1. 牧師のバイブルメッセージ
  2. #291 罪でなく栄光のために~..
2025-09-14 24:43

#291 罪でなく栄光のために~病気の原因は罪ではない 25/9/14

ヨハネ9:1-12からの礼拝メッセージ。2025年9月14日録音。(聖書朗読は()まで、導入は()までです)人は、大病するとその原因探したくなるものです。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」これは、イエス様の弟子たちが、生まれつきに目の見えない人を前にイエス様に尋ねた問いです。そのやり取りを中心に、1.罪が原因ではない()、2.神の栄光が現れる()、3.世の光、いのちの光()、の3つの点を取り上げます。

原稿を読む https://note.com/nsbc/n/nf00d9afe7d5b?sub_rt=share_pb

サマリー

イエスが盲人を癒す奇跡が語られ、病気は罪による結果ではなく、神の栄光を現すためのものであると教えられます。弟子たちの問いに対し、イエスは苦しみの原因を探求するのではなく、その中で神の業が現れる意義に焦点を当てています。このエピソードでは、イエスが目の見えない人を癒すことで、神の栄光が現れる意味が探求されています。祈りと信仰を通じて、彼ら自身も神との交わりを深め、目を開くことができると語られています。

盲人の癒しの奇跡
ヨハネの福音書9章1節から12節をお読みします。
さてイエスは通りすがりに、生まれた時から目の見えない人を御覧になった。
弟子たちはイエスに尋ねた。
先生、この人が盲目で生まれたのは、誰が罪を犯したからですか?
この人ですか?
両親ですか?
イエスは答えられた。
この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
この人に神の技が現れるためです。
私たちは、私を使わされた方の技を、昼のうちに行わなければなりません。
誰も働くことができない夜が来ます。
私が世にいる間は、私が世の光です。
イエスはこう言ってから地面に唾をして、その唾で泥を作られた。
そしてその泥を彼の目に塗って、言ってシロアム、訳すと、使わされた者の池で洗いなさいと言われた。
そこで彼は行って洗った。
すると見えるようになり帰って行った。
近所の人たちや、彼が物漏りであったのを前に見ていた人たちが言った。
これは座って物漏りをしていた人ではないか。
ある者たちはそうだと言い、他の者たちは違う、似ているだけだと言った。
当人は、私がその人ですと言った。
そこで彼らは言った。
では、お前の目はどのようにして開いたのか。
彼は答えた。
イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、シロアムの池に行って洗いなさいと言われました。
それで行って洗うと、見えるようになりました。
彼らがその人はどこにいるのかと言うと、彼は知りませんと答えた。
以上です。
罪と病の関係
今日はこのところから、罪でなく栄光のためにと題して、笑み言葉からお話をいたします。
皆さんおはようございます。
9月の第2週の日曜日ですね。
先週は、新座では月曜日と、そして木曜日にですね、雷雨、大雨となりました。
先ほども少し話してたんですけども、お知り合いの方のお家、お部屋の窓に雨が吹き込んでしまったですとか、
皆さんも出先でびしょ濡れになったりとか、そんなこともあったのかもしれませんけども、
またね、暑い日と涼しい日が行ったり来たりでですね、体調も優れない、疲れが出たりとか、いろんなこともあるかと思いますけれども、
その中、神様の御言葉から聞いていきたいと思います。
さて、今日のところはですね、たくさんの芸術作品にもなっていますように、とても有名なところです。
盲人の目が開かれる奇跡は、4つの福音書全部に書かれているんですが、
今日のところには、ヨハネの福音書特有のですね、描き方がされているわけです。
で、ご存知のように、当時はこの目が見えない人は、いわゆる物漏りをするしかなかったんですね。
だから今日読んだ最後の方で、近所の人はですね、彼が物漏りをしていた盲人だったからということが分かって、
どうやって見えるようになったのか、いや違う人だというそういう議論があって、そこからもうその後の話が展開していくわけです。
そういう中でですね、ちょっと3つの点を今日は注目していきたいと思うんですね。
よく言われていますが、病気が罪の原因かどうかということで、最初は罪が原因ではないということ。
2番目は、彼は盲人であるということがですね、神の栄光が現れるためだということですね。
3番目最後はイエス様自身にフォーカスを当てまして、世の光、いのちの光としてのイエス様ということを見ていきたいと思います。
さて一番最初の問いですけど、罪が原因ではないということですね。旧書2節でこう書いてあります。
弟子たちはイエスに尋ねた先生、この人が盲目で生まれたのは誰が罪を犯したからですか?この人ですか?両親ですか?
おそらくイエス様と弟子たちは先週まで見ていたエルサレムからガリレアに帰る時だったのではないかと思います。
過越の祭りが終わって、エルサレムを出る時に、おそらくエルサレム市外で見かけたんでしょうね、この方のこと。
話変わりますけども、元哲学偉大カフェ教の子もありますが、その海の親のですね、日野教先生がですね、
ガンといろんな要因のことを話す中で、食べ物とガンの関係は言えないと言っているんですね。
食べ物を摂取するもので唯一ガンに良くないとわかっているものがあります。それは何かというとタバコなんですね。
タバコは絶対に良くありませんって言います。
それはさておきまして、人はですね、自分が病気、特に重篤な病気にかかった時に、その原因を探ろうとするんですね。
なぜかというと、不安を原因を知って晴らしたい。そしてそれがわかると状況を何とかコントロールできるわけですよね。
例えば、この食べ物が悪いってなると、それを食べなくなるわけですよね。
まあ、迷信だと思いますが、罪が原因だと言われると、じゃあ食い改めればいいと思うわけです。
そうやって、未知の世界、分野において、わからない原因についてコントロールしていきたいという欲求。
それからですね、ある心理学者もよく言うんですけども、人間にはですね、もともと重い病気とか試練の中で意味を知りたいと言うんです。
よく言うのは精神科医のボンヘッハーという人がね、人間は苦しみの意味を知りたがる、そういう性質があるんだと言うんですね。
けれども、皆さんもお察しの通り、病気の原因などはですね、簡単には判明できないわけです。
ましてや、今日のように病気と罪を結びつけては絶対にいけないということなんですね。
では、学者たちの中には、この今日の弟子たちの質問の意図を、ある意味、積極的、肯定的に捉えている人がいるんですね。
こういうふうに言っているんです。
弟子たちがなぜこういう質問をしたかというと、この人が生まれつき目が見えない原因が、罪にあるということに納得がいかないというんですね。
まあ、あわりびの頃があったからでしょうかね。その罪の原因が、この人にある、生まれつきのこの人にあったりとか、その親によって罪があって目が見えなくなったということは、納得できないという思いがあったんじゃないか。
余談ですけれども、当時のおそらくユダヤの社会ですが、こういう迷信と言っていいんでしょうかね、言い伝えがあって、あるおそらくユダヤ教の教師が早死にすることがあるんです。
その時に言われてた風説はですね、彼が早死にしたのは、その親が彼を見ごもっている時に偶像を拝んだからだという、そういう迷信があったようなんですね。
それを知っていたかどうかは別として、弟子たちはこの人が生まれながら猛人であったということに、罪の原因があったということに納得いかなかったんじゃないかというですね。
聖書はですね、罪が苦しみの原因である場合があることは認めているんです。
でもですね、だからといって、すべての苦しみ、そして病を罪の結果とすることは、聖書は否定しているんですね。
その苦しみが必ず罪の結果であると、いわゆる一般化する考えは旧約にも新約にもないんです。
あえて言っておきますけれども、ガラティア人のお手紙でもですね、パウロがおそらく目だったんじゃないか、マラリア原因で目が見えなかったんじゃないかと言うんですけれども、そのトゲがある原因はガラティアに福音を伝えるためだったと言っていたりですね。
第2コリントの12章7節もおそらく同じような体の病気だったと思うんですけれども、肉体のトゲと言っているんですけれども、
それは罪の罰ではなくて、やはり減り下るための神の目的によるといって、彼自身の病気の原因が罪だということを否定しているんです。
あとご存知のように、呼ぶ気ですね。呼ぶ気は、その呼ぶが大きな試練にあった。特に大きな病気にもあったけれども、その原因が罪でないとはっきりとナレーションによっても、また神様によっても否定されています。
神ご自身がですね、呼ぶについてこう言っているところがですね、1章8節。
彼、呼ぶのように真実で真っ直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は地上には一人もいないと言っています。神様が呼ぶについて。冒頭で。
そしてご存知のように、4人の友人がやってきて食い改めろと、そうすれば病も試練もお前から立ち去ると何度も言葉をかえってくるわけですね。
しかし最後に神様ご自身が現れて、その友人たちにですね、聖句を抜粋しませんけど、42節の7節などにはですね、その罪を原因として呼ぶを責めた友人たちを神様が私について真実は語っていないと言って、その彼らの言動を批判したわけですね。
そこから旧約聖書でも、罪と病気を安直に結びつけることが否定されています。
このようにですね、ことから私たちは自分についても、そして当然他人についても、重病の原因ですとか、試練とまで言っていたと思いますけど、その原因が罪の結果だと言ってはいけないと、このところから私たち知ることができるわけです。
イエスのメッセージ
2番目、一方ですね、イエス様はこう言ったんですね。2番目、神の栄光が現れるためだと。
じゃあ読んでみましょう。次からですね。イエスは答えられた。
この人が罪を犯したのでもなく、良心でもありません。この人に神の業が現れるためです。旧書3節。
実はですね、ギリシャ語の公文を見ると、この人が罪を犯したのでもなく、良心でもありませんと、この文章の直後、すなわちこの人に神の業が現れるためであるという文章の直前、この間にあらという、とても強い否定的な言葉、英語ではbadとかですね、訳される。
そういう大変強い逆説的な言葉が使われています。だから、罪の原因ではないんだよ。いやむしろ、この人に神の業が現れるためだと、イエス様が宣言しているということなんですね。
ご存知のように、イエス様はですね、ここで原因、なぜ苦しむのかという原因探しではなくて、この苦しみを通して何が現れるのかという目的に目を向けているということが大事なんですね。
そして、この目的についてですね、ある迂覚者は、こう解説してるんですね。その目的は、神の業を行うのはイエスであり、そしてイエスの業の本当の目的はただ一つ。イエス様が救いをもたらすことを示して、神に栄光をきすことです。
技というのは神がなさる奇跡とも言っていいかもしれません。2章で水が葡萄酒に変わったりとかですね。5章では足が効かずに寝たきりの人が立ち上がったりとか。
そういう神の技、その目的が現れ、それの目的はですね、イエス様が救い主であるということ、そしてそれを通して神の栄光が現れることが目的であるとイエス様はおっしゃってるわけなんですね。
神の栄光をきすためだ。イエス様はこの生まれながら盲目に生まれついた人にですね、罪の絶望からではなくて、期待に満ちた希望の目でこの人を見るように、この状況を見るように、まさに光を注いだんですね。
ただ大事なことはですね、このことも一般化してはいけないということなんです。どういうことか。つまりですね、苦しみの意味に関する一般的な真理として、誰にでもこのことを当てはめて、安易な言葉として投げかけてはいけないということなんですね。
仮にですよ、私の知人が苦しんでいるときにですね、罪の原因じゃないということはわかっています。ももん切り形の言葉のように、それはそれを通して神の栄光があなたに現れるためです、ということを安易に言ってはいけないということなんですね。
やっぱりそれは学者として言っているのも言っているのはですね、それをしてしまうと結局は世部の友人たちのように、肩にはまった信仰を押し付けることと同じになってしまうんだよ。そしてそういう肩にはまった信仰というのは、知恵の中にある人をさらに苦しめるんですよ、と学者も言っているんですね。
まあこれと直接関係しているかはわからないんですけども、先ほど引用した日能教先生がですね、こういう言葉の処方箋という中でいろいろ言っているんですけど、こういうこと言うんですね。何を言ったかよりも誰が言ったかが大事なんだって。何を言ったかよりも誰が言ったかが大事なんだって。
まあ簡単に言うとお察しがついたと思いますけども、この神の栄光をあらゆるために出すという言葉をですね、私が安直に言っても意味がない。イエス様はこれを言ったから、その意味があったというか、それが救いになったということです。
私たちはこのようなイエス様のまなざしが必要なんですね。つまりこの大事なことは直接的、人格的な交わりの中でこういう言葉が発生られるということなんですね。
試練と祈りの重要性
ちょっとまた楽しくなりましたけど、もし自分が病にあったり、試練になったときにどうすればいいのかなって私考えたんですけども、この目の見えない人とイエス様との間は個人的直接的な交わりをどうやって経験するのかなって考えたときに、今はイエス様のことは見えないんですけども、やはり祈りの中でですね、正直に自分の苦しみをイエス様に打ち上げて、
そして、この彼がイエス様から罪のためじゃなくて、神の栄光が現せるためだって直接言葉をもらったように、私たちもこの祈りの中であるいは聖書を読む中でイエス様から直接言葉をいただくような、そういう経験をしていく。
それがまず、私自身、自分自身が病など試練にあったときに、このような似たような状況を体験する道なのかなと思うわけですね。
そして皆さんもお察しのように、周りにそのような試練にあっているご友人、ご家族がいればですね、まず祈る。
周る方はですね、できればですけども、今日の午後の岩鉄岡山カフェなんかもですね、敬聴するんですね。よく聴いてあげる。
その苦しい状況にある方をよく聴いてあげる。
別に何も言わなくてもいいんですよね。
とにかくあちこち言ってしまいましたけれども、この神の栄光があらわされるためだという言葉も、門切り型の信仰として安易に当てはめてはいけませんよ。
そしてその中でもし自分ができることとすれば、神様にですね、イエス様に祈りの中で打ち明けて、よくクリスチャンがいう御言葉をいただくというんですかね。御言葉をいただいていくということが大事なんじゃないか。
そして人に対しては、私はできることはないと思うんですけども、少なくともその方のために祈って差し上げる。そういうことができるんじゃないかと思うわけです。
これ2番目ですね。3番目、積極的な面を見ていきましょう。
世の光、いのちの光、つまりイエス様のことを見ていきます。
イエス様はそしてこの神の栄光が現れるためだと言った後にこのように言ったんですね。
私が世にいる間は、私が世の光です。
イエスはこう言ってから地面に唾をして、その唾で泥を作られた。
そしてその泥を彼の目に塗って、ここから読んでみましょうか。
ここから読んでみましょうか。
これはちょっと原稿にないんですけども、解説しますと、
ここのですね、「私が世にいる間は、私が世の光です。」
その後にですね、「誰も働けない夜が来ます。私たちは昼の間に働かなければいけません。」という言葉をちょっとだけ解説しますと、
おそらくそれはイエス様と弟子たちのその時の生涯のことを言っているんじゃないかと。
誰も働けない夜が来るというのは、イエス様が十字架にかけられていなくなってしまう時を言っている。
だから今イエス様が十字架にかけられる前、神の業を行える間にイエス様も弟子たちもこうやって神の業を行っていきましょうという、
そういう呼びかけだと考えられているわけですね。それは前提としました。
はい、その中でちょっと私個人として注目したかったのはですね、
この唾で泥を作って、それでその泥を目に塗ったというんですね。
もうコロナ禍に入ってからこの唾液がつくというのは非常に敏感になりましたよね。
皆さん子供の頃わかんないですけど、転んだら唾でもつけとけとね。
私も管理されたらよくね、親に言われたら、かいて唾つけとけと言われてですね、よくやったんですけどもね。
あの若い世代は、うーんと言っているかわかりませんけども、そういう飛沫とかにちょっとセンシティブな言い間はないんですけども、
当時そういう唾が人を癒すという話もあったようなんですけども、
もう一つ大事なことはですね、ここの泥を作ったという言葉が、ギリシャ語で見るとですね、
この創世紀の2章7節のですね、この言葉、神の創造の業、土地の塵で人を形作り、
その花にいのちの息を吹き込まれた、それで人は生きるものとなったという歌詞を伝送させるんですね。
土の塵、泥から神様は人を創った。
そして、再三、再四をお話してますように、
ヨハネ1章4節でイエス様のことを、この方にはいのちがあった、このいのちは人の光であったって言ってますね。
1章3節の前で、何回も言ってますから簡単に言いますけど、
イエス様が創造の時にそこにいて、全てのいのちを作ったと言っておられます。
ここから連想できるのはですね、ある当時の教父という弟子の後の世代の人たちがよく言ってたのは、
生まれつき目の見えない人の目をですね、イエス様は、この神の創造の業を彷彿させるように泥をこねて、
その目の見えない人の目を新しく作られたという、そういう風に言う初代教父たちがいるんですね。
このようにですね、この出来事を通して、まさにイエス様がいのちの光として目の見えない人に新しく目を作られて、
その人が光を見て目を見れるようにしてくださったということが伝わってくるのかもしれません。
さらに、実はですね、生まれながらに目が見えなかったということにはですね、こういうことが示唆されているんですね。
人は罪ゆえに、生まれながら神をもちろん見ることができないし、完全に知ることができないという。
そして世の光としてこの世に来たイエス様を信じる時に、まさに目が開かれて神様を知り、神を見て、
神との交わりを回復することができる。そうやって新しく作り変えられるということがですね、この出来事に示唆されているのではないことも言われているわけなんです。
信仰による変革
このようにイエス様を信じる人たち、私たちが新しく作り変えられて、目が開かれて、神の栄光を見るようになる。
まさにそれこそですね、イエス様がこの地に使わされてきた。シロアの池にあるように使わされてきた、まさに目的であったわけです。
そしてそこで神性を体験する人は、この目の見えなかった人のように目が開かれて、今度はイエス様を証しするために使わされていく。
そういうことがですね、この出来事に示唆されているのではないかと思われているわけです。
まあそんな話ですけれども、私たちもですね、この世の光であるイエス様を信じていますから、まさに目が開かれて、神の栄光を見ていく。
試練の中でも神の栄光を見せていただけるということを期待して歩んでいく、祈り合っていくお互いであり、教会でありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、御名お賛美いたします。私たちは病気や病み、また苦しみの原因を知りたいがために、安直な答えを出してしまうことがあります。
そうして自分や人を苦しめることがあります。どうぞ私たちがその悩みをイエス様ご自身に打ち明け、イエス様によって目が開かれて、イエス様の視点で物事を見ていくことができますように。
あなたのお言葉をいただいて、まさにイエス様の栄光と救いの光を体験していくことができるように導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
それでは1分ほど黙祷する時間を持ちましょう。
24:43

コメント

スクロール