2023-11-19 27:22

#救いに気づく目 23/11/19

マルコ-21からの礼拝説教。2023年11月19日録音。今日のお話しの中心的な話題はイエス様のこの言葉に関わっています。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」。当時はパンを発酵させるために現代と違う方法をとっていました。この一風変わったたとえから話は救いや信頼に関連する意外な方向に発展していきます。1.拒絶を前提とした無知、2.鈍感さによる無知、3.日常生活の中での救いに気づく目、の3つの点を取り上げます。

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00:06
マルコ8章11節から21節をお読みします。
すると、パリサイ人たちがやってきて、イエスと議論を始めた。
彼らは天からの印を求め、イエスを試みようとしたのである。
イエスは、心の中で深くため息をついて、こう言われた。
この時代はなぜ印を求めるのか、誠にあなた方に言います。今の時代には、どんな印も与えられません。
イエスは彼らから離れ、再び船に乗って向こう岸へ行かれた。
弟子たちはパンを持ってくるのを忘れ、一つのパンの他は船の中に持ち合わせがなかった。
その時イエスは彼らに命じられた。
パリサイ人のパンダネとヘロデのパンダネには、くれぐれも気をつけなさい。
すると弟子たちは、自分たちがパンを持っていないことについて互いに議論し始めた。
イエスはそれに気がついて言われた。
なぜパンを持っていないことについて議論しているのですか?
まだわからないのですか?悟らないのですか?心を堅くなにしているのですか?
目があっても見えないのですか?耳があっても聞かないのですか?あなた方は覚えていないのですか?
私が五千人のために五つのパンを裂いた時、パン切れを集めていくつのカゴがいっぱいになりましたか?
彼らは答えた。
十二です。
四千人のために七つのパンを裂いた時は、パン切れを集めていくつのカゴがいっぱいになりましたか?
彼らは答えた。
七つです。
イエスは言われた。
まだ悟らないのですか?
以上です。
今日はこのところから、救いに気づく目と題して御言葉を取り継ぎます。
皆さんおはようございます。
本当に寒い日が続いておりますけれども、こんな時は朝から熱いトーストを食べたいと思うかもしれません。
この間もラジオでやっていました。
いろんなプライベートブランドがある中で、あなたのお勧めのブランドは何ですか?という問いがあって、いろんな方が答えていました。
ある方は、セブンイレブンの金の食パンというんですか、コンビニですごいおいしいパンが売っているらしいですね。
日本は今、しばらく高級なパンがブームになっていますけれども、今日のお話の中心的な話題は、このイエス様の言葉に関わっていますね。
このイエス様の言葉、それはパリ大人のパンダネとペロでのパンダネに気をつけなさいという言葉です。
今この写真はイスラエルのパンですね。左側はおそらく種なしパン、右側はベーグルですね。
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ユダヤ人の方が食べる。私もアメリカ行った時ですね、ある教会で、教会の前にですね、ベーグル屋さんがあって、
残ったベーグルを大量にですね、支援センターの人に渡して、食べ物に困った人に配ってたんですけれども、教会のスタッフもですね、余ったベーグルをよく電子レンジに入れて温めて食べていただくことを思い出しました。
そういうユダヤ人の人の食べたパンなんですけれども、実はですね、パンダネが今日一つ話題なんですが、今パンダネというと何使ってます?
イースト菌ですよね。でも当時は、ユダヤではイースト菌を使わなかったんですね。何をしたかというと、パンを小麦などの麦をこねた、英語でdoughって言うんですけどね、日本語だとあまり言葉ないですけど、そのパンのこねたものを、
古いもの、発酵したものを取っていくんです。で、その昔使った古いパンダネ、発酵したそのパンの練り粉をですね、新しいこの
小麦や麦の練り粉に入れると発酵する。それがパンダネとしてあったわけです。今日のこのパンダネというのはイエス様を信頼しない不信仰を生み出す悪いものの例えとしてイエス様が語りました。
そんな中から3つのことをですね、話していきたいと思います。
パリサイビトと弟子たちをまず最初に取り上げますが、一つずつ、
これ地図ありますけどもね、この時ですねイエス様はガリダ役を行ったり来たりしていまして、カペナウムあたりでまず
パリサイビトたちと議論したようです。 そして最初はですね、
拒絶を、拒絶ですね、rejection、拒絶を前提とした無知ということです。 今日の冒頭、発酵11節にこうあります。
イエス様が4000人の軌跡を割ってですね、どこかわからないところに先週のところで、ダルマタヤ地方と渡ったってありますけども、その地域に渡った時に
パリサイビトたちがやってきてイエスと議論を始めた。彼らは天からの印を求めイエスを試みようとしたのである。
ここでパリサイビトたちは、天からの印を求めイエスを試みようとしたとあるんですね。
この根本的な問題、悪いパンダだと言っていいんですけども、彼らは最初からイエス様を神様の御子、約束された救い主と認めようとしない。
そういう点にあった。 そこにはですねイエス様が本当に救い主かどうかを正しく知ろうとしない
そういう気持ちがあった。それをですね拒絶を前提とした無知とあえて言います。 そういう背景がここにはありました。
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そしてそんな中で、イエス様を試みようとした。天からの印を見て試みようとした。
本来、この試みようとした、試みるはですね、進化を試すという意味で、英語では簡単にテスティングと言います。
テストをする。 それは旧約聖書において、予言者が偽予言者と本当に神様から使わされた
真ことの予言者かの進化を試しなさい。そういう予言書とかですね、神明記で言われています。
まあ言ったことが実現したら、それは本当の予言者だって言うんですね。
この間水曜日なんですけども、あるところで外に下校時刻にいた小学生、よく知り合いになった小学生がいるんですけど、
彼が3人男の子が入ってきて、こう言うんですね、明日大地震が起こると思いますか?
なんで?と言ったら、友達が明日大地震が起こるって言ってた。え、なんで?と言ったら、誰かから聞いたらしいって言ってですね。
私もそんなことを小学生の中でありましたけど、小学生のあるあるですね。だから言ったんですけど、おじさんはそんなことを信じないよ。
明日起こるかもしれないし、だから子供たちは何回となく知ってましてね、30年後に起こるんでしょって言ったから、
だから30年以内に起こるんでしょって言ったんだけども、それはね、明日かもしれないし、30年後かもしれないから、いつ起こってもいいように準備することが大事だよ。
だからそんな明日地震が起こるなんて心配しなくていいけど、準備しなさいねって言ったら、本当に安心してですね、帰って行ったわけです。
まあそれは可愛らしい例ですけども、とにかく旧約ではですね、偽予言者を見極める、テストする、進化する、進化を試すということが言われていて、
そしてその原則でですね、に基づいて、パリ沙耶人たちは天からの印を求めた。それはイエス様の奇跡が、
奇跡をすること自体は当時あったらしいんです。それが本当に神様に由来し、イエス様が誠の神から使わされたのかどうか、誰の目にも明らかな証拠を示せ。
そうイエス様に要求したということなんですね。それが天からの印を見せるわけです。しかし以前見た3章22節のところからの話を見るとですね、
パリ沙耶人らはイエス様の奇跡、その力の源が悪霊に属する。悪霊の頭だから、悪霊を自由自在に操るから、悪霊を追い出せる。
そういうふうに、掘り固まっていた。そういう事実が彼らの中に、事実と言いますかね、固定概念があって、その上での今日の話なんです。
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そういう中で今日の歌詞を読むと、イエス様は深いため息をついて答えた。今の時代はどんな印も送らない。
深いため息、それにはですね、怒りとか楽嘆、悲しみが込められていたわけですね。
なぜならイエス様は、このパリ沙耶人たちはですね、どんな印を持ってもすでに信じない、見抜いていたわけです。
最初から彼らは結論があって、イエスを殺す口実を見つけるために、こういうことを聞いたわけです。
だから例え明確な印が天から与えられたとしても、彼らの固くなさは変わらないと、イエス様は見抜いていたんでしたね。
ですから彼らには正しくイエス様を知ろうという意思が全くなかった。
だからこれが先ほども言いました、拒絶を前提とした無知で切れてしまいましたけど、それがパリ沙耶人の心の正念にあったわけなんですね。
それこそパリ沙耶人のパンダネだったわけです。
ここから私たちどんなことを学べるか、そういう人はね、今この話を聞いている中にいらっしゃらないんですけども、
私たちは時々このパリ沙耶人的な人に直面して問い詰められることがあるかもしれません。
そういう人たちにイエス様の救いを納得してもらうことは無理だということを受け入れていくということですね。
イエス様でさえこういう人の心を変えられなかったのであれば、なおさら私たちには無理なわけなんですね。そういうことを覚えておきましょう。
次にですね、弟子たちの無知、ちょっと私たちに近づいてきましたが、2番目、弟子たちの無知について考えましょう。
それは2番目、鈍感さによる無知だって言うんですね。
このイエス様はですね、パンダネに気をつけろと問いかけた時に、弟子たちが1個しかパンを持ってない、忘れたことに動揺して互いに争い始めたってことに気がついたわけですね。
それで8章17節でこう書いてあります。ここのなぜから読んでみましょうか。
なぜパンを持っていないことについて議論しているのですか?まだわからないのですか?悟らないのですか?心をカタクナにしているのですか?
こういう非難と言いますかですね、そういう言葉が続くわけです。18節にも続きます。
弟子たちは、自分たちがパンを忘れたということに心がとらわれていて、パンダネに気をつけろと言われた時に、持ち通りこのパンを忘れたことを責められたと誤解したわけですね。
しかしイエス様はこの17節に続けて弟子たちの心の憎さをこう咎めています。8章18節。読める人、ここの目があってもから続けて読んでみましょうか。
12:11
目があっても見えないのですか?耳があっても聞かないのですか?あなた方は覚えていないのですか?と続くわけです。
このイエス様の非難の言葉が続いていったわけですけれども、弟子たちの問題は何だったのでしょうか。
それは弟子たちはですね、自分の視点にとらわれていて、イエス様の救いの見業を見ても悟ることができなかったんですね。
弟子たちはパリサービスたちのようにイエス様を拒絶することはなかった。だからこの一生に旅を続けて、そしていわゆるこの奇跡のパン、救いのパンに預かって一緒に食べて、またそれを配って奉仕をしたわけですね。
しかしその救いのパンの効果はその時で終わってしまったわけです。
そしてですね、それから悟って、後の生活に生かせなかった、5000人の生活、パンの奇跡から4000人の時、青春を見た時にそんなことを見ましたが、ここでもですね、過ちと言いますか、そういう姿が露呈したわけです。
そんな中でですね、イエス様がこの小舟の中に一つのパンしかなかったことに囚われていた弟子たち、そのことがですね、イエス様の言葉とのやり取りで浮き彫りになったわけです。
パンの数をですね、増やすということはもうすでにイエス様が解決してくださいましたね。
この後イエス様が問いでですね、5000人の時はいくつのカゴが余りましたか?12です。4000人の時はいくつのカゴが余りましたか?7つですと言って、パンの数を増やすということはもう解決済みだったわけなんです。
でも弟子たちはそこでですね、このパンの数ではなくて、奇跡の質、パンの数ではなくて、この奇跡の質を悟らなければいけなかったんです。
そこからですね、イエス様は私たちの必要に応えてくださる救い主だという、そういう質に気がつかなければいけなかったんですね。
彼らは繰り返しますが、パリスラ人たちのような悪気はありませんでした。
しかしこの救いの技を体験しておきながらですね、イエス様を救い主として正しく知ることができなかった、そういう意味で見ていながら見えなかった、
15:07
その彼らには鈍感さゆえの無知という問題があったわけなんです。
ここから私たちにはためで考えていきますけれども、私たちもですね、自分の考えや視点にとらわれて、相手の言ったことの本当の意図を取り違えるということが日常生活でよくありますね。
これ批判じゃなくて、こういうことがあるんですね。私、ある仕事で物を売り返したことがあって、例えば野菜なんかを売って、それが傷んでると、傷んでたよって言われて返金をするんです。
別にそれは悪いことじゃないんですよ。でも相手の方はですね、いい方なんかはですね、それを言ったこと自体が悪いと思うんですよ。
なんかこんなこと言って自分はクレーマーみたいで申し訳ないなと思うらしくて、でも全然それは職場でも決まってますし、もしそんなものを私今日持ってきたんですけど、お店にあったら買わないじゃないですか。
だから返金して当然なんですよって言っても、いやすいませんって言ってですね、すごく自分の中に悪いなって気持ちを入れたままでいてしまうんですね。
だからクレーマーみたいで悪いなっていうところに自分の心を持ってて、いや当然のことであって、むしろ言ってもらってありがたいんですよって言わなきゃいけない。
これはちょっとしたあんまり直接の例じゃないんですけども、一つの例として、自分の中でとらわれていることで相手のことは聞けなかったり、物事の正しい状況を受け入れられないということがあるという実例として簡単に話したまでなんです。
そういうことが、私たちは誰かと接しているときに自分がそういう誤解してしまう場合もあれば、相手も誤解する場合もありますけれども、私たちとあえて言えばイエス様との関係の中でそういうことがあることが起こりがちではないかなと考えていきたいんですね。
イエス様が教えてくださる聖書の御言葉とか、私たちが日々生活する救いの技に対しても、こういう誤解というか、私たちの視点の上に見えなくなっていること、理解できないことがないでしょうかということを問いかけたいと思うんですね。
幸いのことは、イエス様はパリ災民たちが拒絶の家の無知の反応を示したときどうされたか。それはその場を去りましたね。その場を去って、船に乗って湖の反対側に行ってしまったわけです。その湖の上でこの出来事が小舟の上で起こったわけですよね。
イエス様はその時に弟子たちに挨拶を貸して、小舟の上でイエス様だったらもう君たちなんか知らんよと言って、湖の上を歩いて弟子たちを置いてどこかへ行っちゃうことができたわけですよ。でもそんなことはなさらないで、一緒に小舟に乗ってこれからも弟子たちと旅を続けようとされた。
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それがイエス様の弟子たちに対する心だったわけです。当然だから私たちのこの人生の旅路においても、私たちが悟れなかったとしても一緒に私たちの小舟に乗り続けてくださるのが救い主イエス様なんですね。それで最後の点です。
3番目、日常生活の中での救いに気づく目ということを見ていきたいと思います。
最後の今日の言葉、こういう言葉がありました。じゃあ一節ちょっと読んでみましょうか。イエスからですね。
イエスは言われた。まだ悟らないのですか。このまだ悟らないのですかという無知を指摘する言葉を出した時に2回繰り返して使いましたね。
さっきの見ていても見えないんですか、聞いていても聞こえてないんですか、まだ悟らないんですかと言った後に、今日のところでですね、最後の部分で彼らが7つの籠がいっぱいになりましたと言った時に、最後にまだ悟らないんですかとこの言葉を残した。
この言葉についてある学者はこう言っているんですね。この問いは福音書を読み続けるようにとの呼びかけであり、また本当に理解するまで私たちの生活の中でイエスと共にいるようにとの呼びかけなんである。非難の言葉ではなくてですね。
この福音書をですね、これから弟子たちはイエス様と旅をしましたけど、私たちに対してはですね、これからもこの福音書を続けて読み続けなさい。そして生活においては本当にイエス様の救いを理解するまで私たちの生活の中でイエス様と共にいなさいという、そういう招きの言葉だと言うんですね。
繰り返しになりますけども、イエス様が2回弟子たちに質問した時に、弟子たちは正確に数を答えましたよね。5000人の時は12個、4000人の時は7つの籠。
これはどういう意味があるか。余談ですけど、その数に何か固有的な解釈があるんじゃないか、10人部族を表してるんじゃないか、7番関節なんじゃないかっていろんな解釈がですね、歴史に行われてきたんですけど、それはあえてないだろうと。
一つ言うならば、事実として弟子たちははっきりとそれぞれの奇跡の数を覚えていたということなんです。過去の数まで。それは正確にその状況を弟子たちは実は覚えていたわけなんです。
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別の言い方をすると、イエス様の救いの奇跡を体験しただけじゃなくて、その状況を見て覚えていたわけなんです。
本来ならば、前5000人の給食の時に解説したように、そこからイエス様はモンオセやヨシア、そしてダビデの再来のような誠の救い主であるということを悟らなければいけなかった。
何が言いたいかと言いますと、食事というのは何回します?1日。3回ですよね。3度。最も日常生活の営みを表す行為の一つだということですね。生活の中で食事。
そこの中で、弟子たちは最も日常生活に関わる営みの中で、生活の営みの中で、まさに弟子たちはイエス様が救い主であるという証拠とその印としての奇跡を体験した。しかも力ある神の救いの御業を体験したんです。
繰り返しますが、それを食事という最も日常的な生活の部分の中で弟子たちは体験したわけです。で、それを明確にそのことを覚えていたんです。でもそこからその出来事の意味を悟ることができなかった。イエス様の救い主たること、力あるということを悟れなかった。
その後の生活に活かせなかったばかりか、今度はイエス様の教えを誤解することさえになってしまったわけですね。
ここから言えば、私たちも…書いたのを出し忘れてしまいました。食事とは毎日の営みの中で最も日常的な関わる行為だ。
その中で、私たちもこの日々の出来事を信仰の目によって理解することが求められているんです。イエス様というのは目には見えません。
でも私たちの生活の中で確かにイエス様が力あることを成して私たちを救ってくださっているんですね。
それが食事のような最も日常的な生活の営みの中で、私たちはイエス様の救いの御業に触れている、出会っているわけです。
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時には自分の生活を振り返って、あの時イエス様が共にいてくださった。
別に言い方をすれば、あの時救い主イエス様が力ある救いの業を成してくださった。
そういうことを振り返って考えていく必要があるのではないかと思うんですね。
そのように救いに気づく目を養っていく。
それは、あえて言えばクリスチャン生活の成熟とか、旅路を続ける上での喜びになるのではないかと思うわけです。
そういう生活を振り返ってイエス様の救いの御業に気づく、そういう目を養う。
そしてそれ故にですね、その後の生活でイエス様を頼っていく。
そして聖書はイエス様の教えをその中で素直に受け入れていくこと。
自分の視点にとらわれずに、聖書が言っていることはあるがままに受け止めていくことができるようになるかと思うわけですね。
そのようにお互いですね、日常生活の中でイエス様の救いを見つける、
それに気づく目を養ってですね、さらに救いの喜び、イエス様と共に歩む喜びを体験し、
それを自然にですね、明かしするお互いでありたいと思います。
先週も見ましたが、信仰の書であるヘブルビトの手紙からまた一つ引用して終わりたいと思います。
ヘブルビトの手紙の11章の1節にこうあるんですね。
じゃあ読める方、信仰話から読んでみましょう。
信仰は望んでいることを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
イエス様と弟子たちのやり取り、あるいはパリサエビトのやり取りから今日もなりました。
私たちは日々の生活の中でイエス様に救いを求め、時にその救いの宮座に気づき、
あるいは忘れることがありますが、どうかイエス様の成してくださったその救いの宮座に気づく目があなたにあって、
また自らの精進によって養われていくことができるようにどうか導いてください。
そして本当にあなたと共に歩む喜びをこの胸に抱きながら、また新たな日々をあなたに頼りながら歩んでいく、
そのようなお互いであり弟子であり、また教会であることができますようにどうか導いてください。
すぐに恐れる不安になる私たちをどうか憐れみ、イエス様がこれからも導いてくださるようにお願いいたします。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
27:00
アーメン
それでは1分ほどイエス様の御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。
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