滑稽な尋問のやりとり
ヨハネノ福音書9章24節から34節をお読みします。
そこで彼らは、目の見えなかったその人を、もう一度呼び出して言った。
「神に栄光しなさい。私たちは、あの人が、罪人であることを知っているのだ。」
彼は答えた。
「あの方が、罪人かどうか、私は知りませんが、一つのことは知っています。
私は盲目であったのに、今は見えるということです。」
彼らは言った。
「あの人は、お前に何をしたのか、どのようにしてお前の目を開けたのか。」
彼は答えた。
「すでに話しましたが、あなた方は聞いてくれませんでした。
なぜもう一度聞こうとするのですか。
あなた方も、あの方の弟子になりたいのですか。」
彼らは彼を罵って言った。
「お前はあの者の弟子ながら、私たちはモーセの弟子だ。
神がモーセに語られたということを、私たちは知っている。
しかし、あの者については、どこから来たのか知らない。」
その人は彼らに答えた。
「これは驚きです。あの方がどこから来られたのか、あなた方が知らないとは。
あの方は私の目を開けてくださったのです。
私たちは知っています。
神は罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、
神を敬い、神の御心を行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。
盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」
彼らは答えて言った。
「お前は全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」
そして彼を外に追い出した。
以上です。
勇ましい証人の主張
今日はこのところから、お笑い芸人と証人と題して、御言葉からお話をします。
皆様、おはようございます。
暑さもぶり返すことがありましたが、だいぶ涼しくなっていますね。
今日も気温が30度近くなるということですが、予報では29度ぐらいだということらしいです。
先週は国連の総会があって、いろんな話題の人物たちが演説をして、いろいろニュースを取り上げられていました。
本当にその通りなのかなと、首をかしげることもあったかもしれませんけれどもね。
まあ、そういうことでしたけれども。
さて、今日はですね、ヨハニの9章の3回目のお話になると思います。
目をイエス様に開けてもらった男の人が、ユダヤ人の指導者、パリ裁人たちの尋問を受けているという場面ですね。
そして先週の場面では、そのパリ裁人たちは、彼が生まれつき目が見えなかったこと、そして生まれつき目が見えなかったけれども、
イエス様によって目が開かれたということが信じられなくて、ついに両親さえも呼び出して尋問したという話でした。
両親は、生まれつき目が見えなかったことや、彼との親子関係を認めましたけれども、どうして彼の目が見えるようになったかということは、あれに聞いてくれということで、見放してしまった。
両親は、当時すでにイエスを告白する者は、ユダヤ教の街頭から社会から追放されるということを知って、それを恐れて息子に突き返すような発言をした。
今日はその続きで、パリ裁人たちはもう一度目の見えなかった人を呼んできて尋問しているわけです。
3つの点から見ていくんですけれども、最初の点は、まるでお笑い芸人ということで、本当に滑稽なやりとりなんだということを確認したい。
そして2番目は、そんな中で彼はいろんな表現がありますが、勇ましい処人ということで、彼の立派な立ち振る舞いということを見ていきます。
そして3番目は、その結果追放の浮き目にあったということを取り上げていきます。
では一番最初ですね、このように目が見えなかった男の人の話です。いろんな有名な話ですから、芸術的なモチーフにもなっていますけれども、まるでお笑い芸人のようなやりとりだということで見ていきます。
ユダヤ教のその教師たちの言葉から引用していきましょう。26節から27節、彼とそしてユダヤ教の教師たちの引用の抜粋です。
彼ら、パリサイ人らは言った。あの人はお前に何をしたのか、どのようにしてお前の目を開けたのか、彼は答えた。
ここから読める方読んでみましょうか。
既に話しましたが、あなた方は聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。
旧書をよく見ると、少なくともアリサエビトラたちは目が見えなかった人にどうやって見えるようになったのかということを3回聞いています。
イエスを誰と思うかということも含めるとなんですけど、3回聞いているんですね。同じ内容と言える質問。
そしてこの目を見えなかった人は、隣人たちからの質問に答えることも含めて、イエスは預言者だということも含めて、5回も同じことを答えているんです。
繰り返しますが、答えの内容の差はあれ、彼はイエスという人によって泥を作ってもらって、目に塗ってもらって、洗ったら目が開いた。
その内容を5回も答えてきている。どうですか、皆さん。同じことを5回も答えなきゃいけないような状況になった。
以前からこの歌手を知っていますし、私。今回も割と詳しく調べたんですけども、この男性が呆れている様子ですとか、滑稽な様子が伝わってくるんですね。
この男性の言葉、赤い字でここに記載しました。
既に話しましたが、あなた方は聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのですか。という言い方に、彼の苛立ちとか、呆れているということが見て取れるわけです。
こういうやりとりは、まさに漫才やコントのようなギャグというか、お笑いだということに私は感じたんですね。
もしかしたら、そういう滑稽さを皮肉を込めて、ヨハネも書いているのかもしれません。
ちょっと筆汚しというか、漫才風に言ってみますと、この方たち、令和ロマンといってM1グランプリに連覇した人です。
メガネかけた人が車といってボケの方、この髭の方が煙といって突っ込む方ですね。
このコント風の漫才をするんですね。この煙さんがパリサイ人の方を演じて、聞くんですね、この盲人の役になっている煙さん。
さて、隣人たちは、お前の目が見えると申したが、どうやって見えるようになったのじゃと聞くわけです。
ところ煙さん、イエスという方が泥を作って目に塗って洗ったら見えるようになったんです。
どうせお好まった、車さんが。
うーん、なるほど。イエスは罪人じゃ。しかるに、どのようにして目が見えるようになったんじゃ?
この煙さん。
だから言ったじゃないですか。イエス様に言われて目を洗ったら見えるようになった。
あの方は預言者ですよ。
なるほど。
さて、ではおぬしは目が見えるようになったんじゃ?
するとですね、この人は。
何回も言ってるじゃないですか。お前が目が見えないんじゃ。と言ってですね、落ちるわけですね。あまり上手くできませんでしたけど。
皆さん知らない方もいると思いますけどね、昭和の魂闘王というとね、金ちゃんと二郎さんですね。
例えばね、この二郎さんがボケの方ですけども、この盲人の役になって。
この金ちゃんがですね、ツッコミで。
二郎さんがボケでね、パリサイビとの役にあって、金ちゃんがですね、この盲人の役になったとしたらね、どうなるかというと。
まあ予想つくと思いますけど、この二郎さんはですね、どうやって目が見えるようになったんだなんて面白おかしく言いながらですね、何回も金ちゃんに聞くんですね。
時々飛びます飛びますなんて言いながらですね。
金ちゃんはですね、何回も繰り返す。こうやってやったら目が見えますよ。
で、二郎さんはボケて。で、どうやって見えるようになったんですか。飛びます飛びますなんてやるとですね、最後に金ちゃんは怒ってですね。
なんでこうなるの?というオチで終わるという。そういうような形になるんじゃないかと。
まあなんでこんなこと言ったかというと、皆さんもぜひもう一度、ヨハネの旧書を読んでいただきたいんですけれども。
本当にですね、このパイサイ人の固くなさ、不信心さが伝わってきますし、そのやりとりがですね、滑稽な雰囲気、皮肉をこもった面白おかしい感じにも伝わってくるわけですね。
まあこういう意固地な人というのは平気で嘘をついたりですね。
する人っていうのは周りから見ると帰って面白おかしく映ってしまう。そういう嫌医者を気にくるような、そういうこともあるのかもしれません。
はい、まあそんな下手くそな物回りみたいなこと私やっていましたけれども。
とにかくですね、ここの中で旧書の17節やですね、27節で2回もですね、パイサイ人たちが信じない上にとかですね。
この27節では既に話したがあなた方は聞いてくれませんでしたということが言われて、イエスの敵対者たちのあえて信じたくないという固くな態度が強調されているんですね。
そして皆さんもご存知のように24節のところではですね、今日の冒頭のところではですね、イエスは罪人だと断言さえしている。
しかも根拠がないところ、ないにもかかわらずイエスは罪人だが、お前の目はどうやって見えるようになったんだという聞き方をしているわけですね。
そのような彼らの滑稽さを通してでもですね、この不信仰の固くなさということが浮き彫りになっているということを覚えていただければと思います。
2番目、それに反して勇ましい証人としてのこの癒された人について見ていきましょう。
30節から33節の抜粋です。
その人は彼らに答えた。
盲目で生まれた者の目を開けた人などがいるなどと、昔から聞いたことがありません。
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。
と言っているわけです。
ご存知のように、彼の両親はですね、ユダヤ人の街道から、そして社会から追放されることを恐れて、
この核心部分のイエス様ということについての証言を避けて、息子たちに息子を追いやったわけですよね。
そこで、彼はですね、そんな中でも口をつぐまずですね、立派に反論しているわけなんです。
繰り返しますが、パリサイ人はこのイエス様を罪人だと決めつけたわけですね。
なぜか、それは彼らが定めたところの安息日律法に違反した。
泥を作るという労働をイエス様が行い、しかも瀕死の重傷でなかった人を癒した。
安息日でもいのちに関わる人は癒してもいいけれども、生まれつき目が見えなかったということは別に死ぬわけじゃないわけですよね。
その人の目を癒したということ、それが禁じられている律法に当たる律法違反だということで、彼らはイエス様を罪人だと断言したわけです。
そして、それ故にイエスという男が神から使わされているはずがない、あの者がどこから来たかわからないと言っているわけですよね。
不信仰の固くなさ
癒された人は反論するわけですね。
この中で癒された人は、盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなど、昔から聞いたことがありませんというのは、まさに前代未聞の出来事ですと言っているわけです。
それは、そんなことをする人は神から使わされた人以外はできませんと断言しているんですね。
そして、注目すべきはですね、後で出てきますけど、私たちは知っていますという表現とかですね、私は知っていますという表現を彼は何回か使っています。
それは、正式な法廷で証言する時に使うような賢った言葉です。
そして、私は知っています、昔は見えなかったけど今は見えることを。
そして、私は知っています、これこれ、これでイエスという人はこのような立派な方だというふうに、大胆に法廷で使うような口調で、正々堂々とイエス様について証言していたんですね。
この31節から32節の男の人の物言い、イエス様についての説明はですね、解説がいらないほど理路整然としている。
このユダヤ人の教師たち、パリサイブルたちを論破する、そのような内容になっているんですね。
締めくくりに、その部分をそのままちょっと読んでみましょう。
さっきも言いましたけれども、絵があるのでもう一度見ますが、
盲目で生まれた者の目を開けた人は、前代未聞の人物で神に使わされた人以外、それはなし得ないんだという、そういう論調で彼は証言したわけです。
そして彼のこの証言は、説明がいらないほど完璧と言いますかですね、理路整然としていますので、2番目の締めくくりでそのまま読んでいますね。
これは驚きです。彼らがあの者を罪人扱いした、イエスさんを罪人扱いしたことを驚いて。
あの方がどこから来たのか、あなた方が知らないと。
あの方は私の目を開けてくださったのです。私たちは知っています。
神は罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神の御心を行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。
盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。
最後の部分だけ読んでみましょうか。
あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。
このように彼は証言しているわけです。
ある学者はですね、こう表現するんですね。
彼は粘り強くイエスを否定することを拒んだ。
何度も何度もパリサイ人たちからプレッシャーをかけられていましたけれども、粘り強くイエス様を否定することを拒んだ。
そして彼はですね、何でもう一回引くんですかと。
すみません、今日引用しませんでしたね。
この最後にですね、なぜそんなに引くんですか。
あなた方もあの方の弟子にもはやなりたいんですかということを聞いてダメ押しをするんですね。
その彼の言葉の裏には、あなた方はそんなことを思わないでしょうがという、ちょっとした反論と言いますかですね、攻撃も入っているんですね。
敵対者たちの反応
するとご存知のように彼らはまさに激行してですね、罵倒したわけです。
そして俺たちはモーセの子孫だと、弟子だと、あんな男の弟子なんかではないということをですね、こわだかに言うわけですね。
そしてその時に、とてもひどい言葉をこの癒された人に浴びせるわけですね。
3番目、追放の浮き目。
最後ですね、彼らは答えている。
お前は全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。
そして彼を外に追い出した。
もう皆さんご存知のようにこの物言はですね、イエス様の理論と正反対ですね。
イエス様は弟子たちにこの人が生まれたのは、誰が罪を犯したからですか。
この人ですか、両親ですか。
しかしイエス様は3節で、この者が罪を犯したのでもなく、両親でもなく、神の栄光が現れるためだと言ったわけです。
全く正反対の物言をして、この目の見えない人、勝った人を罵倒したわけです。
しかもですね、ここの全く罪の中で生まれたのを全くというのはですね、全くもってひどい異様なんですね。
難しいですが、ギリシャ語のホロスという言葉で、英語のホールとかオールという意味なんです。
それはその存在全体を意味するんです。
だから、イエス様を証言したこのかつて目が見えなかった人にですね、こう言っているようなものなんですね。
お前は罪そのものの中から生まれて、今の罪の中にいるお前が我々を教えるとは言語同談だと。
お前は罪の中から生まれて、しかも罪人だという。
徹底的にその男の人をですね、その出世から始まって今に至るまで罪の中に閉じ込めるような侮辱する言葉です。
俺たちを教えるとはその文材で言語同談だという、非常にひどいきつい言葉なんですね。
光が輝くほど闇も明らかになる。まさにイエス様の敵対者たちの闇がここで明るみになっているんですね。
でご存知のようにこの男の人はですね、ついには親からも見放されて、
そして外に追い出した。両親たちが恐れていた浮き目にあったわけです。
ユダヤ教の街道から、そしてそれはつまりそのコミュニティから追い出されるということですね。
その後どうなるかということが来週の続きになってくるわけです。
ちょっとそういう終わり方をしてしまいますので、少し希望になるような詩編から御言葉を引用して終わりにしたいと思います。
詩編の27編の10節ですね。ちょっと初めてで難しいかもしれませんが、読んでみましょうか。
私の父、私の母が私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださいます。
詩編の34節の15、16ですね。これちょっと長いですけど頑張って読んでみましょうか。
主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。
主の見顔は悪をなす者どもに敵対し、主は彼らの記憶を力消し去られる。
このような敵対者の側に立たずにですね、願うか文字の場に立てる私たちでありたいと思います。お祈りしましょう。
天の神様、御名を賛美いたします。
イエス様の敵対者たちの固くなな態度、
それは面白おかしいほど不恰好で固くなでありました。
しかしその世の中で目が開かれた人は大胆に立派にあなたのことを証ししました。
神様どうぞ私たちがあなたのことを証言しなければならないときに、
このような言説、言論をすることができるように導いてください。
何よりも私たちはこの男性の立派な態度に打たれました。
どうぞ主が喜んでおられるように私たちもあなたの救いの御業を体験し、
目が開かれあなたの弟子として歩んでいくことができますようにどうか導いてください。
ごお願いと感謝を私たちの救い主主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは御言葉に応えて一分ほど黙祷する時間を持ちましょう。