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2026-02-15 34:02

2026/02/15:今、見えるのだから

2026/02/15 聖日礼拝

加藤満牧師

ヨハネの福音書 -41


サマリー

この礼拝では、加藤満牧師がヨハネの福音書9章21-41節に基づき、「今、見えるのだから」というテーマでメッセージを語りました。冒頭では、ジョン・ニュートンの生涯と「驚くばかりの恵み」という賛美歌に触れ、神の救いが人を変える力を持つことを強調しました。特に、奴隷商船の船長だったニュートンが回心を経験し、奴隷廃止運動に尽力するようになった例を挙げ、救いによる変容の大きさを説きました。 メッセージの中心では、ヨハネの福音書6章から10章にかけて描かれるイエス・キリストの自己啓示に焦点を当てました。6章の五千人へのパンの供給はイエスが「命のパン」であり、「過ぎ越しの小羊」であることを示し、7-9章の仮庵の祭りはイエスが「世の光」であり「命の泉」であることを示唆しました。10章の宮清めの祭りは、イエスが良い「羊飼い」であり真実の「王」であることを示しています。これらの祭りはすべてイエス・キリストご自身を指し示していると解説しました。 さらに、9章で描かれる生まれつき目の見えなかった男性の奇跡に焦点を当て、視力の回復が単なる物理的なものではなく、真に見るべき方(イエス・キリスト)が見えるようになったことを象徴していると述べました。一方で、見えると豪語しながらも実際には見えていないパリサイ人たちとの対比を示し、真の視力とは何かを問いかけました。最後に、目が開かれた男性が「私は盲目であったが、今は見える」と証言したように、私たちもまた、かつては見えなかった真理が見えるようになった者として、イエス・キリストに焦点を当てた人生を歩むよう勧めました。

祈りと導入:救いによる変容
それでは一言お祈りを致します。
恵み深い愛する天の父なる神様、
今日も主が私たちをこの場所へと招いてくださり、
あなたは大きい礼拝ができます幸いを心から感謝を致します。
祈られたように寒さと暖かさが交互するような気候の中で、
私たちは本当に、またそれはそれで違ったとかで覚えやすい中にあるかもしれません。
ただしよ、どのような中にあろうとも、永遠の身腕が常に下にあるとあなたは約束をし、
私たちを支え、今日この場所へと導いてくださいましたから、ありがとうございます。
あなたの愛と恵みは変わりません。
それは十字架が打ち立てられているからです。
あなたの十字架で流された血汁によって、私たちの罪が許され、
それによって神のことされ、三日目に甦えられた復活の命、
永遠の命を私たちに与え、
死を超えてなお、永遠なる日と結ばれている、
共に生きる命を与えられていることを感謝を致します。
私は決してあなたを独り言しないと、
そのあなたの握られている手の中で、私たちの人生を持ち運ばれていますから、ありがとうございます。
どうかしよう、今日もその現実を見たいと思います。
見言葉を開いてください。
私たちは様々なところに目が行きますが、
しかしあなたによって見言葉が示され、目が開かれて、
今一度、あなたが生かしてくださっている豊かな現実を知ることができますように、
不安の暗闇の中にもあなたという光があることを見ることができますように、
私たちに信仰と勇気をこの時に与えてください。
お願いいたします。
見言葉を開いてくださいますように。
ここに来たくても来れない一人一人がいることも覚えています。
どうか主がお一人一人を慰めてくださいますように、
共にいてくださいますように。
お願いいたします。
これからの時を御手に委ねます。
見言葉を主が導いてください。
イエス様のお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
私たちは聖書を読んで、救われるという経験をいたします。
そしてその救いということを最も美しく表現している賛美の一つは、
先ほど皆さんとご一緒に歌っていただきました
驚くばかりのという賛美ではないでしょうか。
実はこの歌詞を作った作者はご存知だと思いますけれども、
18世紀のジョン・ニュートンという人物です。
彼はもともと奴隷商船の船長をしていました。
奴隷貿易によって財を成した人物だったのです。
しかしある時、すさまじい暴風雨で死に直面し、
その中で必死に祈り、奇跡的な生還を経験をします。
そしてそのことを通して、彼は自らの罪深さを悔い改めて神を信じ、
そして後に教会の司祭となり、
晩年は実は奴隷廃止運動に尽力をする人物になります。
イギリスの政治家ウィリアム・ウィルバー・フォースとともに働いて奴隷廃止を訴え、
余談ですがウィルバー・フォースとともに働いたのはトーマル・フォーエル・バックストン、
D.F.バックストンのおじいちゃんになりますけれども、
いわば奴隷船の船長であった人物が奴隷廃止運動の運動家になるということが、
この歴史の中で起きるのです。
このことを通して一つ私たちが思うのは、
神の救いは人を変えるということです。
神の救いは人を変えます。
そしてその変化の実感を綴ったのが、
実は驚くばかりのという歌の一番の歌詞ではないかなと思うのです。
英語訳を直訳しますとこういう歌なんですね。
驚くばかりの恵み
なんと甘美な響きだろう
私のような罪人を救ってくださった
私はかつて迷い子だったが、今や見出された
私はかつて盲目だったが、今は見えるのだ
という歌詞なんですね。
祭りが指し示すイエス・キリスト
この歌詞が私たちに端的に語りかける事実は何かというと、
私たちはまず迷い子だったけれども、今は見出されているということです。
そしてもう一つは、私たちはその見出されたが結果、
目が開かれて今はかつてとは違うものが見えるようになったということです。
違うものを見ているんですね。
そして互いに経験があるでしょう。
私たちは見るものが変わるから人間が変わるんです。
見るものが変わるから私たちの人格が変わっていくのですね。
実は今朝の歌詞もまたそのような歌詞なんです。
今日読んでいただいたこのヨハネの福音書の9章というのは、
途中から読んでいただきましたが、端的に言えば、
目が見えない人が見えるようになるという奇跡が描かれています。
福音書の中にはこのような目が見えない人が見えるようになるという奇跡はいくつかありますけれども、
その全てが実は単に視力が回復するということを言っているのではないんです。
それらの奇跡が象徴して示しているのは、
その人たちが目が開かれて本当に見るべきお方が見えるようになったという事実を示します。
本当に見るべきお方が見えるようになって、彼らは変わったということを示しています。
そしてこの9章というのは実はヨハネの福音書の長い文脈の6章から10章の中に置かれているんです。
6章から10章というのは何が描かれているかというと、祭りの話なんです。
祭りが順に描かれていく中で、その祭りが指し示しているのはこのイエス・キリストである。
イエス様はその中で私はこういうものだと自分自身を開示していく。
そのようなのが6章から10章です。
そして9章はそのイエス・キリストがあなたは今見えますよねという箇所なんです。
この箇所を読みながら私たちは今朝、あなたもこのイエス・キリストを見るようになりなさいと招かれる。
そのような箇所です。
順に2つのポイントで、ちょっと長いですが6章から10章を扱いながら、ご一緒にこの箇所から聞いていきたいと願っております。
1つ目のポイントは、祭りが指し示しているイエス様ということです。
祭りが指し示しているイエス様です。
ヨハネの福音書、6章から10章を今日一気に見たのはちょっともったいないなと思います。
とても豊かな箇所なので、また詳しく扱いたいと思っておりますけれども、
この6章から10章で描かれているのは、実はユダヤ教の三大祭りについて描かれているんです。
いわば杉越の祭り、狩岩の祭り、そして三宅嫁の祭りです。
それらを背景に置きながら、この祭りが指し示しているのは、イエス様ご自身なんだということを語っているのです。
少し概要を見ていきますけれども、まずヨハネの福音書の6章には何が書いてあるかというと、
これは春の祭りの杉越祭のことを言っています。
6章の4節というところには、このユデイ人の祭りである杉越が近づいていたと場面設定がされます。
杉越が近づいているときにこの出来事がありました。
杉越の祭りというのは、いわばシュツエジプトの出来事を覚える祭りですけれども、
それを覚えて食事を共にするんです。
食事の席で食べられるのは、あの自分たちの罪を過ぎ越してくれた羊を彼らは食べますし、
また急にエジプトを出ていったということを示す種なしパンを食べますし、
また奴隷時代の悔いを思い起こすニガナを一緒に食べるわけですね。
また、この種なしパンというのは、あれので日々神様が与えてくださったマナを象徴するものでもありました。
そのような杉越の祭りを背景に置いて、イエス様がこの場所でなされた奇跡は何かというと、5000人の給食なんです。
6章の5節から12節に書いてありますから、よくご存知だと思うので割愛しますけれども、
まさに5000人の群衆たちにパンが与えられたというのは、あたかもそれはアレノのマナの奇跡です。
日々主がパンを与えてくださったという奇跡の再来でした。
ですから、人々はイエス様を見て、
ああ、イエス様があのアレノのパンを与えてくれるを勝たないやってパンを求めて近づいていくわけですね。
しかし、そのような群衆に対してイエス様が言われたことは、6章の48節というところをご覧ください。
6章の48節というところに、イエス様はこのようにおっしゃるのです。
6章の48節から51節というところをお読みしますと、
私は命のパンです。あなた方の先祖たちはアレノでマナを食べたが死にました。
しかしこれは天から下ってきたパンで、それを食べると死ぬことがありません。
私は天から下ってきた生けるパンです。誰でもこのパンを食べるなら永遠に生きます。
そして私が与えるパンは、世の命のための私の肉ですとここでおっしゃられる。
私は命のパンですというのは、これはまさに1個目のエボーエイミーです。
私は命のパンである。
5千人の給食の奇跡は、実は単にパンが与えられることではなくて、
イエス様ご自身が永遠に命を与える養い、そのようなパンであるということを示す象徴なのだとイエス様は言われるのですね。
そして同時にここで、いやあのマナだけではない。
もう一つここで言われることは、私はあの杉越祭で言われる杉越の子羊そのものであるとも言われるのです。
それが6章の53節からです。
イエスは彼らに言われた、誠に誠にあなた方に言います。
人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方のうちに命はありません。
私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を持っています。
私は終わりの日にその人を蘇らせます。
私の肉は誠の食べ物、私の血は誠の飲み物なのです。
これは何でイエス様を食べるみたいな話が出てくるのか、これ杉越祭の食事をイメージしているのです。
あなた達は杉越の出来事を覚えて子羊を食べるでしょう。
でも本当にあなた達が食べるべきあの子羊は私なんだとイエス様は言われるのです。
それはまさに誠の杉越をするのは私なんだと言わんばかりにですね。
イエス様はこの世の罪の全てをその身に引き受け、命を差し出す杉越の子羊である。
私はそうなんだとそう言われます。
イエス様こそ、この箇所が示しているのは、イエス様こそが荒野のマナー以上に日々確かな私達の養い主である。
イエス様こそ、杉越の子羊以上に永遠に私達の罪を引き受け、確かな罪の許しをもたらす誠の杉越の羊である。
そのことをこの六章は語っているんです。私がそれだと言われるのですね。
そしてちょっと進んでいきますけれども、七章から九章で描かれているのは今度は狩猪の祭りです。
これは秋の祭りなんです。狩猪の祭りですね。
七章の二節に、時に狩猪の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていたとここで描かれます。
この狩猪の祭りと言いますのは、40年間あれの狩猪、簡単に言うとペントで旅をしたという、その出来事を想起する祭りでして、収穫感謝祭も意味をしました。
実はイエス様の時代、この狩猪の祭りというのは主に二つのイベントが大事だったんです。
一つは何かというと、水汲みの儀式。そしてもう一つは、植台の添加というものでした。
水汲みの儀式とは何かというと、シロアムの池から水を汲んできて、聖女の祭壇の上に水をバシャンとかけるんですね。
それは何を意味するかというと、イスラエルがあれのの中で渇いた時に、神様がメリバの泉を開いてくださった。
水がを神様が与えてくださる、潤いを与えてくださる神なのだ。それを想起する、そのような祭りです。
そして植台の添加とは何か、あれのの四十年、昼は雲の柱、夜は火の柱として、民をあれのので四十年間導いてきた、あの神様の導きを覚えるのが、その植台の添加でした。
しかしながらイエス様は、その狩猪の祭りがなされている最中の中で、このようにおっしゃいます。
7章の37節というところを見ていただきたいと思います。
7章の37節というところをお読みしますと、7章の37節にこういうことを言われるんですね。
さて祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。
誰でも渇いているなら、私のところに来て飲みなさい。
私を信じるものは聖書が言っている通り、その人の心の奥底から、いける水の川が流れ出るようになります。と言われるんです。
この言葉は何を言っているのか、明らかにメリバの泉のことを言っているんです。
でもそれは神殿で捧げられた水ですね。
イエス様は私こそが飲むべき水だと言われる。
そして8章の12節、まだカリーロの祭りの中です。
8章の12節で何と言われるか、イエスは再び人々に語られた、私は世の光です。
私に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、命の光を持ちます。
食材の光ですよ。
でもこれは、荒野を導いた雲の柱、火の柱、イエス様がここで言われるのは、私が今やそれなんだということをおっしゃられる。
イエス様こそ、荒野を旅する私たちの命の泉であり、
イエス様こそ、暗闇の荒野をさまよう私たちを導く雲の柱、木の柱である。
そのことをここで語っているんです。
そして10章の22節以降、3つ目の祭りです。
10章の22節以降ですね。
10章の22節には、そこからエルサレムで三宅嫁の祭りがあった、時は冬であったとあります。
冬に持たれる三宅嫁の祭りのことが描かれます。
この三宅嫁の祭りというのは、旧約聖書の歴史の後にできた祭りであります。
ちょっと細かいことは割愛しますが、
ユデイ地方が後に、私たちの馴染みのある言葉で言うと中間時代と言われますが、
その時代にシリアに支配をされた時に、実はアンティオコス要請という悪い王様がいたのです。
そしてその王様は、エルサレム神殿にギリシャの神デウス像を飾って、
そしてユデイ人が立法を守ったら処刑しますよということをした王様だったんですね。
ユデイ人たちはこのことに放棄をします。
一番きつかったのは神殿の祭壇で豚が捧げられたというのが一番の問題だったんですけれども。
その時に放棄をして立ち向かったのが、いわゆるマカバイ一族です。
マカバイ書というのはこのことを書いている書簡ですけれども。
彼らはシリア軍を撃破します。
そしてエルサレム神殿を奪還して、その際に怪我された神殿を彼らは再び清めて、神様に再封建する。
ハヌカともこの祭は言われますが、いわゆるハヌカというのは封建という言葉です。
神に再びこの神殿を清めて捧げたというのがこの祭です。
ですからこの宮清目の祭の時というのは、神殿は聖なる神のものだということを言うのと同時に、
違法人の支配から救い出してくれる指導者、いわばメシア、ちゃんとした指導者が私たちの上に立ってくれるようにということを熱望する祭でした。
ただその祭の前にイエス様は言われるのです。
10章の11節。
私は良い牧者です。
良い牧者は羊たちのために命を捨てます。
牧者という言葉、羊飼いという言葉はイスラエルの文脈では指導者です。
しかしその指導者は、このイエスという王は羊のために命を捨てる王であると言われる。
偽りの王は、民に献身を求め民から搾取をする王様です。
しかしイエス様はそのような王ではない。
むしろ民のために命を捨てて献身をする王である。
ご自身の命を祝福をすべて民に与えられる王なのですね。
それはイエス様だけではありません。
この世界の王である父なる神ご自身がこの世を愛して愛する御子を捧げられたというのはまさに同じですね。
神ご自身がそのような王なのです。
ですから10章の30節で言われることは、私と父とは一つですと主は言われます。
私と父とは一つなのです。
この箇所が語ることは、イエス様こそ良い牧者、そして真実の王です。
良い牧者は羊のために命を捨てる。
そのことを語っているのですね。
目が開かれた者、見えない者
さて私たちはそのように祭りで示されたイエス様の姿を見てきました。
二つ目のことを見てまいりましょう。
私たちは今目が開かれたのだからです。
今目が開かれたのだからこのお方を見なければならない。
この6章から10章に挟まれるかのようにこの9章の出来事が描かれています。
まさに目が見えない人が見えるようになるという奇跡です。
そしてその奇跡はまさに見えるようになった人と見えると豪語しながら実は見えていない人のコントラストを描いているのですね。
それは違う。
ちょっとこの9章の箇所を見ていきますと、この男性は目が癒されます。
イエス様はこの後すぐに姿を隠されるのですけれども、人々は目が見えるようになった人を連れてパリサイビトへのところへ連れて行くのですね。
そしてそこで議論が勃発するわけです。
いわば奇跡が行われた日は安息日だったと聖書は書きます。
その安息日に、それを安息日だったと14節に書いてありますね。
イエスが泥を作ってコラの目にあけたのは安息日だった。
それを受けて16節です。こういう議論が起きます。
するとパリサイビトのうちのある者たちは、その人は安息日を守らないのだから神のもとから来た者ではないといった人たちがいた。
一方で罪人である者にどうしてこのような印を行うことができるだろうかという議論が起きた。
どんな奇跡を起こそうとも、安息日に働く奴は間違いなく罪人じゃないかという人たちと、
いやそうではなくて、こんな罪人が奇跡を起こせるわけがないじゃないかということの議論が起きるわけです。
そしてこれは実に荒れまして、最終的に癒された男性の良心まで呼び出されるわけですね。
ただ先ほど読んでいただきましたけれども、この22節にありますが、
すでにユダヤ人たちはイエスをキリストであると告白する者がいれば、街道から追放すると決めていた。
完全にイエス様に対してシャットダウンをしているわけですね。
そして最終的にこの癒された男性自身が呼び出されていくわけですが、
しかし彼はこのカリスアイ派たちに対してこう言います。
31節から33節の言葉を読みますと、こういう言葉です。
私たちは知っています。神は罪人の言うことはお聞きになりませんが、
神を敬い、神の御心を行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。
盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。
目が開かれた人は、もう見えているのです。
こんなに良い技を成すことができるお方、人々を癒すことのできるお方、
そのお方は神の御技を成しているにほかならない。
一方でパリサイ人たちは、34節で彼に言います。
お前は全く罪の中に生まれていながら私たちを教えるのか。
これ結構ひどい言葉です。
弟子たちが最初にイエス様に聞いたときに、
生まれながらに何かのハンディがある人というのは、親の罪ですか、もしくは他の人の罪ですかと聞くわけです。
当時のユデン社会はそうなんです。何か悪いことがあったら、因果を行う。
誰かの罪がこの人に現れたんでしょう。
だいぶ無慈悲な表現ですね。
目が癒された男性に対して、お前は盲目で生まれた罪人であったくせに、
パリサイ人である私たちに何を教えるんだと言っているわけです。
醜い怒りです。
パリサイ人たちは、彼らは神様の愛の眼差しも、神の豊かな力も癒しも見ていない。
いや、見ようとしていないのです。
そしてこの男性に最終的にイエス様は近づき、彼はイエス様を信じます。
シンプルですね。あなたは私を信じるか、主を信じます。
イエス様を信じるのはこのくらいシンプルでいいんですよ。
主を信じます。それで良いのです。
そしてイエス様は言われる。39節から。
そこでイエスは言われた。
私は裁きのためにこの世に来ました。目の見えないものが見えるようになり、見えるものが盲目となるためです。
パリサイ人の中でイエスと共にいた者たちが、このことを聞いてイエスに言った。
私たちも盲目なのですか。
イエスは彼らに言われた。
もしあなた方が盲目であったなら、あなた方に罪はなかったでしょう。
しかし今私たちは見えると言っているのですから、あなた方の罪は残りますと言われるのです。
さて今朝はこの言葉に共に問われていきたいと思うのです。
私たちは見えているだろうかということです。
私たちは見えているだろうか。
この箇所は見えている。
私は神のことを知っていると言いながらも、神様がそしてイエス様が見えなくなることがあるということを端的に示しているのです。
私たちは互いにそうなります。互いに。
互いにこれまで私たちは6章から10章のイエス様の自己啓示を見てまいりました。
実は6章から10章、特にヨハネの福音書のイエス様はそうですけれども、ご自身を隠されないのですよ。
マルコはすごく隠すのですが、ヨハネのイエス様は隠されない。
むしろ私を見て信じなさい。私を見て信じられないなら、私の業を見て信じなさいぐらい。
見て見てなんですよ。これだけあなたたちの前に私を示しているじゃないか。
こんだけあなたたちは見ているじゃないか。
なのになぜ私を知らないのか。
イエス様は改めてどういうお方だったでしょうか。互いに覚えたいのです。
イエス様はどういうお方でしょうか。
イエス様は命のファンです。
6章の35節には、私が命のファンです。
私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者はどんな時にも決して渇くことがありませんとイエス様は言われましたね。
私たちがもしもそう見えているならば、私たちの根本的な養い主はこのお方にあるんだということをどこまで覚えているかなということは互いに思います。
私もそれを忘れてしまうことがあります。
でも私たちの養い主は主ご自身ですね。
イエス様は神の子羊です。
6章の65節に、私の肉を食べ、私の血を飲む者は私のうちにとどまり、私もその人のうちにとどまりますとイエス様は言われました。
もしそれが見えているなら、この方があなたの罪を引き受けたではありませんかということです。
そうであるならば、私たちは互いに自己憐憫ばかりに陥ってはいけないと思います。
そうではない。罪は許された。罪はなおも犯してしまうけれども、罪は許され続けて生きていくんです。
そのような中で私たちはむしろ自己憐憫以上に神への感謝の歩みをしていくものになっていくのではないでしょうか。
イエス様こそがアレノを旅する命の泉なのです。
誰でも渇いているなら私のもとに来て飲みなさい。その人の心の奥底から行ける水の川が流れているようになりますと。
私から飲めと主は言われる。渇いているならです。私たちは渇きを経験いたしますね。
でも渇いているならばイエス様のもとに行きましょうなんですよ。渇いているならイエス様のもとへ行きましょう。渇きは癒されるからです。
ヨハネの4章に書いてある通りです。
イエス様こそアレノを旅する私たちの雲の柱、火の柱です。私は世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩むことがなく、命の光を持ちます。
私たちは道に迷いますよ人生で。どっちが正しいのか、これで良かったのか。しかし道に迷うならイエス様のもとへ行きましょう。
イエス様はたとえ死の影の谷を歩むことがあっても、私は離れないと言われますよね。私たちはそのように招かれていますね。このお方こそが導き手です。
そしてイエス様は良い牧者であり誠の王です。私は良い牧者です。良い牧者は羊のため、羊たちのために命を捨てますと、10章の11節で語られました。
私たちは簡単に神様をイエス様を無慈悲で残酷で献身ばかりを求める神様にしてしまいます。でも聖書を読んだら明らかに誤読ですね。聖書が語っているのは、いつでも神が私たちに献身なさったんです。
神が私たちに命を捧げられたんです。イエスキリストが私たちの罪を引き受けて十字架で死なれたんですよ。私たちはいつでも神様を恐ろしいお方に簡単に変えすぎなんです。そうではない。
私たちは民に献身する王なる神、私たちの神は愛の神、良い牧者なる神であるということを私たちは見えているでしょうか。
神様は今朝私たちに問われるのです。あなたは私が見えているか。私たちの目を反らさせるものは悲しみかもしれません。傲慢もあるでしょう。都度のつまり無関心というものがあるかもしれませんし、豊かさというものがそういうことになるものもあるでしょう。
いつでも私たちは御言葉から離れた無慈悲で無力な神様像を描き、勝手に失望してしまうということが互いにあります。けれども神様が無力なのではありません。私たちが見えていない、私たちが知らないだけです。
私たちは今朝互いにもう一度思い返したいのです。今日この盲目の人が目が開かれたときに彼は25節で言いました。
あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことを私は知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。これは私たちの言葉ではないでしょうか。私たちは色々分からなくなって、一つのことを知っている。
それは私たちはかつては見えなかったけど、今は見えるようにされている。目が開かれている。見るべきお方は本当は見えるようになっている。私たちは互いに目が開かれたではありませんか。このような驚くべき恵みにあふれたイエス様を私たちはそのままアーメンと受け入れるようにと招かれているのです。
そして私たちが見るものが変わるならば私たちは変わるんですよ。見るものが変われば私たちは変わっていく。今鮮やかに見言葉を通して主は私たちの前に現されています。どうか互いにこの方を見つめながら私たちの人生を主へと改めて焦点を当てながら歩ませていただきたい。豊かな恵みの道を歩ませていただきたいのです。お祈りをいたします。
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