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2025-03-16 28:49

#255距離を埋める信仰~いのちの言葉と届く祈り 25/3/16

ヨハネの福音書-54 からの礼拝説教。2025年3月16日録音。(聖書朗読はまで、メッセージはから)今日取り上げる箇所はキリスト教信仰に聖書の言葉と祈りと関わる内容です。登場人物がイエス様に嘆願するようすは必死に祈る私たちの姿に重なります。その点を最初に見ていきます。(1.愛しい人のための必死の願い())。その上で次のことを考えます。今から約2000年以上前に書かれた聖書のことばがなぜ私たちの心に響いてくるのでしょうか。離れたところにいる人のために祈ってもその祈りがなぜ聞き入れられるのでしょうか。それらの点を第2第3のポイントで取り上げます。(2.見えなくても、いのちのことばを信じる(),3.離れていても届く祈り())

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サマリー

このエピソードでは、王室の役人が病気の息子を癒すためにイエスに助けを求める物語を通じて、信仰の重要性が語られます。イエスの言葉を信じることで、彼の息子が癒され、信仰が距離を越える力を持つことが示されています。また、イエスが王室の役人の息子を癒す奇跡を通じて、神の言葉がどのように力を持つかについて考察されます。離れた場所にいる人々のために祈る重要性や、信仰の力がどのように働くかが探られます。

イエスの故郷と王室役人の訪問
ヨハネ4章43節から54節を読みします。
さて二日後にイエスはそこを去ってガリラヤに行かれた。
イエスご自身、預言者は自分の故郷ではたっとばれないと証言なさっていた。
それでガリラヤに入られた時、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎したが、
それはイエスが祭りの間にエルサレムで行ったことをすべて見ていたからであった。
彼らもその祭りに行っていたのである。
イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。
イエスが水を葡萄酒にされた場所である。
さてカペナウムにある王室の役人がいて、その息子が病気であった。
この人はイエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行った。
そして下ってきて息子を癒してくださるように願った。
息子が死にかかっていたのである。
イエスは彼に言われた。
あなた方は知る死と不思議を見ない限り決して信じません。
王室の役人はイエスに言った。
主よ、どうか子供が死なないうちに下ってきてください。
イエスは彼に言われた。
行きなさい。あなたの息子は治ります。
その人はイエスが語った言葉を信じて帰って行った。
彼が下っていく途中しもべたちが彼を迎えに来て、彼の息子が治ったことを告げた。
子供がよくなった時刻を訪ねると、彼らは昨日の第七の時に熱が引きましたと言った。
父親はその時刻はあなたの息子は治るとイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみな信じた。
イエスはユダヤを去ってガリデアに来てから、これを第二の印として行われた。
以上です。
王室役人の必死な願い
今日はこのところから、距離を埋める信仰と題して見方をまとめ続けます。
皆さんおはようございます。
今日はですね、少し雨降りの朝ですね。
昨日一昨日までだいぶ暖かい日が続いていましたけれども、また今日は最高気温が10度下回るというですね、不安定な日となっています。
そんな中で健康もですね、いろいろ心配なことあるかと思いますが、このように共に礼拝ができることを感謝していきましょう。
録音してるんですけど、録音機がうまくいかなくてですね。
今日のところはですね、よく知られた話です。
そして、王室役人がですね、後でも説明しますが、やってきてイエス様に息子の癒しを願った。
今日のところ、私たちが普段からしているですね、虜の祈りとか、イエス様の御言葉を信じるということをまた別の角度からですね、考えて、私たちの信仰生活の糧にできたらと思います。
最初はですね、この王室役人の言葉の中にですね、愛しい人のための必死の願いが隠されている。
そんなところを、この男の人を中心に見たいと思います。
2番目はですね、先週見た信じる、言葉を信じるということなんですけども、それに関わるようなことで、見えなくてもいのちの言葉を信じるということを見ていきます。
そして3番目、最後はですね、祈りに実は欠かせない要素として、離れていても届く祈りなんだということを改めて考えていきたいと思います。
さて、この王室役人がですね、この場面でイエス様とやはり対話をしていますよね。
実は、ヨハネの福音書にはたくさんイエス様との対話が出てくる。最初はイエス様と弟子たちのやり取りが出てきました。
その次は誰でしたか。ニコデモというね、ユダヤ教の教師、サンヘドリンの議員とイエス様の対話。
そしてついこの間がサマリアの女性やサマリアの街の人々とイエス様との対話です。
そしてこの王室役人は、それまで見てきた人たちとやはり立場や社会的地位が違うんですね。
簡単に言うとこの王室役人というのは、この当時ガリラヤ地方を統治していたヘロデという、王とまで言えないんですけどヘロデ大王の息子のうちの一人の統治者の役人ですから、王室役人と訳されています。
このヘロデ・アンテバス、彼は有名なのは、バブテスマのヨハネの首をはねた、そういう残忍な人だったということで有名でした。
これは予測の影響は出ないんですけども、そのことを知っていた人は、このヘロデの役人がイエス様のところに来たんだという思いをもしかしたら持ったかもしれません。
彼はですね、彼の前にイエス様がこの旅中を少しおさらいしておきますけれども、エルサレム地方、ユダヤ地方にいたわけですね。この地図の下の方のユダヤ地方。
エルサレムにいて、そしてガリラヤに行こうと思ってサマリオを通らなければならなかった。そしてそこでサマリアでのこの間までの出来事がありました。
そしていよいよ目的地のガリラヤ地方、イエス様の故郷のナザレがあるガリラヤ地方に行った時の出来事です。着いた時の出来事です。
カナという場所ですね。婚礼の奇跡があった場所です。このカナという場所での出来事です。
この時にカフェルナームという地図になっていますけれども、ここからこの王室役人が約40キロの道のりを訪ねてイエス様の下をやって来たということですね。
そういう中でまず一番最初、愛おしい人のための必死の願いということを見ていきましょう。
この役人がイエス様に何度も息子の癒しを求めたということが書いてあったわけです。
そしてその次にこうあるんですね。4章48節から49節。
イエスは彼に言われた。あなた方は知る人、不思議を見ない限り決して信じません。王室の役人はイエスに言った。主よどうか子供が死なないうちに下って来てください。
この王室役人の求めに対するイエス様の言葉は、少し冷たく感じます。
ただこれはですね、彼一人に対してではなくて、ガリラヤ地方、もっと言うと広くユダヤ人に向けて向けられた言葉です。
実はこの知る人不思議を見ない限り決して信じませんということ、それはですね、
簡単に言うとセンセーショナルな出来事を見るまであなた方は私を信じないという意味なんです。
今日触れませんでしたが冒頭、エルサレムにイエス様がいたという話が出てきましたが、
実はエルサレムの人たちはもっと堅くなで、全くイエス様を信じなかったということですね。
このガリラヤの人は、まだイエス様を信じるという点ではマシなんだけれども、
あなたたちは私がセンセーショナルな奇跡を行わなければ信じないという、このイエス様の批判とかですね、
嘆きの言葉がここに読み取れるわけなんですね。
必死に息子の癒しを求めるこの父親に対して、たとえですね、広く一般的な言葉としても、
この冷たいような厳しいような言葉が投げかけられたわけです。
普通ならばですね、弁解するんですが、この王室役人はそんなことはせず、間髪入れずにこういったわけですよね。
読んでみましょうか。
主よ、どうか子供が死なないうちに下ってきてください。
この言葉、イエス様のその批判にお構いなしに必死に堪えしています。
実はこの子供という言葉、元のギリシャ語ではパイディオンという言葉なんですね。
息子という言葉も今日使われているんですけど、それはよく使われる一人息子や大事な長男を指すヒュイオスという言葉も使われているんですが、
父親はあえてここでパイディオン、我が子を、瀕死の状態にある我が子をという言葉なんですが、
このパイディオンという言葉は愛しい子供という、そういうマナー娘とかですね、
そういう愛しい息子というニュアンスが込められている、そういう響きがある言葉なので、
私の愛しい子供、死なないうちに下ってきて手を置いて癒してください、
彼のこの必死な思い、そして息子に対する強い愛着ということが見てくれるわけなんです。
これらのことから、この男の人の真剣さがわかるんですけども、
実はそれはですね、皆さんも感じていると思いますが、
試練の中で必死に祈る私たちの思いに通じるところがあります。
あるいは私たちが誰かのために必死に祈るときに取り成す、その必死さや気持ちに通じる思いだということもわかるかもしれません。
イエスの言葉の力
するとイエス様は答えてくださいました、2番目。
2番目は見えなくてもいのちの言葉を信じる。
イエス様の答えはここですね、4章50節、53節。
イエスは彼に言われた、行きなさい、あなたの息子は治ります。
その人はイエスが語った言葉を信じて帰っていった。
まあその後の話を飛ばしますけども、
治ったと下辺に聞いた父親がですね、いつだと聞いたんですね、困ったと。
その時刻が、あなたの息子は治るとイエスが言われた時刻だと知り、彼自身も家の者たちもみんな信じた。
大事なことはですね、この行きなさい、あなたの息子は治りますと言われた言葉を父親が信じて帰っていったということなんですね。
今ドジャースとカブスが来て盛り上がってますけどもね、
大谷翔也選手、いろいろ名言あるようなんですが、一つ探してきたんですが、こんなこと言ってます。
目標などは思うより書いた方が実現できると思う。
野球選手の名言といえば、やっぱりチロさんが有名で、いっぱいある中一個引っ張ってきたんですけど、こんなこと言ってます。
特別なことをするために、特別なことをするのではない。
特別なことをするために、普段通りの当たり前のことをする。
いちきょうさんらしい物言いですけども。
このように有名人の言葉は私たちの心に響きますね。
であればなおさらですね、今日の箇所でイエス様の言葉が神の言葉として響いている、力があるということがわかるわけです。
まさにイエス様の言葉は神の言葉として人を生かす言葉だということが、今日の出来事からわかるんですね。
それはこの、あなたの息子は治りますという言葉です。
実は、今日の言葉の中で大事なキーワードがあって、一つはですね、
治るという言葉です。
50節、53節で2回も言われてますね。
行きなさい、あなたの息子は治ります。
これイエス様の直接の言葉です。
2番目は説明の引用として言われてますね。
あなたの息子は治るとイエスが言われた受告だ。
まったく同じ言葉が使われています。
ここの治るという言葉なんですけども、実は皆さんの脚注文を見ても書いてありますけども、
日本の他のですね、信頼ができる聖書でも公約されているんですね。
その前に、実は元々のギンシャ語ではザオウという、生きるとか生きているという意味なんです。
ゾエーというのがですね、いのち、イエスを見ている永遠のいのちのいのちがゾエーというこの動詞から出てきた言葉ですけども、
ザオウという言葉がこの治るという元々の意味で、本来は生きるとか生きているという意味なんです。
例えば聖書、教会共同訳聖書ではですね、帰りなさい、あなたの息子は生きていると訳されています。
あるいは新共同訳聖書でもですね、帰りなさい、あなたの息子は生きると書いてありますね。
ここの私たちが使っている聖書の脚注でもですね、生きているとなっています。
この生きるという言葉がキーワードなんです。
なぜか、実はこの病気で瀕死の状態になった息子さんが治るということで、イエス様が神様であるということが明らかにされているんですね。
今まで出てきた対話、何人かの対話との大きな違いの一つは、この実際にその人が持っている問題が解決されるということで違います。
病気が治る、今までは心が満たされるとか、神の国に入るにはどうしたらいいかとか、そういう対話でしたけれども、
ここでは実際の問題が解決する、生かされる、いのちが与えられるという点で大きく違っているんですね。
なぜかそれは、このことによってイエス様の神聖が明示されるという目的があったからです。
この出来事によってイエス様がいのちの源であっていのちを与えることができる神様だということが具体的に明かされているわけなんですね。
皆さんも覚えていると思いますけれども、ヨハネの福音書の冒頭でこうありましたね。
読むこと多いんですけど読んでみましょうか。
1章の1節と4節。
はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。
イエス様が言葉であって神であっていのちの光だということが明示されている。
この具体的な出来事が今日のこの奇跡物語なんですね。
ご存知のようにここでいういのちというのは豊かないのちと言い換えられていますし、永遠のいのちとも言われています。
それはどんないのちかというと、神様ご自身のいのちであって、私たちがたとえ病や死霊の中にあっても私たちを生かす。
私たちの生活や人生に活力や意味を与える神のいのちと言えるでしょう。
そして当然このたとえこの世の中でいのちが終わったとしても、神様とともに新たに生かしてくださるという永遠のいのち、神のいのちを指すわけですよね。
そしてこのいのちそのものであるイエス様、そのイエス様の言葉がいのちの言葉であって、今日のように人を生かすということ。
そしてそれが私たちの生活においても、私たちにとってもいのちの言葉であるということがわかってくるわけです。
ペテロの信仰の告白
実は弟子のペテロがそのことを、同じヨハネの6章でこうイエス様に対して告白しているんですね。
ヨハネ6章68節。
多くの人がイエス様から離れていく中で、イエス様はペテロに聞いたんです。
弟子たちに聞いたんです。
あなたたちも私から離れるんですか。
それに対してペテロはこう言いました。
主よ、私たちは誰のところに行けるでしょうか。
あなたは永遠のいのちの言葉を持っておられます。
この王室役人の素晴らしいところは何か。
それは何にも見えないのに、いわゆる印や不思議が起こっていないのに、イエス様の言葉を信じたところなんです。
そして、もう生きているよ、治っているよって聞いて帰っていった。
見ないで信じたところ、見ないでイエス様の言葉を信じたところが、この王室役人の素晴らしさなんですね。
私たちも、例えば望んでいる結果が見えない時とかですね、死霊の中にある時こそ、イエス様の言葉を信じたいということですよね。
しるしとしての奇跡
私たちはそのいのちの言葉を信じることによって生かされるということです。
見ないで信じることについて、エブルビテの手紙の11章1節がこのように書いているんですね。
読んでみましょうか。
信仰は望んでいることを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
目に見えないものを信じるということの中にはですね、イエス様の言葉を信じていくということと深い関わりがある。
最後は、離れても届く祈りということを考えてみましょう。
今日の4章の締めくりでこうありますね。離れても届く祈り、こうあります。
イエスはユダヤを去って、ガリレアに来てからこれらを第二の印として行われた。
さかのぼりますけども、地図を振り返ります。
イエス様はエルサレムにいて、サマリアを通ってカナにいました。
その前にカナの婚礼の奇跡があってですね、なぜかエルサレムまで登っていって、今また下ってカナに戻ってきた、ガリレアに戻ってきたということが書いてあります。
そしてそれが第二の印だった。
そして繰り返しますが第一の印は、カナの婚礼の水が葡萄酒に変わったという奇跡、印だったわけです。
さっきからこの印、奇跡ということを置き換えて使っていますけれども、
私たちの聖書の脚注にも、証拠としての印、証拠としての奇跡ということが書いてあります。
それについて、ある学者がこういうふうに言っています。
印としての奇跡、証拠としての奇跡とは、人々に神や信仰についての真理を教える手段であり、特に人々に神を指し示す手段であるというですね。
このイエス様と癒された息子の距離は約40キロありました。
ここのズームの人のためにも言いますけれど、カナでイエス様と役人のやり取りがあって、この息子が寝ていたのがカペナウムというところですか、この間40キロ。
カナの方が少し高くて、広範ですから低いガリレアなので下ってきてください、この役人はイエス様にお願いしているんですね。
皆さんも気づいたように息子さんが治った時間とイエス様が言葉を発した時間が一致していた。
それが印となった。
そしてですね、イエス様の言葉によって距離が縮まって治ったんだということがわかって、この役人もそして役人の家族も奴隷も含めてみんな信じたと書いてあるわけです。
こうやって40キロの距離があったにもかかわらず、イエス様の言葉と息子さんの癒しが一致したというところにイエス様の神聖が明かしされているわけなんですね。
神の存在の超越性
で、病気が治ったということだけでも十分な奇跡として十分奇跡ですね。
でも離れたところにいて、当然人間同士としては面識もないわけですよね、イエス様とその息子さん。
でも当然肉眼ではその息子を見ることもできないし、手を振ることさえできない。40キロの距離。
今私たちね、この間も言いましたけど、SNSとかテレビ電話なんかありますから、コロナのきっかけにズームなんかも張ったとして、地球の裏側にいても瞬時にしてコミュニケーションができますよね。
メールが普及し始めた頃、1990年代なんですけど、私が働いていたグループ、アメリカ人がいっぱいいたからですね、ルームシェアしてたんですね、同性で。
男性、男性、女性、女性。で、メールを初めて導入したルームメイト同士がですね、部屋の中でメールを送り、届いてる届いてるなんてですね、騒いでたわけです。
そういう時代から今は当然のように地球の裏側までとかですね、SNSで瞬時にやり取りするわけです。
まあそうやって距離が今、科学的技術によって縮まっていますけれども、当時はそうではない。40キロの距離をイエス様は瞬時に埋める、そういう癒しの奇跡をなさったわけなんです。
そのような離れたところで癒しを行ったというところに、今日の出来事、この奇跡の卓越性とかですね、この崇高さということがあるということに改めて目を向けたいと思うんです。
こうやって場所を超越して人を癒す、人を生かすというところでも、やはりイエス様の神聖が明かされているわけなんですね。
そして実はこの場所や空間によって左右されない神ご自身の存在ということが旧約聖書にはっきりと書かれているんですね。
エレミーア書の23章の23節から24節を読んでいますね。
私は神ご自身の預言者に向けて、イスラエルに向けて語られた言葉です。
私は近くにいれば神なのか。主の言葉。遠くにいれば神ではないのか。人が隠れ場に身を隠したら、私はその人を見ることができないのか。主の言葉。最後だけ読んでみましょうか。
天にも地にも私は満ちているではないか。主の言葉。
このように誠の神様は時間だけじゃなくて空間を超越しておられるお方です。
ですから私たちが離れたところにいる人のために祈ります。
普通のこととしてやっていますけれども、実はこのような崇高な、まさに神だからこそ私たちの祈りを聞き届けてくださるということがわかるんですね。
イエス様がお室役人の子供を生かした出来事によって、イエス様が私たちの願い事を聞いて、その離れたところにいる人を救ってくださる、生かしてくださる。
そのことが今日の出来事から具体的に、そして現実的なこととして確認することができるわけです。
そして私たちは普段していますが、より一層実感を込めて、あるいは確信をして、誰かのために取り成して祈ることができる。
そういう幸いがあるということを確認していきましょう。
それではお祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
あなたは誠の神であり、私たちの時間や空間を飛び越えた全知全能の神であることを感謝します。
イエス様がそのことを私たちに知らしめてくださいました。
私たちはですから、今、あなたに信頼をして、確信を持って、希望を持って、私たちの問題の中で、あるいは必要を感じている方々のために祈ることができます。
また、2000年前に語られたあなたの御言葉が、私たちにとっていのちの糧になること、その幸いを改めて知ることができたことを感謝いたします。
どうか、新しく始まった1週間、そのあなたのいのちの言葉をさらに味わい、また、あなたに会って確信を持って、祈りを取り成すことができるように、どうか導いてください。
この願いと感謝を、私たちの救い主、主イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン
それでは1分ほど、御言葉に応えて、黙祷する時間を持ちましょう。
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