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2018-04-22 36:45

2018/04/22:ヨハネの福音書講解説教(25)目が見えるようになる

2018/04/22 聖日礼拝
尹善鎬牧師
ヨハネの福音書 9:1~7

00:01
皆様おはようございます。
今日も良い天候の中で、名谷によくいらっしゃいました。いつもありがとうございます。
では、メッセージの前に隣方と、また挨拶しましょうか。よろしくお願いします。
それでは一言、祈りいたします。
私が世にいる間、私は世の光です。アーメン。主よ、あなたこそ、私たちの唯一の光です。唯一の命です。
そのイエス様を信じ、その方にすがり、守られ、導かれ、本当に愛されているこの恵みを心から感謝いたします。
どうか主よ、この礼拝において、私たちは聞くべき神のお言葉を、命の言葉を、我々の礼の中に主よ、どうぞお語り下さいますように。
その御言葉が命の光となって、私たちのこの身体を、礼を主よ、癒し、強め、完全なものとして、日々作り変えて下さることを信じます。
主よ、どうぞお語って下さいますように、悟る心を、目が開かれて、あなたの言葉をはっきりと主よ、見えるようになって、知るようになって、
その通りに歩むことができる、我々信仰主よ、引き上げて下さいますように、お願いいたします。
このものを隠して、神御自身の皆と御言葉だけが現れますように、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
ありがとうございます。
今日は、ヨハネの福音書の公開説教、もう二十五回目になりますが、目が見えるようになる、目が見えるようになるという言葉です。
クーラーも暖房も難しいですよ。厚刈り寒刈りがね。
今のベッドはですね、ツインベッドはここは厚刈り、ここは寒刈り、そういうベッドもあるらしいです。
本当ですよ、作っている。
でもね、寒い、寒を感じる人が上着を着るしかないですね。
暑いと汗も拭くことはできませんから、お互いに譲り合いましょう。
感謝します。
03:00
今日は、目が見えるようになる、目が見えるようになるというタイトルです。
前回の第八章では、イエス様が世の光である。
今日もこの誤説に書かれていますけれども、私が世にいる間、私は世の光ですという御言葉をいただきました。
そして先週は、この御言葉は、この世はそのままの状態では闇であるということ。
そして、その闇を照らすことのできる唯一の光は誰ですか?
イエス・キリストであることを学びました。
そうです、皆さん。
イエス様こそ、私たちの人生を、魂を、体を、歩みを、全てを、
個人個人だけではなく、この世界を、この日本を照らすことができる、
闇を光に映すことのできる唯一の光は、イエス・キリスト、他はありません。
ですから、この光なるイエス・キリストが、私のところに来てください。
私たちがその光なるイエス様のところに行くときに、そしてその光が我々の人生に輝く照らされるときに、
暗闇の人生が、複雑だった人生が、こじれた関係が回復される我々の魂が、
光なるイエス・キリストによって、その闇の力が消え去り、
命が与えられて、我々の体の、心の、精神の全ての病さえも、
命なるイエス・キリストによって癒されることを、私たちは信じています。
今日の宮所には、生まれつきの孟神の話が書かれています。
そしてその孟神がイエス様に出会って、奇跡的に見えるようになった、そのストーリーが書かれています。
まずそのストーリーを一緒に見ていきましょう。
まず一節、聖書に注目してくださって、一節を一緒に読みたいと思います。
一節3、またイエスは未知の途中で、生まれつきの孟神を見られたとあります。
この孟神の人が誰なのか分かりませんけれども、
イエス様が弟子たちと、いわゆる伝説の旅をやり続けておられました。
ある町に行かれて、そこで生まれつきの孟神を見られました。
ところが、そのときに弟子たちは、こういうふうにイエス様に尋ねました。
06:03
二節ご覧ください。私は読みますね。
先生、彼が盲目に生まれついたのは、誰が罪を犯したからですか?
この人ですか?その両親ですか?と聞いたんですね。
そしたらその質問にイエス様は何と答えたのでしょうか。
三節大事ですから、一緒に読みたいと思います。三節。
イエスは答えられた。
この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神の業がこの人に現れるためです。
神の業がこの人に現れるためです。
そしてイエス様は、この五節において、またこのように語られました。
私が世にいる間、私は世の光です。
そしてどうなさったのでしょうか。六節をご覧ください。
一緒に読みますね。六節。
イエスはこう言ってから地面に椿をして、その椿で泥を作られた。
そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
七節も読みますね。
行って白雨を訳して言えば、使わされたものの池で洗いなす。
そこで彼は行って洗った。
すると見えるようになって帰って行った雨。
素晴らしいことが起きましたね。
生まれつきなんですよ。盲人が。
イエス様によって見えるようになりました。
人には不可能なことが神にはできるという、
それはこの前の御言葉にありましたけれども、
その実例がここに書かれているわけなんですね。
ではでしょうか。イエス様は作り主である、神である、
命である、光であるから、
それをこの盲人の奇跡的な癒しのこのストーリーから書かれているわけです。
今日このストーリーからですね、三つの教訓を一緒に学んでいきたいと思います。
第一、神から離れた人間は霊的な盲人であるということであります。
神から離れている人間は、この体の目は開けていても、肉眼は見えていても、
その魂の霊の目は盲目であるから、実は見えないということであります。
09:05
魂は闇の中にあるからです。だから彷徨うのです。
だからその人生の歩みが実は闇なのです。
どこに行ったらいいのか実はわからないのです。
ところが皆さん、時々クリチャンの信者の中でいろいろ話し合っているときにですね、
こういう話を耳にするときがあります。
いや、イエス様を信じない人々がもっと幸せなように見える、
彼らにはあまり心配もなさそうで、
いや、もっとイエス様を信じて私たちよりもっと幸せなんじゃないかと、
そういうふうな話をしばしば耳にするときがあります。
皆さんどう思われますか?本当にそうだと思いますか?
決してそうではありません。
3つでその話をしたいと思います。
なぜ世の人々が何の心配もなく、特に縛られることなく、
自由で幸せなように見えるのだろうか、3つ話をしましょう。
それはまず、イエス様を信じている私が、自分自身が、
神の本当の祝福と恵みを十分に経験していないからなんです。
あるいは、経験しているにもかかわらず、それを感じていないからなんです。
他人のものがもっと良いもののように見えるんです。
なぜでしょうか?
自分が神の、救われたにもかかわらず、神の本当の祝福と恵みと命を、
実は十分に経験していない、あるいは経験したことがない。
だから、神を信じていない人々が幸せなように見えるんです。
それはね、出エジプトで読みますと、
あの奴隷だった、闇の人生だったイスレイの人々、神様がね、
何回もあのパロとね、モーセが戦ってですね、
やっとそこから、あの鎖からね、連れ出してくださった。
そしてこれからあの祝福の金持ちに行きますよ、連れて行くんです。
救出、救出されたにもかかわらず、救われたにもかかわらず、
全能なる神様がですね、
マナで、ウズラで、水で、あの敵から、この敵から守ってくださったにもかかわらず、
彼らはどうでしたか、40年間ずっと呟いていました。
あのエジプトで、あの生活がよかった、あのニラが、スイカが、肉が、あの時がよかった、
それを羨ましく思っていると、実は似ているんです。
二つ目、世の中の人々が心配のなさそうに見えるのは、理由は何でしょうか。
12:04
それは、人は人の心を知ることができないからです。
自分も自分の心をですね、完全に知らないのに、人の心を知ることができるでしょうか。
実は、彼らの心中には不幸があり、山があり、病があり、闇があり、迷っている、さまよっている、
それはですね、ただの顔だけ見てはわからないんですよ、わからない。
大体の人々は隠しているから、わからない。
だから、ただ顔だけ見て、いや幸せみたいね、そういうふうに見えるだけなんです。
二つ目、もっと大きな原因があります。
それは、まるでですね、幼稚園の子供が、親の、父の母の悩みは人生を知らないのと同じく、
彼らは盲目であるから、何が罪なのか、何が真理なのか、わからないから、
罪に対する感覚がないから、そして周りが全部闇だから、真っ暗だから、自分もね、真っ暗なのにそれが知らないんです。
神のためにどうしたらいいんだろうか、考えたことがないから、ただ上辺だけは平穏のように見えるだけなんです。
そう見えるだけで、実体はそうでないことを、私たちクリーチャーは、霊の目が開かれたそれを見抜かなければならない。
見抜ける力を持っていなければならない。
彼らはただ、罪が罪であることを知らない、おろそ川の中に留まっているだけにしないんです。
聖書はこう言っています。ちょっと聖書を開きたいと思います。
旧約の聖書、居座谷書五十三章六節です。居座谷書五十三章六節。私の聖書では千二百十四ページです。居座谷書五十三章六節。
一緒に読みましょうか。
私たちは皆、羊のようにさまよい、各々自分勝手な道に向かって行った。
しかし、主は私たちの全ての都がを、彼に負わせた。アーメン。
ここにですね、私たちは皆、羊のようにさまよい、各々自分勝手な道に向かって行った。
これが、神から離れている盲目の世の人々の実体でございます。
15:02
なぜでしょうか。何でさまようんでしょうか。なぜ闇なんでしょうか。なぜ各々自分勝手な道に向かって行ってしまうんでしょうか。
神から離れているから。つまりそれは、神は命ですね。光ですね。
でも神様と離れている。そしたら命と光がもう切れている断絶状態であるから。
神から離れた人間は、霊的な盲目であります。
信仰のスタート、始まりはですね、救いの始まりはこれを、
そうだ、私は神様から離れていて、私は実は盲目だった。
闇だった。罪人だった。これを認める時から、信仰は始まるんです。
それでそこで、主よ、私は光が見たいです。この闇から移されたいんです。
移してくださいと求める時から、救いが始まるんです。
本文に戻りまして、大きい2番として申しましょう。
この盲人の目が見えるようになった。そこから教えられる第2の教訓は、
イエス・キリストだけが、未信者たちの目を開けてくださって、
救いに導ける唯一の方である、ということであります。
イエス様には霊的に盲目な人々の目を開いて、はっきりと見えるようにして、
完全な信仰を持つように、それがお出来になる方はイエス・キリストである。
その印が、今日のね、この盲人の目が見えるようになったことであります。
だから信仰とは、闇から光に移されることであります。
ちょっと聖書を開けましょうか。
ヨハネノ福音書、5章、24節です。
私の聖書では、182ページです。
ヨハネノ福音書、第5章、24節。
一章を読みたいと思います。
まことに、まことに、あなた方に告げます。
私の言葉を聞いて、私を使わせた方を信じる者は、
永遠の命を持ち、裁きに遭うことがなく、死から命に移っているのです。
アーメン。
ここにありますよね。
私の話ね。
聖書の御言葉の話。
18:00
死から命に移される、闇から光に移される、これがしくいである。
これが今日のヨハネノ福音書、旧書の盲人の目が見えるようになった、その象徴であります。
実際に起きた印でもありますけれど。
だから、イエス様を信じるまでの人間の状態は、実態は何でしょうか。
霊的に盲目である。
そしてその目が開かれて、光に映されることです。
キリスト教信仰とは何でしょうか。
それは、人が罪によって、実はその罪によって、霊の視力を奪われている。
だから、この意味においてですね、人はすべて生まれながらにして盲目であるんです。
そしてまた、自分自身をその盲目である、その状態と言いましょうか、実態から自由にすることは自分には全くできないことだと、
そこに気づいた時から信仰は始まる。
だから皆さん、私たちに最も大きな視力は何でしょうか。
金持ちになることでしょうか。何か心も体もすごく元気な人になることなんでしょうか。
そうではない。
最も私が既にいただいた最も素晴らしい恵み意識は、我々のその霊の目が開かれて、
イエスを主と信じるようになった。
自分が罪人であったこと、どれだけ無事だったのか、それが分かった。
それが実は皆さん、一番素晴らしい意識なんです。
だからある意味で、この境目に立っている人々がいるかもしれない。
自分が本当に盲目なのかどうなのか。
だからこの境目を越えていくと信仰の中に入ることができるんですね。
もし今日この場におられる方の中で、この境目の近くに、
もし来ていらっしゃる方がおられるならば、
神様から離れた人間は生まれながらにして盲目であることと、
そしてその盲目のことを自分には見えるようにすることができないことを
気づくことができますように切にお祈り申し上げます。
だから未信者が信者になるときに、この霊の目が開かれるんです。
そしてその霊の目が開かれるということは、もう全く神様の御業です。
人間にはできない。素晴らしい神の御業であります。
21:03
そしてその霊の目が開かれて、生きる神様にお出会いして、
自分自身が罪人であることを悟って、
そして神のない人生がどれだけ虚しいものなのかそれは分かって、
そして神に信頼するものに変えられる。
これは全てですね、もう何から何まで神様の御業でありますね。
3番目に移りたいと思います。
ところが皆さん、未信者の目が開かれて、そしてイエスを見るようになることだけではない。
我々信者のクリスチャンの霊の目がさらにはっきり見えるように開かれなければならないんです。
ところがね、こういう話をしますと、
いやもう教会に来ているし、礼拝もしているし、千年も受けて救われたのに、また何か目が開かれる必要があるんですか。
というふうに考える方がおられるかもしれません。
聖書をいかせていただきたいと思います。
詩編に行きましょう。
まず詩編119編18節です。
私の聖書では1027ページです。
詩編の119編18節、一緒に読みたいと思います。
私の目を開いてください。
私があなたの見教えのうちにある苦しいことに目を止めるようにしてください。
アーメン。
皆さん、詩編のこの記者は、神を信じる人です。
簡単に言って、我々のような同じ信者です。
信者であるこの記者がですね、ダビデなのかそれはわかりませんけれども、
その記者は、神にこう祈っています。
主よ、私の目を開いてください。
どうでしょうか。
あなたの見教えのうちにある苦しいことに目を止めるようにしてください。
あなたの教えは御言葉ですね。
119編に見教えとか悟しとか御言葉は、神の聖書の御言葉を指します。
御言葉の中にある苦しい奥義がある。
それは目が開かれないとわからない。
だから主よ、私の目を開いてください。
あなたの御言葉にあるその深い意味を、苦しいことを知ることができますように、
24:00
わかるように私の目を開いてくださいと祈ったんです。
だからこれをね、逆に言いますと、
信者であっても、すいませんが、
信者であっても目が開かれていないならば、御言葉のうちにある苦しい真理がわからない。
どうでしょうか。皆さんの目はどれだけ、測定はできませんが、どれだけ開かれているんでしょうか。
はっきりと見えるように開かれているんでしょうか。
もう一箇所開きましょう。
今度は新約に行きたいと思います。
新約のエペソビトへの手紙、1章、第1章、18節から19節です。
エペソビトへの手紙、第1章、18節から19節です。
私の聖書では374ページです。
エペソビトへの手紙、第1章、18節、19節。
ちなみにこの17からは、パオロ先生がエペソ教会の神徒に書き送った手紙の中の祈りなんです。
お祈りなんですね。
18と19節、一緒に読みたいと思います。
また、あなた方の心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、
聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く、
神の優れた力がどのように偉大なものであるかを、
あなた方が知ることができますように。
アーメン。
パオロ先生は、既に洗練を受けて信者になって教会に集まって礼合いしている
エペソの町にある教会の神徒さんのあてに手紙を書き送りました。
そして、その中であなた方の心の目が、
つまり霊の目がはっきり見えるようになりますように。
なぜでしょうか?
なぜ見えるようにならなければならないのでしょうか?
この次のことです。
神の召しによって与えられた望みがどのように素晴らしいものかを知るために、
もう一つ。
聖徒の受け継ぐ者が、受け継ぐ者がどのように栄光に富んだものか知るために、
もう一つ。
十九節。
神の善のの力の働きによって、私信じる者に働く、
27:00
神の優れた力がどのように偉大なものかを、
あなた方が知ることができますように。
そのために、あなた方の目がはっきり見えるようになりますし、
私は祈っていますよ。
いいですか、皆さん。
これは未信者に語られている祈りではありませんよ。
信者です、私たちです。
皆さんです。
信者である私たちの霊と心の目がはっきり見えるようにならなければならない。
ただの教会の庭を踏んで変えて踏んで変えて、
それだけでは十分ではありません。
霊の目が開かれて、
そして、望みがどんなに素晴らしいものなのか、
聖徒の受け継ぐイエス・キリスと同じく受け継ぐものが、
どんなに栄光に富んだものか、
この地上のものは比べることができないほど素晴らしいものなのか、
それを知るために。
そして、信じる我々のために働く神の力がどんなに偉大なものかを知るためには、
目が開かれなければならない。
目が開かれていないから、
だから世の人々が羨ましく思うんですよ。
こんなに素晴らしいものが与えられているのに知らない、
気づいていないのでしょうか。
目が開かれていないから。
だから皆さん、祈ってください。
これは真剣に、本当に真剣に祈らなければならないんですよ。
主よ、私の目がはっきり見えるようにしてください。
はっきりと目が見えるようになると、
神を信じることが、従っていくことが、
もう全然退屈じゃないんですよ。
私を救ってくださって、これほどですね、望みが素晴らしいである、
受け継ぐものが、受け継ぐものが、栄光に飛んでいるものである、
神の力が、救われた力が偉大なものである、
知っている人にどうやって喜びと感激がないんでしょうか。
どうやって退屈に思うんでしょうか。
そんなことはないんです。
ないはずなんです。
しかし皆さん、霊の目が開かれていない。
信者でありながらも目が開かれていないならば、
見言葉が、霊愛が、集まるのが、祈りが、
退屈に感じられる。
面白くないように感じられる。
違和感を感じる。なぜでしょうか。
目が開かれていないから、
また闇の中にその魂がいるから。
大事なのは、我々の霊の目が開かれなければならない。
この世に対しては、目を閉じて、
神に対しては目を開けていなければならない。
30:01
ところが、逆にしていると、
世の物語はものすごく明るい。
資力が6.0みたいにですね、ものすごい明るい。
でも神に対してはですね、
0.0001で見えません。
どうでしょうか。
そうなんてはいけないんですよ。
我々の霊の目が開かれますと、
私たちを召してくださった神の度身が、
どんなに素晴らしいものか、それを味わえる。
体験できる。自分の目で見える。
開けませんが、ヘブルヴィトの手紙を見ますと、
イエス・キリストが受け継ぐものと、
私たちクリスチャンが受け継ぐものが、
もう同じであると、ヘブルヴィトの手紙に書かれている。
それほど素晴らしい遺産が、
受け継ぐものが素晴らしい、
栄光に富んでいるものを分かっているならば、
私のために働く神の力が偉大なものであることを、
分かっているならば、
ワクワクするわけなんです。
感謝でもたまらないんですよ。
世の人々はいくら金持ちなら、
それはもう霊の目が開かれなければならない。
何年前かですね、
母が一人暮らし、今はね、
兄のところに行って一緒に暮らしていますけれども、
母が一人暮らししているときに、
空港からちょっと寄ってみたら、
テレビの上にも、
食卓の上にも、
ほこりがたくさんついている。
でね、僕がですね、
お母さん、汚いんですよと掃除したらですね、
いや、綺麗なのに何で掃除するのって、
なぜでしょうか。
視力が悪いから、
ほこりがついているのは、
カビがあるので食卓に悪いですね。
カビがついているから見えないんですよ。
でも、私の目にはそれが見える。
なぜでしょうか。
目が悪いから、目がいいからです。
霊的な状態も同じなんですよ、皆さん。
クリスチャンであることだけでは、
暗示してはいけないんですよ。
教会の庭を踏むだけで暗示してはいけない。
我々の霊の目が開かれて、
さらにそこから引き上げられて、
霊の目がはっきり見えるようになると、
生き方が全く違う。
カビはそこにあります。
霊の目が開かれればどうなるのでしょうか。
一番目。
世の人々が実は、
どれだけ闇の中にあって、
どれだけ悲惨なものなのか、
哀れむものなのか、
33:00
それがわかるんです。
羨ましく思うのではなく、
ただ、羊飼いを失っている、
彷徨っている羊に見える。
そして、彼らの魂のために、
涙をもって祈るわけなんです。
それが霊の目が開かれた、
信者の生き方、見方であります。
羨ましいなと思うのではないんです。
二番目。
霊の目が開かれますと、
自分の状態がどんなものなのか、
見えてくるんです。
そうでしょう、皆さん。
霊の目が開かれますと、
どこに埃が、どこにカビが、
どこにシミがついているのか、
見えるようになるように、
霊のところが見えてくるわけなんです。
自分が信仰的に、
無知なのかどうなのか、
自分が傲慢なのかどうなのか、
見えてくる、見えてくる。
まるでサウルだったパウロが、
信者たちを捕まえて、
処刑するために、
タマスコに迎えていく、
その途上でイエス様に、
もう強制的にお会いして、
そしてもう光が照らされて、
見えなくなってしまった。
そして目からウルトみたいなものが落ちて、
そしてしばらく経って、
見えるようになって、
全く変わりました。
そうなんです。
三番目。
霊の目が開かれますと、
私のために働く神の力が、
どんなに素晴らしいものであって、
偉大なものなのか分かるから、
感謝と平安と喜びに満ちて、
歩むことができるんです。
だから霊の目が開かれなければならない。
皆さんどうぞ、
自分自身のためにお祈りください。
主よ、私の霊の目が見えるようにしてください。
はっきり見えるようにしてください。
あの詩編、119編の三日とかなように。
エペソ教会の神道に向かった、
小野先生の祈りのように、
主よ、大きくはっきり見えるようにしてください。
祈ってください。
霊の目が開かれますと、
本物と偽物が区別できるようになります。
霊の目が開かれますと、
神の御言葉と福音以外には、
もうどうでもいいこと、
そして主にくださる、
主がくださる自由で、
メッセージを終わりたいと思います。
まず、自分自身の霊の目が開かれるように祈りましょう。
御言葉に、神に向き合いましょう。
36:01
このパオルのように、
あの詩編の記者のように、
祈ってください。
そして、我々霊の目が開かれて、
神の力を知る、
味わう、
そして感謝し、
喜びのうちにですね、
信仰の道を全うして歩んでいきたいと思います。
お祈りしましょう。
では、今日のメッセージを覚えて、
それぞれ祈りましょう。
主よ、私の目を開いてください。
私の目をはっきり見えるようにしてくださいとですね、
ペーストを、
さっきの御言葉その通りに読んでもいいですよ。
十分にですね、
本当に主よ、
私の霊の目が見えるようにしてくださいと、
切に切に誇らせて、
一斉にお祈りしたいと思います。
お祈りしましょう。
36:45

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