、3つと見ていきますけれども、罪から自由になるということを見ていきます。
そして3番目は、少しこの箇所の理解しにくいところと関係しているんですが、自由人の罪か、自由と罪かということを見ていきたいと思います。
では、一番最初ですね。イエス様の言葉にとどまるというところを取り上げていきます。
8章31節、イエスはご自分を信じたユダヤ人たちに言われた、ここから読めるか、読んでみましょうか。
あなた方は私の言葉にとどまるなら、本当に私の弟子です。
ここも大事なところですね。先々週見た30節のところで、多くの人がイエスを信じたとありました。それまでのイエス様とのやり取りを。
そしてそれをおそらく受けて、イエス様はその時信じた人たちに、本当の弟子とはこういう人だということを教えたわけです。
そのようにイエス様は、私たちがただ一回信じた、あるいは御名さんもここにいる方例外なく信じて、バブテスマ洗礼を受けました。
それで終わりではなくて、本当の弟子になることを願って招いておられるということなんですね。
その本当の弟子になる、本当のって言葉が入っているところが本当に大事なんですね。
この本当に私の弟子となる人とはどんな人かというと、イエス様の言葉にとどまる人だとイエス様は言っているんですね。
今までお話ししてきましたように、このとどまるという言葉は、ヨハネの福音書の中でとても大事な言葉、用語なんですね。
このとどまるという言葉、一番最初に出てくるのは、1章の31節以降でイエス様と最初の弟子たちの出会いが出てきます。
これはバブテスマのヨハネがイエス様を刺して、身を、世の罪を取り除く神の子羊といったところですね。
二人のヨハネの弟子たちがイエス様のところに近づいていって、という場面です。
そしてイエス様が一番最初に発した言葉が、「あなたは何を求めているんですか?」という問いです。
そのに答えて弟子が、おそらくペテロの兄のアンデレが、「あなたはどこにとどまっていますか?」
巡回教師のように考えていて、イエス様が泊まっている宿泊場所を訪ねたその時に、このとどまるという言葉を使っています。
ちなみに元のギリシャ語ではメノウという言葉なんですね。
この言葉は居場所や滞在場所と深く関係している言葉なんですね。
そのイエス様がとどまっている場所をこの二人が聞いたら、「私について来なさい。」と言いますかね。
そして、「来ればわかります。」と言って、この二人はイエス様の宿泊している場所にとどまった、宿泊した。
そして何があるかというと、翌朝ですね、このアンデレはおそらく弟のペテロに、「私はメシアと呼ばれるキリストに出会った。」と言っているんです。
イエス様ととどまったアンデレは、イエス様がメシアだということがわかった。真理がわかった。
そういうことがこの最初の出会いからわかるわけです。
イエス様ととどまった人は、イエス様がメシアだという真理がわかったということがこの場面で語られているわけですね。
このイエス様の言葉にとどまることが本当の弟子だとイエス様が言いましたが、
イエス様の言葉にとどまるとはどういうことかということで、ある学者はこんなことを言っているんですね。
ちょっと長いので読んでみますね。
キリストの言葉にとどまるとは、キリストの言葉によって生きるという決意を意味し、キリストの言葉に絶えず耳を傾け、キリストの言葉をよく考え、キリストの言葉を堅く守り、キリストの言葉のいのち令を実行することを意味する。
レジュメにもありますのでゆっくり見ていただきたいんですけども、このように深く広く豊かな意味があるということなんですね。
イエス様の言葉と言ってますが、今の私たちにとっては広く聖書の御言葉と考えていいでしょう。
本当のイエス様の弟子は、聖書の言葉にとどまる人だ。
私たちはイエス様の言葉の中に、聖書の言葉の中に宿を設け、そしてイエス様の言葉の中でイエス様と神職を共にする。
その時にイエス様の本当の弟子になるんだということがイメージされると思うんですね。
私たち一人一人がイエス様、聖書の言葉にとどまることはどういうことかということを、私たち一人一人が考えていく必要があります。
イエス様の言葉、聖書の言葉にとどまることはどういうことかをよく一人一人考えて、そしてそれを生きるためにどうするかということも私たち一人一人が考えていく。
そしてそれを実行していく中で、実は私たちは自分ごととして真理を知って、イエス様が約束した自由を知るということなんですね。
では、自由ということをあと二つの点で見ていきます。
罪からの自由
ごめんなさい、書いてありません。
オンラインの方もいろいろと読んでいますけど、イエス様の言葉とは今の私たちにとっては聖書の言葉と考えて良いでしょう。
私たちはイエス様の言葉の中に宿を設け、イエス様の言葉の中でイエス様と神職を共にする時にイエス様の本当の弟子になるのです。
私たち一人一人がイエス様の言葉、聖書の言葉に留まることはどういうことか、そのためにどうするのかを考え実行していく中で私たちは真理を知り、自由を知るのですということなんですね。
それでは、自由ということを二つの点から見ていきましょう。
まずよく言われている二番目、罪からの自由ですね。
32節読んでみましょうか。
あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。
余談ですけども、一つ前の新改訳聖書の32節の冒頭には、そしてと入っています。
そして、もし私の言葉に留まるなら、あなた方は本当に私の弟子です。
そして、あなた方は真理を知るでしょう。
そして、あなた方を真理は自由にするでしょうという、あえて言うと言葉にこだわるんですけども、31節から流れてくるような中で、この32節が語られているんですね。
まずですね、狭い意味と言ったら変なんですけど、今日見ている箇所で、罪とは何かということを考えますけども、
今日のイエス様と対話している人との会話の中での罪というのは、イエス様を信じない罪を具体的に言っています。
ずっと文脈で読んでいると。
言い換えれば、イエス様の言葉も、さらにイエス様の神なら救い主であるという、そういう、ちょっと字が違いますけど、真理も受け入れず、イエス様を殺してしまうという罪ですね。
それことをまず覚えておきましょう。
その上で、このイエス様への信仰からもたらされる、広い意味でのこの罪ということを見ていきたいと思います。
ある学者は、この真理を知った上で、約束された自由について、明確にこう言っているんですね。
その自由とは、それは、罪と罪意識から自由になることである、と言っているんですね。
御名さん、イエス様を信じて十字架の上がないを受け入れていますから、このことは理解しておられて、実感しておられると思いますね。
その上で、このことを先週詳しくお話ししましたように、私たちはイエス様の十字架ゆえに、たとえ私たちが罪を犯してしまったとしても、神様の前での罰が全部支払われているわけです。
だから、イエス様の十字架を仰ぎ見る私たちは、神様から罪を咎められない、神の前では罪人とされない、許されたものだということが言えるんですね。
これは福音であり、神の恵みの一部がそういうことなんですけれども。
繰り返しますが、この自由というのは、イエス様の十字架を信じた人、イエス様を神なる救い主として受け入れた人は、この罪人ではなく、罪許された人として自由になるわけですね。
罪の許しと自由の獲得
さらに今日の御言葉に留まることと関連して言うならば、私たちがイエス様の言葉に留まるときに、イエス様から罪を許されている、そのことの広さ、豊かさ、深さ、それが何と言うでしょうかね。
本当は言葉で言えるなら一番いいんですけれども、イエス様の十字架ゆえに罪許されていることの深さや、私にとっての許しの意味ということが実感できてくるわけですね。
そうすると、ますます自由を得ることができるわけなんです。
そして、罪意識から自由になるわけなんですね。
そして、面白いことに、興味深いことに、実はそのように罪の許しを断ることに体験していく、実感していく中で、私たちは変えられていって、罪を犯さなくなっていく、変えられていくんです。
ちょっと脱線しますが、少し心理学的なことですけれどもね。
人はですね、罪を指摘されたり、非難されるよりも、受け入れられて許されている方がですね、行動が変わるんですね。変容するっていうんですね。
まあそれ本当に神様の偉大な約束で言えば、この間も話しましたが、罪を犯さないでいれば一番いいんですけれども、神の道に紛れてしまった、あんなこと言わなきゃしなきゃよかったっていうことに心を責められた時にですね。
イエス様の十字架を仰ぎ見て、私は許されているんだ、それを実感する時にですね、先ほども繰り返していますが、罪意識から解放されます。
そして新しい一歩を踏み出して、だんだんと罪を犯さなくなるように変えられていくわけですね。
それが前提にあります。
その許しと、そして許しを体験して、罪から離れていくということに関して、この福音書を書いたヨハネは、後に教会にあてた手紙でこう書いているんですね。
ヨハネの手紙、第一、二章、一節。
私の子供たち、私がこれらのことを書き送るのは、あなた方が罪を犯さないようになるためです。
この後が素晴らしい約束ですね。ここから読める方読んでみましょうか。
しかし、もし誰かが罪を犯したら、私たちには御父の前で取りなしてくださる方、儀なるイエス・キリストがおられます。
前も言うしよく言うんですが、実はこの取りなしてくださる方というのが、前の新海育成賞ではですね、弁護してくださる方、弁護してくださる。
弁護士さんは無罪を勝ち取ってくださる。イエス様は私たちの前でなる神に対して私たちを弁護してくださる。
それは偽りの弁護士ではなくてですね、弁護士の人が聞いていたら怒るかもしれませんけれども、正しいお方。だからその弁護が通るわけです。
2番目がこの罪からの自由ということです。そして3番目ですね。自由人の罪かという少し変わった視点を見ていきましょう。
8章の35、36節でイエス様を続けてこう言ってますね。
奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんが、息子はいつまでもいます。
ですからから読んでみましょうか。
ですから子があなた方を自由にするなら、あなた方は本当に自由になるのです。
ここでも本当にという言葉が使われていますね。
余談ですけれども、真理という言葉と本当にという言葉はアレーセイヤ、アレーセスという言葉で実はつながりがあってあるんですね。
ここでですね、今日の箇所で少し分かりにくかったり、違和感を感じるやり取りになっているかもしれないです。
なぜかというと、自由についてのやり取りが奴隷についてのやり取りになる。
そしてそれが家に住めるか住めないかというやり取りに変わっているというところが、違和感を感じたり理解に難しいところなんですね。
それを理解するために当時の人たちの背景、マインドセットをちょっと勉強するというか振り返るとよくわかると思うんですね。
原稿にないんですけれども、2つ3つ意味がある中の1つ目はですね、どの国によっても私たちは奴隷になっていないと言っているんです。
エジプトとかですね、バビロンとか今はローマに支配されていますけど、私たちは神の下で自由です。奴隷になったことがありませんということですね。
ちょっとそれは今日は多分来週見ますので見ていかないんです。
2番目で彼らがイメージしているのは、旧約聖書の時代とかこのローマ社会の中で奴隷という存在が身近だったんですね。
ここにローマ時代の奴隷の絵があります。
実はこの奴隷というイメージ、今の私たちと違ってもうちょっと皇帝的っていうんでしょうかね。
家族のように扱われていました。あるいは財産のように扱われていました。高いお金を払って買ってもらう。
そしてここでもありますように、これは神言ですよね。
こうやって専属の美容師みたいな奴隷としていたりとか、子供に勉強を教える家庭教師みたいな奴隷がいて、実は家族のように大事にされていた奴隷というのが多かったりほとんどだったんです。
もちろん旧約聖書では奴隷を打ち叩いちゃいけないとかありますけど。
この奴隷は家族のように大事にされていたということが全体にあります。
しかし奴隷はやはり、ちょっと言い方変ですけども、物みたいな感じで売られる場合があります。
その時は新しい主人がお金を払って、その家から別の家に行って、宿主が買われるわけです。
そうすると、いくら家族のように離れていて、離れていながらも新職を共にする家族のような奴隷であっても、売られていくということがあるわけです。
だから先ほど言ったイエス様が、奴隷はいつまでも家にいるわけではありませんというのはそういう意味なんです。
実はこの奴隷という言葉に相対するように当時のローマ社会では自由人という言葉があるんですね。
パウラーがよく使っています。
それはもちろん奴隷ではないですから、売られることもないし、そしてその家の家族や子供としてその家に住める。
そしてイエス様のような、特に男の子は長子としてその家を相続しますから、いつまでもその家にいるわけです。
ですからイエス様はそれと少しリンクさせて、私は御子として御父の家にいつまでもいるということを言っているわけです。
そういう背景がこのやり取りの中にいますから、自由と奴隷ということが、家にいられるかいられないかということとリンクしているわけです。
そしてたとえ奴隷であったとしても、罪の中で奴隷であったとしても、追い出されることがないということが出てきますけれども、
もう一個興味深いことが今日の歌詞でありましてですね、37節ではこう言っているんですね、
あなた方は私をイエス様を殺そうとしています。なぜなら私の言葉があなた方の家に入っていないからです。
この言葉を直訳するとですね、あなた方は私を殺そうとしている。なぜなら私の言葉があなた方の中に部屋を持っていないからです。
珍しい形で。英語でよくノールームって言うんですね。ノールーム。余地がないよ。
同じようにイエス様の御言葉のための部屋が敵対者たちの中にない。だからイエス様を殺そうとして、罪の奴隷だと言っていますね。
面白い、興味深いのは、イエス様の御言葉の部屋がない人は、神の国、あるいは御父と御子の居場所においても部屋がないですよと言っています。
それはこれまで見てきたように、イエス様はこれから父のもとに帰っていくけど、あなた方は私たちのところに来れないし、自分の罪の中で死にますということと関係しているわけなんですね。
ここにある通りです。
そういう興味深い背景がここの部分にあります。
しかしイエス様が今日の箇所で言っているんですけども、私は父なる神の一人子であるがゆえに、私は人々を自由にして住まいに宿ることができるということを言っています。
実はそのことは、ヨハネの冒頭の部分に出てきましたね。
1章11節12節でイエス様のことをこの方と表現して書いています。
この方イエス様御言葉ですね。
この方イエス様は自分のところに来られたのに御自分の民はこの方を受け入れなかった。
まさにこのことを言っています。
ここが大事ですね。しかしから3読めるかと読んでみましょう。
しかしこの方を受け入れた人々すなわちその名を信じた人々には神の子供となる特権をお与えになった。
ここでズバリ言っていますね。
奴隷であるかもしれない。罪人であるかもしれない。
しかしこの方イエス様を受け入れた人々その名を信じた人々には神の子供になる特権が与えられたんですよ。
そして道と御子と一緒に永遠にその住まいに住めるんですよ。
追い出されることはないんですよということが今日の箇所の背景にあるわけなんです。
神の国での生活
今夏休みですね。
おじいちゃんおばあちゃんの家に孫が遊びに行くかもしれません。
親戚の家に御名さん夏休みとか行ったことがあるかもしれません。
そうすると自由にしていいよ、何食べてもいいよと言われるんですよね。
でもやっぱり彼は大胆に昼寝してますけども、冷蔵庫を開けて食べたいけども遠慮しておこうかなとかね。
お風呂先入っていいよって言われてもいやいやいや、おじいちゃん先入ってくださいって気遣いする子供がいるかもしれません。
やっぱり自分の家に帰ってくるともう良かったって自由になって勝手に冷蔵庫開けて牛乳飲んだりとかスイカ食べたりできる。
そういう自由を満喫できるわけです。
そういうように私たちはイエス様を信じて本当に神の国に入る神様の子供になったら
この神の子供としての神の御国に入っているものとしての祝福とか自由とかを思う存分味わうことができるわけなんですね。
そういうイメージで私たちにはそういう特権が与えられていると思ってください。
またもう一個こんなイメージを思い浮かべたんですけども、私は御名さんにこうやって聖書の話を分かりやすくしています。
分かりやすくて自分が読めないんですけどね。
新座市と平林寺の魅力
なんでかというとこの聖書の本当に語り尽くせないほど素晴らしい発見とか祝福があるんですけど、それを味わってほしいんですね。
でも私は不動産屋さんとか、街に移住、アイターンを勧める役所の職員みたいな感じで、家を紹介したり土地を紹介するんですけど、
実際住まないと街の良さとかが分からないし、この家で自由にくつろげないんですよね。
新座市、いろんな観光資源がそれなりになるのをご存知です?
教会でいうのもあるんですけど、平林寺はね、天人記念物でしょ?
私今でも覚えてるんですけど、高校の時の国語の先生、すごい厳しい先生がですね、
玄大国語の教科書で、国木田独歩のですね、武蔵野小説について話したんですね。
東京の学校だったんですけど、この地域でこの小説の武蔵野の面影を残している、彼が言うには唯一の場所は平林寺ですって。
そういうものがあったり、寺の話だけじゃなくて、ちょっと教科の話をすると、立教大学高校ありますよね。
あそこに礼拝堂があるの知ってます?あそこは、よく言うんですけど、ノアの箱舟と同じサイズの礼拝堂なんです。
そこ入るとノアの箱舟ってこんなサイズだっていうのが分かります。
それで、しばらく前に岩鉄の金沢の知り合いが来たときにですね、平林寺も見せて礼拝堂も連れて行って、
あそこはチャペルは入れますので、自由に行って見れます。
何ヶ月かに一回オルガンのコンサートもやってたりですね、すごい綺麗なステンドグラスもあったりします。
他にもですね、ニーザのいろんな宵が、民話でも知ってる方もいらっしゃると思いますけども、
やっぱりその場所に住んであちらこちらを行くからこそですね、その地域を自由に楽しんだり、名産品を食べたりできます。
そして当然、家でくつろぐことができるわけです。
同じように御名さんも、私は御言葉に住んでください、家庭もとどまってくださいっていうことを、
ただ案内する、武道さんや人間とかですね、役所の職員みたいなもんですので、
御名さん自身がですね、神の国の祝福はどんなものかとか、御言葉にとどまる幸いはどんなことか、
そこから得られる自由は何かということですね、
自分のこととして満喫していただかなければですね、この素晴らしさがわからないんですね。
そんなことをですね、一夏考えていく日々であればと願っております。
御言葉の重要性
最後にですね、今日の大事な御言葉を読んで終わりしたいと思います。
ヨハネの8章の31から32節ですね。
じゃあちょっと長いですが、改革本の中から読んでみましょうか。
あなた方は私の言葉にとどまるなら、本当に私の弟子です。
あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。
お読みしましょう。
天の神様、御名を賛美いたします。
私たちはあなたの幸い恵みによりイエス様を救い主として信じ、あなたの御国に言えられ、また誠の弟子とされました。
どうか御言葉の中にとどまり、その豊かさ、喜び、神の国の祝福、またそのものに与えられる自由、それを知ることができますように、味わうことができますように、どうか私たちを導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。
それでは一分ほど御言葉に応えて黙祷する時間をお待ちましょう。
29:23

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