アブラハムとイエスの関係
お読みします。ヨハニノ福音書8章48節からお読みします。
ユダヤ人たちはイエスに答えて言った。あなたはサマリア人で、悪霊につかれていると私たちが言うのも当然ではないか。
イエスは答えられた。私は悪霊につかれてはいません。むしろ私の父を敬っているのに、あなた方は私を癒しめています。
私は自分の栄光を求めません。それを求め、裁きをなさる方がおられます。
まことにまことにあなた方に言います。誰でも私の言葉を守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。
ユダヤ人たちはイエスに、あなたが悪霊につかれていることが今わかった。アブラハムは死に、預言者たちも死んだ。
それなのにあなた方は、誰でも私の言葉を守るなら、その人はいつまでも決して死を味わうことがないと言う。
あなたは私たちの父、アブラハムより偉大なのか。アブラハムは死んだ。預言者たちも死んだ。あなたは自分を何者だと言うのか。
イエスは答えられた。私がもし自分自身に栄光を期するなら、私の栄光はむなしい。
私に栄光を与える方は私の父です。この方をあなた方は私たちの神であると言っています。
あなた方はこの方を知らないが、私は知っています。もし私がこの方を知らないと言うなら、私もあなた方と同様に偽り者となるでしょう。
しかし私はこの方を知っていて、その御言葉を守っています。
あなた方の父アブラハムは私の火を見るようになることを大いに喜んでいました。そしてそれを見て喜んだのです。
そこでユダヤ人たちはイエスに向かって行った。 あなたはまだ50歳になっていないのにアブラハムを見たのか。
イエスは彼らに言われた。まことにまことにあなた方に言います。 アブラハムが生まれる前から私はある、なのです。
すると彼らはイエスに投げつけようと石を取った。 しかしイエスは身をひるがえしてミヤから出て行かれた。
以上です。今日はこのところからアブラハムが存在する前からと題して御言葉からお話をいたします。
皆さんおはようございます。 今日は9月最初の日曜日ですね。先週5日の金曜日ですが台風が上陸しましてですね
大雨の中、いろいろこちらでも大変かと思いますがご存知のように静岡県の牧野原市にトップ竜巻が起こりまして
家が壊れたり大きなトレーダーがですね倒れているところなのかも目にしましたけれども
まだ停電の中で生活している方、老人保護でもね停電でエアコンが効かなくて
高齢者の方が困っているなんて話もありましたけれども、そんな中、そういう方々のことも覚え祈りながらですね
手を差し伸べたりできればと願っています。さてそういう1週間でありましたけれども今日も御言葉から
学んでいきます。そして今日の箇所ではですねいくつかの鍵となる言葉があるんですね。
8章の、特に今日見るのが56節のですね
あなた方の父アブラハムは私の日を見る、そしてそれを見て喜んだということ
そして58節のですねイエス様が言われたアブラハムが生まれる前から私はあるのですという言葉
これがですね今日の言葉の鍵というか特に取り上げる点です。
ユダヤ人との論争
それらの言葉の前後を理解する
そしてそのことが大事なんですが、実はしばらく前から皆さんにお話ししなきゃいけないと思っていたのはですね
その大前提が前後にあるんですね。皆さんお気づきになったと思いますけれどもイエス様の
敵対者たちが明確にユダヤ人と書いてあります。ユダヤ人がということで書かれ方をしています。
そしてイエス様またヨハネの福音書の中では彼らの罪やですね問題を指摘していますね。
でももう皆さんご存知のようにだからといってそれはユダヤ人を迫害する理由になってはいけないということです。
そのことを覚えておきましょう。特定の民族を悪者扱いしてはいけない。実際にですね
イスラエルのニーダたちはイエス様を十字架にかけるように行動をしましたけれども、そういう偏見
そこからの迫害は絶対してはいけないということです。なぜそういうことが書かれたかと言いますとヨハネの福音書が書かれた当時
キリスト教はユダヤ教のカイドウ、ユダヤ教徒から倚短視されていたんですね。そして迫害されていた。そしてイエスなどメシアではない。
そういうことも指摘されていたので
聖書の背景というものを知る上で皆さんに知っていただきたいのは、そういう教会を励ますためにもヨハネの福音書は書いていて
そして史実と異ならないユダヤ人とイエス様の論争を書いて、当時の教会の信仰を励まし、イエス様がメシアだということを証しした。
そういう背景があることを覚えておいてください。ご存知のように最初の弟子たちもユダヤ人でしたし、ファウロもユダヤ人でした。
イエス様のメッセージもヨハネの福音書の福音も、民族を差別することなくイエス様はすべての民の救い主であり、信じる者に永遠のいのちを与え、今日礼拝でも主の祈りを祈りましたが、
天に増します我らの父よ、私たちの父よと、私たち日本人も言っていますし、まさに世界中でこの聖書の神様を私たちの父と呼んでいる。
アブラハムの約束
そういうことを理解しながら、しかしここで取り上げられている イエス様とユダヤ人の衝突を通して学んでいく。そういうことを前提として覚えておいてください。
3つの点を取り上げますが、今日の特徴のイエス様を見て喜んだアブラハムというところが最初です。
2番目は、アブラハムを超えるイエス様の言葉にまつわる論争を少し取り上げて、最後はアブラハムの存在する前から、私はあるというイエス様の言葉を取り上げていきます。
それでは一番最初です。イエスを見て喜んだアブラハムというところです。
皆さん大事な聖句を一緒に読んでみましょう。8章56節、あなた方から3
あなた方の父アブラハムは私の日を見るようになることを大いに喜んでいました。そしてそれを見て喜んだのです。
この言葉をどういう意味か解明するのが難しいと、学者の間でも議論されています。
その前提のために、私たちはこれまで話してきたように、旧約聖書の背景と復興の福音書のつながりを理解する必要があります。
これまで話してきたように、神の民、またそれを自称するユダヤ人にとって大事な転換期の一つが出エジプト期でした。
そしてそれを行ったモーセが偉大な存在として取りざるされています。そういう議論がしばらく前にありましたね。
イエス様と関連して。そしてそれに続いたというか、それ以前にもう一人大事な存在、それがアブラハム。
父と書いてありますけど、父祖、父親の父という字に、父祖、アブラハムという存在ですね。
このアブラハムの存在、そしてその子孫であるということが、ユダヤ人、神の民にとって、揺るがない拠り所となっていたということが、今日の背景にあるわけです。
このしばらく前、少なくとも先週から取り上げている箇所では、父祖、アブラハム、それから父なる神様と子供、この父子関係をめぐってイエス様とユダヤ人の間で議論がされていました。
誰が本当の子供であり、子孫かということ、あるいは偽りの父ということも出てきました。
そういう父なる神と父祖なるアブラハムという存在を通して、ずっと論争が続けられてきて、今日のところに至っている。
そういう背景をまず頭に入れておいてください。そして、じゃあアブラハムのことを今日少しだけ取り上げていきます。
なぜそれだけアブラハムが大事にされたのか。それは
創世紀12章1節2節の言葉と関係しています。まさに彼らの拠り所の始めとなる神の約束がアブラハムに語られたからなんですね。
アブラハムは故郷を離れて旅立つ時に、父なる神様からこのような約束をいただいたんですね。
創世紀12章1節2節を読んでいます。
あなたはあなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、私が示す地へ行きなさい。
そうすれば私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
創世紀の12章のこの最初の2節、これは非常に大事な言葉ですので覚えておいてください。
ここからですね、いわゆる父祖アブラハム、そして私たちはこの祝福の約束を受け継いだ民なんだという自負が、あえて言うとユダヤ人にあったわけです。
実は
そういう言葉をもとにですね
アブラハムは生涯を送っていきます。そしてサラと出会って結婚します。しかし、2人の間には子供ができなかった。
そして子供ができなかったようにアブラハムはですね
神様にいろいろな嘆きや不安を打ち明けて、しかしあなたからまた子孫が増えると約束を得ながら、ついに遺作を授かりましたよね。
しかしその遺作を捧げなさいという試練にあったということを、皆さんご存知のように創世紀22章の14節に出てきます。
そしてアブラハムはこの遺作を連れてモリアという山に登っていってですね
息子、最愛の息子アブ、遺作にですね父よ
薪はあるけれども、生贄の動物はどこにあるんですかと聞いたわけです。残酷な話ですけどアブラハムは遺作がその捧げ物になると知っていたんですが、彼は
いや息子よ父が必ず備えてくださると言ってですね、お前がと言わずにその場所まで行きました。そしていよいよこの
自分の息子を捧げようとした時に、御使いがその手を取って神様が待てと。そしてご存知のように
矢部の中にお羊が引っかかっているのを見て、アブラハムは神が備えてくださった生贄はこれなんだということで息子を解き放って
アブラハムの信仰と約束
その羊を捧げたわけです。そして神様からお前が私を恐れて息子さえも惜しまなかったことがわかった。だからここにある
ようにあなたを祝福しあなたの名を大いなるものとして大いなる国民とするよという約束の確信を与えたわけですね。
ご存知のようにこれはイエス様の復活の象徴でもあるわけです。そしてその物語の締めくりに
このようなアブラハムの信仰が書いてあるわけですね。ちょっと難しいかもしれませんが読みましょうか。
アブラハムはその場所の名をアドナイイルウェーと呼んだ。今日も地の山には備えがあると言われている。
実はこれらその他の出来事を通してアブラハムが
ユダヤ人の父祖、神の民の父祖として揺るがない存在であり、よぎどころとなっていた。
実はこれらの出来事がイエス様からすればアブラハムはもうメシアの到来を待っていたんだということなんですね。
なぜかご存知のようにアブラハムは神の約束を得てもそれが実現しないというそのような試練の日々をずっと送ってきました。
そして最後の最後にその息子さえも捧げるようにという大きな試練にあったんですね。
しかし聖書が言っているようにアブラハムは神の約束を信じ続けたわけです。
ヘブライショーなどを見ると、しかし最終的なこの大いなる祝福の源となって
民が増えるという約束を見なかった。けれどもアブラハムはやがて
メシアが来て約束の成就がなされるときにこの約束が完成するという希望を持って歩んだわけですよね。
実はどこまで知っていたかわかりませんけれども、この裾アブラハムが
試練の中で必ず神が約束を成就してくださって
祝福が満々成就になる。その希望はメシアにあるんだ。
実はそのことをアブラハムが信じて歩んでいた。そしてメシアを喜んでいたということが、このイエス様の8章56節で言っていた
あなた方の裾アブラハムは私の日を見るようになることを大いに喜んでいました。
そしてそれを見て喜んだのですという言葉につながってくるわけです。
約束を完全に成就しなかった試練の中にあっても、アブラハムは
わかりやすく言うとメシアの到来の日を待ち望んで喜んでいた。そしてイエス様はその私こそが約束の成就のメシアなんだ。
アブラハムの喜びなんだ。そういう意味をこの御言葉に込めているんじゃないかということが一説にあるわけです。
実はこれは非常に難しいことを皆さんにあえて紹介しています。
しかしアブラハムの存在とユダヤ人や神の民の存在とメシアの関わりということを知っていただきたくてご紹介いたしました。
漁師が夜通し漁師するわけです。
夜が明けないけれども漁が終わってどこに帰るかわからない港を見たときに灯台の光が灯っているわけですね。
その灯台の光を目当てに漁船漁師は帰っていく。
同じようにアブラハムも試練の中の暗闇の中でやがて救い主の到来が来て約束が成就する。そういうものを希望としながら歩んでいった。
それは私たちの希望の進行にもつながるということも覚えておきましょう。
イエスの言葉とユダヤ人の反発
2番目 アブラハムを超えるイエスの言葉ということを見ていきましょう。
8章51節です。 イエス様はこのように言いました。
まことにまことにあなた方に言います。誰でも私の言葉を守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。
実は今日の衝撃的な言葉の2つ目でもあるんですけども。
今日の話の中でイエス様が突然そういう話を発言をした時に、ユダヤ人たちは反発したわけですね。
そして8章48、52節などの言葉をわかりやすくまとめて言うと、このような言葉を持って彼らはイエス様を批判したんです。
お前は自分を何様だと思っているの? 偉大なオフィスアブラハムも預言者たちも死んだ。
それなのに、悪霊につかれ遺嘆者のサマリア人と同等のお前の言葉を信じる者は死なないというとは、なんと大それた奴なんだ。
そういう発言なんですね。今日詳しく触れませんでしたが、今日の冒頭に
悪霊につかれたサマリア人だということをあえて入れていたんですけども、ここにも彼らの
外国の人といわゆる
ユダヤ人が結婚してできたサマリア人と自分たちを区別して、サマリア人も私たちもアブラハムの子孫だと言っていることを批判していることが
頑畜されているわけですね。 それはさておきまして、このように
お前は自分を何様だと思っているんだと。 自分を買いかぶりすぎだと。
そういうことを言っているわけです。 それに対してイエス様が
こう答えたんですね。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。それに対してイエス様は
難しい言葉が言っているんですね。 栄光に関わることを言っています。自分に栄光を期すなら私は偽り者ですけども、私はそうでないという
そのやりとりはどういう意味を言っているかというとですね。 実はユダヤ人はイエス様がですね
自己称賛しているって言うんですね。
世の いろんなところを見ると自分を課題評価して売り込む人というのがですね、いろんなところに
テレビだったりネットだったりに溢れているかもしれません。 そういう自己称賛をしている、自分を持ち上げて自分を偉く見せようとしていると
イエス様の言葉をユダヤ人たちは理解したわけですね。 しかしイエス様は私はそうでないということを否定して私は自分に栄光を期していないよと言ったんです。
それどころか私は自分に栄光を期さずに あなた方が神と信じている
父なる神様の御言葉を守っていますよ。 それ他でもない。そして
父なる神様が私に栄光を授けているんですよとまで生きたわけです。
これも信じない人にとってはですね、大言壮語になるわけですね。
まあそれが8章の54、55節のイエス様の言っていることのまとめです。
まあこれはさらっと触れましたけれども その中でイエス様に対して
ユダヤ人はさらに反論して言ったんですね。 50歳にも満たないお前がどうして
アブラハムを見たと言えるのか。 そういう流れの中で
イエス様はですね、アブラハムは私を見て喜んだという発言が出てきて
父なる神様だけじゃなくて、アブラハムが私も喜んだという発言が出てきた中で
ユダヤ人たちは50歳にも満たないお前がどうしてアブラハムを見たと言えるんだって言ったんです。
なぜ50歳か分かります?この時イエス様は何歳でした?大体。
大体30歳ですよね。
だから知ってる。なぜ50歳って言葉が出てきたか知ってます? 実はですね、当時の定年退職の年齢だったんです。
分かりやすく言うと。いいですよね。50歳で当時も引退していた。 多分寿いのちも短いから。だからそういう
弱敗者のお前がなんで
大昔死んだアブラハムが
アブラハムを見たと言うんだ。 アブラハムが私を見て喜んだということを言えるんだという感触ですね。
その年齢やこの存在ということをきっかけにですね、最後のイエス様の重大な言葉が
出てくるわけですね。3番、アブラハムの存在する前から。 そのに応えてイエスは彼らに言われた。
これを読んでみましょうか。大事な言葉3。 誠に誠にあなた方に言います。
アブラハムが生まれる前から私はある。なのでです。
実はこれ皆さん気がついたように本来ならアブラハムが生まれる前から私はあったと言わ なきゃいけない。
過去形ですから。I was と英語。でも私はあるという I am という現在形で語っています。
これは覚えてますか。エゴエイミーですね。
この出エジプト3章14節をはじめとして旧約聖書の中で神様がご自分の名前を明らかにして私はあると言った。
少し正確さ書きますけども日本人がね 江戸時代に幕府のことをお神と言ったりこの家康のことをですね
まあちょっと問題ありますけどもなくなった後本源様って言い換えたりその言葉を聞いたら この人だってわかるようにユダヤ人にとっては
エゴエイミー私はあると聞いたらですねあ この私たちが知って読んでいる誠の神のことを指しているということがわかったわけです
ですから このことがイエス様がそれだと言ってるわけですから
大きな衝撃を受けて神を冒涜したと言って彼らは石を取ってイエス様を殺そうとした まあイエス様に石を投げようとしたというのが今日の結末なんですね
アブラハム以前の存在
でここの ここのですね
イエス様の神宣言と取れる言葉は実は 絶妙さがあるんです
どんな絶妙さそれはですねユダヤ人たちはですね あなたはまだ若いのにどうしてアブラハムを知っているのかという時間の流れの中で問いかけましたよね
年齢 でもイエス様はその時間の枠を超えた視点からこの私はあるという
答えたんですねぜでこの言葉は私は昔から存在していて 今もこれからも変わらずにいるという深い意味が込められています
でまぁもうちょっと言うとですね そうあのヨハネの一書一節に初めに言葉があった
言葉は神とともにあった言葉は神でや神であったでこの方によらずに世の中で できたものは何もなかったって言っていますよね
そのことを言っていて アブラハムが生まれる前の生まれるというなんですね
あの 先いヨハネの一章の一節から始まる
この方によって全てのものが なったという同じ
ギノマイという存在したという神の言葉によってすべてが存在したという言葉とか 同じ言葉を使えているんですけども
要はアブラハムが存在する前から私はこの世に存在していたんだ そしてまあ元畜にはそのアブラハムを非造物の一つであり
私は想像のしなる永遠の神だという 元畜もここにあるわけですね
そして 昔も今もこれからも変わらずにいるという深い意味が込められている
つまりイエス様はこの裾アブラハムや彼らが尊敬していた 預言者のような人間や教師ではなくて神そのものであることを
それとなくしかし力強く示したという言葉の意味があるんですね さらに私はあるという言葉は時間や場所に縛られない
永遠に変わらない本当の存在であると
あらわしていますまさに いつもこれまでお話してきたようにすべてのいのちの源である
そしていのちである 永遠に変わらない
本当の存在だということを私があるという言葉でイエス様は 示しているわけご自分を明らかにしているわけなんですね
このようにですね 時間と場所にとらわれない誠の神なる救い主そのイエス様は今も目には見えませんが
私たちとともにいてくださいます そして
アブラハムは約束を 少しずつ体験しながらの定時を少しずつ体験しながらも完全な約束の定時を
信仰の旅路
見ることがありませんでした しかしその定時をやがて望みて
彼は信仰の旅路を歩んだんですね 私たちもアブラハムと同じような信仰の巡礼者です
聖書の御言葉を信じて目に見えないイエス様と共にいることを信じて そしてやがて
今度の本当の定時はですねイエス様を再び帰ってこれる時ですけれども その時をアブラハムのように
待ち望みながらですね 信仰の道を歩んでいく神のためであるありたいと思うわけです
まあ少し 難しいんですがいつも紹介してます同じヨハネが当時の教会に当てた
手紙ヨハネの世界に第一の一章の冒頭1節2節を読んで 終わりにしたいと思います
最初の部分だけ読んでいますね 初めからあったもの私たちが聞いたもの
自分の目で見たものじっと見つめ自分の手で触ったもの すなわちいのちの言葉について
ここから読んでみましょうかこのからさんはいこのいのちが現れました 道と共にあり私たちに現れたこの永遠のいのちを私たちは見たので証しして
あなた方に伝えます この永遠のいのちなるイエス様をさらにして希望を持って歩んでいくお互いであり教会で
ありましょうお祈りします 天の父なる神様
御名を賛美いたしますあなたはあなたの歴史の中でご自身を示されました そしてイエス様において完全にあなたご自身を私たちに明らかにしてくださったことを
感謝いたします そのイエス様神なる救い主として信じた私たちはそのイエス様に支えられ
またイエス様の約束に 導かれて歩むものでございますどうぞそのイエス様との交わり
永遠のいのちの幸いその喜びを 日々体験しながらこの信仰のタイビ旅中を希望を持って歩んでいく
教会でありお互いでありますよ あなたの深く豊かな救いをいのちを知っていく
そのようなお互いであり教会でありますよどうか導いてください この願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします。
祈りと黙祷
主イエス様のお名前によってお祈りします
それでは1分ほどイエス様にお答えして黙祷する時間を持ちましょう